神殿を汚すと清める

2012年3月11日
受難節第3主日B

ヨハネ2:13―22
ヨハネ2:13。 ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。14 そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。15 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、16 鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」17 弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。
18 ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。19 イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。



もしイエス様のように、誰かが私達の教会に入って、窓から私達の讃美歌を投げ捨てて、礼拝堂の床に祭壇にあった献金袋のお金を投げたりしましたら、どう思うでしょうか。びっくりしてショックでしょう。又恐れて怒るでしょう。私達はいつものように集まって、礼儀正しく礼拝します。私達の歌と献金と祈りが、伝統的な方法で捧げられています。私達のやり方、私達の礼拝の持ち方が悪くないと思うでしょう。私達の礼拝が大丈夫だと思います。ですから、誰かがここに入って大騒ぎをしましたら、その人にチャレンジするでしょう。「どうしてこんな事をするのか?おまえは何者なのか。」と。そして、私達は警察を呼ぶでしょう。世界中の、あちこちの教会に爆弾を投げたり、火をつけたりする人がいますので、私達の教会の中で大騒ぎをする人が、狂っていなければ、テロイストのようなものと思うでしょう。

2000年前に、イエス様がエルサレムの神殿を清めた時、ユダヤ人は私達と同じように思ったでしょう。その日神殿で礼拝する人々は、いつものように礼拝していました。過ぎ越しの祭りでした。その時、人々がエジプトでの奴隷状態から救い出された事を覚える為に、神殿で羊を犠牲にして捧げます。そして、家族と共にその犠牲とされた羊を食べます。世界中から人はエルサレムに上りました。それで、神殿で使うお金を得る為に外国のお金を交換しなければなりませんでした。そして、神殿での献金する事が出来、過ぎ越しの祭りに使う羊をも買う事が出来ました。疲れた旅人、巡礼者の為に、便利になりました。神殿の境内で、お金を交換するスタンドや祭りの為に必要な物を売るブースもありました。私が思い浮かべるのは、日本の神社の祭りのようでしょうか。食べ物とおもちゃとお土産と宗教的な物も売ります。混んでいてやかましいでしょう。これがいつもの習慣になりました。人々はその雰囲気が好きでした。エルサレムの神殿の管理人達はそれを許しました。何も悪くないと思いました。そして、イエス様は皆を神殿の境内から追い出しました。その時の人々の気持ちは、私達の礼拝を乱す人がいる時の私達の気持ちと同じでしょう。ショック、恐れ、怒りでしょう。「イエス様どうしたのですか。どうして腹が立ちますか。どうして私達の礼拝の持ち方が悪いでしょうか。私達の習慣が昔から神様に祝福された形だと信じます。あなたはここに来て、こんな事をするには、どんな権威があるでしょうか。」ユダヤ人達は、イエス様が狂っている狂信者だろう、又、テロリストのような者のようだと思いました。自分自身の宗教の中心でさえも攻撃されたのです。神殿を攻撃すると、ユダヤ教の中心である神様に対する希望と信仰を攻撃する事です。彼らはイエス様の暴力が分かりませんでした。

他方では、イエス様は神殿の中の活動が暴力であるように思いました。うるさくて神様に祈る事が不可能に近いでした。確かに、商売人は高すぎる値段をつけて利益を取りました。確かに両替の値段が高すぎるでしょう。イエス様は人間の心を理解しました。商売する人には利益を取る事が必要です。しかしイエス様はもっと深い理由で怒りました。イエス様は神殿が本当に何であるかが分かっていて、又、真の神殿の将来が分かりました。もうすぐ、犠牲の為の動物がもう要らない時が来ると分かりました。イエス様が十字架上で犠牲として捧げられた後には、もう動物の犠牲が必要ありません。神殿その物も、もう必要がありません。罪の為の犠牲が完全に捧げられたので、再びしなくてもいいからです。

