救いは水の上を歩く事のようです

2008年8月10日

ローマ10:5-17

10:5 モーセは、律法による義について、「掟を守る人は掟によって生きる」と記しています。10:6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。10:7 また、「『だれが底なしの淵に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。10:8 では、何と言われているのだろうか。「御言葉はあなたの近くにあり、/あなたの口、あなたの心にある。」これは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉なのです。10:9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10:10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。10:11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。10:12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。10:13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

10:14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。10:15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。10:16 しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。10:17 実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。

マタイ14:22-33

14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。14:23 群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。14:24 ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。14:25 夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。14:26 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。14:27 イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」

14:28 すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」14:29 イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。14:30 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。14:31 イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。14:32 そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。14:33 舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。

救いは水の上を歩く事のようです

2008年8月10日
ローマ10:5-17、マタイ14:22-33

ペテロはイエス様を信じました。彼が信じたのは、もしイエス様が命令を下せば、ペテロもイエス様のように水の上を歩く事ができるということです。ペテロがイエス様の所を見ていたら、大丈夫でした。水の上を歩きました。しかし、風を見た時、恐れて沈み始めました。なぜなら彼が自分の力で水の上を歩いていると思ったからです。風が強くて波が高いので、どのようにして自分で水の上を歩く事が出来るかと心配しました。水の上を歩く事が出来るのは、イエス様の力による事を忘れたからです。パニック状態になって、沈みかけたのです。その時、奇跡の本当の源を思い出しました。叫びました、「主よ、助けてください」と。イエス様がすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われました。安全な船に戻った時、風がおさまりました。その時、弟子達はイエス様がどなたであるか分かりました。彼らは「本当にあなたは神の子です」と言いました。

ペテロが沈みかけた時、主の名前を呼びました、「主よ、助けてください」と。私達も困っている時、主の御名を呼ぶべきです。実は、困っている時にも、救いの為にもイエス様を呼ぶ事が必要です。聖パウロはこのように書きました、ローマ10:13「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。」と。

これは、キリスト教の根本的な教えです。即ち、イエス・キリストが自分の救い主であると信じる事は、ただ一つの救いです。聖ペテロは、このように言いました、使徒言行録4:12 「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」ヨハネ3:16です、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」又、今日の使徒書で、聖パウロは書きました、ローマ10:9-10、「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」

この救いはすべての人々の為であると聖パウロは言いました。ユダヤ人とギリシア人とほかの異邦人との区別がありません。イエス様はすべての人の主です。「イエスは主である」と。ある人は、天国への道が沢山あると言います。すべての宗教が同じ所に導くと言います。しかし聖書はそう言いません。イエス様によりますと、そのほかの道は、地獄に導きます。聖パウロによりますと、ユダヤ人もほかの異邦人も、イエス・キリストが主であると信じなければなりません。自分の罪を赦す為にイエス様が十字架上で死んで、永遠の命を与える為に3日目に甦った事を信じなければなりません。ユダヤ人もそれを信じる必要があります。

ユダヤ人がイエス様を信じなくても天国に行けるかどうかと考える時があります。彼らが同じ聖書の神様を信じるからです。イスラム教もそうかも知れません。しかし、彼らは救い主としてイエス様を受け入れません。それが問題です。もし自分の救い主としてイエス様を受け入れなければ、人には救い主が全然いないからです。その時、自分で自分を救う必要があります。イエス様がいなければ、神様を信じて信頼しない事です。その代わりに、自分に対する自信や自分で成し遂げた自分の業しかないのです。信仰と恵みによる救いではなくて、自分の業や行いによる救いになります。そして、ペテロの事を思い出して下さい。イエス様の力によってだけ水の上を歩く事ができるということを忘れた時、彼は沈み始めました。助けと救いがイエス・キリストだけによる事を思い出した時、ペテロは「主よ、助けて下さい」と叫びました。そして、主が彼を救い出して下さいました。

旧約聖書の中でも、ユダヤ人の救いは自動的なものではありませんでした。イスラエル人として生まれた事だけでは充分ではありませんでした。救いは信仰によるものでした。旧約聖書の預言者ヨエルが言いました、「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」と。(ローマ9:27、ヨエル2:32)。

聖パウロはユダヤ人の不信仰で悩みますが、彼の解決方法は簡単でした:伝道。ユダヤ人はイエス様の御名を呼ばなければなりません。しかし、イエス様の事を知らなければ、それが出来ません。イエス様を知る為に、福音の御言葉を聞かなければなりません。それで、誰かがイエス様について教えなければなりません。その宣教師や伝道師を送り出して、支える事が必要です。それは聖パウロの経験です。アンティオキアと言う町の教会がパウロとバルナバの二人の上に手を置いて福音を述べ伝える為に出発させたのです。その宣教の働きが教会の祈りと献金によって支えられました。このようにして、パウロとほかの宣教師が多くの所に福音を述べ伝えました。今日でも同じです。全世界の人々に、ユダヤ人にも異邦人にも、福音が述べ伝えられています。その為に、宣教師や伝道師を訓練し、出発させ、支える必要があります。ですから、若い人が牧師や宣教師や教会の中の教師になるように誘います。教会の学校や神学大学を支えます。そして、チャンスがある時、私達はイエス様についての良い知らせを話します。

どう思いますか。救いは簡単でしょうか、それとも、難しいでしょうか。水の上を歩くほど、簡単で、難しいです。救いは人間の力では不可能です。もし人間的に可能でしたら、イエス様が私達の罪を赦す為に十字架上で死ぬ必要はありませんでした。しかし、イエス様は死んで甦られました。洗礼の水はそのようです:溺れる事と復活のようです。洗礼の水の下に沈んでも、イエス様が御自分の手を伸ばして私達を救い出してくださると分かります。私達の信仰の生活は、水の上を歩く事のようです。すべてが可能です。イエス様が共にいますので安全です。信仰を持って私達はイエス様の名前を呼んで、イエス様が私達の名前を呼んで言われます、「私のところに来なさい」と。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト