レントの説教シーリズ:受難週の出来事、第6回目、
聖金曜日、マルコ15:1〜5
「真理を探す」

棕櫚の日曜日、2015年3月22日




マルコ15:1-5
15:1 夜が明けるとすぐ、祭司長たちは、長老や律法学者たちと共に、つまり最高法院全体で相談した後、イエスを縛って引いて行き、ピラトに渡した。
15:2 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、
イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。
15:3 そこで祭司長たちが、いろいろとイエスを訴えた。
15:4 ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
15:5 しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。




ピラトはイエス様に有名な質問をしました。「真理とは何か。」(ヨハネ18:38.)


ピラトはその日の裁判官でした。 ナザレのイエスと言う人のケースの真理について決断しなければなりませんでした。イエス様は社会的な革命家(かくめいか)でしょうか?政治的な反乱者(はんらんしゃ)でしょうか。偽の王か?ローマ帝国に対する反逆者(はんぎゃくしゃ)でしょうか。
又は、イエス様は無罪でしょうか。ねたみの為だけに、ユダヤ人に告発されたでしょうか。

実はピラトは、イエス様についての真理を全部知りませんでした。
イエス様は本当にユダヤ人の王でした。
しかし、同時に全世界の王でした。宇宙の王です!

ピラトはイエス様を死刑すべきではないと思いました。しかし、それは真理ではありません。真理とは、イエス様が御自分の上に、世界の罪を取りました。それで、イエス様は世の罪の為に死なければなりません。それが真理です。

ピラトは裁判官ですが、この福音書の記録を読むたびに、私達も裁判官になります。私達もイエス様に聞きます。「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問(じんもん)します。
私達も聞かなければならないのは、「真理とは何か」と。
どのように決めるでしょうか、どのような判決を与えるでしょうか。
先ず、その裁判の所に立つのは、誰でしょうか。イエス様だけではありません。私達も裁かれています。私達もピラトの前に立つべきです。私達が死刑されるべき罪を犯したでしょうか。それとも、ただ鞭に打たれて、又は、罰金ですむでしょうか。


イエス様は御自分の上に私達の罪を取ります。私達の代わりに鞭で打たれました。侮辱(ぶじょく)されて、唾(つば)を吐(は)きかけられた時、それは私達の為でした。
私達の代わりでした。

もしあなたがピラトでしたら、あなたはイエス様を十字架上で死刑を宣告しますか。
するべきです。ご自分の上に世の罪があったので、死刑はふさわしいでした。
それは真理です。

ピラトはその真理を見ませんでした。イエス様が本当にユダヤ人の王であると見ませんでした。十字架に札を付けました。その罪状書きには「ユダヤ人の王」と書いてありました。
ピラトはそれが冗談(じょうだん)だと思いましたが、本当の真理でした!

真理は何ですか。本当の事は何でしょうか。あなたは分かりますか。信仰があるので、あなたは知ります。イエス様についての真理を知ります。イエス様は本当にユダヤ人の王であると分かります。又ユダヤ人の救い主であり、世界の王、世界の救い主、自分の救い主であります。

真理は何ですか。それは、私達の罪の罰を受ける為に、イエス様が十字架上で死にました。それで私達の罪が赦されています。イエス様は三日目に甦りました。それで私達には神様との平和があります。イエス様が死んで復活しました。私達もします。

それは真理です。そして、聖書の「真理」と言う言葉は、「アーメン」です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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