2011年10月23日
マタイ22:34-46アメリカ大統領の選挙は後一年以上ありますが、もう既に大統領になりたい人達はキャンペインをしていて、政治上の論争が始まっています。論争のやり方として、候補者に質問をする形をとります。候補者の立場がはっきり分かってから、相手はその人を攻撃し始めます。実は、その質問はワナです。このテクニックは、アメリカの政治にも日本にも、自由な論争が出来る国で使います。昔からそうです。福音書には、ユダヤ人はイエス様に質問しますが、それはワナです。今日の福音書の人は、モーセの律法の専門家はイエス様を試そうとして質問をしました。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」あるファリサイ派の人は、最も重要な律法は安息日の律法と思ったでしょう。ある人は、食べ物についての律法だと思ったでしょう。ですから、イエス様の答えに驚く人がいたでしょう。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。」驚くはずではありません。3年間イエス様はこのことを教えていたからです。そして、どのようにその掟を守るかも教えました。即ち、その第一の戒めを守る為に、その第二の掟を守る事です。「第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』 律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」ファリサイ派の人は、その第一の掟に「勿論」と言うでしょうが、その第二の掟は問題です。何故ならば、彼らは自分の隣人を愛さなかったからです。例えば、隣人であるイエス様を愛しませんでした。ファリサイ派の人は、モーセのすべての律法を守ろうと思いましたが、神様を愛したいと思いましたが、隣人を愛さなかったので、その律法の精神(スピリット)、その律法の本当の意味を完全に実行しませんでした。
政治的に言うと、神の国の中では、最も大事な律法はどれでしょうか。国の王様を忠実に愛する事です。それで第二の大事な律法とは、王様が愛する人を愛する事です。即ち、神の国の為に奉仕をし、国民の為にも仕える事です。政治的に言うと日本では、最も大事な法律はどれでしょうか。自分の国を愛する事で、その第二は国民同士を愛する事でしょう。自分の国を使い、国民同士をも使う事です。「君が代」を歌っても良いですが、国民同士に隣人が必要な時、援助が必要の時、その時自分の国に対する忠実さが現れるでしょう。これは、天災や災害の時も、他の人の命や人の尊厳(そんげん)を守る事も、欲張りと憎しみといじめと偏見(へんけん)を持たない事も、自分自身のように隣人を愛する事です。
政治的に言うと、イエス様はどの政治の仕事をねらっているでしょうか。小教理問答書には、イエス様の3重の仕事を教えます。それは預言者、祭司と王です。しかし、今日その3つを合わせて、メシアについて話しをしましょう。ヘブライ語の言葉は「メシア」で、ギリシャ語の言葉は「キリスト」で、日本語の言葉は「救い主」です。新約聖書の中では、このメシア・キリスと・救い主は、「ダビデの子」とも言います。何故ならば、神様はダビデ王に彼の子供がイスラエルを支配すると約束したからです。この子孫は、イスラエルに平和と繁栄をもとたらす事です。別に宗教的な指導者ではありません。祭司やファリサイ派の人はその仕事が欲しいからです。しかし、戦争の時や圧迫されている時、ユダヤ人は自分達を敵から救い出すメシアを祈って望みました。
しゅろ(棕櫚)の日曜日、イエス様がエルサレムに入城した時、群衆は叫びました。「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」その仕事を取る為に、イエス様には正しい資格 があったでしょうか。それを判断するのは誰でしょうか。人々は、メシアの事が分かるでしょうか。メシアは何ですか、誰でしょうか。それで、メシアの働きをよく理解する為に、イエス様は今度ファリサイ派の人達に聞きました。このメシア・キリスと・救い主は、「ダビデの子」であると正しく理解するように教えました。新約聖書のマタイの福音書とルカの福音書はイエス様の家系を載せます。それが、イエス様がダビデの町の ベツレヘムに生まれ、法律的にダビデ王の子孫であると教えます。しかし、イエス様がファリサイ派の人達に教えたいと思うのは、メシアであるダビデの子は、ただのダビデの子孫ではなくて、ダビデ王より偉大なる者である事です。イエスは言われた。「では、どうしてダビデは、霊を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。 『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい、/わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』 このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」この言葉はちょっと分かりつらいでしょう。なぜかと言いますと、「主」と言う言葉は最初に主なる神様を意味します、そして、2つ目の「主」と言う言葉は主なるメシアを意味するからです。その主なるメシアは、ダビデの主人、ダビデのボスです。それで、どうしてダビデの子はダビデの主人になる事が出来るでしょうか。イエス様の言葉をこのように翻訳しましょう。「では、どうしてダビデは、聖霊の霊感を受けて、メシアを主と呼んでいるのだろうか。『主なる神様は、わたしの主人であるメシアにお告げになった。「神様の右の座に着きなさい、/神様がメシアの敵を/メシアの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデがメシアを主と呼んでいるのであれば、どうしてメシアがダビデの子なのか。」又、この箇所の文法は過去形です。それで、メシアがダビデの生まれる前にいた事になります。そうでしたら、ダビデの以前から存在する者でしたら、どうしてダビデの子になる事が出来るでしょうか。
ユダヤ人達はこの矛盾に答えられませんでしたが、私達に出来ます。私達が知っているのは、イエス様は永遠の神の子である事です。しかしクリスマスの時、神の子はマリアの子、ダビデの子になりました。それで同時に誠の神であり、誠の人間です。このようにして、イエス様は本当のメシア、救い主になりました。ただの政治的な王様や将軍でありません。神様を愛し、神様の愛する人を愛するメシアです。御自分の隣人である私達を愛しました。私達が圧迫された時、罪と悪魔の敵に攻められた時、私達は良い隣人を必要としました。
政治的に言うと、選挙がありました。最高法院の全員は、イエス様を死刑にしようとしました。イエス様は自分がキリストである、神の子であると言われたので、それが神様に対する冒涜の罪で、死刑すべきであると言いました。そしで、十字架のイエス様の頭の上には、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれていました。十字架上でダビデの子である神の子は、どの王様以上の、最高の仕事をなさいました。自分の国民に対する最高の愛を表して、彼らを救う為に死んで下さいました。三日目に甦りました。昇天して神様の右に座ります。そこから、私達の主、私達の王、私達の救い主として支配されます。
イエス様はその二重の愛の戒めの意味を表しました。神様を本当に愛する為に、私達は自分の隣人を愛さなければなりません。又、隣人を必要とする人に、私達はその人の隣人になる事です。
「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会