宗教改革: 悔い改めなさい

2015年10月25日
宗教改革記念主日


マルコ1:15 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。
マタイ4:17そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

マルチン・ルターの95か条より。95ヶ条の論題
1.われわれの主であり師であるイエス・キリストは、「悔い改めよ」などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めであることを求められたのである。

イエス様が公の宣教の働きを始めた時、彼の最初の言葉がマルコによる福音書1:15で記録されています。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」「悔い改め」とは、チェンジする事と意味します。即ち、自分の罪深い行動に対して自分が悪いと感じて、そして、その罪深い行動を変える事です。「福音を信じる事」とは、自分の罪がイエス・キリストによって赦されていると、述べ伝える良い知らせのメッセージを信じる事です。それが、悔い改める動機と力とを与えます。「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉のイエス様の意味とは、神様はそろそろ、御自分の民であるイスラエルの中で、新しい方法で働くという事です。この新しい方法とは、福音の方法です。古い方法とは律法の方法です。特に、モーセの律法とモーセの後の1000年余りの間にそれに加えられた伝統と別の重荷です。最初、その伝統と教えの目的は、人々がその律法を守る為に助ける事でしたが、結局、人々がその律法の奴隷になりました。神様の国の喜びを持つ自由な国民になりませんでした。イエス・キリストの十字架は、罪の赦しの事です。古い律法は動物を犠牲にすることで罪を赦しましたが、完全ではないので、繰り返し犠牲を捧げなければなければなりませんでした。しかし、イエス様の十字架は、すべての時代の為に、一度だけの犠牲によって罪を赦します。私達はイエス様を「救い主」と呼びますが、ある人は彼を「改革者」と呼びます。

宗教改革者マルチン・ルターがその95ヶ条の論題を貼る時、その最初の第一の論題はこれでした:「1.われわれの主であり師であるイエス・キリストは、「悔い改めよ」などと言われたことによって、信徒の全生涯が悔い改めの人生である事を求められたのである。」それで、マルチン・ルターが大事にする問題は、イエス様のと同じでした。即ち、悔い改めと赦しでした。イエス様の福音は自由についてのものでしたが、次の1500年の中で、多くの様々な習慣と伝統と教えがそれに加えられてしまいました。最初その教えは、人人がクリスチャン生活を送るように、助ける為でした。又、人々に赦しと救いを与える為のものでした。しかし、福音の自由の代わりに、かえって、人々が新しい律法、規定や教会の教えの奴隷になりました。例えば、煉獄、免罪符、罰、償う事などのものがありました。マルチン・ルターは、人々が福音を信じるように願いました。即ち、自分の罪が十字架上で流された、イエス様の血によって赦されている事を信じてもらいたいと思いました。この赦しはお金で買う事が出来ません。キリストの恵みと憐れみだけの、ただの贈り物であるからです。

マルチン・ルターは新しい神の国や新しい教会を設置にしようと思いませんでした。そして改革者達がはっきりと言ったのは、ローマ教会の法王に従わなくても、新しい教会を造っていない事です。唯一の聖なるキリスト教会を改革したい、キリストと聖書を教会にもどしたいと思いました。悔い改めの出発点も目的地も同じで、即ち、十字架の福音です。それは福音の自由です。

宗教改革は終わっていません。マルチン・ルターの後の500年で教会はイエス様の言葉を繰り返して言います。即ち、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」問題とは、私達人間が考えているのは、神の国を完璧にする為に、又近くなるように、新しい伝統と教えと習慣と儀式が必要だと思ったことです。最初は良いアイディアと思います。それはキリスト信者の生き方を助けると思いました。しかし、福音の自由の代わりに、新しい規定と教えに対する奴隷制度になりました。今ある多くのキリスト教会の宗派を見て下さい。ルーテル教会の教団も沢山あります。ですから、宗教改革はいつも続く事が必要です。勿論、すべての所に同じ習慣とやり方が必要でありません。しかし、福音の中心を別のもので隠す事はいけません。救いはキリストによるのみ、神様の恵みによるのみ、信仰によるのみ、聖書のみに基づいています。

マルチン・ルターは異端者を火に燃やして殺す事を認めませんでした。実は、彼自信はその死刑から逃れました。ところで、私達と共に同じように信じない人に対して何をしましょうか。なにか、大きいな忍耐と勇気と愛と祈りを持って、今も、唯一の聖なるキリスト教会の改革の為に働き続きます。又、聖霊の炎が私達のこの教会を改革するように祈ります。

宗教改革は終わっていません。教会の団体と教団や正式な教えと伝統と習慣だけではありません。宗教改革は、あなたと私である個人のキリスト信者からはじめる事です。キリストは私達一人一人に言われます。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」

「悔い改め」とは、チェンジする事と意味します。即ち、自分の罪深い行動に対して自分が悪いと感じて、そして、その罪深い行動を変える事です。「福音を信じる事」とは、自分の罪がイエス・キリストによって赦されていると、述べ伝える良い知らせのメッセージを信じる事です。それが、悔い改める動機と力を与えます。「時は満ち、神の国は近づいた」という言葉の意味とは、神様はあなたの心や毎日の生活の中にいるほど近い事です。神様はあなたの人生の王様である事です。それで、人生の中で神様に忠実に仕える事です。これは律法や命令のような重荷ではなくて、福音の生き方です。赦しと愛と自由の生き方です。

私達は罪人です:赦されていましたが、再び罪を犯し、もう一度赦されています。ぐるぐる回るようです。ですから、宗教改革は終わっていません。ですから、毎年それを記念します。私達の個人的なものだからです。クリスマスとイースターが同じです。救いと赦しのお祝いです。私達の個人的な救いと赦しの事であるので、キリスト信者にとって特別な意味がこのお祝いにあります。福音です。この福音には力と動機があるので、私達はキリストの為に人生を送ります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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