待降節第二主日、
2014年12月7日
クリスマスの時、神様は私達に話して下さいます。その救いのメッセージが天使や預言者によって伝えられています。今日、二人の預言者の言葉を読みます、イザヤとパプテスマのヨハネです。
イザヤは言いました、「主のために、荒れ野に道を備え/わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。」歴史上の状態は、バビロニアに連れていかれたユダヤ人の捕囚(ほしゅう)が終わり、彼らはそろそろ約束の地に帰ります。とても長い旅になります。砂漠を通って行きます。それでイザヤは予言しました。その約束の地への旅に、神様が彼らと共に行って彼らを守り、旅路を楽にして下さいます。それで、綺麗な公園を歩く事のようになります。何故ならば、家に帰るからです!
バプテスマのヨハネは、イザヤの言葉を借りて自分の働きに当たって用(もち)いたのです。ヨハネは荒れ野にいました。そこでユダヤ人の所に来られるメシアの来る道を備えました。イザヤは神様の赦しについて語りましたが、ヨハネは人々が自分の罪を悔い改めて洗礼を受けなさいと言いました。イザヤ書の場合には、神様がユダヤ人を赦して下さったので、バビロンでの捕囚から約束の地に帰る事が出来ます。ヨハネの場合には、罪を悔い改めて神様のもとに帰ったら、メシアは彼らを救いの道に導いて下さいます。そしてイエス様は本当に来られました。彼こそは、道であり、真理であり、命であります。彼こそは救いへのますぐな道です。
そして、今日、私達に語られているイザヤとヨハネの言葉を聞きます。今日、私達は悔い改めて福音を信じる時期です。私達の為に供えられた道を旅する時期です。福音を述べ伝えたり教えたりする人が私達の為にその道を備えました。私達が聖霊によって導かれています。私達は自分の十字架を背負ってイエス様の後に従います。それは十字架まで、お墓まで、復活までです。
イザヤとヨハネは預言者でした。彼らは私達にも語ります。私達がその言葉を聞く時、神様が私達に、メシアの為に道を備えるように言われています。クリスマスはそろそろ来ますので、キリストの来臨の準備をします。私達も荒れ野の中で、主の道を作れば良いのでしょうか。文字通りに解釈したら、新しい伝道所を砂漠の中やジャングルの中か、無人島に作る事でしょうか。しかし考えますと、私達が今いる場所が荒れ野のようです。私達の家の経済的な事を意味しません。私達の社会全体の状態が荒れ野のようです。人々は霊的な暗闇を恐れで迷い出ています。涙と痛みと心配の為に、目も心も乾きます。ですから礼拝堂を建てる場所はここです。ここに必要があります。教会の建物だけではありません。私達の心の礼拝堂です。主が私達の心に来られる為に自分の心を準備したり、その救いの道を他の人にも教えます。メサイヤはここに来られます。これこそはクリスマスのストーリーです。キリストはこの罪深い荒れ野のような世界に生まれました。私達がいる所に来られました。ここで、私達と同じように苦しみました、いや、それ以上に、私達の罪の為に、苦しみを受けて十字架上で死にました。そして、3日目に甦られました。私達の復活と約束の地での、永遠の命を約束しました。このイエス様の預言こそはクリスマスに意味を与えます。クリスマスは約束の地への一歩目です。
イエス・キリストは「インマヌエル」と呼ばれています。「神が私達と共にいる」と意味します。クリスマスは、神様が私達と共にいると教えます。私達はその道を一人で旅しません。人生の道では、荒れ野を通る時があります:悲しみ、痛み、罪があります。しかし、淋しい荒れ野ではなくても良いです。私の人生の道がいき易くなるのは、問題の中にいる時、神様と共に旅をする時です。その時、祈って、神様が導いてくださるように、私と共にいるように祈ります。問題の山が低くなり、失敗と失望の谷が深くありません。
クリスマスに、預言者の言葉が成就されています。それをクリスマスにお祝いします。神様が私達と共にいます。
アーメン。
マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会