どなたの為に働くか?

2008年6月22日

ローマ6:12−23

6:12 従って、あなたがたの死ぬべき体を罪に支配させて、体の欲望に従うようなことがあってはなりません。6:13 また、あなたがたの五体を不義のための道具として罪に任せてはなりません。かえって、自分自身を死者の中から生き返った者として神に献げ、また、五体を義のための道具として神に献げなさい。6:14 なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。

6:15 では、どうなのか。わたしたちは、律法の下ではなく恵みの下にいるのだから、罪を犯してよいということでしょうか。決してそうではない。6:16 知らないのですか。あなたがたは、だれかに奴隷として従えば、その従っている人の奴隷となる。つまり、あなたがたは罪に仕える奴隷となって死に至るか、神に従順に仕える奴隷となって義に至るか、どちらかなのです。6:17 しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、6:18 罪から解放され、義に仕えるようになりました。6:19 あなたがたの肉の弱さを考慮して、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。それらの行き着くところは、死にほかならない。6:22 あなたがたは、今は罪から解放されて神の奴隷となり、聖なる生活の実を結んでいます。行き着くところは、永遠の命です。6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

マタイ10:5a、21−33

10:5 イエスはこの十二人を派遣するにあたり、次のように命じられた。

10:21 兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。10:22 また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。10:23 一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい。はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る。

10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。10:25 弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。」

10:26 「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。10:27 わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。10:28 体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。10:29 二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。10:30 あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。10:31 だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」10:32 「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。10:33 しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」

どなたの為に働くか?

会社や工場で働く時、いつも労働条件のための契約か約束があります。何時間働くか、給料、働く環境(かんきょう)、いつまで働くかなどです。私達が神様の為に働く時、契約があるでしょうか。ありますとも!神様の約束が契約です。神様は、私達の神さまとして私達を守る事を約束します。そして、私達の神様に対する約束とは、忠実なキリストの弟子、キリストの為の働き人になる事です。働く人は給料をもらいます。聖パウロは書きました、「6:23 罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。

聖パウロによりますと、私達は以前、罪の奴隷でしたが、今は神様の奴隷のようになりました。奴隷でしたら、その主人の為にフルタイムで働かなければなりません。もしあなたは神様を信じる人でしたら、天国のご主人の為にフルタイムで働く事が当たり前です。そして、アルバイトとして、罪の為にパートタイムで働く事を許しません。神様は、あなたがフルタイムの働き人になって欲しいと思います。聖パウロは私達の仕事の内容をこのように説明しました。「6:19 あなたがたの肉の弱さをして、分かりやすく説明しているのです。かつて自分の五体を汚れと不法のとして、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい。

聖パウロは、この手紙を、洗礼を受けたキリスト信者として人生を送りたいと思う人々に書きました。この手紙の言葉を通して、聖霊は私達にも語ります。私達はキリストを信じ、洗礼を受けまして、キリスト信者として人生を送りますが、罪を犯します。この事をbacksliding と呼ばれている時があります、又、「罪人であると同時に聖人」であると呼ばれています。旧約聖書の預言者ホセヤは、罪を犯す事は、、自分の連れあいに忠実でない事のようだと言いました。今日の使徒書には、聖パウロは、罪は自分の雇い主のために忠実に働かない事の様だと言います。私達のボスとは、神様です。神様の競争相手である罪の為に働いてはいけません。

私達の仕事の内容とは、義に仕える事です。ので働く時でしたら、私達の体と心と理性(りせい)で道具(どうぐ)としての義を果たします。マーケテイング の部でしたら、伝道でしょう。サービスの部でしたら、愛、親切、慈愛、などのよい業でしょう。

どうして私達が神様の正しい、忠実な働き人になった方が良いでしょうか。一つの理由とは、地獄から逃れる為です。聖パウロは、ローマ人への手紙の最初の頁で、それについて話しました。今は、救われている、贖いされているキリスト信者にたいして話します。パウロは、違う方法で彼らにうったえます。忠実、神様に使えると決心をして、上手に働く事、良いクリスチャンとしてのプライドを持つ事です。

