2013年10月27日、宗教改革主日
この表現は第一ペテロの手紙2:4−5,9に基づいています。 「2:4 この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、尊い、生きた石なのです。2:5 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。… 2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」又、シナイ山の上から神様はイスラエルの民に言われます、出エジプト記19:6、「世界はすべて私のものである。19:6 あなたたちは、私にとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 [参考、黙示録1:6,5:10]
実は、マルチン・ルターやルーテル教会の信条集は、この「万人祭司」と言う言葉を使いません。しかし、この教え、この考え方は、宗教改革時代の初代からありました。例えば、最初からルターの有名の本の中にこの考えがありました。その本とは「キリスト者の自由」、「バビロニアの捕囚(ほしゅう)」、「ドイツの諸君への話し」などです。
先ず、「祭司」と言う言葉を定義しましょう。聖書の中での使い方を見ましょう。祭司と言う人は人間と神様の間に立つ人です。仲介者として、民の為に祈ったり、罪を赦す生け贄を神様にささげます。聖書にはレビ人もいます。レビ人は祭司を手伝います。:聖歌隊で歌ったり、神殿の掃除をしたり、町の中で慈善をしたりします。又、聖書には預言者もいます。預言者達の中には祭司が少ないです。預言者は人々に神様の御言葉を告げました。滅びを伝える者もいました。王様にアドヴァイスをする政治家もいました。しかし、旧約聖書の中で犠牲をささげる事が出来るのは、祭司だけでした。
新約聖書には、イエス様が「預言者であり、祭司であり、王様で有り」と言います。イエス様は預言者として神様の御言葉を告げたり、祭司として十字架上で私達の罪を赦す為に御自分の体を生け贄として神様にささげたり、救い主・メシヤの王です。イエス様の十字架上の犠牲は、完璧なものであったので、その犠牲を決して再びする必要がありません。それで、新約聖書時代の教会のクリスチャンの祭司は、罪を赦す犠牲を再びしなくても良いです。しかし、キリストの完璧な犠牲の力を、その恵みを述べ伝えなければなりませんし、又、人々の為に祈らなければなりません。
「按手礼」とは、人が祭司や牧師や修道士になる時の儀式です。昔の中世期ごろ、教会の教えは按手礼によって、人に特別な霊的な祝福と権威が与えられた事です。その人は普通の人より、天国により近いので救いにより近いそうです。しかしマルチン・ルターが教えたのは、洗礼を受けるすべてのクリスチャンは、按手礼を受けます。この洗礼の按手礼はすべてのクリスチャンに同じ祝福と権威を与えました。霊的に言うと、ローマ法王は子供よりよくありません。ローマ法や監督や祭司は、普通のレーマンの信者より宗教の権利がありません。勿論、教会の中ではいろいろの働きと仕事があります。霊的な指導をする祭司や監督を尊敬すべきです。ですから、教会は世俗的な政治に加わってはいけません、いや加わらなくても良いです。何故ならば、国の皇帝と地域の指導者も洗礼を受けたクリスチャンです。彼らに政治的な世俗的な義務が与えられたからです。ルターは、宗教の指導者も国の指導者も、受けた洗礼に忠実にするように呼びかけました。
万人祭司の事を軍隊に比べたいと思います。人が軍隊に入ろうと思って、訓練を受けますと、正式な兵士になります。一番若い兵士も、一番上の将軍も兵士です。二人共には同じ義務があります。即ち国を敵から守る事です。必要があれば、敵を打つ事も、必要ならば、自分の命を国の為にささげます。軍隊の中にはいろいろの仕事があります。飛行機のパイロトや車のドライバー、事務所の机で働く人、オフィサー、ガードマン等です。しかし、皆は同じ軍隊の人であるので、同じ義務があります、即ち、国を敵から守る事です。必要があれば、敵を打つ事も、必要ならば、自分の命を国の為にささげる事です。
すべての洗礼を受けた人には、神様に対する義務があります。即ち、福音を述べ伝える事です。そして、それをする事によって神の国の敵を征服する事です。福音が信じられている時、罪が赦された時、悪魔が征服されています。神の愛とクリスチャン達の愛によって、その古い敵が征服されています。教会の中にはいろいろの仕事があります。洗礼を受ける時、及び洗礼の時の按手によって、クリスチャンは、神様の為に働く権威を受けます。良い知らせを教え、罪の赦しについて話す権威があります。訓練を受けて、上手に説教したり教えたりする人に尊敬を与えます。しかし霊的にその人は、ほかの信者より天国に近い訳ではありません。それは万人祭司の教理の中心です。私達皆は祭司で、権威と義務を持って、祈りに於いても毎日の仕事に於いても、クリスチャンとして人生を送る事です。どの仕事をしても、皆は、神様から与えられた仕事の中で、神様の仕事が出来、いや、しなければなりません。
勿論、このように教えるマルチン・ルターは、ローマ法王に非難されました。それで16世紀の宗教改革が始まりました。今日の私達の仕事とは、自分の教会の中にも、自分の人生の中にも、その改革を続ける事です。
万人祭司であるので、私達皆には祭司としての仕事があります。牧師だけが教会のミニスターではありません。私達は怠け者になってはいけません。イエス様は、御自分の生涯や死によって、祭司の模範になりました。祈ったり、人を癒したり、教えたり、罪を赦す犠牲として御自分の命をささげました。復活されたイエス様は、弟子達に按手礼を行いました。このようです、 ヨハネ20:21−23. 20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。20:20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。20:21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」20:22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。20:23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 又、マタイの福音書の最後の章です。 28:18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。28:19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、28:20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
旧約聖書時代の祭司の仕事とは、罪を赦す犠牲をささげる事でした。イエス様の十字架上の犠牲は完全なものだったので、もう犠牲をささげません。それで、新約聖書の祭司達である私達の仕事とは、この世界にイエス様の犠牲の恵みをもたらす事です。即ち、その赦しと愛と平和と和解と救いと、神の言葉を皆に配る事です。私達一人一人が万人祭司の一人であるのです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会