良い羊飼い

2007年4月27日
復活祭第4主日
ヨハネ10:22−30

ヨハネ10:22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。24 すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

10:25 イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。26 しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。29 わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。30 わたしと父とは一つである。」

 

イエス様は良い羊飼いであり、私達は彼の羊です。今朝、礼拝堂に座っている皆さんを見て、想像したら、皆さんには、白いくるくるしたウールのような毛があり、御言葉を聞きたいかわい耳もあるように見うける事が出来ます。又、さらに緑の牧場まで、きれいな静かな水べに導いてくださる羊飼いの後に喜んで従う事を想像します。同時に、貴方方の中には、遊びが好きで、好奇心に満ちたよく迷う羊もいるでしょう。又、この教会の中には、言われている「黒い羊」もいるでしょう。即ち、問題を起こす者もいるでしょう。

個人的に言いますと、私は農家に生まれなかったので、羊との接触があんまりありません。羊が弱くて、自分を守ることが出来ない動物だそうです。野獣が簡単に羊を捕まえられるそうです。又、羊を羊飼いから盗む人もいます。ですから、詩篇23編によりますと、神様は良い羊飼いで、ご自分の羊を守って下さいます。又、ヨハネ10章によりますと、イエス様は、ご自分に従う人々を守って、誰も彼の手から彼らを奪う事が出来ないと言われます。「27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

私達を神様の御手から私達を奪おうと思うものが沢山あります。まず、悪魔です。その働きをする為に、悪魔には多くのやり方があります。私達をイエス様から引っ張ろうと思うものが沢山あります。今日、いくつかのものをリストにしましょう。そのものは私達をイエス様の群れから、即ち、教会から私達を奪おうと思います。

キリストの群れは日曜日の朝ごとに集まるので、日曜日に沢山の活動があります。リストを作りしましょう: 仕事、学校の活動、家族との遊びと親戚への義務、キリスト信者ではない家族や友達の要求、町内会の活動、休みの旅行、スポーツ、怠慢(たいまん)、土曜日の夜からの二日酔い、仕事がきついので疲れていること、病気や家族の人の病院での付き添い、家にくるお客さん、車の故障、バスに乗る為のお金が無いなど。私達の毎日の生活が忙しいので、これら全部をするために知恵と勇気が必要でしょう。このようなものは別に悪くありませんが、決して教会に行かないように、祈る事にも聖書を読む事にも邪魔になりましたら、私達を神様から奪う可能性があります。

もしこのものが私達をイエス様から奪う事が出来なければ、悪魔にはほかのやり方もあります。私達が群れから出たいと思うように群れの中で働きます。悪魔は教会の交わりの中に入って教会会員同士の間で問題を起こします。人々は小さなものについて誤解を持って、さらに大きいものについて喧嘩してしまいます。そのうちに、何が正しいか、どちらの方がより良いか関係なく、誰が勝つかという事を大事にします。コミュニケーションは喧嘩になります。そして、他の人から自分を離したいと思うから、教会から離れてしまいます。このようにして悪魔は人をイエス様から奪います。

しかし、悪魔の一番効果的な業は、罪です。罪を犯しますと、自分が愛する羊飼いに見られたくありません。罪の為に良心が非常に痛くなると、イエス様が自分を赦す事が出来ないと思います。自分が偽善者になりたくないので、教会から去ってしまいます。私達の羊飼いが良くない羊飼いと考えて、イエス様を信頼しない事です。私達が悪い羊でしたら、天国の緑の牧場に導いて下さると信じません。詩篇23編が言います、「あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。」と。そのむちとつえの目的とは、羊を狼から守るためです。ですから守りのしるしで、危ない時に慰めと力を与えます。神様の律法と戒めの目的とは、悪い人から私達を

守る為で、どのように愛の人生を送るか教える為です。しかし、罪の為に、その鞭と杖が自分を凝らす(こらす)と恐れます。私達が神様の罰を恐れますので、神様から逃げます。祈る事をやめて、教会に来なくなります。

しかし、イエス様は言われました、「27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」私達が滅びない理由とは、イエス様が十字架上で死んで3日目に甦ったからです。イエス様は死にましたが、滅びませんでした。私達の罪を赦すほど、私達を愛して下さいました。私達の罪を赦しましたので、悪魔はもう、永久的に私たちを捕まえている事が出来ません。私達はイエス様に従っているので、悪魔の手から抜け出す事が出来ます。洗礼の水で、私達が滑りやすいです。イエス様の杖での罰を受ける事は当然であると分かりますが、イエス様は、私達の代わりにその罰を受けて、苦しみを受けて、私達のために死んで下さいました。ですから彼の苦しみは私達に慰めと力を与えます。十字架のシンボルは私達に慰めと力を与えます。

イエス様によって私達が安全であるので、私達のクリスチャンの交わりも安全です。勿論、いたずら好きの羊がいつもいますが、それらも同じ神様の子羊によって赦されています。私達みながイエス様によって導かれていますので、お互いの愛と赦しによって、私達の教会の交わりが安全です。

もしかしたら、来週の日曜日の朝には仕事があるでしょうか。又、来週の日曜日には家族の遠足があるでしょうか。イエス様が私達の羊飼いであるので、私達を彼から奪うものがありません。もしかしたら、仕事場は、イエス様の証をする場所になるかもしれません。海辺で、神様の恵みを見て経験する場所かも知れません。もしかしたら、死の陰の谷を歩んで、イエス様が共におられるので、わざわいを恐れないでしょう。私達が毎日一日中教会の中にいなくても、イエス様は毎日一日中私達と共にいます。何故ならば、彼は良い羊飼いであるのです。そして、私達がイエス様の群れに入って、彼は私達を永遠の命に導いて下さいます。

アーメン。

マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会

 

イザヤ53:6

われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

 

 

 

 

23:1 新共同訳【賛歌。ダビデの詩。】主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
23:2 主はわたしを青草の原に休ませ/憩いの水のほとりに伴い
23:3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく/わたしを正しい道に導かれる。
23:4 死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖/それがわたしを力づける。
23:5 わたしを苦しめる者を前にしても/あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ/わたしの杯を溢れさせてくださる。
23:6 命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。

23口語訳  ダビデの歌
23:1 主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。
23:2 主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。
23:3 主はわたしの魂をいきかえらせ、み名のためにわたしを正しい道に導かれる。
23:4 たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。あなたのむちと、あなたのつえはわたしを慰めます。
23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
23:6 わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。

 

 

ニアフッド牧師の説教