今日、説教は必要でしょうか?

2008年3月16日。しゅろ日曜日、受難主日
マタイ26章と27章

 

  長い聖書日課の後に、今日、説教が必要でしょうか。  説教をする時間があるでしょうか、それとも、時間通りに礼拝を終わらなければならないでしょうか。又、この聖書のテキストは、 牧師の話を必要としないで、 聖書自身がその説明をするでしょうか。

  説教が必要であると言う私の意見を述べたいと思います。聖書は神様の御言葉です。説教の目的とは、平たく言えば神の御言葉を私達の言葉にする事です。言い換えますと、聖書が私達の人生の一部になるようにする事です。 説教は先ず、説教者の言葉ですが、どのように御言葉が説教者の人生に影響を与えたかと言う証しです。 それから、聞く人々も信じるように、御言葉をわたしたちの言葉にするようにと言う勧めです。御言葉があなたの言葉になりますと、あなたの話す言葉となり、あなたの信仰告白にもなり、又、行いによって表されている言葉にもなります。

  今日の福音書はとっても長いですが、同時に、とっても尊いものです。イエス様の苦しみと死の中で、私達は神様の愛を見ます。私たちの信仰には波があると分かります。ある時、信仰が強くて、「ホサナ、万歳、主をほめたたえよ」と叫びます。 又、自分の罪の中で、「十字架につけよ、十字架につけよ」と叫ぶ人々と同じになります。自分が罪人であると分かって、鞭に打たれて、苦しめられて、 十字架に付けられるべきなのは自分こそでると分かります。 ですから、私達の代わりにイエス様が私の為に苦しみを受け、私の為に死ぬ事を見る時、慰めを考え、神様の愛を感じて、私の為にイエス様がなされた事に感謝します。

  これは私の言葉です、神様の御言葉を聴いた私の反応です。私の言葉をあなたの言葉にするように誘います。イエス様があなたの救い主であるように誘います、罪や永遠の死からの救い主です。私の後にアーメンと言うように勧めます。そしてその後に、二ケア信条の言葉によって、あなたの信仰を告白するように誘います。

  アーメン。

  マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会


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