宗教改革:恐れなくてもいい

2012年10月28日、宗教改革主日

10月31日は何の日ですか?多くの人はハロウィンだと言うでしょう。又、ルーテル・プロテスタント宗教改革の始まりの日です。この日、マルチン・ルターは95カ条をウィッテンバーグ城の教会のドアに付けました。キリスト信者の人生の根本的な事を論じ合うように声をかけました。即ち、どのように私達が救われているか、どのように自分が本当に救われているかどうかが分かる事です。神様に対する恐れを取って、信者達の心に平和を与えたいと思いました。

人は地獄を恐れます。人は神様の怒りを恐れます。

ハロウィンは恐怖の夜です。しかしキリスト信者にとっては、悪の力に対する勝利のお祝いです。

ハロウィンは昔、ずっと昔の事です。地域によってその習慣は違います。ハロウィンがヨーロッパの習慣と思われていますが、東洋にも、日本にも、特に沖縄にも似ている習慣があります。西洋でハロウィンと呼ばれているものは、本来、違う名前がありました。多分、“New Year’s Eve”「大晦日」と呼ばれていたでしょう。札幌山の手教会の牧師であった大澤正三先生は、「続・主が共に」と言う本を書きました。自分のエッセイ、説教、等のコレクションです。その本の中で、宗教改革日、ハロウィン、と全聖徒の日の関係を書きました。彼の調べの結果です。

「古代ローマの歴の一カ年は三〇四日で、農作を初めとする活動期間のみが一ヵ年とみなされ、冬の間は冬眠期とみなされていた。現代の十月が年末であった。(土屋吉正著「暦とキリスト教」六十六頁)。色々な書き物によると、昔、スコットランドの人々の土俗信仰から生まれたものだが、ハロウィンという名前は、9世紀頃から生まれて来た。彼等は、大晦日の十月三十一日の夜は、過去一年間に亡くなった魂が地上をさまよう日と信じていたので、その日にかがり火を焚き、亡くなった人の魂を向かえて将来の占いを聞く時とした。亡くなった親族も交えて一年を締めくくりたい、その家族の魂の供養の思いがあったと思われるが、その夜、新しい年のためにかがり火を目印に帰って来る先祖の霊を、死の神が動物の体に乗り移らせると考えられていた。….自分達の悪行に対して亡くなった魂が再来し、復讐することへの恐れも見え隠れしている。その魂を慰めてあげたいとの思い、同時に自分達の罪に対する裁きの恐れ、この二つが混在していたのがこの行事であった。」

それで恐怖の夜でした。その夜、お化けと幽霊と悪霊も来ると恐れました。

教会は11月1日に全聖徒の日の祭日、そして11月2日は全ての魂のしょうこん の日の祭日として造りました。それでキリスト教のまつりにして、恐怖と恐れを少し取り除きました。救いと天国と永遠の命をお祝いしました。

しかし、多くの人々の心や良心の中には、恐怖が残りました。マルチン・ルターはそうです。この間、堅信式準備のクラスで、マルチン・ルターの生涯について読みました。彼は子供時代から神様の怒りを恐れました。天国に行く為に自分が充分な良い行いをしていないと心配しました。地獄や煉獄を恐れました。ある時、激しい雷の嵐の中で、死にそうだと思って祈りました。「聖アン様、私を助けて下さいましたら、私は修道士になります」と。嵐から救い出され修道院に入りましたが、恐れがまだありました。神父に自分の罪を告白しても、赦しを受けても、まだ、キリストの裁きの王座の前で、自分の価値を疑いました。自分が良くないので、神様を恐れました。

マルチン・ルターはウィテンベググの大学で聖書を教えました。それで、聖書を勉強する時、福音を発見しました。この福音を発見して恐れが消えました。

★ ローマ3:28、「なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」

★ ローマ3:22-24、「すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」

★ そして、死ぬまでに、ヨハネ3:16の言葉によって、恐れが消えました。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

福音は神様に対する恐れを消しましたし、人に対する恐れをも消しました。自分の人生に新しい勇気を与えました。それで、1517年10月31日、免罪符の売る事に反対する勇気がありました。免罪符は人々の恐れを利用しました。人々は地獄に行きたくないし、煉獄で苦しみたくありませんでした。免罪符を買いましたら、死ぬ時恐れなしに、直接に天国に行けると言われました。又、もう既に死んだ人の為にも買う事が出来ました。恐れが消えました。それで、人が免罪符を買って、家に帰って、お酒で酔っ払って、妻と子供を殴っても、神様の怒りと罰を恐れません。マルチン・ルターは、勇気を持って免罪符を売る事に反対しました。お金で罪の赦しを買う事が出来ません。十字架上で流された血しかそれが出来ません。死のおそれを取るのは、キリストが自分の救い主であると信じる時です。そのほかの93個ぐらいの理由で、免罪符の販売がいけないと言いました。

マルチン・ルターの多くの讃美歌の言葉を見たら、どのように彼は恐れと戦ったかと分かります。力なる砦である神様を信じる事によってです。悪魔や人間や病気や死を恐れてはいけません。しかし恐れるべき方とは神様です。それで小教理問答書で、このような言葉で十戒を説明しました。

第一のいましめ

あなたは、わたしのほかになにものをも神としてはならない。

問 これは、どんな意味ですか?

答 わたしたちは、何ものよりも、神を畏れ、愛し、信頼しなければなりません。

神様を恐れる事に勝つのは、神様の愛です。私達は神様を愛するよりも、神様がまず私達を愛しますので、私達は神様を愛します。キリストの十字架とお墓に勝利するのは、キリストの復活です。私達の死を恐れるのに勝つのは、永遠の命の約束です。

キリストの復活の力は、ルーテルの宗教改革に力を与えますし、私達の毎日の悔い改めと洗礼による新しい命に力を与えます。恐れと恐怖の代わりには、信仰と平和があります。マルチン・ルターが敵の前に立つのは、キリストが自分のそばに立つからでした。私達も自分の敵の前に立つのは、キリストが私達のそばに立つからです。何があっても、キリストは私達のそばにいます。

神様は「トリックとトリート」の遊びをしません。イエス・キリストを信じる人々の為に、もうハロウィンの恐れがありません。悪魔を恐れない理由とは、イエス様が悪魔を征服したからです。幽霊を恐れない理由とは、聖霊がいるからです。キリストが十字架に釘で付けられました。マルチン・ルターは城教会のドアに95カ条を釘で付けました。福音が私達の心に掛られて、信仰がしっかり釘に付けられたように、私達の心にとめられています。それで、何も私達をキリストから離す事が出来ません。それは恐れのない人生です。確信と平和の人生です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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