2014年2月9日
山上の説教はキリスト信者に愛された物です。信仰の生活ぶりを描きます。何故ならば、イエス様を自分の救い主として信じますと、私達の生活ぶりや私達の振る舞いは未信者達の振る舞いと違うからです。私達の人生はキリストの人生と同じだからです。旧約聖書のシナイ山と新約聖書の山上の説教が違います。シナイ山で神様はモーセに律法を下さいました。しかし、山上の説教は新しい律法ではありません。十字架のゴルゴダの山で神様は、イエス様の死によって御自分の愛を表わして下さいました。イエス様が死んで甦って下さったので、私達がモーセの律法から自由にされています。しかしキリストの新しい律法がある訳ではありません。福音は律法ではありません。もし山上の説教の言葉が命令のように聞こえましたら、それは、イエス様は私達が福音を信じて、その福音の力が私達の人生を形づけらせるためです。
イエス様は言われました、マタイ5:13 「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。」
「地の塩にならなければならない」とイエス様は言われませんでした。言われたのは、「あなたは地の塩である。もう既にあなたは地の塩である」と。私達には福音の祝福があるので、すでに地の塩と世の光に成っています。山上の説教に描かれているクリスチャンの生活は、私達は救い主であるイエス様を信じるので、私達はこの世の為に地の塩と世の光のようになりました。それで、この地、この世が良くなります。何故ならば、私達はこの世に味と光と喜びを与えるからです。
クリスチャンとして、私達は塩を振りかける「サルト・シェカー」のようです。キリスト信者として、私達は聖霊によって満たされています。神様の愛でいっぱいになります。この塩・聖霊・愛はこの世の為です。私達個人の使用の為だけではありません。「サルト・シェカー」の中の塩は奇麗です。しかし塩がその中にある時、何の役にも立ちません。その「サルト・シェカー」の中から出る時だけ、効果的な物に成ります。言い換えますと、もしイエス様の愛が、私達の心の中にありましたら素晴らしいですが、その愛が出て来ると、他の人にその愛を振りかけていると、この世が更に良い所に成ります。
「サルト・シェカー」の種類や形が様々です。ある人は旅先で買って集めます。趣味です。私の母には、スプーンのコレクションがありました。食べる為に決して使いませんでした。ただ、コレクションとして壁に奇麗にかけて飾りました。棚に置かれた「サルト・シェカー」も奇麗ですが、私達の食べ物に味を与えません。あるキリスト信者はそのようです。中に塩がありますが、ただ棚に座ります。神様の御国の為に何もしません。
山上の説教でイエス様は私達に、振りかけなさいと言われます。周りにいる人に、福音と愛と聖霊を振りかけなさい。そうするのは、言葉によっても行いによってもします。
1.先ず、言葉を使って他の人にキリストの事を教えます。自分の子供達にキリストの事を教えます。神様を知るように育てます。このようにして、この塩は子供達の生涯に味をつけます。子供の振る舞い、道徳とモラルを作ります。又言葉によって、例えば復活の希望と、キリストの臨在についての言葉によって、悲しんでいる人を慰めます。赦しの言葉は恐れと痛みを溶かします。私達の罪を赦す為に、イエス様が死んで下さった事を話しますと、死の恐れや地獄の恐れを取り除きます。しかし気をつけて下さい。食べ物に塩をつけ過ぎますと、食べにくいです。私達の言葉に塩が多すぎますと、他の人が私達の意見を受け入れません。例えば、私達の愛の言葉が他の人にとって、裁きの言葉のように聞こえますと、福音の正しい事を言っても、ある人は怖れます。ですから知恵をもって、マルチン・ルターが小教理問答書の十戒の意味にあるレシピに従いましょう。例えば、 第五の戒め
(あなたは)殺してはならない(出エジプト20:13)
問: これは、どんな意味ですか?
答: 私たちは、神を畏れ、愛さなければなりません。ですから、わたしたちは、隣人のからだを傷つけたり、苦しめたりしないで、むしろあらゆる困難の場合に隣人を助け、励ますのです。
2.私達の業によって他の人に福音の塩を振りかけます。ある時、何も話さなくても良いです。特に、別の人に私達がクリスチャンであると知られている時です。イエス様は言われました、 5:14 あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。5:15 また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。5:16 そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」
言い換えますと、私達がクリスチャンとして人生を送るようにとイエス様は言われます。Just be yourself. ただ、あなた自身を活かす事です。ある人は、自分の勝手な、自己中心的な振る舞いを弁解する為に言います。「僕は僕自身なりに人生を送らなっちゃ」と言います。しかし、クリスチャンとして、自分なりにしますと、それがキリストなりになる事です。偽物に成らないで。自己中心に成らないで。自分の心がキリストの心であるのです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会