2014年2月23日
『目には目を、歯には歯を』と言う言葉がすべての人々に知られているでしょう。仕返しを要求する、仕返しを弁解する言葉として理解されています。あなたは私に物をなげたので、私はあなたに物をなげ返す。あなたは私を蹴飛ば(けとば)したので、私はあなたを蹴飛ばす。あなたは私に無礼を言ったので、私はあなたに無礼なことを言っても大丈夫だ。しかしこれは、この言葉の本来の意味ではありません。この表現は個人的な仕返しの為ではありませんでした。公の正しい正義を行う為に、又、事故で人に怪我をさせてしまったときの為の、正しい弁償の為でした。
[参考:出 21:23-25. レビ記. 24:19,20. 申命記. 19:21]。
この表現は個人的な仕返しの為ではありませんでした。裁判で正しい判決のガイドでした。例えば、二人が喧嘩して一人が怪我をした場合、又、仕事の所で事故があったる場合、又、物が壊された場合です。実は文明的な社会の中には、この法律が決して文字どうりに行われていませんでした。裁判官は誰かの目をえぐり出したり、人の歯を抜いたりしませんでした。悪い事をした人が被害者にお金を払いました。『目には目を、歯には歯を』と言う事は、正しいお金の額(がく)を払う事を意味しました。例えば、目の価値が百万円です。医療の値段、痛み、仕事が出来ない時間、その失った給料、今度同じ仕事が出来ない場合もあるでしょう。そのような事も計算しました。それで、目の価値はたったの十万円ではないし、又、一億円でもありません。正しい値段が必要です。それでこの法律は、ひどい、目をえぐりだし、手を切る残虐(ざんぎゃく)なものではありません。憐れみの始まりでした。ひどい仕返しを制限しました。
しかし、人々はこのモーセの律法を仕返しを要求する規定にしてしまいました。あなたをなぐり返すべきです。なぐらなければなりません。あなたをけとばし返しますと、それが正しい行動であるので、私が悪い事をしていません。その上、無礼に対して言い返す事は義務です。
しかし、イエス様は仕返しして、戦わないようにと教えます。言われました、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい。」もし右ききの人が、相手の右の頬を打ちたいと思いましたら、やりづらいです。しかし、手の後ろでその頬を打ちやすいです。ユダヤ人の伝統的な法律によりますと、手の後ろで人を打つ事は、手のおもてで打つより2倍失礼です。それでイエス様が言われるのは、人があなたにひどい計画的な無礼な事をしても、それを無視して仕返ししない事です。左の頬を向けたら、その無礼の事がどんなに小さいことであったと表すでしょう。「つまらない無礼の言葉だよ。それより本当の無礼な事が出来ないの」と。一つの良い例とは、イエス様が逮捕された時です。ユダヤ人や兵士に無礼な事をされたのですが、イエス様は何も言われませんでした。又、クリスチャンの聖徒達と殉教者の例があります。
イエス様は言われました、「あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。」実は、モーセの律法の中では、お金を返すまでに、人のシャツのような下着を預かる事が出来ましたが、上着を取る事が禁じされたのです。出エジプト記22章25−27節、 「22:24 もし、あなたがわたしの民、あなたと共にいる貧しい者に金を貸す場合は、彼に対して高利貸しのようになってはならない。彼から利子を取ってはならない。22:25 もし、隣人の上着を質にとる場合には、日没までに返さねばならない。22:26 なぜなら、それは彼の唯一の衣服、肌を覆う着物だからである。彼は何にくるまって寝ることができるだろうか。もし、彼がわたしに向かって叫ぶならば、わたしは聞く。わたしは憐れみ深いからである。」ポイントとは、上着を返す権利があります。しかしイエス様が言われるのは、キリストの信者は、自分の権利の為に戦ってはいけません。自分には権利が全然ないようです。クリスチャンは、自分の権利よりも、自分の義務を考えます。自分の特権よりも、自分の責任を考えます。イエス様が十字架上に付けられた時、彼の上着が取られました。又、裁判を受けた時、イエス様は自分の権利を要求しませんでした。 しかし、彼の十字架上の死が私達の罪を赦しますので、私達が「義の衣」を身に付けます。天国の披露宴の服を頂きます。
イエス様は言われました、「だれかが、一ミリオン行くように強(し)いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。」当時パレスチナはローマに支配されていたのです。それで、いつでもユダヤ人はローマ人が言う通りに何かをしなければなりません。例えば、食べ物、宿、又、兵士の荷物を運ぶ事です。それで、「シモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士達はイエスの十字架を無理に担(かつ)がせた」のです(マルコ15:21)。イエス様の言葉で、英語の表現があります。「もう一マイルを行く事」と。綺麗な表現です。キリスト信者が喜んで他の人を助けて奉仕をする事です。自己中心ではなくて、自分をささげる事です。イエス様は御自分の生涯と死と復活によって私達に喜んで仕えて下さいました。
イエス様は言われました、「求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない。」私達はいつも神様に祈ってものを求めます。神様が私達に背を向けないように願います。神様は私達のような乞食に多くのものを下さいましたので、私達の心の中には他の乞食の為にスペースがあります。慈善は愛の業です。
最後にイエス様は言われました、「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。5:44 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。5:45 あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」イエス様は御自分の敵を愛しました。彼らを赦す為に十字架上で死にました。十字架上で祈りました、ルカ23:34、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」これは愛です。確信と自信を持っている愛で、左の頬を向けます、適の為にももう一マイルを行きます、必要とする人にあげます。もし誰かの為に祈る事が出来ましたら、もうその人を憎む事が出来ません。祈る時、私達は神様の御前にいますので、その時他の人を憎む事が出来ません。愛の神様の御前に、その愛が私達の祈りの中にあります。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会