「主よ、私達はだれの所へ行きましょうか。」
ヨハネ6:68

2015年8月16日

ヨハネ6:68

人間にとっては、神様を理解する事が難しいです。神はどこでしょうか。神は何でしょうか。神はだれですか。なぜ神がいるでしょうか。必要か。神はどのような様子でしょうか。神は私が存在する事を知るでしょうか。私がいてもいなくても、神に関心があるでしょうか。神様が祈りに答えるでしょうか。  ――  どうして人々は遇像が好きか私には分かります。遇像を見たり、触ったりする事が出来ます。石や木や金属で作られていても、目で見えない霊や幽霊ではありません。それで、人がその遇像をコントロールする事が出来、祈りや献金やいろいろな振る舞いによってその神を支配する事が出来ると思います。聖書に啓示された神様は、人間がコントロールする事が出来ない神です。人間は神様を見たり、支配したりする事が出来ないので、2つの反応があると思います。一つは、神様を否定する事です。それは不信仰や神様を無視する事によってです。もう一つは、ぼんやりした、つかむ事が出来ない信仰になる事です。聖書の神様を知りません。もし神様を支配する事が出来なければ、どうして祈るか、どうして生き方を心配するでしょうかと思います。見る事も、触る事も、聞く事も、感じる事もない者でしたら、どのように神様と付き合う事が出来るでしょうか。どのようして、あなたや私や誰でもが、このような神を信じる事が出来るでしょうか。

それで、神様は御自分の愛する御子をこの世に送って下さいました。このようにして、神様は人間の体を持つ事、肉体を取る事と言えます。即ち、肉体を持つ神様です。イエス・キリストによって、神様は人間の形になりました。人はイエス様を見て、聞いて、会話をして、触って、触る事が出来ます。イエス・キリストによって、神様はぼんやりとした、つかむ事の出来ない者ではなく、触ることが出来るものとなりました。このようにして、イエス様の言葉を理解する事が出来ます、ヨハネ6:51、『私は、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私が与えるパンとは、世を生かす為の私の肉のことである。』イエス様は、御自分が天から来られた神様であると宣言します。イエス様は私達に、永遠に生きる方法を与えます。永遠の命を与えるパンです。このパンとは、イエス様の肉です、彼の体です。これは、クリスマスで産まれた体です。苦しみを受けて十字架上で死んだ身体です。三日目に甦った体です。これは、地上にいる神です、この地上で人間が見える神様です。イエス様はただの霊や幽霊ではありません。食べられる程本当の体ですが、私達は食人種shokujinshuではありません。しかし、イエス様の体は、死ぬことが出来る本当の体でした。そして、彼の体が本物でしたので、彼の復活によって、私達の体も復活する事が出来ると言う事の証拠になります。

それで、私達のキリスト教は、ただの霊的なものではありません。私達の宗教は、この世の中の物質的なものです。イエス様がこの地上で体を持っていたので、イエス様がこの世の事に関心を持っている事が分かります。それで、私達もこの物質的な世に関心を持っています。『隣人を愛せよ』と言う事は、心の中で感じる事だけではなくて、その愛を実行する事です。神様はこの世を愛して下さって、この愛を実現しました。ヨハネ3:16、『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』イエス様の苦しみと死によって現された愛です。私達の罪を赦す愛です。

それで、キリスト信者はこの世の中で生きています。問題と恐れと誘惑と罪と疑いがある時、この世から逃げたいと思う時があります。この物質の世から逃れて、静かな霊的な所に行きたいと思います。自分一人でも良いし、霊的な雰囲気のグルッープでも良いです。実に言うと、祈りと礼拝と歌の中には、その神様との安全と平和と慰めを見つけます。しかし、本当の物から出る訳ではありません。かえって、本当の誠の真実の所に行きます。即ち、神様へと行きます。

今日の福音書で、イエス様は人が彼の体を食べて、彼の血を飲む事が必要であると言われました:

6:53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。6:57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。」

その日、イエス様がカファルナウムの会堂で教えていた時に話された事です。多くの人はイエス様のメッセージを聞きましたが、理解する事が出来ませんでした。言われたのは、人々が御自分を食べなければならない事、御自分だけがただ一つの本当の永遠の命の方法である事、天国から御自分の父である神様から送れられたメシアである事でした。その上、血を飲む事はモーセの律法にとっては罪です。イエス様の言葉を理解して信じる事が難しかったので、その時から、イエス様が町から町へ旅する時、多くの人々はイエス様と共に一緒に歩きませんでした。

それで、イエス様は12弟子達の思いを聞きました:

6:67 そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。6:68 シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。6:69 あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

「主よ、私達はだれの所へ行きましょうか。」このペテロの言葉をこのように翻訳したいとおもいます:“主よ、他の誰の所に行きましょうか。他の行く所がありますか。別の行く所がありません。主よ、他の救い主がありません。あなた、あなただけには永遠の命の言葉があります。あなたこそメシア、神様から送られた救い主です。それを信じる事だけではなくて、それを知るのです。”

「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」使徒言行緑4:12では、聖ペテロが逮捕され、ユダヤ人の指導者の前で話す時、イエス様とイエス様の復活について信仰告白しました。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。」別の行く所が無いでしょう。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。使徒達のはっきりした教えとは、イエス様だけが永遠の命を与える事が出来る事です。

天国に至る道が沢山ありません。イエス様はマタイ7:13でそれを教えました。「13 狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」

キリスト信者の本当の喜びとは、イエス様に従う事です。私達は本当のお方に従うので、私達の人生に本当の、誠の意味と価値があります。

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


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