あけましておめでとうございます!今年が皆さんの為に良い年になるように祈ります。しかし、どのような年になるでしょうか。中国のカレンダーでは丑年です。今年は牛のようになるでしょうか。経済の市場、Wall Streetの表現で「bull market」と言ったら、株の値段が高くなる事ですので経済的に良いでしょう。私は将来を予言する事が出来ませんが、私達皆の為に良い年になるように祈る事が出来ます。
聖書の中で、聖書は牛について何と言うかを調べたら楽しいと思いまして、調べてみました。沢山あります。先ず創世記1章によりますと、牛と家畜は6日目に創造されました。ですから神様の御計画の中にあります。(創世記1:24)
牛や雄牛の評判は力強く恐ろしい物です(詩篇22:12)。その力を利用して、農業で働かせて車を引かせたりします。(列王記上 19:19) (サムエル記下6:6)
牛乳を飲みます。又、バター、チーズ、ヨーグルトもあります(イザヤ7:15)。そして勿論ビーフを食べました(列王上19:21)。柔らかいおいしそうな子牛は、特別なお客様が来た時のご馳走でした。(創世記18:7)。
私達は働物を大事にしなければなりません。人権があれば動物の権利もあります。聖書にも動物の扱いに注意します。申命記25:4、「25:4 脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。」 ルカ14:5、「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」
聖書の中で牛の大切な使い方とは、いけにえ、犠牲です。ある時、罪の贖いの犠牲として、牛を完全に燃やしてしまいます。しかし普通は、一部だけが祭壇で燃やされます。それが信仰と礼拝を表します。そして残りの肉は、感謝の祈りを持って、普通の食事として食べます。
そして、出エジプトの時、荒れ野でアロンが作った金の子牛があります。 モーセが40日40夜シナイ山の上にいる時、アロンはその遇像を作って、 それがエジプトから導いて下さった主なる神様だと言いました。しかし、それを作ったので神様が怒りました。モーセはその遇像を壊して、それを礼拝した人々に罰を与えました。数百年後、イスラエルの国が北と南に分かれた時、北の国の王様は、北の国の人々がエルサレムで礼拝しなくても良いように、新しい金の牛を二頭作って、ベテルとダンと言う町に置きました。(列王上12:28-30)。しかし、これは人々の為に大きな罪となりました。
そして、バアル宗教の遇像礼拝がありました。バアルは、雄牛の形に作られたのです。バアル礼拝は農業の成功の為でした。そして、その遇像礼拝の儀式には、主なる神様に禁じられたものが多かったのです。そして多くのイスラエル人は罪を犯して、誠の信仰から落ちました。
聖書を読むキリスト信者として、牛の犠牲は、罪を赦すためだと分かります。これは大切です。罪が私達を神様から離すからです。引き離して、そのまま私達を神様から分かれたままにします。それで私達が祈りたいという祝福からも離します。 一番大きな罪とは不信仰です。不信仰があれば、神様や誠の礼拝や罪の赦しからも離れています。
私たちはクリスマスをお祝いしてばかりです。天使がヨセフに、その子供を「イエス」と名づけなさいと言いました。それが、(マタイ1:21)「この子は自分の民を罪から救うからである。」「イエス」という名前が「救い主」と意味します。これはイエス様の誕生の目的です。即ち私達を罪から救う為です。私達の罪を赦すためです。十字架上の犠牲によってそれをなさいました。普通、私達はイエス様を「神の子羊」と呼びます。それは牛よりも羊をよく犠牲の為に使ったからです。しかし犠牲の結果は同じでした。
新約聖書のヘブライ人への手紙は、旧約聖書の多くの犠牲と新約聖書のただ一つの犠牲について話します。イエス様が神様の子だったので、イエス様の十字架上の犠牲は、旧約聖書のすべての犠牲よりもすぐれていました。すべての時代の罪を赦しました。ですから新約時代の私達が祭壇の上で犠牲を行いません。その必要がもうないからです。羊や牛をもう犠牲にしなくても良いです。何故ならばイエス様は一度きりで、すべての人々の為に十字架上で死んで、犠牲となって下さったからです。キリストによって赦されていますので、ベブライ10:18が言う通りです。「罪と不法の赦しがある以上、罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません。」
新しい年、2009年の初めに、私達の為に、私達の罪が赦されていると意味します。神様の目には、私達の昔の罪が私達に害を与えない事です。私達には惜し(お )みがあるでしょう。神様は私達をすぐ赦して下さいますが、ある人は、そんなに早く赦してくれないでしょう。クレジットカードの負債やほかの義務を払わなければなりません。しかし神様の御前では赦されています。私達がイエス様を救い主として信じるので、救われています。昔の重荷がおろされています。この自由を持って新しい年を始めます。これは良い気分です。過去から自由にされて、未来の為にも自由にされています。
私たち個人的に今年はどうなるでしょうか。私は丑年に生まれました。それで私の為には良い年でしょう!そのようになるように祈ります。英語の表現ですが、「雄牛のように頑固」。それは私達の事でしょう。それには良い面も悪い面もあります。私の祈りは今年、自分の人生を再び犠牲として神様にささげて、献身したいと思います。そして神様にも、私達が愛して奉仕する人にも、忠実に、力強く、その義務、その働きが出来るように祈ります。
キリストの教会は、今年を「主の年、2009年」と呼びます。イエス様が生まれた年から数えます。その意味とは今年がキリストの為の年である事です。キリストから私達に与えられた恵みの年です。キリストが私達を愛して奉仕をして下さいますように、私達も奉仕と愛を持ってキリストに今年をささげます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会