神様はどのように見えるか?

2014年3月2日、顕現節最後主日、
主の変貌主日、主の変容主日


福音書 マタイによる福音書17章1節〜9節 (新 p. 32)
17:1 六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 17:2 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 17:3 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 17:4 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 17:5 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。 17:6 弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 17:7 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」 17:8 彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
17:9 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。

主日の祈り 
全能の神さま。あなたはみ子の変容によって、モーセとエリヤに伝えられた信仰の神秘を明らかにし、輝く雲の中から、私たちをあなたの子として迎えることを示されました。どうか、わたしたちを栄光のみ国の世継ぎとして、毎日を喜び生きる者にしてください。あなたと聖霊と共にただひとりの神であり、永遠に生きて治められるみ子、主イエス・キリストによって祈ります。アーメン。

神様はどのように見えるか?

神様はどのように見えるでしょうか?誰も神様を見た事がありません。イエス・キリストによって、又幻によって見る事以外です。しかし、神様はどのように見えるでしょうか?確かに、人間の想像を越える形でしょう。しかし、私達人間が何かについて考える時、何かを見たり、想像する事が必要です。幾つかの神様のイメージがあります:王座に座る、白いひげをはやしている老人。まぶしい大きな白い光。罪人を罰する雷。裁判官。宇宙の設計士。羊を導く羊飼い。雛を守る雄鶏。自分のとなりを歩く友達。涼しいさわやかな風。すべての物の中に存在するフォースの力。純粋なエネルギー。異教で神様のイメージを表す遇像があります:人間やライオンや牡牛や竜のような強い働物や神様が何でも出来るので手と腕が沢山ある人のような遇像です。神様が無限のものであるので、私達は神様の完全な形をつかむ事が出来ません。

創世記1:26、「1:26 神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』」

しかし、人間は自分達のイメージによって神の形を作ろうと思います。即ち、自分がコントロールする事が出来る神を作ろうと思います。この神は私のすべての欲しいものを下さいます。私の振る舞いを何でも認めます。私のすべての敵を破壊します。私個人の奴隷になります。私に健康と富と幸せを下さいます。

又は、人間が自分自身を神にします。これは遇像礼拝の一種です。自分が宇宙の中心のように考えます。私は神である。すべての人が私に従うべき。この世の存在理由とは、私の幸せの為だ。私が何でも好きなように出来るのは、私の振る舞いが私に赦されているからだ。何が正しいか、何が悪いか、私が決める。

これこそが根本的な罪でしょう。即ち、自分自身を神にする事でしょう。創世記3章が説明するのは、罪の本質です。即ち、人間が自分の為に、何が正しいか何が間違っているか、何が良いか何か悪いかを決める時です。神様を無視にして ものを決める事は、善悪の知識の木から実を食べる事のようです。この日から死ぬのは、神様から離れて生きるからです。サタンやその蛇に責任を負わせないで下さい。アダムとエバを責めないで下さい。チャンスがある時、私達は同じようにするからです。

何が正しいか何が間違っているか、何が良いか何か悪いかの事は神が決めました。創世記2:16-17が言います。2:16 「主なる神は人に命じて言われた。『園のすべての木から取って食べなさい。2:17 ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。』」多くの人々の為に、これは神様のイメージで、そして裁きの日に、この神様の形を見ます。

何が正しいか何が間違っている、何が良いか何か悪いかの事を神様はもう一度決めました。今度は愛と憐れみと赦しと和解を決めました。その愛を表す為に、神様は、人間が理解する事が出来る形を取りました。神様はベツレヘムで力の無い赤ちゃんとして産まれました。成長したイエス様は、聖霊に満たされたカリスマ的な、神様の愛を述べ伝えるメシヤになりました。奇跡とほかのしるしによって、私達を愛して、私達の事を大事にする神様の形を表して下さいました。この形ならば、人々は見たり、聞いたり、触ったりする事が出来、又、この形で、神様は人々に話したり、手を伸ばしたり、人を触ったりする事が出来ました。

そして、イエス様は、十字架上で見られた形を取りました。イエス様が、御自分の上に世の罪を取る時、すべての罪人の形をも取りました。イエス様は犯罪人になりました。又、人殺し、罪人、泥坊、噂話を言う人、嘘つき、へんたい、神を冒涜する人、姦通する人などになりました。即ち、私の形を取りました。あなたの形も取りました。部屋の向こうの人の形も取りました。あなたの友達の形も敵の形をも取りました。そして、この形を取ってあなたと私を赦して、再創造して復活させました。

フィリピの信者への手紙2章は、イエス様の『変容』について話しました。

2:6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、2:7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、2:8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

2:9 このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。2:10 こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、2:11 すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、父である神をたたえるのです。

それで、神様はどのように見えるでしょうか。イエス様が今日私達の所に来られる時、どのように見えるでしょうか。御言葉と聖礼典によってこられます。ここで、私達は私達の主を見たい、聞いたり、触ったり、味をみたりする事が出来ます。私達の心を動かして、私達の体を強くする愛を持って来られます。私達はイエス様の顔がどう見えるか分からなくても、私達はイエス様の心がどのようなものであるか分かります。神様は愛です。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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