聖書を理解する為のカギ

2009年4月26日

ルカ24:36−49
24:36 こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。 24:37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。 24:38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。 24:39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」 24:40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。 24:41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。 24:42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、 24:43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
24:44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、 24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、 24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。 24:49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」

聖書は2つに分けられます。イエス様が生まれる前の部が旧約聖書と呼ばれ、生まれた後の部は新約聖書と呼ばれています。旧約と新約の「約」とは約束とか契約の意味です。神様の古い契約と神様の新しい契約です。古い約束と新しい約束です。ユダヤ教は旧約聖書に従い、キリスト教は新約聖書に従います。そうでしたら、教会ではもう旧約聖書を要らないと思うかも知れません。イースターの季節以外に、日曜日の朝の礼拝の最初の聖書日課は、旧約聖書から読みます。しかし、旧約聖書の日課は長くて分かりにくい時が多いです。どうしてそれを読まなければならないでしょうか。読むことは必要でしょうか。私達はその古い律法の規定や命令を守らなくても良いです。しかし素晴らしい物語があります。モーセやダビデなどによって、神様は奇跡をもって御自分の民を救い出しました。それだけ読めば良いでしょうか。しかし、もっとあります。私達クリスチャンが旧約聖書を読むのは、その中に私達は愛するイエス・キリストを見つけるからです。

旧約聖書の中でキリストを見つける為には、キリスト教の信仰をもって読まなければなりません。特別な眼鏡のような信仰があれば、物語の中にも詩篇の中にも予言の中にもキリストを見る事が出来ます。ユダヤ人が聖書を読みますが、ナザレのイエス様がメサイアだと信じていないので、旧約聖書の中でキリストを見いだしません。キリスト信者が聖書を読むとき、イエス様の誕生、生涯、死と復活の物語の細かいところを知らなければ、旧約聖書の中で、キリストについて語る多くの出来事を見逃してしまいます。誰かがこのように説明しました。例えば、旧約聖書の中に預言者イザヤの書があります。イザヤ書を理解するために、まず、イエス様の事を知る必要があります。イザヤ書を理解したら、イエス様と福音を完全に理解できます。言い換えますと、キリスト信者が旧約聖書を読むのは、新約聖書を理解する為であり、イエス・キリストによる神様の愛を理解する為です。旧約聖書からは、犠牲、救い、苦しみ、赦しと復活について学びます。

聖書を理解する為にカギが必要です。その鍵とはイエス・キリストです。その鍵とはイエス・キリストの死と復活です。甦られたイエス様は弟子達にそのカギを与えました。今日の福音書で言われました。 24:45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、24:46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。」

使徒言行録8章には、フィリポとエチオピアの高官の話があります。エチオピアの人は、馬車に乗って預言者イザヤの書を朗読していました。しかし読んでいる箇所の意味が分かりませんでした。フィリポが彼に説明しました。その個所はイエス様の苦しみと死を予言するのです。それでフィリポはイエス様についての良い知らせを話しました。そのエチオピアの人は信じて洗礼を受けました。そして、この人はアフリカにキリスト教の信仰を持って行きました。

聖パウロが宣教の旅に行く時、新しい町に入る時、まずユダヤ人と話しました。どのようにイエス様が神様の契約の約束の成就であるかを話しました。旧約聖書からイエス様が救い主であると教えました。信じる人々が洗礼を受けました。このようにしてキリスト教がヨーロッパに広がりました。

現代ユダヤ人でない人にとって、聖書を理解する鍵は、今も同じイエス・キリストの死と復活です。神様の存在を信じる事だけは十分ではありません。悪魔でさえも神様の存在を信じるからです。鍵とは神様の愛を知る事です。即ち、私達の為に死んでくださるイエス・キリストを私たちの元に送るほどの愛です。その愛を見ると、神様の愛の啓示のドアを開きます。また私達の心をも開きます。聖霊は私達に神様の愛を現わします。その愛が聖書の中で啓示されています。またキリスト信者達の人生の中にもあらわされています。この愛はロマンチックのような愛ではありません。優しさだけではないし、神様が私達を可愛いと思う事でもありません。この愛の深さとは死と地獄の深さです。イエス様は死を苦しまれました。イエス様は地獄の力を滅ぼしました。ですから私達には天国での永遠の命があります。

イエス様が弟子達に教えらえたのは、旧約聖書を理解するカギとは、御自分の苦しみと死と復活です。そして、私達が新約聖書を理解する鍵は、その同じ鍵です。山上の説教も、聖パウロの教えも、他の新約聖書の手紙を理解するにも同じ鍵です。例えば、
マタイ5:39 だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。
19:19 隣人を自分のように愛しなさい。
敵を愛しなさい。
十戒を守りなさい。  など。

実はカギがなければ、これら全部を理解するのは不可能です。本当の愛とは死と復活です。本当の従順とは死と復活です。本当の霊的な力と満足とは死と復活です。同じように、赦しと救いと新しい人生と平和と親切と聖霊のすべての実もそうです。

新約聖書は弱く、意味のない、ただの優しい宗教ではありません。ただの良い気持ちや楽しい気分を与える宗教でもありません。死と復活に基づいている宗教です。それで真面目です。そして、その信仰の結果とは悔い改めと赦しです。悔い改めと赦しも死と復活に基づいています。新しい命、新しい生活です。私達一人一人の為にも、また、他の人との接触もそうです。イエス様は言われました、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。24:47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、24:48 あなたがたはこれらのことの証人となる。」これが教会の働きです。教会での生活ぶりです。同時にキリスト信者・教会の会員の一人一人の生活ぶりです。私達の人生のカギとはイエス様の死と復活です。私達の人生に意味と価値と力を与えます。それで苦しむ人の為に同情を与えます。他の人の事に関心を持たせます。イエス様の復活は、良い時にも悪い時にも、希望と確信を与えます。これは聖書全体の意味、旧約聖書と新約聖書の意味です。即ち神様の愛と約束です。ナザレのイエス・キリストによって成就されました。また聖霊によって与えられた信仰を通して私達の内にも成就されます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド
牧師沖縄ルーテル教会


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