復活を述べ伝えて

2013年4月7日、復活後第1主日

[先週]ルーテル・フォルムの雑誌に「復活を述べ伝えて」と言う記事を読みました。記事を書く人は復活祭で四つの事を述べ伝えるように勧めました。それを要約(ようやく)し、拡大したいと思います、四つの短い説教のようです。

先ず復活祭では、体の甦りを述べ伝える事です。イエス様は霊や幽霊ではありませんでした。閉じられたドアを通る事が出来ましたが、実に目で見える形で、手で触れることの出来る体を持ちました。その体の傷は本当の物でした。確認する為にトマスに御自分の体を触るように言われました。イエス様はお腹が空いて、弟子達と一緒に食べたり飲んだりしました(ルカ24:41, 42; 使徒10:41)。本当の物質的な固体(こたい)のしっかりした体でした。私達にも同じ本当の物質的な固体(こたい)のしっかりした体です。神様は私達の体を愛して、この体を救う為にイエス様が死んで下さいました。それで使徒信条にこのように告白して言います:「体の甦り、永遠の命を信じる。アーメン。」

第二.復活祭で、イエス様の死を述べ伝える事です。イエス様の降誕、生涯、死、復活、と昇天は一つのセットです。イエス様は十字架上で死ぬ為に生まれました。復活する為に死にました。昇天する為にクリスマスの時、天からこの世に下りました。あるキリスト信者達にとっては、十字架が恥ずかしいです。イエス様の像がある十字架の飾りが嫌いです。空っぽのイースターの十字架が好きです。実は、イエス様の像がついている十字架を見る時、私達は恐(おそ)れるべきです、私達の罪の結果を見るとき、私達が恐(こわ)がるべきです、イエス様が死んだと思い出す時、悲(かな)しくなるべきです。イースターになりますと、キリストが死をうち勝ったことをお祝いして、十字架に花を飾ります。聖餐式の時、救い主の体と血を頂く時、イエス様の死を記念します。私達と多くの人々の罪を赦す為に血を流されていた事をおぼえます。その最初のイースター、イエス様は弟子達に御自分の手と足と脇の傷を見せました。40日後、昇天した時、その傷が治り始まるでしょうが、醜い傷跡が残ります。この世に戻る時、キリストは再び私達にその傷跡を見せて下さいます。ヨハネの黙示録5章が教えるように、キリストはいつまでも「屠(ほふ)られた神の小羊」です(黙5:6)。

第三.復活祭で、信仰を述べ伝える事です、教会の会衆の皆には信仰があると思わない事です。教会に来る人の中のいく人かは、騒々(そうぞう)しく、言い争(あらそ)う無神論者がいるかもしれません。しかしトマスのように、疑いを持って、段階(だんかい)が違う信仰と不信仰を持っている人がいます。理解が出来ない事、誤解(ごかい)、傲慢(ごうまん)、頑固(がんこ)があります。自分の生活を変える恐れがあり、罪が大きくて自分の人生を変える事が出来ないと言う恐れがあり、病気と死と人生の問題に対する心配があります。イエス様は平和を告げました、「シャローム」と告げました。今日も、壊れた人生と壊れた心と、壊れた考え方と壊れた信仰にも「シャローム」と告げます。イースターの時、死に直面しても命を説教します。信仰を告げるのは、私達が信じるからだけではなくて、私達が信じる事が出来るように告げます。ヨハネ20章の最後の結論に書かれたようです:「このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。 これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」(ヨハネ20:30-31)。

そして第四.復活祭で、確信を持って信仰を述べ伝える事です。神様の御言葉は、すべての理解する事が出来ない事を越えます。神秘があります:どうして死んだ人が甦られるでしょうか。どうやってイエス様が物質的な体を持って鍵が掛けているドアを通る事が出来るでしょうか。どのようにイエス様の死が私の罪を赦す事が出来るでしょうか。何故彼の死と復活が私の死と復活を保証(ほしょう)するでしょうか。どのようにして聖霊が私の心の中で信仰を造ったでしょうか。どのようにして聖霊が私の心の中で愛と喜びを造ったでしょうか。一つの事は神秘ではありません。神様の愛は隠されていません。それで、確信と信仰と喜びと平和を持って、私達はイースターの良い知らせを述べ伝えます。キリストは復活しました。本当に復活しました。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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