2011年12月4日
待降節第2主日
クリスマスの準備をしましょう。キリストの到着の為に準備しましょう。キリストが来られるのは、クリスマスの時、世の最後に、そして、今日も私達の心と人生に来られます。キリストの到着の為に準備しましょう。預言者イザヤもバプテスマのヨハネも、この同じメッセージを述べ伝えました:「主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。」と。
私達の人生の歩む道も、真っすぐではないでしょう。曲がったり、荒れ野の中で、凸凹で、谷も山もあります。人生は苦労と悲しみでいっぱいです:経済的、社会的、政治的、個人的、健康の状態、精神的、人間関係、教育の問題など。このようなチャレンジによって人生が面白くなるでしょうが、同時に、大きいな痛みや人生の目的に到達出来るかどうかの悩みや絶望もあるでしょう。
しかし、預言者イザヤとバプテスマのヨハネは、このような問題だけではなく、私達にある霊的な問題についても語ります。神様への道は真っすぐではないからです。実際に罪の為に、その道が大変曲がてきましたので、人は神様のもとに行く事が出来ません、何故ならば、聖霊の導きがなければ、その正しい道を見つけられません。それで、聖霊がいないと、多くの人々は神様の事をあきらめてしまいました。多くの人々は、自分が天国に行く事にさえ、もう関心をもっていません。そんなに人が罪の中に失われているからです。
洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。「悔い改めなさい」と言いました。聖書の中では、悔い改めとは、正しい道に戻る事です。罪の赦しとは、今、正しい方向に進んでいる事と意味します。しかし、バプテスマのヨハネが沢山 説教したり洗礼をほどこしたりしても、実は、自分の無力さを感じました。自分が救い主のメシアの降臨を述べ伝える事が出来ますが、自分の力で誰も救う事が出来ないと分かりました。バプテスマのヨハネは最も聖なる人で、自分の生き方で神様の御心に従いましたが、自分の聖さで別の人を救う事が出来ませんでした。このようにそれを表現しました:「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。1:8 わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
靴とサンダルの履物は、歩く為の物です。しかし、イエス様が私達を救う為に来られた時、最初に靴のない赤ちゃんで、かいばおけに寝かされせて布に包まれていました。もし履物のひもを解く仕事が一番身分の低い奴隷の仕事でしたら、イエス様は御自分のけんそんを表して、弟子達の足を洗いました。それは、弟子達も、けんそんと愛と奉仕を持って、お互いに使い会う事を教えました。イエス様は靴をはかない時もありました。一回は、ある女の人がイエス様の足を涙でぬらして自分の髪の毛でそれを乾かす時がありました。もう一回とは、十字架上にいる時です。十字架につける為に、足に釘を打つ為に、その履物が抜がされました。足は歩く為です。キリストの場合には、自分の道は十字架への道でした。その道に至るのは、先ず、死と地獄でした。それから罪の赦しまで、復活まで、永遠の命まででした。
バプテスマのヨハネは言いました、「8 わたしは水であなたたちに洗礼を授(さず)けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」聖霊の働きとは、私達にその道を表す事です。洗礼の水から上がって、私達は清くなり、その罪は赦されています。聖霊は、イエス様が救い主であると明らかにしました。この信仰があるので、私達は悔い改めます。毎日悔い改めて、再びキリストと共に人生の旅を続けます。バプテスマのヨハネが出来ませんでしたが、イエス様の死と復活によって、神様はこの地上にかがんで来られて、私達の罪の束縛を解いて下さいます。
罪が有るので、それは私達の罪や他の人の罪の為にも、人生の道が真っすぐで、平ではありません。しかし、私達が福音を信じて信頼します。その福音とは、キリストによって、曲がっている物が真っすぐに、凸凹の所がスムーズになる事です。それでキリストは真っすぐに私達に来られます。私達の道を変える力があり、他の人と共に歩く道をも変える力があります。私達は、他の人との道を歩きやすくします。それをするのは、私達がする愛、憐れみ、関心、分かち合い、寄付や、祈りです。先月の福音書の日課の言い方でしたら、私達は飢えている人、病気の人、裸の人、淋しい人を助けます。それで聖霊の力によって、このクリスマスの希望が彼らをも導きます。
キリストは来られます!
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会