神殿と言う言葉の意味は何でしょうか。旧約聖書時代に、各村と町には、会堂、シナゴグがありました。しかし、神殿はひとつだけエルサレムにありました。神殿とは、「神の家」、「地上で神が住む所」と意味します。その王座は、神殿のもっとも聖なる所、し聖堂の中にあった契約の箱の上、チェルビムの間でした。神殿は神様の住まいでした。しかしイエス様が神様であるので、彼の体が神様の新しい住まいです。その意味を持って言われました、『この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。』イエス様は御自分の死と復活を話しました。ユダヤ人がイエス様の体である神殿を汚しても、イエス様は3日目に甦ります。それで、神殿からその動物を追い出す事によって、その動物の犠牲がもう必要ではないと表します。その時、動物の犠牲が罪を赦す事が出来ません。イエス様は神様の完全な子羊であるので、彼の死によって私達の罪が赦されています。そして、この犠牲は再び出来ません。犠牲をする場所は、シオンの山と呼ばれた神殿の丘ではありません。新しい犠牲をする場所は、ゴルゴダと言う丘です。そこでイエス様が十字架に付けられました。イエス様を殺す事によって、ユダヤ人は神様の新しい神殿を汚しました。これこそ神様に対する罪で、神様の裁きと罰に値する罪です。それなのに、キリストの死には赦しがあります。

神殿とは神様が住む所です。神様である聖霊が、あなたの心の中にいる時、聖霊があなたの心の中に住む時、あなたの体は神様の神殿になります。聖パウロはこのように書きました、第一コリント6:19−20。『知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。』私達は生きている神様の神殿です。これは大きな慰めと祝福です。聖霊は私達の心の中にいますので、私達の祈りを聞いて、私達を導いて私達を守ります。それより神様に近くなる方法がありません。

しかし、神殿になった私達にも、エルサレムの神殿にあったと同じ問題があります。私達にも清めが必要です。どうでしょうか。誰か、よその人が、あなたの神殿の心を清めようとしようと思う時、あなたはどう反応しますか。他の人が、私達の罪、間違い、欠点を指します。どう感じますか。怒りますか。恥ずかしくなりますか。恥ですか。腹が立つでしょうか。「お前は、誰ですか。俺の人生を支配したいのですか。俺の振る舞いを非難するのは、お前は誰ですか。」と。私達の罪をあきらにするイエス様に対しても私達は怒ります。それとも、神様の御前に私達の罪を宣告するのは、悪魔でしょうか。サタンは私達の罪を指して、私達がキリスト信者になる価値がない者であるように感じさせます。

私達は昔のエルサレムの神殿と同じです。私達の振る舞いと私達の心が本当に神様を礼拝しない事が分かりません。神様が私達の振る舞いの為に恥ずかしいと思うでしょう。神様の愛の良い証をするよりも、私達の振る舞いと生活ぶりや性格が、人を教会から追い出すかもしれません。そして、私達はエルサレムのユダヤ人のように、それを全然気にしていません。ですから、イエス様は私達に、悔い改めるように、正しく生きるように、十戒を守るようにと言いますと、私達はユダヤ人と同じように反応します。驚き、ショック、頑固、怒り。「イエス様、どうして?どうして私の事で腹が立ちますか。私は自分の人生で満足しています。私には赦しと自由がありませんか。貴方が私を命令する権利は何ですか。」しかし、彼の聖なる神殿は私達の心の中にあると理解しますと、言います。「イエス様、ごめんなさい。片づけましょう。」しかし、自分で出来ないと分かります。イエス様の助けがなければ、自分の人生を正しくできません。アルコール中毒者のように、自分の力だけで人生を変える事が出来ません。イエス様は私達の心を清めなければなりません。使徒信条の第3条の説明が小教理問答書にこのように書かれています。『私は、自分の理性や能力によっては、私の主イエス・キリストを信じることも、みもとに来ることもできないことを信じます。けれども聖霊が、福音によって私を召し、その賜物をもって私を照らし、まことの信仰のうちに私をきよめ、支えてくださることを信じます。』聖霊の働きとは、私達を聖なる者にする事です。私達の心と人生である、御自分の神殿を清めます。

今日祈るのは、神様が私達の心から、神様の事から私達の思いを散らすすべてのものを清めるように。それで、正しく祈って、礼拝して、神様の愛の中で生きる事が出来ます。私達には、恐れと心配があり、病気とハンティキャップがあり、へんけんと頑固さがあり、多くの邪魔なものがあります。今日祈るのは、神様は私達の心からこれらのすべての邪魔なものを追い出すように。聖霊は私達を聖なる者にするようにと。

イエス様はエルサレムの神殿を清める時、ユダヤ人が言いました、『あなたは、こんな事をするからには、どんなしるしを私達に見せるつもりか』と。イエス様は彼らに見せて下さった印を私達にも見せます。十字架のしるしです。御自分の死と復活のしるしです。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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