神殿を清めるキリスト

受難節第3主日、2009年3月15日
ヨハネ2:13−22

今日の福音書では、イエス様はエルサレムの神殿を清めました。そのエルサレムの神殿がどのようなものかを考えましょう。日本の大きなお寺や神社に似ているでしょう。 神殿の実際の建物は大きな境内の中にありました。境内の周りには塀と回廊がありました。キリスト教会の場合には、人々は建物の中に入って祈りますが、神殿の場合には人々は外に立って、神殿に向かって祈ったり礼拝したりしました。 祭司だけが神殿の中に入りました。この点では日本の神社やお寺のようです。神殿の境内には、多くの活動がありました。例えば神様の御言葉を学ぶ為に集まるグループがありました。神殿に寄付したいと思った人々の為の献金箱がありました。犠牲を捧げる所もありました。宗教の祭りの時には、その祭りの為の必要な物を売る売店もありました。祭りの為に遠くから来た人は、その市場で必要な物を見付ける事が出来ました。外国から来た人の為に、犠牲の働物などを買う為に、外国のお金を神殿で使う為、お金を両替(りょうがえ)する人もいました。旅人の為に便利でしたし、売る人も利益をあげることができました。 神殿の図

しかし、イエス様がエルサレムに上って来られた過越際の時、神殿を見て腹を立てました。サーカスのショーや大きなフリーマーケットのようで、境内が混んでいて、やかましく、神殿としての本当の仕事が出来ませんでした。その神殿の本当の仕事とは祈りと礼拝と犠牲でした。腹の立ったイエス様は縄で鞭を作り、羊や牛を境内から追い出し、両替人のお金を散らし、その台を倒しました。又、鳩を売る者達に言われました、「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 その商売の活動は、神殿の本当の意味から人々の思いをそらします。神殿とは、ささげられた犠牲によって人々の罪を赦す所です。しかし、その商売の活動を見ますと、神殿はお金をもうけたり、楽しんだりする場に過ぎないように見えました。ですからイエス様はその神殿を清めました。

私たちは受難節のこの時に、この福音書の箇所をよみます。私たちは自分の教会である神殿を見なければなりません。私達の教会には、本当の礼拝から私達の気を散らす事があるでしょうか。勿論、日曜日の朝に教会の中で、フリーマーケットやビンゴのゲームがあれば、礼拝から気をそらさせるでしょう。もし私達が日曜日の朝の一番大切なものがコーヒータイムや友達と話す事であると思いましたら、私達は間違っていると思います。例えば、今から10年先に、心を乱す霊的な悩みがあるとき、私達を支えるのは何でしょうか。「ああ、青年会とボーリングに行く時はすごく楽しかった!花見は楽しかった!教会の花見があったので、この自分の問題を解決する事が出来ます!」又は、「あの聖書研究会でマルコの福音書を学んで、イエス様の多くの奇跡と愛を見ました。その同じ力と愛を持ってイエス様が、私の祈りを聞いて私を助ける事が出来ます!洗礼の水が私の罪を洗い落とした事を思い出しました。確かに、イエス様は私の罪を赦して、今の罪の意識の悩みの時に、イエス様は私を助けるでしょう!」教会は楽しい所のハズです。何故ならばイエス様と共にいますし、友達と共にいるからです。しかし、イエス様が神殿を清めたと同じように、イエス様は私達の教会である神殿を清めて下さって、一番大切なものが十字架上で示された神様の愛と赦しである事を、私達が分かるようにして下さいます。このようにして私達の教会の中で、神様の本当の働きが邪魔されません。

清めなくても良い「神殿」もありました。それはイエス様の体でした。イエス様は言われました、ヨハネ2:19-22、『「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」20 それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。21 イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。22 イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた』のです。イエス様は特別な神様の神殿でした。「神殿」と言う言葉を定義しますと、「神がいる所」と言う事が出来ます。即ち、神様の住まいや神様の家です。エルサレムの神殿で、全能の神様は御自分の民と出会って、彼らの祈りを聞きます。イエス様は神の子、イエス様は神様でしたので、勿論彼の体は神殿でした。コロサイ1:19は言います、「神は、御心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ」ました。しかし、聖なる神殿であるイエス様の体にも清める必要がありました。それは十字架上で、私達の不潔、私達の罪や反抗をご自分の上に取った時です。しかし御自分の死と復活によって、私達の罪を赦して永遠の命を下さいました。

今日、もう一つの「神殿」について話したいと思います。それは私達の体です。イエス様は私たちの心の中にいますので、私たちの体は彼のいる所、神様の住まい、神様の神殿です。第一コリント6:19−20が言います、「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。20 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」私達は自分が自分の主人であると思って、自分の体で好きな事、何でも出来ると思う時があります。しかし違います。私達の体は聖霊の住まいです。聖霊は私達の心の中に入って、信仰や罪の赦しによって、私達を聖なる清いものにしました。パプテスマによって、その洗礼の力をつかむ信仰によって、神様は私達の神殿である心を清めます。一回だけではなくて毎日します。毎日赦されているので、神殿の正しい使い方から私達の気が散らされません。その神殿の正しい使い方とは、神様を礼拝す事です。神様の働きをする事です。神様の愛を表す事です。罪の赦しを得る事です。

今日、私達が祈るのは、神様が私達の心から必要のないものを取り除いて、私達が祈ったり、礼拝したり、神様の愛の家に生きることができるように助けてくださいます。恐れと心配があり、病気とハンディキャップがあり、自分が頑固で差別があり、又多くの心を騒がせるものがあります。今日そのすべてが取り除かれるように祈ります。聖霊が私達を聖なる者にするように祈ります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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