ローマ3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
2008年6月1日
ローマ 3:21
ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。3:26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
福音書 マタイ 7:15
「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。7:16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。7:17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。7:18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」7:21 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。7:22 かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。7:23 そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
7:24 「そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。7:25 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。7:26 わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。7:27 雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」
7:28 イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。7:29 彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。
どのように人を評価するでしょうか。背の高さ、ウエストのサイズ、体重、年齢、IQ、収入、銀行の貯金、借金、学校の成績、地位、仕事、等。人を判断する基準は、その人の行動、道徳、犯罪の記録などです。人を評価し、計ることが必要な時があります。洋服を買う時、大学の入試等(など)です。だれが良い友達になるでしょうか、良い結婚の相手になるでしょうか、その人と一緒に働く事が出来るでしょうか。
どのように神様が私達を評価するでしょうか。私達の信仰によるでしょうか、それとも、聖書の知識や小教理問答書の知識によってでしょうか、私達の良い業か、私達の愛の深さか、私達の洗礼や、私達の家族によって判断するでしょうか。私達は人を調べて、その後でその人を私達のクラブや教会や会社や学校や友達の輪のなかに受け入れます。天国に受け入れる前に神様は私達を調べます。神様の標準によりますと、私達は正しいでしょうか、義とされているでしょうか。今日、神様がどのように私達を見て評価するかについてみましょう。
普通に考えられているのは、神様との正しい関係を作る為に、人は正しい事をしなければならない事でしょう。それは、十戒の律法を守る事です。それは神様から与えられた律法であるので、守らなければならないです。神様を愛する事、隣人を愛する事です。ここにある問題とは、神様との完全な正しい関係を作る為に、私達は神様と同じ100パーセントにならなければならない事です。しかし、私達人間が堕落した世にいるので、神様の律法を完全に守る人がいません。聖パウロがこのように書きました。「
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっています。」即ち、自分の業によって天国に行くことのできる人がいないと言うことです。「
神の義」とは面白い表現だと私は思います。神様は完全な方で、完全に正しい事をします。しかし、完全に正しい神様の業とは何でしょうか。それは、私達の救いの方法を備える事です。この救いの道は、すべての人々の為です、ユダヤ人も異邦人もの為です、何故ならば、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」からです。すべての人々が罪を犯したので、ユダヤ人は異邦人よりよくありません。救いは、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。」救いは、贈り物です、神の恵みにより無償のあわれみと愛です。この救い、この義は、十字架上で私達の罪を赦す犠牲として死んで下さったイエス・キリストの働きによるものです。この箇所で、話さなければならない、2つの大きな神学的な表現があります。
贖いの業と償う供え物です。両方は犠牲です。贖いは、身代金を払う事です。このようです、悪魔は私達を捕らえてしまい、私達を悪魔の奴隷にしてしまいました。そして私達が悪魔の働きをする時、それは「罪」と呼ばれていますので、私達は決して正しい事を出来ないし、律法を守る事も出来ません。しかし、キリストはその身代金を払ってくださいました、捕らえられた人を自由にして下さいました。身代金はその贖いの値段です。そして、この世の罪人を自由にする身代金の値段は、神様の子、イエス・キリストの血です。又、贖いはこのように考えられます。私達は悪魔の人質(ひとじち)でしたが、イエス様は私達の場所と入れ換わりました。私達は自由になって、イエス様は悪魔に捕らえられた人になりました。そして、悪魔はイエス様を好きなようにしました:それはイエス様を十字架上で殺す事です。しかし、イエス様の死は私達を自由にしました。イエス様は私達の場所と交換しました。私達にとっては、とっても甘い取引でしたとマルチン・ルターが言いました。
償う供え物はちょっと違います。神様の怒りを静める為のものです。例えば、約束をやぶったので、妻に花を持って帰る事のようです。又、同時に、聖書のギリシャ語では、この言葉は、「あがないの供え物」とも意味する事が出来ます。それは、神様の怒りの理由をなくするという意味です。即ち、罪をなくする事です。面白い表現だなと思うのは、この同じギリシャ語の言葉は、新約聖書の中では、ヘブライ9:5で、「償いの座」(新共同訳)や「贖罪所」(口語訳)と訳されています。即ち、モーセが作った契約の箱のふたの上の、二つのケルビムの間には、神様の王座と呼ばれていた所がありました。一年に一度だけ、贖いの日に、大祭司は、その場所に犠牲の血をかけて、民の罪を赦してもらいました。あわれみの場所でした、何故ならば、神様の正しい裁きは、あわれみ、赦しと愛に換えられたからです。
救い、贖い、自由、犠牲、赦し、あわれみ、愛、これらすべては神様の働きです。ですから、誇りを持って、自分が自分の力で自分を救い出したとは到底言えません。自分が十戒を守ったから救われたと言う事が出来ません。小教理問答書を学んだから救われたとも言えません。私たちは信仰によって救われています。それは今日のテーマです、ローマ3:28.「
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」どのように神様は私達を押し計るでしょうか。律法のモノサシによるのではありません。神様は、イエス・キリストによって私達を計ります。神様は私達を見ます。もしイエス様を見ましたら、私達は救われています。もしイエス様が私達の心の中にいましたら、神様はそれを見ます。それこそは、信仰による義です。イエス様が私達を義とされると信じる信仰があります。神様の律法ではないし、私達の業でもない。イエス・キリストの業です。
これはどんな意味ですか。あるルーテル教会のおじいさんがいたそうです。自分が救われている確信が彼にはありました。このように説明しました。「自分の人生の中で、良い業を一つもしなかったから、救われている確信がある!」と。皆さん、彼のようにならないで下さい、しかし、同じ救いの確信を持って下さい。彼は間違っています。良い業が私達を救いませんが、イエス様を信じる信仰の自然な結果です。今日の福音書でイエス様はこのように言われました。
7:18 「良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。7:19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。7:20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」私達の為に、これはどんな意味ですか。私達が自由になったので、良い実を結ぶ事が出来ます。それは、贖い、犠牲、赦し、あわれみと愛の結果です。私達は神様の御言葉を聞いて、イエス・キリストである信仰の岩の上に私達の人生を建てました。実は、私達がこの家を建てたということよりも、3日目に復活したイエス・キリストの神殿です。自分の罪の上に、手抜き工事のような業の上に建てるおろかな人がいるでしょうか。昔の賛美歌があります。「
“波風狂えど見よ岩の上に…神の教会はとこしえに立てり” 275番」。人生の嵐、問題、心配、罪、誘惑、いや、死でも、私達の信仰と救いを破壊する事が出来ません。アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会