全聖徒の主日、2014年11月2日
マタイ5:1-12
今日、全生徒の主日をお祝いします。この日、信仰の内に死んだ人々を覚えて、神様に感謝します。そして、その人々を、自分の信仰の人生の為に模範として見ます。
「聖徒」と言う言葉の意味を定義します、「聖徒」とは「聖なる」人です、清くされた人です。又、この罪深い世から別れている人です。聖書の中では、人や物が聖になる事は、そのもののあり方や材料よりも、その人や物が聖なる神様に属しているから そのものが神様のものであるので、聖なるものです。例えば、私の家には蝋燭立てがありますが、普通の一般的な物で、全然聖なるものでありません。しかし、この教会の祭壇の上にある蝋燭立ては聖なる物です、何故ならば、デザインの為ではなくて、神様の礼拝、神様の為に使われているからです。私の家には、食卓にかける普通のテーブルクロスがありますが、教会の祭壇にかけている布は聖なる物であるのは、神様のご用の為に使われているからです。即ち、その上に聖餐式の聖餐が置かれたり、祈りの本が置かれたりするからです。聖書が「聖なる書物」であるのは、神様の御言葉だからです。人間が聖なる聖徒になるのは、神様のご用の為に働く時です。賛美歌を歌ったり、祈りを祈ったりする時、私達の唇は聖なる事をします。聖餐式のパンを受ける時、私達の手は聖なる事をしますので、私達の手は聖なる物です。キリストの為に人生を送る時、私達の人生は聖なるものです。その時、私達は聖徒です。イエス・キリストとつながれている時、私達は聖徒です。そして、聖霊の働きが私達を聖なる者にします。これは、私達がイエス・キリストを自分の救い主として信じて、彼から罪の赦しを受け入れる時です。
とっても素晴らしくて良い人がいます。人生をイエス様に献身して社会に神様の働きをします。マザー・テレサのような人です。「生きている聖徒」と呼ばれました。
でも、私は思いますが、マザー・テレサの問題は、彼女はとっても、とっても良いからです。私が自分自身のために希望するよりはるかに良い人です。何故ならば、自分が聖徒であるよりも、私の人生のある部分は神様の御心に反するからです。聖徒よりも罪人です。自分の人生を神様や他の人の為にささげるよりも、自分は自分だけに仕えるみたいです。第1ヨハネ1:8は言います、「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺(あざむ)く事であって、真理は私達のうちにない。」人間の状態とは、私達は自然として罪人です。ですから、洗礼を受けて、生まれ変わって、聖霊に満ちている、堅信式を受けて、聖餐式を受けて、祝福されて、毎週日曜日に教会に通うキリスト信者でさえも、まだまだこの人間の状態である罪に巻き込まれています。罪の問題とは、人と人の間に入る事です。人間同士の間に入って、私達はしっとして、喧嘩して、互いに傷つけ合って、人生をみじめにします。又、罪は私達と神様の間に入りますと、私達は反抗(はんこう)したり、自己(じこ)中心的(ちゅうしんてき)になります。他の人の目にも、神様の目にも、私達は聖徒のようではありません。ですから、神様はイエス様と聖霊を送りました。イエス様は御自分の十字架上での死によって私達の罪を赦して下さいます。聖霊は私達の心の中で信仰を創造して、そして、その信仰によって、私達は罪の赦しを受け入れます。
それで、私達クリスチャンが人生を送るのは、ドクタージキルとミスターハイドのようです。その話には、やさしい人である科学者ジキル先生は、薬を飲んで、夜頭が狂ってミスターハイドになってしまいます。精神分裂症のようです。私達クリスチャンは、時々ひどい罪人であり、ある時赦された聖徒です。永遠の救いの為に神様を誉め讃えたり、ある時、永遠の死を恐れたりします。私達は同時に、聖徒であり罪人であります。マルテェン・ルターはそれをラテン語で表現しました、"Simul Justus et Peccator." 倫理学には、ものは正しいか正しくない、良いか悪い、黒か白です。でも、多くの人々は灰色の所に人生を送ろうと思います、それで、悪いものを捨てなくても良いと思って楽です。人が言います、「神様は私をこのまま愛します、私の顔についているイボまで愛します」と。しかし、それは違います。神様は私達の罪を愛しません。罪が嫌いなので、それを赦す為にイエス様が十字架上で死にました。私達は灰色の所に生きている訳ではないで、チェックの所です。白と黒だけで、罪と聖なるものだけです。
これは私達の人生のダイナミック、生き方です。私達は同時に、聖徒であり罪人であります:"Simul Justus et Peccator." 私達のクリスチャン生活を理解する為に、現実的な方法です。矛盾していますが、同時に救われていると滅ぼされている事です。しかし、私達の人生の中で、神様の愛の力強いダイナミックです。その愛は、私達の罪を取り払って、私達の悲しみと涙をふき取って、私達の恐れを取り除いて下さいます。私達の深い罪と不安の中には、ショッキングな、驚くべきな、過激的な、素晴らしい神の愛と恵があります。
今日、私達はこの素晴らしい神の驚くべき恵を経験した人々を覚えてお祝いします。昔の聖徒も現在の聖徒も覚えます。そして、私達はその数に加えられているので神様に感謝します!
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会