新しい朝

2013年4月14日、復活後第2主日

ヨハネ 21:1-19

21:1 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。21:2 シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。21:3 シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。

21:4 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。21:5 イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。21:6 イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。21:7 イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。21:8 ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

21:9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。21:10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。21:11 シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。21:12 イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。21:13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。21:14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

21:15 食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。21:16 二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。21:17 三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。21:18 はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」21:19 ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 

多くのクリスチャンは、使徒ペテロの事をよく理解して、彼に同情するでしょう。ペテロには、信仰が強くなるときと弱くなる時がありました。力がありましたが、弱さもありました。イエス様をキリストとして信仰告白したのですが、自分がイエス様の弟子である事を否定しました。神様の神秘が分かる時があれば、全然分からなくなる時もありました。しかし、いつも、どんな事があっても、ペテロはいつもイエス様を愛しました。

ペテロはその空っぽのお墓を見ました。イースターの夕方、弟子達が集まった時も、又、一週間後、トマスがいる時も甦られたイエス様と会いました。しかし、ペテロはまだまだ神様の国のミッシッヨンの中で、自分の役割がまだ分かりませんでした。ペテロがあきらめたのか、イエス様からの指示を待つのに、疲れてしまったか分かりませんが、彼は何もしない事が嫌いでした。それで、ティベリアス湖での漁師の仕事に戻りました。友達に言いました、「私は漁に行く」と。

私達はペテロのようでしょうか。復活祭の礼拝に参加して、元気よくハレルヤを歌いましたが、自分の人生の中で何も変わっていないと感じますか。月曜日になりますと、普段の生活に戻って、イエス様が復活した事が何の変化を与えません。それでペテロのように、いつもの仕事に戻ります。

しかし、いつもの仕事に戻りますと、いつものように失敗ばかりです。新約聖書の中では、ペテロとほかの弟子達が、漁師でしても、イエス様の助けがなければ、魚を一匹も釣れません。一晩中何もつれませんでした。彼等は自分の釣りの業に信頼しました。同じように、私達はこの世の約束を信頼したら、同じように失敗します。間違っている物に信頼したら、イエス様が現れますと、私達はそれがイエス様であると分かりません。イエス様は岸辺にいますが、私達はイエス様を自分の人生の中に見る事が出来ません。イエス様は御言葉の中を初め、聖礼典や教会の宣教の業の中にいますが、私達はその中にイエス様を見るでしょうか?

薄い夜明けの光でペテロはイエス様を見て、イエス様の呼びかける声を聞きました。岸辺にいる人がイエス様であると分かって来た時、ペテロは先ず、自分の衣をまとおうと思いました。イエス様が自分の裸の体を見る事が恥ずかしい訳ではありません。しかしイエス様が自分の心を見る事が恥ずかしいと思いました。それはアダムとイブと同じです。エデンの園で罪を犯した後に、神様から自分の裸をかくしたいと思いました。

ペテロは舟から岸辺までの100メートルを泳ぎました。着きますと、なお更に恥かしいと感じました。そこに炭火がありました。主を否定した夜と夜明けにも、祭司の庭には炭火がありました。ペテロはそれを忘れる事が出来ませんでした。3回もイエス様を否定しました、そして夜明けごろ、鶏が鳴くと、ペテロはイエス様の予言を思い出して、泣き出して、そこから走り出しました。ペテロは自分の罪を覚えました。イエス様はペテロに3回も「私を愛しているか」と聞きました。それで、ペテロは、イエス様を否定した事を後悔して、悔い改めました。イエス様は自分を赦すでしょうか、その罪をいつもうらむでしょうか。
それは自分の罪を思い出す、すべてのクリスチャンの恐れです。神様は私を赦して下さるでしょうか。私達は神様から逃げる事が出来ません。自分を隠す事が出来ません。イエス様が海辺でペテロの所に来られたように、私達の所にも来られます。

今度の夜明けは違います。ペテロの失敗で、彼に恥をかかせるよりも、イエス様はペテロを赦します。三回もペテロを慰めます。その時に起こった事をもう心配しなくてもいいです。ペテロは大きい失敗を起こしても、3回も「私の小羊を飼いなさい」と言われて慰めました。これは完全な恵みです。夜明けでした。ペテロの否定もイエス様の赦しも夜明けでした。今度は鶏が鳴きません。その代わりに、ペテロに宣教の働きを与えるイエス様の言葉です。イエス様はペテロの事をあきらめませんでした。ペテロに「私に従いなさい」と言われました。 

イエス様の赦しは人の人生を変えます。例えば、人をだました徴税人ザーカイの罪を赦して、その赦しによってザーカイの人生を変えました。姦淫で捕まえられた女の人を赦しました。又、らい病のある人、歩けない人、泥棒、その他の罪人を赦しました。彼等は社会的に捨てられた人々でしたが、神様は彼らを諦めなかった事で彼らを慰めました。この赦しは私達の人生をも変えます。

赦しと人生を変える事は簡単ではありません。安くありません。誰かが罪の報いを払わなければなりません。神様はその義務があると要求します。驚くべき良い知らせとは、イエス様は喜んで来られて私達を助けた事です。自分の命で、その代金を払いました。そして3日目の夜明け、お墓は空っぽうでした。赦しとチェンジは神様の愛の恵みです。

ペテロには、赦しを受ける価値がありませんでした。私達にもありません。ですから「福音」は「良い知らせ」です。新しい日の夜明けのようです。

今日の福音書の日課の中には、私達の教会の生活の中の幾つかのものを見る事が出来ます。悔い改めと罪の赦しがあります。炭火で焼いたパンと魚をイエス様は弟子達に与えました。それは聖餐式のようです。岸辺に立ってた人がイエス様であると分かった時、ペテロは水に飛び込んで岸まで泳ぎました。バプテスマのようです。私達も、自分の洗礼を覚えます。私達は何回もイエス様の声を聞きまして、再び飛び込んで彼の所に行こうと思います。そして、イエス様はペテロに「私の小羊を飼いなさい」  

と言われました。それは私達にゆだねられた人を愛する事を意味します。そして、最後に、宣教の働きの言葉があります:「私に従いなさい」と。

3回もペテロは自分の信仰を告白しました。「はい、主よ、私があなたを愛している事は、あなたがご存じです。」私達もします。自分が以前に犯した罪があり、その恥ずかしい思い出があります。その罪を忘れないで、そこから逃げないで、その罪を認めて、それを告白して、悔い改める事が出来ます。その時、ペテロと共に言います、「はい、主よ、私があなたを愛している事は、あなたがご存じです。」

   ペテロは言いました、「私は漁に行く」と。明日の朝、私達は毎日の仕事に戻ります。しかし、いつもと違うはずです。新しい日の夜明けがあるはずです。なぜならば、私達の為に岸で待っているのは、イエス様であると分かるからです。自分の力で魚を釣る事が出来ない弟子のように、イエス様は私達の仕事のフラストレイソンが分かります。それで弟子達と同じように、私達もイエス様のアドヴァイスを聞くべきです。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」新しい日の夜明けです。イエス様は私達に呼びかけます。

アーメン。


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