第一コリント第13章・愛
2010年1月31日、顕現3
C13:1
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。13:2
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。13:3
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。13:4
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。13:8
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、13:9
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。13:10
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。13:11
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。13:12
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。13:13
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。第一コリント人への手紙第13章は、愛についての有名な個所です。よく結婚式で読まれています。勿論、結婚式のテーマは愛ですが、愛は人生のテーマでもありますし、家庭の中のテーマでもあります。また教会にも社会の中のテーマでもあります。よく知られていて、よく愛されている聖書の個所であるので、今日第一コリント人への手紙第13章を見ましょう。
最初から警告します。この個所のテーマが愛でしても、この章には福音がありません。イエス様についてや神様について話さないので、コリント人への手紙の別の所からおぎなわなければなりません。そこで、キリストの愛の純粋な福音的な愛を見つけます。その福音の愛は私達の罪を赦して、父なる神様と和解させますので、私達は本当の愛が何であるかが分かります。そして、その福音によって、神様の愛は私達の人生に力を与えます。神様の愛は、私達の愛の模範(もはん)だけではなく、私達の愛の源と力です。この事を頭に入れておかなければ、愛のものすごく大きい要求に翻弄(ほんろう)されます。私達に与えられた聖書の個所を見ましょう。聖書を開いて一緒に学びましょう。
(1節を読む。)たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
愛がなければ、綺麗な言葉はやかましいです。愛がないバレンタインは、その紙やチョコレートがもったいないです。愛の歌は愛を持っている心から歌わなければ、うるさい雑音にすぎません。
(2節を読む。)
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。誰かが本当に醜いかも知れません。しかし、その事実を話す事は愛ではないでしょう。第8の戒めの説明には、マルチンルターが言いました、「何事であっても善意に解釈する事です。」愛を持って真実を言うと、そのほかの人に力を与えます。山を動かすほど神様を信じる信仰が有っても、他の人に害を与える弁明の理由とはなりません。
(3節を読む。)
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。愛から与えられた慈善(チャリテイ)は素晴らしいです。しかし、義理の為、しないと自分の良心が悪いからと言う理由から与えたチャリテイや助けは、それをもらう人には良いですが、それをする人の側には神様の御前で何の役に立ちません。
4節から7節までには、クリスチャンの愛の15の性質が書かれています。(4−7節を読む。)
13:4
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。13:5
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。13:6
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。13:7
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。4. まず、忍耐強くてすぐ怒らないで、親切で他の人の事を考えます。神様から自分に与えられた物で満足します。自慢せず、プライドでいばっていません。
5. 失礼よりも優雅です。自分の利益のみを追い求めず、他の人がダメになっても良いと思いません。クールで冷静です。人を赦してその誤りを思いから忘れているので恨みを持って仕返ししません。
6. ゴシップと他の人の不幸、敵の不幸であっても喜ばず、真実を喜んで他の人の成功や他の人の良い仕事をほめます。
7. いつも忍んで、いつも他の人を信頼して、いつもあきらめないで希望を持って、いつまでもがんばります。
8-10. (8−10節を読む。)
13:8
愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、13:9
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。13:10
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。愛は滅びないでいつまでも続きます。この世の物が変わります。この地上の物に基づいている愛は、必ず失敗して滅びます。この聖書の個所は、よく結婚式で読まれています。しかし、人々は変わります。それで、結婚式の説教の中で警告します。力と綺麗さと富は消えます。ですから、愛を永遠の物に基づいてもっていなければなりません。私達の地上の礼拝も消えます。預言とは、説教や伝道のようなものです。異言は礼拝の一つです。知識もこの世の一部です。しかし、このような物は天国で消えます。もうその物が要りません。新しい形になるからです。しかし、愛は永遠に続きます。
(11を読む。)
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。愛は成長しなければなりません。大人のようにならなければなりません。子供が成長しますと、他の人との関係が増えて、その形も変わります。人生には新しい経験があって、愛が熟します。子供は学校に入って他の子供と会います。中学に入ると、新しいチャレンジもありますので、愛が成長します。子供っぽい振る舞いを止めなければなりません。大人は子供と同じゲームを遊んではいけません:即ち、失礼、ねたみ、高ぶり、いじめなどはいけません。どの年齢でしても、親切、助け、言葉や業によってやさしくする事が必要です。皆はゴッシプを避けて、し返しもやめなければなりません。他の人との希望と信頼と忍耐と忠実がある愛と縁を作る事です。
(12節を読む。)
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。古いコリントの町は鏡を作る事で有名そうです。しかし、13世紀以来の現代的な鏡と違って、グラスで作った訳ではなくて、金属それも、ピッカピッカになるまで磨かれた金属でした。それで、良い物でしても、完全な映像を反映する事が出来ませんでした。この世の中では、私達は神様の映像をぼんやりと見ます。神様の創造はまだまだ神秘的な謎です。私達はキリストやその福音を知っています。キリストは神様を啓示する為に来られましたが、表わされても、私達はそれを完全に把握する事が出来ませんし、その一部しか理解する事が出来ません。十字架上のキリストの中で私達は神様の愛を見ます。その苦しみと痛みと罪と死を見ます。これは神様の愛ですが、理解する事が難しいです。イエス様の復活を完全に理解するのは、その甦られたキリストが栄光を帯びて来られる時だけです。
(13節を読む。)
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。信仰と希望と愛があるので、私達はこの人生を生きる事が出来ます。しかし愛のない信仰は冷たいです。愛がない希望は厳しいです。愛があるので、信仰と希望は永遠まで私達の心の中で燃えます。ですから、愛は本当に一番すぐれている物です。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師