復活祭の次の主日
2012年4月15日
今日の福音書には、2つのメイン・ポイントがあります:1.イエス様が本当に死んで甦った事と、2.このイエス様は本当に神であり主であります。
1.それはお化けではありませんでした。物質の体でした。弟子達は、復活した主の体を見たり聞いたり触ったりする事が出来ました。死んだ人の体でした。その死をもたらした傷跡がありました。手と足の釘後もあり、脇腹の大きい傷もありました。死んだ後、まだ十字架上に掛っている時、兵士はイエス様がもう既に死んだと分かりましたが、確認をする為に、槍でイエス様の脇腹を刺しました。そしてその時、脇腹から血と水が流れ出ました。もしもう既に死んでなければ、その時血が流れてしまって、確かに死んだでしょう。 イエス様が本当に死にました。同じように、イエス様が本当に復活しました。弟子達の前に来た人は、偽物ではありませんでした。イエス様に似ている者でもありませんでした。本当にイエス様でした。釘の傷跡と槍の傷跡は、この人が十字架上で殺されたと証します。しかし、今は、この人は生きていて、福音の証をする人の前に立ちました。疑い深いトマスでさえも、確信する事が出来ました。
2.しかし、この甦られた人はどなたでしょうか。勿論ナザレのイエス様でしたが、このイエス様は誰でしょうか、何者でしょうか。神様は彼を死から復活させるほど特別な者なのは、どうしてでしょうか。トマスにはそれが分かります。それで告白します、「私の主、私の神よ」と。突然、トマスは神様の福音の御計画が分かりました。イエス様によって、神様は人間になりました。それは、人間を罪と死から救い出す為でした。そして、それをする為に、イエス様は罪の為に死んで、罪の赦しの為に復活しなければなりませんでした。全世界を救う為には、普通の人間が死にましたら、それでは足りません。神様御自身がそれをしなければなりませんでした。そして、トマスに分かるのは、このイエス様は全能の神様であり、救い主であります。十字架の死の後に、甦る事が出来るのは、神様だけです。そして、トマスに分かるのは、イエス様はトマス自身の為に死んで甦った事です。トマスはそれが分かって告白します、「私の主、私の神よ」。
この福音書の日課は、トマスについてですが、実は、私達の為に書かれたものです。私達とすべてのキリスト信者は、2つの点でトマスと同じです。1.私達も証拠を見たいと思って、そして2.私達もイエス様が私達の主と私達の神であると知って、告白して、人生にその告白を生かす事です。
1.私達も証拠を見たいと思います。神様の創造物として、私達人間に与えられたのは、頭と心と魂と理性です。ですから、証拠を見たい事は自然です。特にイエス様の死と復活のような大切なものでしたら、証拠を見たい事は当たり前です。私達はトマスのようにイエス様を見たり触ったりする事が出来ないので、弟子達の証に頼らなければなりません。ですからヨハネはこの福音書を書きました、即ち、イエス様を見ないで信じる為で、それで永遠の命を受ける為です。聖書である神様の御言葉と述べ伝えた福音や聖礼典によって、聖霊は信仰を私達の心の中に創造しました。勿論、私達はそれを確認したいと思います。神様の存在の証拠や私達の人生の中での働きを見たいと思います。奇跡や癒しや祈りの直接な答えを見たら嬉しいです。ある人は、何か心の中での温かい気持ちを感じたいと思います。ある人は異言や預言を語りたいと思います。しるしを見たいと思います。このしるしは良いですが、神様からの確かなしるしは、聖書の御言葉と聖礼典です。洗礼と聖さん式は私達が見たり触ったりする事が出来るものです。聖礼典は私達の為に、トマスの経験と一番近いものです。そして、もしあなたは信じましたら、又信じたいと思いましたら、それは聖霊がもう既にあなたの心の中で働いている事の証拠です!
2.そして、イエス様が死んで甦ったと信じましたら、次に私達は自分の信仰を告白しなければなりません。「私自身の主、私自身の神よ」と。イエス様が死んで復活した事を知る事だけは足りません。イエス様が救い主であり神である知識だけでは足りません。イエス様が「私自身の主」である事を知らなければなりません。私の罪を赦す為に十字架上で死んだ事です。私に永遠の命と救いを与える為に甦った事です。その信仰告白は私達の人生を変えなければなりません。まず、自由を与えます。罪と罪悪感と死の恐れと地獄の恐れからの自由です。又、クリスチャンの生活を送る自由を与えます。そのクリスチャンの人生は、祈りと礼拝と他の人を愛する人生です。このように生きる力があるのは、イエス・キリストが全能の神様であるからです。それで、イエス様に従う力があります。私達はイエス様に従う時、イエス様が私達の主です。私達の主は、私達の指導者であり、私達を守る方、私達に必要なものを与える方です。
トマスと同じのように、私達も時々疑うでしょう。その時、イエス様は私達に来られて祝福します。そして、その時、私達はトマスと共に、私達の信仰を告白します。一回だけではなくて、何回も告白します:「私の主、私の神よ!」。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会