March 10, 2013年3月10日 受難節4C
福音書 ルカ15:11〜32(新139) 15:11 また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。 15:12 弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。 15:13 何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。 15:14 何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。 15:15 それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。 15:16 彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。 15:17 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。 15:18 ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。 15:19 もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』 15:20 そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。 15:21 息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』 15:22 しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。 15:23 それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。 15:24 この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。 15:25 ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。 15:26 そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。 15:27 僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』 15:28 兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。 15:29 しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。 15:30 ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』 15:31 すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 |
この例え話は、イエス様の例え話の中で最も有名なものの一つです。皆さんはこの話をよく分かると思います。聞く人の年と経験によって、この例え話の幾つかのポイントを教えて、聞く人に意味深いものにしたいと思います
小さい子供に話す時、悪い事をした子供が、親におしりを叩かれるのが怖いと思いますので、自分の部屋に隠れる、放蕩息子のようです。それで、この例え話を小さい子供に話す時、その父の愛と赦しを強調します、即ち、神様の愛と赦しを強調します。家に帰り、あやまちを後悔する子供を罰しないと言います。それで、子供は神様を恐れません。神様は悪い子をも愛しますので、あなたも愛します。しかし、家にいて親達の言う事に従う方がいいと教えます。
もう少し年上の子供や青年は、本当に家を出て逃げます、放蕩息子のようにワイルドな生活を送ります。どのような生活か、あなたに想像する事が出来るでしょう。自分の人生が最低になったと思う青年、放蕩息子のようにお金がない、友達がいない、食べ物もない、絶望している人にメッセージがあります。希望を捨ててはいけません。自分が入り込んだ穴の深さを知って、助けを求めなさい。放蕩息子のように、自分の家の昔の良い時を思い出して下さい。放蕩息子のように、あなたの親達があなたを迎え入れ、あなたを取り戻してくれる事を希望しなさい。そして放蕩息子のように自分の罪を、地上の父にも天の父にも謝りなさい。悔い改めて帰る時、神様があなたを赦して、あなたの事を喜ぶ事を信頼して下さい。その赦しの力によって、私達が自分で作った豚小屋の汚れから解放されます。
この世の罪の為に子供を失った親達に、例え話の父親の希望を教えます。多くの親達は彼の心が良く分かります。彼は毎日、窓の所に立って、子供の帰る道を見はりました。その父は一方で、その子供を鞭で叩きたいと思いました。しかし、もう一方で、その子供をキスして、いつまでも抱きたいと思います。後でその子供に説教したり、怒りと心配を言ったりします。しかし今は、奇麗な洋服と靴と指輪です。今はお祝いし御馳走を頂きます。何故ならば、『この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』と。 クリスチャンの親達は天の父の愛を知りますので、どうやって自分の子供を愛するか知ります。自分の青年時代にその放蕩息子のようにしていた親達は、自分の親の愛を覚えて、同じように自分の子供達を愛する事が出来ます。私達は主の祈りによって生きるのです。即ち、「我らに罪を犯す者を、我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ。」自分の人生の中で神様の赦しを知るクリスチャンは、謙遜と感謝をもって他の人を赦します。それで、失われた子供が家に帰りますと、その時点では傷に絆創膏(バンドエイド)をはり、お風呂に入らせて、抱しめる時です。明日は、説教して、罰を決めて、将来のプランを考えます。言い換えますと、放蕩息子が家を出る前に、帰る価値がある家と家族を造ります。
又、その兄のような人にとっては、この例え話には警告でも忠告でもあります。帰って来た、放蕩していた兄弟をどのように迎えるでしょうか。家族の中には、嫉妬と怒りと傷があります。自分よりも、あの兄弟を愛して良い物を与える事は公平ではありません。正しくないと感じます。父は自分を愛してくれないみたいです。それで、兄の方も神様の愛と赦しを習わなければなりません。
教会の家族の兄と姉もいます。私達は教会の中で育ってきましました。多くの事でいつも忠実にします。この教会に素晴らしい交わりがあります。私達はわりに良い人でしょう。それで、放蕩息子のような人を教会の中に受け入れる事が難しいです。イエス様は徴税人や娼婦(しょうふ)などの罪人について話しました。それで、現代の麻薬中毒の人、ホームレス、精神病を持っている人などのさまざまの罪人はどうでしょうか。時々私達の教会の中にさ迷って来ます。次の週再び来なくて私達は良かったと思うでしょう。イエス様はそのような人を迎えて、私達の持ち寄りの御馳走に招きます。この人も神様の子供の一人で、その子供を救う為に十字架上で死にました。キリストは御自分の上に世のすべての罪、私達の罪をも取りました。父なる神様は私達にも、やさしく言われます。『子よ、お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。[神の国はあなたのものだ。救いは完全にあなたのものだ。] だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』
この例え話の中には非難されるべき人がいます。放蕩息子のお金がなくなると、彼から離れて行く友達がいます。遠い国で放蕩息子を雇ったが食べ物を買う事が出来ないほど、十分な賃金を払わなかった雇い主がいます。今朝、あなたがたの中にはそのような人がいないだろうと祈ります。
しかし、もう一人がいます。その人のように成ると良いです。その人は、兄にその良い知らせを告げた僕です。『弟(おとうと)さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠(ほふ)られたのです。』と。福音の招きを言う人のようです。「教会に来ませんか。死んだが今生きているキリストを祝います。キリストがいなくなったようですが、見つかったのです。又、私達が死んだがキリストによって生かされました。私達が罪の中で失われましたが、キリストは私達を見つけました。」赦しによって私達は神様の子供達です。洗礼は、私達の手に指輪をはめて、新しい奇麗な衣を着させた事のようです。救いの祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会