神に感謝!
2007年10月14日
イエス様は聞きました、「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
イエス様がびっくりしたみたいです。十人皆が戻って感謝する事を期待したみたいです。「彼らはどこだろうか。どうして戻ってきて感謝しなかったのだろうか」と。イエス様がご自分の全能の力によって、らい病を患っている十人の人皆を癒して下さいましたが、一人だけが、自分の信仰によって、体も魂も完全に癒されて戻りました。この一人の人は、イエス様の中に特別な事を見まして、イエス様が救い主であると信じました。
どうしてほかの癒された人々が戻らなかったでしょうか。彼らは神様を信じるユダヤ人でしたが、自分の信仰に関して違う考え方がありました。即ち、自分が神様に仕える僕であることよりも、神様のほうが彼らの為に働く僕であると考えました。このようです:私達は銀行に行ってお金をATMの機械からおろします。銀行にあずけているお金は自分のお金です。ですから、ATMの機械が私達にお金を与えますと、私達はその機械に「ありがとう」と言いません。もらったお金は自分の物であるので、その機械に対する感謝の気持ちがありません。9人のらい病の人たちは同じでした。彼らが思ったのは、イエス様は癒しを配達する機械である事です。神様が神様の憐れみを彼らにくれる事は当たり前のことだと思いました。いや、神様がしなければならない事だと思いました。イエス様は神様の癒しを配る機械に過ぎないと思いました。 祭司の所に行って、自分の治った体を見せて、祭司と共に決まっている祈りをして、その癒しの為に神様に感謝したでしょう。 しかし、彼らがイエス様に感謝しなかった理由とは、彼らはイエス様が救い主のメシアであると信じなかったからです。イエス様に感謝しなかったのは、もらった癒しが神様の義務gimuのように考えたのです。憐れみを見ませんでした。神様の愛を見ませんでした。彼らにとっては、宗教は機械のようでした。神様は、健康とお金と幸せを配る機械に過ぎないと考えました。
あなたと私は、そのらい病のようなひどい病気にかかっていません。しかし、完全に元気でもありません。体や精神や魂には病気があります。そのらい病の患者のように私達もイエス様に叫びます。
「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言います。癒しと助けの為に祈ります。問題がある時、困った時、主なる私達の神様の御名を呼びます。しかし、癒されましたら、その後に、神様に感謝するでしょうか。又、イエス様が私達を癒す事はイエス様の義務だと思いますか。私達が、憐れみを受けるのに価値がない罪人である事を忘れていますか。自分の古い問題をも、私達を助けて下さった方をも忘れるでしょうか。忘れるでしょう。私達は子供のようです。小さい時、親からすべての必要な物をもらいますが、大きくなると、それを忘れます。どのように私達を育てて下さったかを忘れます。親は、自分の責任、自分のぎむしか果たさなかったと感じます。子供が大きくなりますと、親をやかましい存在だと思います。同じように、私達を創造して、私達に命を下さった神様をも忘れます。私達を祝福して、人生の必要な日々の糧を下さった事を忘れます。そして、罪人で、神様がうるさいと思って、私達の楽しみを奪うと思います。神様の事を忘れるか、それとも、命の為に神様に感謝する事を忘れます。神様が機械のように、神様の義務は、私達が要求する物を与えなければならないと思います。私達の祈りは、プリーペイドカードのようです。神様が私達に必要な物をくれる機械のようですので、感謝する事が要らないと思います。
人々はイエス様に対する感謝がありませんでした。イエス様は良い知らせを語りました。寂しい人を慰めまして、病気の人を癒して、死んだ人を甦らせて下さった事もありました。しかし、多くの人には、感謝がありませんでした。最後に、彼を逮捕して、十字架に付けました。この度、憐れみが必要とするのは、イエス様でした。天の父に叫びました、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と。イエス様は、らい病人よりひどい者になりました、全世界の一番ひどい罪人になりました。それは、ご自分の上に、全世界の罪をおわれたからです。救いの為に叫びました、それは、ご自分の為にだけではなくて、私達の為にも叫びました。「神よ、憐れんで下さい」と。そして、神様は憐れんで下さいました。イエス様の死と復活によって、神様は私達を憐れんでくださいました。私達の罪を赦して、私達に救いを下さいまいた。復活祭の喜びは、感謝の喜びです。イエス様が甦られて、私達も甦る事を神様に感謝します。私達の感謝は、感謝の生き方になります。いつも神様に感謝し続けるからです。言い換えますと、私達の健康と救いがどこから来るか分かるので、信仰の人生を送ります。
癒された、イエス様の所に戻ったらい病人の一人はサマリヤ人でした。私達は彼のようです。私達もユダヤ人ではなくて、異邦人です。ですから私達の賛美と感謝が大きいでしょう。神様には私達を助ける義務がなかったと分かるからです。私達を救うのは、神様の純粋な憐れみ、恵みと愛です。洗礼によって、私達の罪が洗いながされています。聖餐式によって、救いを記念して、感謝と賛美をささげます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会