対比

2013年3月24日、棕櫚の主日、受難主日

ヨハネによる福音書、18章と19章

今日は棕櫚の主日、又、受難主日です。ホサナも侮辱もあります。今日、コントラスト(対比)やその逆のものがあります。この対比しているものを比べる事によって、イエス・キリストの福音をもう少しはっきり見る事が出来ると思います。今日、二つの例を見ましょう。

棕櫚の日曜日、イエス様がエルサレムの町に入る時、人々はなつめやしの枝を持って迎えに出ました。そして叫び続けました。「ホサナ。主の名によって来られる方に祝福があるように。イスラエルの王に。」“ホサナ”と言う言葉の意味は、日本語の“万歳”のようです。王様に言う言葉です。人々は、イエス様がイスラエルの王で、神様から送られたメシアであると信じました。イエス様は本当のイスラエルの王様であるが、指導者達はそう信じませんでした、又、そのようにイエス様を受け入れませんでした。ローマ人の兵隊達は、イエス様を侮辱しようと思いましたが、頭に茨の冠を載せ、肩に紫の服をまとわせ、「ユダヤ人の王、万歳」と言った時、本当の事を言いました。しかし、ユダヤ人の指導者達は言いました、「私達には、皇帝のほかに王はありません」と。自分の町や自分の心にイエスさまを迎え入れないで、言いました、「殺せ!殺せ!十字架につけろ!十字架につけろ!」と。そして、本当の事が、王座である十字架の上に、皆が読めるように、このように書いてありました、「ナゼレのイエス、ユダヤ人の王」。(ラテン語の略語(りゃくご)は“INRI”です。)

コメント第1.私達の救われたクリスチャンの人生の中で、どのぐらい「ホサナ」と言うでしょうか。どのぐらい「十字架につけろ」と言うでしょうか。 私達が罪を犯す時、私達は「十字架につけろ」と叫んだ群衆の中に入ります。キリスト信者である事が不便であるように思う時、私達はイエス様を十字架につけた群衆の中に入ります。その時私達は自分を殺します。自分を宣告します。ですから罪はそんなに恐ろしいです。その問題があると分かる時、解決を探さなければありません。そして、解決は十字架です。その所には、自分の王、メシアを見つけます。信仰を持って、その看板を読みます、“INRI”。そして、心の中で「ホサナ」と言います。彼は私達の王、救い主です。

棕櫚の日曜日と聖金曜日のもう一つの対比は、どのようにイエス様がエルサレムに入ったか、どのようにイエス様がエルサレムから出たかです。棕櫚の日曜日、ロバに乗って入りまして、聖金曜日、自分の背中に十字架が乗せられました。ロバとは、人々の為に荷を運ぶものです。イエス様は世の人々の荷を運ぶものでした。ロバの荷物は、わりに軽かったです。しかしイエス様は、後で世の罪を御自分の上に取りました。ゴルゴダの丘で、世の罪の重い荷がその木の十字架にありました。

コメント第2。私達の贖われたクリスチャンの人生の中で、イエス様は私達に、自分の十字架を背負ってイエス様に従うように言われます。あなたの十字架はどんなに重いでしょうか。その上にどのくらいの罪があるでしょうか。どのぐらいの後悔(こうかい)があるでしょうか。どのぐらいの心配事があるでしょうか。人生の十字架を軽くする為に、先ず、自分の罪を自分の十字架から取って、イエス様の十字架につけましょう。私たちの罪はイエス様の所にあるべきです。私達の罪が赦されたので、その罪を忘れましょう。次に、心配事をキリストのうえにおきましょう。もしイエス様は死んで3日目に甦る事が出来ましたら、私達の一番大きな問題の中で、イエス様は私達を通す事が出来ます。心配をキリストにまかせましょう。聖霊が自分に平和を下さるようにしましょう。聖霊の導きを信頼しましょう。私達の痛みと苦しみの中で、イエス様は私達が重い十字架を耐え忍ぶ事で私達を助けます。そうしなければ、私達の苦しみが重過ぎて、私達は失望に陥ります。それで、キリストの十字架を見て下さい。彼の頭の上に“INRI”と書かれています。今度、自分の十字架を見て下さい。洗礼を受ける時、あなたの額と心の上に、キリストの十字架が書かれていたのです。「あなたはキリストの子供である」と書かれています。その応答(おうとう)として私達は言います。「ホサナ!私の王、私の救い主!アーメン!」

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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