しゅろの主日、2014年4月13日
四つの福音書があります。マタイ、マルコ、ルカ、とヨハネです。イエス様の死と復活について同じ話をしますが、時々一つの福音書には、他の福音書にない事を教えます。今年は聖マタイによる福音書を読みます。それで、4つの福音書を並行に書く本を調べて、聖マタイの書だけにある箇所を見つけました。 4つの 福音書には、ピラトはイエス様を自由にさせたいが、ユダヤ人を恐れますので、イエス様を死刑にしたと書いてあります。しかし、マタイの福音書だけにピラトは、自分の責任から逃げる為に手を洗います。その箇所を再び読みましょう。マタイ27:24−26.
27:25 民はこぞって答えた。「その血の責任は、我々と子孫にある。」
27:26 そこで、ピラトはバラバを釈放し、イエスを鞭打ってから、十字架につけるために引き渡した。
27:24 ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」
この個所について多くの事を言えるでしょうが、ちょっとだけ話しましょう。
先ず、ピラトは言いました、「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」実は、彼の裁判長としての責任とは、無罪の人を自由にさせる事です。それで、この人を殺す罪がピラトにあります。 手を洗う事は、彼の罪を洗い流しませんでした。それが出来るのは、イエス様の血だけです、又洗礼の水です。洗礼はイエス様の赦しの業だからです。又、手を洗って、人々がピラトの罪を忘れた訳ではありません。私達が使徒信条を言うたびに、その罪を覚え出します。
ピラトはすべての責任と有罪を、ユダヤ人の上に置きたいと思いました。そして人々は答えました、「その血の責任は、我々と子孫にある」と。先ず、自分の人殺しの罪の為に、自分の子供達も苦しめる事はひどいです。もしかしたら、これは予言でしょうか。40年後に彼らの子供達の世代に、エルサレムの町が破壊されました。しかし同時に彼らの言葉は、イエス様の十字架上での死についての、正しい神学的な言葉です。どうしてイエス様が殺されたでしょうか。世の罪を取り除く為でした。最後の晩餐で、イエス様は御自分の死について話して、このように言われました、マタイ26:28、「また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。』」それで、イエス様の死の為に、責任を取らなければならないのは、誰でしょう。ピラトやユダヤ人だけではなくて、罪を犯して、赦しが必要とするすべての世の人々です。それで、群衆が「その血の責任は、我々と子孫にある」と答えた時、あなたと私もその群衆の中にいる事を理解して下さい。私達もイエス様の死の為に責任を取らなければなりません。それで私達も彼らと共に、自分の罪を告白して言うべきです、「その血の責任は、我々と子孫にある。」と。
そして、イエス様が死んで甦ったので、私達の罪の告白の叫びは、私達の信仰告白の祈りになります。「その血の責任は、我々と子孫にある。」即ち主よ、あなたの聖なる血が、我々の罪や我々の子孫の罪を洗い流して下さい。洗礼の水によって、御自分の死と復活に、私達を加えて、私達の罪を洗い流して下さい。どうか、聖餐式に頂ける新しい契約の血が私達の罪を赦して下さい。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会