わたしは、世の光である

2008年3月2日、合同礼拝
ヨハネ9:1−7,13−17,25 又、1−41

イエス様は言われました、「わたしは、世にいる間、世の光である。」そして、それをあらわす為に、生まれつき目の見えない人を癒して下さいました。今は、その人が自分の目で見るようになりました:それは素晴らしい奇跡でしたが、なお更に素晴らしい奇跡であることは、今度、その人が、自分の心で見る事が出来たことです。最初、彼は、イエス様がただの人だと思い、次に、預言者だと思い、そして、最後に、イエス様が約束された救い主であると言う信仰を告白して、イエス様のみ前にひざまずきました。

と同時に、この話には、そのファリサイ派の人々がいます。彼らは、自分達の目でその奇跡を見ましたが、それを信じたくありませんでした。奇跡がないという証拠を探したのですが、駄目でした。それで、イエス様を否定したいと思いました。それでイエス様は、安息日を守らない罪人だと言いました。ファリサイ派の人々はイエス様が身分のない、ただの普通の人だと思いました。彼らにはイエス様への信仰がありませんでした。なお更にひどいのは、彼らは、真理を見たくありませんでした、イエス様を信じたくありませんでした。

イエス様は言われました、「わたしは、世の光である。」と。イエス様はこの世を救い出す光です。先ず、その、生まれつき目の見えない人、次に弟子達、そして、最後に彼を信じるすべての人々を救います。彼の光は、全世界の為の光です、彼を信じるすべての人々のためです。

先ず、その光は私達の心と人生を照らします。私達の罪を明らかにあらわします。私達が暗闇の中で生きている事をあらわします。それは裁きの光です。なぜなら私達の罪をあらわすからです。その時、私達は何をしますか。その光から身をかくそうします。心の窓のカーテンを閉めます。自分の有罪を否定します。その罪はたいしたものではないといいます。自分の罪はそんなにひどくないと強調します。イエス様は自分の人生には必要ないと考え、そのように生きます。しかし、暗い所を歩きますと、物にぶつかって転ぶでしょう。しかし、罪に転ぶ事は、地獄に落oちる事です。又、逆に、自分の罪を見る時、イエス様の助けを求めて叫ぶ事が出来ます。自分の罪を告白して、助けと赦しを頼んで祈ることができます。

その時、イエス様の光は、赦しと愛と平和をあらわします。この光は、灯台のように、又、暗い夜の道の街燈のようになります。それで、神様の愛の光の中を歩く事が出来ます。

キリストの愛が私達の人生の中を照らすと、生まれつき目の見えない人を癒して下さった奇跡のようです。イエス様についての理解が変わります。先ず、良い人、よい先生ですが、次に預言者、次に奇跡を行なう人、次に私達の罪を赦す為に死んで下さる人、そして、最後に、私達に永遠の命を下さる甦られた神の子である事です。それで、私達はキリストの光で満たされて、信仰によって見、信仰によって生きるのです。今日の福音書の人のように、私達は、イエス様を心で見る事が出来ない人に自分の信仰を告白します。そして他の人をこの光に導こうと思います。

イエス様は、世の光です。聖金曜日、十字架上で殺される時、その光が消されています。しかし、希望の微光〔かすかな光〕が残っています。そして、3日目にまぶしいほどの栄光を持って甦って、永遠の光へ私達を導いて下さいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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