2009年3月29日
受難節第5主日B
ヨハネ12:36b−50
どうしてすべての人々がイエス様を信じていないでしょうか。福音がほとんど世界中で述べ伝えられていますが、それなのに、すべての人々は信じていません。福音がとっても素晴らしい愛と救いと永遠の命の知らせであると私は思いますので、皆が信じたいだろうと思います。しかし、そうしないので、どうしてでしょうかと不思議に思います。その上、福音を知っているけれど、自分の人生の中でイエス様に従おうと思わない人もいます。何故でしょうか。宣教師や伝道者や牧師や教会学校の先生などにとって、フラストレイションになります。しかし、自分の信仰を他の人に話そうと思う人々誰にでも、このフラストレイションがあります。どうしてその人々が私達の話しを信じないでしょうか。どうして神様を信じないでしょうか。でも皆さん、自分の事をかわいそうと思わないでください。イエス様でさえもこのフラストレイションがありました。ある時、群衆の不信仰に驚きました(マルコ6:6)。人々に分かりやすいはずであった例え話を話しましたが、その例え話でさえも理解する事が出来ませんでした。神様の愛を現す為に、人々をいやしたり、神様の働きをなさる為に奇跡的なしるしをなさいましたが、すべての人々が信じた訳ではありませんでした。今日の福音書、ヨハネ12:37が言います、「このように多くのしるしを彼らの前でなさったが、彼らはイエスを信じなかった。」信じなかった人々が多かったですが、信じる人々もいました。ですから、イエス様の時代、自分の目でイエス様を見て、自分の耳でイエス様の言葉を聞いてもイエス様を信じなかったならば、現在のキリスト信者たちの伝道活動はさらに難しいと思う時、がっかりしなくてもいいです。
どうして人々は信じないでしょうか。考えられる理由が2つ有ると私は思います。それは神様のせいか、それとも人間のせいでしょうか。人々が信じる事が出来ないように神様は人間を創造したでしょうか。神様はある人の思いと心を福音に対して閉じるでしょうか。預言者イザヤはそのように言ったみたいです(イザヤ6:9-10)。ヨハネ12:3−40はイザヤ6章から引用してコメントを言います、「 こういうわけで、彼らは信じることができなかった。イザヤはまた、こうも言った、“神は彼らの目をくらまし、心をかたくなになさった。それは、彼らが目で見ず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである”。」この言葉はイスラエルに対する裁きのようで、新約聖書に現された神の愛と憐れみではありません。神様の意志とは、全ての人々を救う事です、そうではなければ、私達の赦しと救いの為に、十字架上で死ぬ為にイエス様を送らなかったはずです。それを現すいくつか聖書の箇所の中から一つを読みましょう。
ヨハネ3:16「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」
ですから、神様のせいではなければ人間のせいです。この状態が人間にとっては、ひどいです。何故ならば、人々は自分の行動の責任を取りたくないからです。人々はこの状態を神様のせいだ、神様が悪いと言ってしまいます。どうして神様は人間が罪を犯す事が出来ないように創造されなかったでしょうか。人間が自然に神様を信じるように、どうして造らなかったでしょうか。
これは誰のせいでしょうか。人間の性格の間違いと言えません。多くの人々が神様に信頼して信じるからです。本当の問題とは、一人一人です。言い換えますと、もし私が神様を信じなければ、私こそが霊的な暗闇の中にいて、それは自分の責任です。他の人の事を聞かないでください。他の全ての人間の事を考えないでください。自分の事を考えて、自分と神様との関係を考えてください。
勿論、今朝、私達がここに来ましたので、私達が皆キリストを信じると私は思います。私自身の経験ですが、日本での福音伝道が非常にゆっくりで、フラストレイションを感じます。最初に日本に着いた時、私の夢は大きいでしたが、今は小さくなりました。時々、私の楽観的な思いよりも、悲観的な思いが多くなる時があります。その時、どうして教会には人がまだいるだろうか、どうして人が教会に残るだろうか、どうして人が新しく教会に入るだろうかと思います。自分自身も、どうしてまだクリスチャンであるかと思います。その時、神様を疑うよりも、自分自身の事を疑います。ですから救いの為に、ただ神様に感謝する事です。しかし、どうして私が神を信じるかと思います。イエス様の死と復活を信じるのはどうしてでしょうか。2000年前に起こった事で、数人の証人以外には証拠がありません。しかし、私はイエス様の復活を信じます。どうしてかと言いますと、よく分かりませんが、その信仰を造る為に聖霊が私の心の中で働いているとしか考えられません。神の御言葉と聖礼典を通して、神の愛が私に現されています。そして私はそれを受け入れます。私は思いますが信仰は奇跡です。奇跡ではなければ、どうして、僕のような頑固で、石頭の人間が信じる事出来るでしょうか。
ですから、マルチン・ルターの小教理問答書の使徒信条の第三条の説明が正しいと分かります。即ち、「私は、自分の理性や力で、主イエス・キリストを信じる事も、主に近い者になる事も出来ない事を信じます。しかし、聖霊が福音によって私を招き、その賜物をもって教えて下さり、真の信仰のうちに聖化して守って下さいます。」
先に、この質問を聞きました、「どうしてすべての人々がイエス様を信じていないでしょうか。」そして、先に見たように、イエス様の時代のユダヤ人の中では、自分の目でイエス様を見、自分の耳でイエス様のことばを聞きましたが、それなのに信じなかった人がいました。その事を考えて、私の古くからの楽観主義が明るくなります。もし全てのユダヤ人がイエス様を神のキリストとして信じましたら、どうなるでしょうか。一つは、イエス様を十字架に付けようと思わなかったでしょう。いつまでもイエス様にハレルヤ!とホサナ!と歌いたいと思ったでしょう。イエス様をイスラエルの新しい指導者にして、ローマ帝国から自由にして黄金の平和時代を与える指導者にしようと思ったでしょう。言い換えますと、イエス様に地上の天国、神の国を造って欲しかったでしょう。しかし問題は、イエス様を十字架に付けなかったことです。そうしないと私たちには救いがありません。イエス様が十字架上で死なないと、世の罪の為の犠牲がありません。イエス様が3日目に復活しなければ、父なる神様との和解と平和がありません。ですから、この意味ではイエス様がユダヤ人に拒否される事が必要でした。その拒否は彼らの救いになりました。そしてイエス様が死んで復活して後に、多くの人々が彼を信じました。使徒行伝2章のペンテコステの出来事を見て下さい。使徒行伝6:7がこのように記録します、「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」イエス様の弟子達でさえも、復活の後でイエス様の事を理解してイエス様をキリストとして信じました。そして私も、イエス様が物質的な身体をもってお墓から甦られなければ、信じようと思いません。復活がないと、キリスト教には力がない、意味がありません。イエス様が復活したので希望があり、信頼があり、信仰があります。
「どうしてすべての人々はイエス様を信じていないでしょうか。」それがまだまだ神秘です。そして神の愛を知って、彼の恵みを信頼するクリスチャンにとっては、それが不思議と思います。しかし、神様は本当にこの世を愛して全ての人々を救いたいと思う事を信じます。マタイ28章の偉大なる宣教の命令、即ち、出て行って全世界に福音を述べ伝えなさいという命令は、クリスチャンにとって大いなるチャレンジと大いなる喜びになります。もうすぐ復活祭です。誰かがイエス様を信じる為に、その人を教会に誘って、私たちの信仰を現すよい機会です。一緒に永遠の命の賜物を喜ぶ事が出来るからです。
アーメン。
マイケル・ニアフッド牧師
沖縄ルーテル教会