「わたしの恵みはあなたに十分である。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」
ペンテコステ後第7主日
2006年7月23日
わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、
また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
私は聖パウロを尊敬(そんけい)します。この偉大なる宣教師は、遠くまで旅して、ユダヤ人にも異邦人にもキリストの福音を延べ伝えました。そして、第2コリント人への手紙には、聖パウロは、自分がキリストの弟子であるからこそ起こった苦しみについて話します。人々が聖パウロを無視したり、あざ笑ったり、侮辱したりする事には、聖パウロは驚く事が出来ません。なぜならば、聖パウロこそが、最初はキリスト教の敵だったからです。キリスト信者達を迫害して、牢に入れたからです。パウロが他の人たちにした事が、今度、自分に返ってきます。しかし、聖パウロは、自分の宣教の働きの中で、多くの祝福をいただきました。聖パウロは、彼の知っているある人が第3の天にまで引き上げられたようにではないみたいですが、パウロも、ダマスコへの道の途中でキリストの幻を見ました。パウロは福音の神秘を良く理解して、その手紙の中で私達に教えました。聖パウロの働きによって、多くの人々がキリストを信じるようになりました。たとえ多くの苦しみがあっても、パウロは自分の使徒としての働きに対して誇りを持つ事が出来ました。しかし、神様はパウロが誇る事を許しませんでした。2コリント12:7−9でこのように言います、
「また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、
そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」聖パウロの「身に一つのとげ」が何であったか私達は知りません。体のハンディキャップか、慢性の病か、目の病気かなにか分かりませんが、この素晴らしい使徒からプライドを取ってしまう、パウロを卑下{ひげ}させ、かれが恥かしいと思ったものみたいです。彼に自分の弱さを教えるもので、神様の力に頼らなければならないとおもわせるものでした。そして、それゆえに聖パウロの宣教の働きはさらに力強いものになりました。
誰も「身に一つのとげ」は好きではありません。いつも痛いし、かゆいです。気分を落ち込ませるものです。だれでも自分が他の人の前で誇る事が出来るように、力が欲しいです。とげは弱さのしるしです。自分の人生をコントロールする事が出来ないようにします。例えば、足にとげがあれば、速く走る事が出来ません。手の指がバラのとげで刺されたり、炎症したりしたら、ワプローでタイプすることはとても難しいです。人生のとげにはいろいろの形で来るでしょう:事故、体のハンディキャップ、体のシミ、経済的な問題、他の人との争い、等々。その弱さや恥があるので、自分は誇る事が出来ません。迫害や村八分や苦しみがあるかも知れません。
しかし、もし、そのとげが、本当のとげでしたら、体を刺す、頭の額を刺す、血を流させるとげでしたら、どうなるでしょうか。もしその「身にあるとげ」で、実に冠に編aんだ物でしたらどうなるでしょうか。もしその「身にあるとげ」で、実に手の平を刺す釘でしたらどうなるでしょうか。体の脇腹を刺す槍のとげでしたらどうなるでしょうか。イエス様の十字架には、イエス様の弱さを見る事が出来ます。その釘の目的とは、逃げる事を不可能にする為です。その釘の為に、死は当然です。それで、イエス様は死にました。そして、その十字架上でのイエス様の本当の弱さの中で、聖パウロに語られた神様の言葉は本当です、
『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と。神様は、恥と迫害と拒否と苦しみを力に変えます。そして、その恵み深い力は、人間の為に、死をいのちに変えます。とげに刺されましたら、傷や傷跡もあります。聖パウロの「身に一つのとげ」が何であったか分かりませんが、私達の人生の中の形が分かります。そのとげとは、私達が体を持つ人間であると教えるものです。即ち、私達は無限の存在ではないもの、全能ではないもの、いつか死ぬもの、試みに誘惑されるもの、欠点のあるもの、自分の人生をメチャメチャにする事が出来るもの、他の人の人生をもメチャメチャに出きる生きものです。しかし、それは、キリスト信者の為に、それは失望や望みの無い状態ではありません。むしろキリストを信頼する人にとって、それは、人生の本当の状態です。ですから、私達は制限がある体に信頼しません。代えって、キリストに信頼します。このキリストは、弱さの中で強いですので、私達の弱さを乗り越える事が出来ます。キリストの恵みは私達に十分です。キリストと結ばれていますので、私達が弱い時でも、キリストによって勝利者になります。それは聖パウロの言葉の意味です、
「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。」(2コリント12:9)。私達の弱さは、私達のキリスト信者としての人生の力になります。神様の愛を宣べ伝える力です、神様の愛を実行する力です。私達の弱さの中で、他の人を愛する事が出来ましたら、その愛する力が神様から来ると分かります。私達の弱さの中で、他の人に神様について話す事が出来ましたら、聖霊が私達を通して話していると分かる事が出来ます。私達の弱さの中では、誰かに悔い改めるように、救い主としてキリストを信じるように勧める事が出来ましたら、聖霊の力が私達の心にあると分かる事が出来ます。私達の弱さの中では、他の人の為に祈る事が出来ましたら、イエス様が私達と一緒に祈っている事が分かる事が出来ます。私達の弱さの中では、自分に罪を犯した人を赦す事が出来ましたら、イエス・キリストの死と復活が自分の人生の中に生きている事が分かることが出来ます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会
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