私達の古いボスは罪でしたが、新しい雇い主とは、神様です。古いは死と恥でした。新しいは「神の賜物、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」この様でしょうか。例えば、私達の古い仕事は、汲み取りでした。とっても汚い、臭い、社会的に地位の低い仕事でした。それとして、新しい仕事とは、バラ園の中の仕事です。綺麗で、香りの良い、優雅(ゆうが)な職場です。しかし、時々、私達はその古い仕事をしたいと思って、汲み取りの働きをしばらくします。そして、バラ園に戻ります。洋服はくなるし、臭いです。そのままでバラ園の中で働く事が正しくない、ふさわしくないでしょう。もし私達の新しい仕事がレストランの台所でしたら、それはなおさらにひどいでしょう。首になるでしょう。又、ボスは、家に帰ってお風呂に入りなさいというでしょう。私達の天のボスが、洗礼の洗いと赦しを下さるように祈ります。

聖パウロは恥について話します。言います、「6:20 あなたがたは、罪の奴隷であったときは、義に対しては自由の身でした。6:21 では、そのころ、どんな実りがありましたか。あなたがたが今では恥ずかしいと思うものです。」日本では、恥は大変です。買い物に行く時、お母さんは子供を叱る時、「恥ずかしいよ」と言います。「皆があなたを見ますよ」と言います。子供さんよりもお母さんの方が恥ずかしいでしょうが、恥と名誉は日本の道徳の中で大きな力です。日本では、恥の為に自殺する人がいます、腹切りと切腹は、恥ずかしくない死に方と思われていました。聖パウロは、罪が恥ずかしいと言います。罪を犯す人に対しても、神様も私達に対して恥ずかしいと思うみたいです。ご自分の子供である私達が恥ずかしい事をする時、神様はご自分の子供の為にプライドを持つ事が出来ないでしょう。私達も自分の罪深い事の為にプライドを持てません、特に、その罪に捕(と)らえられた場合です。

それで聖パウロは人々が聖なる人となるようにと勧めるために、地獄の脅し(おど)も、恥の脅しについても言います。と同時に、人々が良い業をするようにと、永遠の命の約束についても語ります。永遠の命は私達がした良い働きの為ではなくて、十字架上で私達の為に死んで下さったイエス・キリストの働きによって、与えられるのです。その時、イエス様は最も恥ずかしい仕事をご自分の上に取りました。ご自分の上に、私達の罪の報酬(ほうしゅう)を取りました。十字架上の罪人の為に、プライドを持つ事が出来る人がいるでしょうか。鞭に打たれて、苦しめられて、ひどい死に方をされた人の為に、プライドを持つ事が出来るでしょうか。しかし、3日目にお墓から甦る救い主でしたら、プライドを持つでしょう。無償で永遠の命を下さる救い主でしたら、プライドを持つでしょう。

今日の福音書で、イエス様は12人の弟子達を宣教の旅に送りました。簡単な仕事ではありません。危ないです:迫害、逮捕、死刑もあります。イエス様は、心配しないように、恥と思わないようにと言われました。「10:24 弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。」 それは、もし主人が恥ずかしめられ、迫害されましたら、弟子達も同じようにされるでしょう。しかし、イエス様は約束します、私達が忠実な僕でしたら、私達の事を恥と思いません。「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。」即ち、イエス様は私達の事をプライドを持って、私達の為にボスに良い言葉を言って下さる事です。

あなたは、だれの為に働くでしょうか。私達の主人であるイエス・キリストの為に働きましょう!

アーメン。

マイケル・ニアフッド、牧師
沖縄ルーテル教会


説教のリスト

ルーテル教会の人である人々の歌:The Lutherans Song: http://jp.youtube.com/watch?v=102kvQ1dWoY