ラザロ、イエス様、私
2011年
4月10日1.今日の福音書はラザロについてですが、同時にイエス様について、またあなたと私についてでもあります。先ずラザロを見ましょう。ラザロはイエス様の友達でした。彼には二人の姉妹がいました。マリアとマルタでした。皆はイエス様の親しい友達でした。皆はイエス様がキリスト、救い主であると信じました。イエス様の教えを聞きましたし、イエス様の奇跡的な癒しも知りました。それで、ラザロが大変病気になった時、ガラリア地方にいたイエス様にメッセージを送りました。ラザロの死にそうなあぶない状態を教えて、イエス様が来て彼を癒してもらいたいと思いました。しかし、イエス様はユダヤ地方に行きませんでした。その理由とはイエス様が知っているように、ラザロが死んで、イエス様が彼を生き返らせると分かっていたからです。このようにしてイエス様の弟子達が、彼をもっとしっかり信じるからです。その内にラザロが死にました。お墓は洞穴(ほらあな)でした。入り口に大きな石がありました。洞穴の中に死体を寝かせた、お墓のような物だろうと思います。イエス様は、「その石を取りのけなさい」と命令しました。そして「ラザロ、出てきなさい」と大声で叫ばれました。彼は葬られた時に包まれていた、布に巻かれたままの状態で出て来ました。「ほどいてやって、行かせなさい。」
2.この話はイエス様についての話です。イエス様が物事を支配しているとわかります。イエス様はラザロがどんな重い病気であるか分かって、そして彼が死ぬと分かりました。イエス様は未来を知りました。イエス様には死んだ人を甦らせる力がありました。イエス様は神様の栄光を表しました。これはイエス様がキリストである証拠になりました。彼は父なる神様の働きをしました。ラザロを生き返らせる前に、イエス様は神様に祈りました。イエス様ご自身には祈る必要がありませんでしたが、皆さんがその祈りを聞く為に声を出しました。それは皆さんが、イエス様が神様の働きをしていると理解させる為でした。言われました、「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」
11:41-42。又この話には、私達はイエス様の素晴らしい愛を見ます。イエス様はマリア、マルタとラザロの友達を愛しました。イエス様が涙を流されたほど、淋しさと愛が心にいっぱいでした。その涙が弱さのためではなくて、愛の絆の強さを表しました。ですから、イエス様はエルサレムに近いベタニアの町に行きました。その時ユダヤ人はもうすでにイエス様を逮捕して殺そうと思いました。ですから、そこに行く旅が危険でしたが、ご自分の友達を愛しましたので行きました。愛がイエス様を危険な所に行かしました。実は、その同じ愛がありましたので、イエス様はこの危ない世に来ました。その愛の為に十字架上で死んで下さいました。
この話ではイエス様について二つの事を見ます。イエス様が死者を復活させる栄光を見ます。又、死者を甦らせる愛を見ます。
3.又、この話は私達についてです。マリアとマルタの中で私達は自分を見ます。先ず、彼女達は自分の兄弟を愛したように、私達は自分の家族を愛します。彼女達はイエス様が兄弟を癒すようにイエス様にメッセージを送りましたように、私達も自分の愛する人を助けて治すようにイエス様に祈ります。彼女たちはイエス様がキリストであると知って、私達もそれを知ります。災いが来る時、その葬式を準備して、回りの多くの友達が彼女達を慰めました。同じように、私達もお葬式に出席して、愛するものを亡くした友達を慰めます。又、私達が悲しむ時、私達の友達が私達と共にいて、私達の為に祈ってくれます。マリヤもマルタも同じ事をイエス様に言いました、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」
(21,32節)。この言葉の中には、私は二つの事を見ます。先ず、神様の力とキリストの力に対する強い信仰です。私達も信じます。神様は病気を癒す、事故や天災が起こらないようにする事が出来ると信じます。そして、その言葉の中で、不平の言葉をも見ます。ラザロが死んだ事がイエス様のせいであるかのように聞こえます。イエス様が来るのが間に合わなかったからです。それで、自分達の兄弟の為のイエス様の愛と憐れみを疑いました。私達も神様のタイミングを疑います。どうして神様はある人を癒しますが、別の人を癒して下さらないでしょうか。どうしてひどい事故が起こる事を許すでしょうか。どうしてひどい戦争を許すでしょうか。どうしてひどい天災、地震、津波、台風、竜巻などが起こるのを許すでしょうか。???それなのに、私達の信仰はマルタの信仰のようです。マルタの言葉全部を聞いて下さい、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」(
21-22節)。終わりの日の復活を信じました。イエス様に対する信仰を告白しました、「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(27)。私達も、同じ信仰があります。その信仰が私達に力と希望と慰めを与えます。特に、お葬式の時や事故や失敗やがっかりする時です。私達は復活の力を信じて、イエス様が今も私達に新しい命を下さる事が出来ると信じます。ですから、私達の希望が亡くなる時、自分の罪の中に死んでいると感じる時、生きる事をあきらめようと思う時、自分が暗い洞穴の中にいるような時に、キリストは私達に呼びかけます。ラザロに呼びかけたのと同じです。「オイ!出て来い!」と。これは復活です。新しい命や新しい人生です。新しい生まれです。私達はそのお墓の服を脱いで、キリストの人生を自由に生きるようにされています。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会