私達の人生の嵐を静めるイエス様

2009年、6月20日

マルコ4:35−41
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
39 イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

沖縄はトラピカルの島です。今は梅雨の終わりで、台風の季節の始まりです。今日の福音書の日課は、マルコ4:35-41で、ガリラアの海での風を静めるイエス様です。三年前に、このマルコ4章の日課が読む日、2006年度の第3目の台風が沖縄に来ました。英語の礼拝で誰も着ませんでしたが、日本語の礼拝に、一人のたかまし沖縄人が台風を無視して教会に来ました。牧師とその人と、二人で祈りました。ですから、先週の金曜日、この説教を書いた時、日曜日の天気はどうでしょうかと考えました。

沖縄は島で、水に囲まれているので、大きな船のようです。天気が悪くなると、船が水をかぶって中に入りまして、船に乗っている人々は恐れます。台風が沖縄に来ますと、雨と波と風が非常に激しいので、危ないです。弟子達がイエス様を起こして助けを頼んだように、私達も、イエス様の助けと守りのために祈りましょう。いろいろの嵐の危険があり、インフレンザのバイラス、事故、火事、テロリストの攻撃、病気などです。

私達の人生の嵐があります。台風のような悪い天気のものも、人生の問題とストレスもあります。そのような時、イエス様が眠っているように見える時があります。ただ、私達はイエス様が私達と共に同じ船の中にいることを忘れる時があります。私達は、自分の問題を自分で解決しようと思います。もちろん、神様が私達人間に理性とタレントを下さいましたのは、人生の問題を解決する為です。私達は、もう神様がいらないと思いましたら、困ります。自分の力や自分の知恵の限界になりますと、その時パニックになって、生きる事を恐れて死ぬ事も恐れます。

福音書には、嵐の最中で、イエス様は「の方で枕をして眠っておられた。」その日イエス様は群衆を教えたので、今はつかれていました。休んでいました。「激しいがこり、舟は波をかぶって、しになるほどであった。」弟子達はパニックしました。「弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。」この点では、弟子達は奇跡を期待しませんでしたでしょう。イエス様も水を船から水を投げるように願ったでしょう。これは私達の問題のようです。私達はイエス様が眠っていると思って、弟子達と同じように言います、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」私達は神様が私達を愛する事を疑います。大きな問題があれば、重い病気があれば、家族の問題があれば、神様の愛を疑うかも知れません。もし神様が私達を愛して下さいましたら、どうして悪い事が起こるでしょうか。危険を恐れますが、神様の愛を疑いましたら、なお更恐れます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言いましたら、イエス様は私達にこのように答えるでしょう、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」その時、私達の信仰が生き返ります。イエス様は本当に私達のことを「心配します」し、本当に関心を持っています。イエス様は嵐に向かって言います、「黙れ。静まれ。」と。しかし、イエス様は嵐に向かって話すか、それとも、私達に話しているでしょうか。その時、海の嵐や私達の人生の嵐と問題に向かって話していないかも知れません。私達の心の嵐に「黙れ。静まれ」と言われるかも知れません。それで、人生の嵐と問題の中で、私たちはキリストにある平和を見つけて、神様に信頼します。

私達の小さな船の為に、大きすぎる嵐が来るでしょう。病気や事故や災害の為に死ぬでしょう。(私達の生きている間に世の終わりが来て、イエス様が地上に戻らなければ、私達皆はいつか死にます。死に掛けている時、弟子達と同じように言いたいという誘惑があるかも知れません、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」しかし、イエス様は本当に私たちのことに感心をもっています。私達が溺れて、私達が死ぬ事に関心を持っています。私たちのために十字架上で死ぬほどの関心があります。私達罪人には、死ぬ事が当たり前でしたので、私たちのために死んで下さいました。十字架上のイエス様の言葉を覚えますか。私達の叫びのようです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」『父よ、この十字架上で死んでもかまわないのですか。』しかし、父なる神様には関心がありました。父はご自分の独り子を本当に愛したのです。があっても、があっても、考えられない程の痛みと苦しみがあっても、イエス様は、神様の愛を知っていました。信仰を持って、このように言われました、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」信仰と平和のうちに死にました。そして、3日目に復活しました。イエス様が復活したので、私達は自分達の復活の為に希望があります。聖霊はこの事を思い起こさせます。聖霊は私達の心に言われます、「黙れ。静まれ。」と 『恐れないで、信じなさい』と。そして、驚きと不思議な思いと畏敬の念を持って信仰を告白して言います、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。」私の救い主、イエス様です!

台風や嵐がある時、又、病気や問題がある時、私達は今日の素晴らしい福音の日課を思い起こします。イエス様が本当に私達を愛して下さる事を思い起こします。この3年間、私の小さな人生の船は何回も,られて、みそうでした。病気の時があって、けがした時もあって、愛する人が死んだり、何回もがっかりした事もあります。しかし、いつも分かったのは、イエス様は、私と共に同じ船に乗っていた事です。もしその船が沈んでも、イエス様が私と共にいました。それは洗礼が教える事です。イエス様と共に沈んで、イエス様と共に生きかえります。そして、私は自分の一番好きな聖書の箇所を思い起こします、ローマ8:28、「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」この愛があるので、私達は危険の中にいるすべての人々の為に祈ろうと思います。その危険とは、悪い天気、病気、戦争、家庭内暴力、心の問題、恐れ、淋しさ、不信仰などです。イエス様が風と波を叱るように祈ります。「黙れ。静まれ。」この信仰は私たちの人生の問題の中に平和と信頼を下さいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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