信仰によって救われた

2013年6月16日


ガラテヤ2:11−21
2:11 さて、ケファがアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。 2:12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。 2:13 そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました。 2:14 しかし、わたしは、彼らが福音の真理にのっとってまっすぐ歩いていないのを見たとき、皆の前でケファに向かってこう言いました。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか。」 2:15 わたしたちは生まれながらのユダヤ人であって、異邦人のような罪人ではありません。 2:16 けれども、人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。 2:17 もしわたしたちが、キリストによって義とされるように努めながら、自分自身も罪人であるなら、キリストは罪に仕える者ということになるのでしょうか。決してそうではない。 2:18 もし自分で打ち壊したものを再び建てるとすれば、わたしは自分が違犯者であると証明することになります。 2:19 わたしは神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。 2:20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。 2:21 わたしは、神の恵みを無にはしません。もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。

ルカ7:36−50
7:36 さて、あるファリサイ派の人が、一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。 7:37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て、 7:38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った。 7:39 イエスを招待したファリサイ派の人はこれを見て、「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と思った。 7:40 そこで、イエスがその人に向かって、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言われると、シモンは、「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。 7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。
7:44 そして、女の方を振り向いて、シモンに言われた。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。 7:45 あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。 7:46 あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。 7:47 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」 7:48 そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 7:49 同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。 7:50 イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。

今日、この聖書日課の数人を見たいと思います。勿論イエス様です。そしてイエス様の足を洗った女の人、ファリサイ派のシモン、又、聖パウロ、そして最後に、あなたと私です。

ファリサイ派のシモンはイエス様を家に招待して食事をしました。その時代、食事の時、人々はテーブルの前のイスに腰かけません。ソファーのような長いイスに横になりました。部屋の真ん中には低いテーブルを置きました。その回りにそのソファーが置かれました。人々は顔をテーブルに向けて、足は車輪の棒のようにして寝ました。皆さんの足は、車のスポックのように伸ばされました。それで、その女は簡単に、イエス様の後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗ったのです。シモンはその女の評判を知っていて、彼女を「罪人」と呼びました。ユダヤ人にとっては、罪人とは、トラーと呼ばれているモーセの律法を守らない人のことです。それは、ユダヤ人の悪い人を始め、すべての異邦人、又、異邦人と商売をする人達をさします。私達はこの女の人の背景を知りませんが、確かに、シモンは彼女を全然尊敬しませんでした。彼女がイエス様と出会う時、その人生が変わりました。イエス様が聖なる預言者であると分かりましたので、自分の罪をも知りました。自分の罪を悔いました。そして、イエス様から赦しを受け、自分の罪の意識からも開放されました。イエス様から救いと平和を受けました。それで、その涙は、もう悔い改めと後悔の涙ではなく、喜びと感謝とイエス様に対する愛の涙でしょう。その香油kouyuは、イエス様に対する尊敬(そんけい)と奉仕でした。

そしてイエス様はシモンに福音を教えました。この短い例え話を話しました。 7:41「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」

7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 イエス様は説明しました。イエス様の為にその女の人が素晴らしい事をしたのは、彼女の大きな罪の借金が赦されていたからです。7:47 「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

今度、イエス様は同席の人たちにとって、イエス様が神様を侮辱していると思う事を言いました。女に「あなたの罪は赦された」と言われ、彼女の罪を赦しました。すべてのユダヤ人に分かるのは、罪を赦す為にはモーセの律法にある、犠牲を捧げることがひつようです。その儀式を行うことが出来るのは、祭司だけです。彼らはイエス様が本当に何方であるか分かりませんし、旧約聖書の犠牲の本当の意味と本当の力をも理解しませんでした。それで同席した人々はぶつぶつ言いました、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。

勿論、私達はイエス様が本当に何方であるか分かります:イエス様はキリストです、世の罪を赦す為に十字架上で死んで下さった者です。しかし、彼らはまだそこまで知りませんでした。しかし、イエス様が神様からの預言者であると分かりました。彼らの話は、イエス様の為に奇麗な奉仕をしたこの女の人を不安にさせるでしょう。しかし、イエス様は彼女に、確信と安心を与える言葉を言われました。私達もその言葉が大好きです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました。

ファリサイ派の人々の宗教的な考え方はとっても強いで、多くの人々が同じように考えました。すべての宗教の中にある一番支配的な考えでしょう。宗教を信じていない人々にも、一番支配的な考え方でしょう。即ち、律法の働きによって救われる事です。良く働く人は成功する事です。天国に行く為に一生懸命に働かなければならない事です。罪人は地獄に陥ります。社会的な変な人を避ける事です。ただでもらうものがないと思います。

教会の中でさえも、多くのファリサイ派のような人々がいます。聖パウロはその人をガラテヤの町で見つけました。沖縄でも見つけられます。われわれルーテル教会の人々はプライドを持って、聖パウロの言葉をわれわれの信仰の中心であると言います。聖パウロは書きました、「2:16人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」しかし、私達ルーテル教会の人々も、律法の奴隷状態に再び陥れないように、気をつけなければなりません。律法の為に働く人にならないようにしなければいけません。

ルターの宗教改革時代にはこのスローガンがありました。「信仰のみによる救い」、ラテン語では「Sola Fideソラ・フィデ」です。沖縄に住む人は、海兵隊のモットーを聞いた事があると思います、「Semper Fidelis センパー・フィデリス、いつも忠実」です。言葉の音も意味も似ています:信仰によって生きる事と信実に生きる事です、Sola Fide, Semper Fidelis. 宗教改革時代には、これはとっても重要でした。中世の教会は多くの規定を作りました。免罪符、儀式、聖人の遺物、礼拝などです。人がそれを行う事によって救いを得る為でした。その時、マルチン・ルターはガラテヤ人への手紙の中に、この言葉を見つけました。それによって、彼の人生が変革(へんかく)されました。ファラサイ派のような人から、神様の恵みによって生きる自由な人になりました。今日の福音書での女のように感じました。イエス様が話して下さった時の嬉しさです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。

現代のすべてのキリスト教の世界は、ルターの宗教改革に感謝します。皆は、私達が信仰によって救われていると言います。しかし、その上に、宗派の規定や特別の宗派の教えを加えます。それで、ファリサイ派のシモンのようになります。キリスト教会の中は、宗教的な差別と憎しみに満たされています。イエス様はシモンに話しました。 7:41「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。7:42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 7:43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。 シモンのようにほんの少ししか赦されていない人は、ほんの少ししか他の人を赦しません。普段親切で良い人にとっては、ひどい罪人を赦す事は難しいです。それで、説教者はいつも会衆の罪を指摘(してき)するでしょう。皆が罪の重大さを思い起こす為です。人々は自分の罪がそんなにひどくないと思いますが、罪をどのように測るでしょうか。別の罪人と自分の罪を比べましたら、自分がファラサイ派の人のように、律法によって自分を測る事です。神様は私達を測らなければなりません。聖なる神様の裁きとは、あなたの罪がひどくて、あなたが死ぬべきと言われます。あなたの罪を赦す為に、あなたの代わりに死ぬ為に、神様はイエス・キリストを送りました。それは罪の測りです:十字架上のイエス・キリストの死です。

自分の赦された罪の借金はどんなに大きかったか分かる時、私達は、イエス様の足を涙で濡らした女の人のようです。感謝と喜びが溢れて、神様と他の人への愛の奉仕へと導かれます。私達は自由です。“Sola Fide” と “Semper Fidelis”です。私達の信仰ですと神様はいつもの真実です。神様はいつも私達を愛して下さいます。これは私達のキリスト信者としての人生の生き方です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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