2011年10月9日
その王は王子の為に結婚の婚宴を催そうと思いましたが、招かれた人々は出席したくありませんでした。どうして行きたくなかったでしょうか。美味しいご馳走があったでしょう。ローストビーフ、ステーキ、飲み物、余興など、素晴らしいパーティでしょう。披露宴に行きたくないのは、彼らはその王が嫌いと思ったからです。そして、私は彼らをあんまり攻めたくないと思います。何故ならば、その王は、冷酷な指導者だったからです。彼らが参加しても、そのパーティを楽しむ事が出来なかったでしょう。王を恐れるので、自分が死にたくないので参加する事でしょう。その通りでした。招かれた人が来なかったので、王は軍隊を送ってそれらの人を殺して滅ぼし、その町を焼き払ったからです。ある人は丁寧に出席しない理由を言いましたが、ある人はその僕を、王に対する同じ思いを持ってその僕を侮辱しました。王の理解では、彼らが出席しない事は王に対する反抗、反逆の罪のように解釈しました。
作った食べ物が多いので、王はそれが勿体無いと思いました。実は、自分の宮殿の中に普通の人を入れたくなかったでしょう。そうでしたら、最初からその町の人々を招いたでしょう。婚宴の席は客でいっぱいになりました。悪人も善人もいました。本当に喜んで出席する客は何人だったでしょうか。最初に招かれた人々が殺されていたので、出席した人達は自分達の命を恐れて出席したでしょうか。又、その王とその王子の事に全然感心を持っていなかったでしょうか。ただの食べ物や飲み物があったので、嬉しく行った人もいたでしょう。
そして、そこに礼服を身につけていない人がいました。彼が可愛そうと思います。昔の習慣では、結婚披露宴のホストがゲストに礼服を与えたそうです。そうでしたら、どうしてこの客は礼服を身につけていなかったでしょうか。宮殿に入る時、門番がそれを与えなかったでしょうか。そうでしたら、王は僕に命令を言い、礼服を着せるべきでしょう。しかし、客が礼服をもらっても、王に対する侮辱や反抗の理由でその礼服を身につけたくない場合には、自分がその披露宴から追い出される事を期待していたかもしれません。
イエス様はこの例え話の最後にこのようにいわれました、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」と。これはこの例え話の意味でしょう。即ち、最初に招かれても、後で招かれても、自分が良い人でしても、悪い人でしても、結婚式の礼服を身につけなければなりません。そしてその礼服は、あなたに与えられた物で、自分で身につけなければなりません。
霊的にこの例え話を理解しますと、その王は神様です。王子はイエス・キリストです。花嫁は教会です。招待は福音の招きです。即ち、自分の主と救い主として神様を信じる事です。又、天の王であるあなたの神様に真実で、忠実になる事です。婚宴とは、救いであり、教会の礼拝であり、聖餐式です。ほふられた牛と肥えた獣とは、旧約聖書の犠牲のようです。罪の赦しの為の犠牲です。即ち、イエス・キリストの犠牲で、彼の血によって、教会である花嫁が赦されて、清められています。王の僕とは、神様の所に招く人々です。それは、旧約聖書の預言者や新約聖書の使徒達やすべての時代の伝道師です。そして、例え話のように神様の僕も、無視されて、侮辱されて、殺されました。何故ならば、人々が教会に来るように、イエス様と彼のお嫁さんのお祝いに来るように人々が来るように勧めたからです。
王の僕は大使のようですが、人に殺されました。ですから、王は腹を立てて、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払いまいた。A.D.70年ローマの軍隊はエルサレムの町を完全に焼き払いました。しかし、霊的にこれを理解しますと、神の国は、イエス様を否定したユダヤ人だけの為にではなくて、世のすべての人々の為です。僕達は町の角、町の大道うりに出て行って、即ち、世の淵まで行って人々を神の国に来るように招きます。良い人をも悪い人をも呼びました。そして、未信者の私達も呼びました。
王は客を迎えようとして宴会に入りました。これは最後の裁きの日に起こります。その時、客も私達も始めて私達の王をこの目で見ます。そして、その日、礼服を着ていない人は、一人だけではないでしょう。多くの人々は、正しい礼服を着ないで披露宴に入ろうと思います。その礼服とは信仰です。多くの人々は天国に入りたいと思いますが、自分のきたない、罪深い洋服を着たいと思います。その着物は、自分の良い業、自分のイメージを表します。自分の手は自分の業で、自分の足は自分の人生の歩みです。ですから王が言いました、「この者の手足をしばって、外の暗やみにほうり出せ。」
その礼服とはキリストの義です。神の子羊の血によって綺麗になったものです。洗礼によって清められました。客として私達はこの礼服をもらいます。即ち、キリストの赦しと義です。私達が自分でするものではなくて、純粋な信仰によります。
最後に愛について話しましょう。花婿と花嫁の愛です。この愛が旧約聖書の本、「雅歌」の中にお祝いされています。"歌"として、多分、ソロモン王の多くの結婚式の一つで演じされていたでしょう。この歌は、愛とその喜びについてです。花嫁は言います、(2:16)「恋しいあの人はわたしのもの/わたしはあの人のもの。」2人が愛に落ちますと、お金がなくても、仕事がなくても、未来がなくても、すべての人がその二人に反対しても、彼らはかまいません。二人は愛し合うからです。花婿は、ダイアモンドや富を与えても、彼の愛を表すのに、それはけっして足りません。その二人が欲しいと思うのは、ただ、愛する相手です。キリストとその花嫁になる教会の場合もそうです。キリストは私達にすべてを与えました、御自分自身をも与えました。教会の為に死んで下さいました。教会の為に生きて下さいます。ですから、キリストの花嫁である教会は、自分の愛する者に自分の命を捧げます。何故ならば、二人が一緒にいると、祝福されて、幸せだからです。
最後の最後に、この婚宴の客として、私達はどの贈り物を持って行くでしょうか。実は、私達は贈り物を持って行きません。私達はもうすでにギフトをもらいました。キリストである婚宴の礼服をいただきました。私達には、永遠の救いがあります。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会