鍵の聖務
2011年8月21日
マタイ16:13−20
16:13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。16:14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」16:15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16:16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。16:17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。16:18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
16:19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」16:20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
マルチン・ルターの小教理問答書の中の悔い改めと赦しの所には、「鍵の聖務」と言う説明があります。この「鍵」は地獄の門を開き、天国の門を開きます。罪の赦しによって、罪の束縛を解きます。言い代えますと、「鍵の聖務」は、罪の赦しについてです。この表現は今日の福音書でイエス様がペテロに話した言葉から来ます。(マタイ
16:18-19)。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」その鍵をもらうのは誰でしょうか。ペトロだけでしょうか、それともすべての弟子達やすべてのクリスチャンでしょうか。その石とは誰でしょうか。何でしょうか。その岩はペトロだけでしょうか。それとも同じ信仰告白をするすべての弟子達やすべてのクリスチャンでしょうか。ローマカトリック教会が言うのは、その岩とはペトロです。何故ならば、ギリシャ語では「ペテロ」と言う名前を、「石」と言います。英語で「ロック」です。映画のロッキーと同じように、力強くな人でしょう。しかし、イエス様が逮捕され、裁かれた時、ペテロはイエス様を否定しました。その時、その石の土台は砂のようでした。しかし、その後、イエス様の復活の後にペテロは、強い、キリストの為によく働く人になりました。後で、ペテロはローマに引っ越しました。その地元の教会の主任牧師や監督になりました。それで、ローマの町の教会は、自分の歴史をペテロの上に基づけます。勿論、東方の聖教会やルーテル教会や他のクリスチャンはローマに従いたくないので、違う理解を持ちます。岩のような土台とは、キリストのみであると言います。岩とはペテロが告白する信仰です。その信仰告白の上で教会が建てられています。ペトロに与えられた鍵は、罪を赦す為です。そして、復活の夜、イエス様は弟子達皆の上に聖霊の息を吹きかけて、罪を赦す権威を与えました(ヨハネ
20:22)。この権威が教会全体に与えられています。それで、イエス・キリストの福音が述べ伝えられ、説教されている所に、罪の赦し、キリストの十字架の力をも同時に宣言されています。又は、この表現があります、「
万人祭司」。第一ペトロ2:9は言います、「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」この言葉で全てのクリスチャンが「祭司」であると意味しません。勿論私達は、旧約聖書のような祭司ではありません。私達は神殿の祭壇の上にいけにえを捧げません。しかし、別の意味では、私達は祭司です。即ち、私達は神様に私達皆が祈りと賛美を神様にささげます。又、私達は神様の為に働いて神様の働きをします。この意味では、洗礼を受けたので、私達クリスチャン皆が神様の祭司です。ある人の考え方では、「
万人祭司」とは、誰でも牧師やミニスターの働きが出来るので、私のような按手礼を受けることが必要ではないと言います。しかしそれは誤解です。すべてのクリスチャンには、牧師や説教師の仕事がありません。今日の使徒書、ローマ12:6-8を見てください、「12:6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれなった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じてし、12:7 のを受けていれば、奉仕にしなさい。また、教える人は教えに、12:8 勧める人は勧めにを出しなさい。しをする人はしまず施し、指導する人は熱心に指導し、を行う人はく行いなさい。」ですから、教会のミニストリーの働きはかなり広くて、社会に広がります。説教のミニスター、教会学校のミニスター、青年のミニスター、奉仕のミニスター、良い行いをするミニスター、人を愛するミニスターです。皆は牧師や教会の中で専用働き人では無くても、皆は神様の働き、神様のミニストリーをします。神様の働きは教会の中だけではないで、神様の愛が必要な、神様の業を必要とする所すべてです。ですから、私達は毎日の仕事をする時、私達は神様の仕事をします。マルチン・ルターが言いましたが、自分の子供ヨハネ君のオムツをチェンジする時、それでさえもミニストリーだと。ですから、万人祭司はただ説教したり聖礼典を行ったりする事だけではありません。神様の働きがすべての信者達に与えられています。なぜならば洗礼を受けたからです。それで、あなたの社会的な地位が何であっても、その所であなたはキリストの祭司、ミニスターです。私が奉仕の出来ない所が沢山あるでしょう。政治の中、小学校の中、会社の中などなど。しかし、あなた方には出来るでしょう。仕事をうまくしますと、それは神様に喜ばしいミニストリーです。このようにして、地上で神様のみこころが行われています。このようにして考えますと、沖縄ルーテル教会の働きはすごく広いです。あなたは沖縄ルーテル教会のミニスターとして、学校で教えたり、会社で働いたり、花を植えたり、赤ちゃんのオムツを変えたりします。
イエス様はペトロやペトロの信仰を教会の土台の「岩」と呼んだりした時、すぐ、教会に罪を赦す御国の鍵を渡しました。この鍵を回して戸を開ける時、イエス様の死と復活を述べ伝えたり、信じたりします。又、この鍵を回して戸を開けると、その死と復活による罪の赦しが宣言され、信じられ、受け入れられています。私達がとから自由になります。天国の門が私達の為に開かれています。又、車のイグニションの鍵のようです。出掛けて行って、キリストの働きが出来ます。赦されて、嬉しくて、ペトロと共に信仰告白をします、「
あなたはメシア、生ける神の子です。」アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会