キリストのミッション

2007年1月21日
ルカ4:1ー31

イエス様は、ご自分の故郷の礼拝堂で説教しました。町の人たちはこの町で育ち、有名になった男の子が、何を話すのかと楽しみにしていました。説教のテキストは預言者イザヤ61章でした。(ルカ4:18ー19)「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、この言葉で説教を始めました。(ルカ4:21)「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」

イザヤ61章は純粋な福音です。この言葉はユダヤ人達がバビロニアでの捕囚からの解放について語ります。70年の間、ユダヤ人は、貧しく、打ち砕かれて、心の捕らわれていた人々でした。それで、捕囚の期間が終わったので、主なる神様の霊は、預言者の上に下り、自由と解放と主の恵みを宣べ伝える為に、イザヤを召命し遣わしました。預言者の言葉が、成就しました。ユダヤ人達は、約束の地に戻って、昔の町を建て直しました。それは、キリストが来られる500年ぐらいの前の出来事でした。

そして、イエス様がこの言葉について説教したので、この予言はイエス様がナザレで、この言葉を語ったその瞬間に、更に成就しました。ですから、イエス様によって、この御言葉、この預言はもう一度、新しい意味をもって実現されました。イエス様が洗礼を受けた時、聖霊は、鳩のような形でイエス様の上に降りました。この事は、「主の霊」が彼の「上におられる」事を表しました。ですから、イエス様は、キリストです。即ち、「キリスト」という言葉は、「メシア」と同じように、「油注がれた者」と言う意味です。実は、イエス様は、油によって注れませんでしたが、聖霊によって注がれました。聖書の中で油を注がれる事は、神様からの仕事や任務とその権力を与えられた事を意味します。救い主として、イエス様の仕事は、イザヤ61章によく説明されています。イエス様は、ご自分の仕事について、このように言われました。「貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」そして、イエス様は、その通りになさいました。神の国の福音を説教しました。悪霊に取り付かれた人に解放を与えました。目が見えない人やあらゆる病気の人を癒しました。そして、十字架上で罪に圧迫されていた人々を自由にしました。主の愛を告げ知らせました。

この預言はイエス様によって実現されましたが、同時に、私達によっても実現されています。私達がイエス様を信じる時、聖霊が私達の上にもおられます。そして、洗礼によって、「貧しい人に福音を告げ知らせるために、」私達にも聖霊が注がれています。私達の任務は、「捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げる」事です。

今日の使徒書第一コリント12章によりますと、洗礼を受けているすべての人々に聖霊は神様のための働きを下さいます。神様の御国の仕事の為に、私達にいろいろのタラントや賜物を下さいます。それで、私達はそれぞれ、与えられている賜物を使って、一緒にキリストの働きをします。ある人は、わかりやすい言葉を話す事が出来、ある人は難しい言葉を理解する事が出来(「ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています」第一コリント12:10)、ある人は、いろいろのプロジェットをするための力や体力があり、ある人は、目が見えない人を導き、耳が聞こえない人とコミュニケートする事が出来、ある人は、愛と憐れみで満たされている心を持ち、ある人は、他の人の泣き声を聞く耳を持ち、ある人には大きな笑顔があり、ある人には歌う声があります。

この聖書に書かれている私達の任務をどのように理解したら良いでしょうか。霊的にまたは物質的にでしょうか。実際に刑務所の壁を軍事的に兵隊が壁を壊して中にいる人々を自由にするべきでしょうか。それとも、人々に、精神的または感情的な解放のみを告げるべきでしょうか。聖霊の導きがあれば、両方とも出来るかも知れません。

私達が知っているように、イエス様は病気の人を癒したり、良い知らせを宣べ伝えたりしました。そして、十字架上で完全に物質的に死んで、私たちの罪の鎖を解放してくださいました。私たちはこのことを信仰の目によってだけ見る事が出来ます。しかし、これは霊的なことが存在しないと言うことではありません。私達は罪と、地獄と、悪魔から解放され自由になりました。このことから、いまが本当に「主の恵みの年」だと分かります。

キリストの体によって、今日の御言葉の箇所が物質的な方法でも、霊的な方法でも、実現されています。両方が必要です。キリストの手、足、目、口、耳等を通して、私達は多くの素晴らしい完全で物質的な愛の業を受けました。ですから、私達の体全体を使ってキリストの働きをします。愛を持って他の人に親切な事をする時、私達はキリストの手、足、目、口、耳などになります。そして、このようにして、キリストからの恵みを生かします、即ち、愛、赦し、永遠の命、平和と福音を宣べ伝える勇気です。

キリストのナザレでの最初の説教は、ご自分のミッションの働きのプランを教えます。それは、私達のミッションの働きのプランにもなります。何故ならば、主の聖霊が私達の上にもおられるからです。

主の霊がすべてのキリスト信者達の上にいるのは、皆が洗礼を受けているからです。ですから、教会のミッションは聖霊のミッションでもあります。世界中の教会、沖縄ルーテル教会、すべてのクリスチャンのミッションです。

私達がなにか人形のように、聖霊が私達にひもをつけて引っ張ったりしてはいません。私達はロボットでもありませんので、神様や牧師やだれかが私達をコマンドのモードで動かしません。神様は私達に目と耳と理性を与えました。それで、この世の事を感じて理解して、この世界の必要、ニードに応答します。同じように、教会はキリストの体です。そして、私達一人ひとりはみなその体の一部です。キリストのミッションをするために、先ず、与えられた耳と心を開いて、神様の御言葉を聞きます。そして、与えられた手を組んで祈ります。良い知らせを宣べ伝えられるように、捕らわれた人が自由になるように、目が見えない人が見えるように、病気の人が元気になるように、そして、すべての人々が、今が「主の恵みの年」であると信じるように祈ります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会

友達にこのページを e-mail で送って見てください!
Free JavaScripts provided by The JavaScript Source