私たちがイエス様の名によって祈る時、銀行の小切手に金額を入れなかったもののようです。イエス様はそれに記入し、サインしていましたが、金額を書かなかったので、私達はそれに金額を入れることが出来ます。イエス様は私達に、御自分のクレジットカード を下さって、その暗証番号までも教えてくれました。私達の祈りは、自由に買い物に行くチャンスみたいです。私達の祈りの喜びは満点です!
イエス様は弟子達に、何について祈れば良いか教えませんでした。それで、なんでも好きな物について祈れば良いです。イエス様はご自分の名前によって祈るように言われたので、その祷りがイエス様の名前にふさわしい物、イエス様の名を讃え尊敬を与える物でしたら、何でも良いでしょう。主の祈りで言うように、「み名をあがめさせたまえ」と。罪深いものの為に祈れば、それはイエス様にとって恥ずかしいでしょう。又、イエス様の名前の評判に害を与えるでしょう。しかし、霊的なものや宗教的なものだけの為に祈らなくても良いです。好きな物何でも祈っても良いです、何故ならば、主の祈りの祈りの中で、「日ごとのかて」の為に祈ります。そして、「日ごとの糧」とは、この人生の為に必要な物すべてを意味するからです。例えば、食べ物、着物、家と家庭、家族と友達、仕事と趣味、健康、天気、教会、政府、世界平和、すべての必要なものです。
イエス様がこの言葉を話したのは、裏切られた夕方でした。ゲツセマネの園で裏切られて逮捕された時、弟子達はイエス様を独りにして捨てて、逃げて、自分だけ逃れました。イエス様はその事を予言しました。「32 あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。」それでイエス様は、弟子達に信仰と忍耐と勇気の為に祈るように勧めたでしょう。私達も同じように祈るべきでしょう。私達の信仰とキリストに対する忠実さを攻撃するものが沢山あります。例えば、歴史の専門家や科学者や政治家も聖書を攻撃します。最も最近のアメリカの中の聖書をチャレンジするのは、人の姓のアイデンテティと妊娠中絶です。
又、私達の祈りが私達の期待どうりに答えられないと神様を疑います。人生の問題がある時、神様の守りを疑い始めます。そして、多くの様ざまな誘惑があります。それが私達をイエス様から引き離し、私達は散らされます。自分が救われているかどうか心配します。
このようなものについて私達は祈ります。これを心配しますと心の平和が奪われます。私達の人生の中に問題があるだろうと、イエス様は約束しました。その約束があっても、神様が私達のすべての問題を解決するように祈ります。人々は心の平和、生活の平和、世界平和も欲しいです。人は教会に来て問題の解決を求めます。 イエス様は人の心配と恐れ、苦しみと失敗を知っています。ですからイエス様は弟子達にも私達にも祈るように勧めます。この綺麗な言葉を言われました:33「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
イエス様は世に勝ちました!それは、十字架の勝利です。罪と悪魔に勝ちました。この世の中にあるすべてのものよりも強いです。しかし死がイエス様を征服し勝ったように見えますが、3日目にイエス様は甦りまして、死に勝ちました。死は私達をも征服するように見えますが、イエス様が甦ったように、私達も甦って永遠に生きるのです。ですから私達は勇気を出します。ですから平和があります。ですからこの世の中にも、平和があります。
この福音書の箇所で、イエス様は世界平和や社会的な正義や社会的な治安や家族の中の平和や調和を話していません。イエス様が話すのは、戦争のただ中にも、不正義のただ中にも、反対運動の中にも、喧嘩の中にも、素晴らしいキリストの平和があるといいます。この平和はイエス様を信じる信仰です。神様の力を信頼する確信です。イエス様がいつも私達と共にいて、私達が決して散らされないと知っている事です。この平和があるのは、父なる神様がいつも私達の祈りを聞いていて下さり、そして、私達はイエス様の名によって全てのことについて祈る事が出来るからです。
アーメン。