昨日の朝、地震がありました。目が覚めましたか。あれは確かに目覚ましでした。
前回イースターの日に、神様を信じた人に2通りの生き方があるとお話ししました。罪から解放されて自由になった。だから自分のしたいことをし、楽しく面白い人生を歩もうという生き方と、解放された自由な意思でキリストの僕、奴隷として、主がおっしゃることは何でもしようという生き方の2通りです。誤解を招く恐れがあるので改めて、お話しします。
クリスチャンとして、この2通りの生き方の、どちらでも良いわけではありませんから間違えないようにしてください。言いたかったことは、自由奴隷として主の命じられることは、気の進まないことでもしますという姿勢で生きて行きましょうということです。それが勝利の人生です。
一番目の生き方、神が何とおっしゃっているのかを、考えないで自由に生きるという生き方は、偶像崇拝であり、明らかな罪です。決して救われた人の生活ではありません。出エジプトしたのに荒野で滅びた人達は、そのような人達でし
た。そういう人達には何らかの形で神は警告をしてくださっています。体が弱るとか、良くないことが起きるとか。危うくケガをしそうになるとか。
思い当りませんか。それを無視して、そのままの生活を続けていると、どうなるでしょうか。
イエスは言われました。「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないともっと悪い事があなたの身に起こるから。」(ヨハネ5:14)
ですから自分の生活を省みてください。神から離れていないかと。
もし、神を信じていると言いながら神の警告を無視して、自分の思いに従って生きていると思う人には、自由奴隷となって主に仕える生活に改めることをお勧めします。さもないと間違いなく、行く手に災いが待ち受けています。それは罰ではありません。当然の結果です。
さて、今年はゼカリヤ書から学ぶように示されています。同時に、かつて神
が、この地域で神の国の建設を始めてくださったのに、一旦、完全に妨げられてしまったこと。そして神が約100年前に再開してくださったことも今、頓挫していることを見ました。そして、それは神の都エルサレムと神殿の再建のあり様に似ていると神は示されました。
イスラエルの民の不従順が原因で、エルサレムと神殿が破壊されました。しかし神は定められた時に、ペルシャ王クロスを動かして勅令を出させ、それによって心を動かされた人達が、ネヘミヤやエズラに導かれて、捕囚の地から帰り、エルサレムの城壁と神殿の再建を始めました。ところが、それを快く思わない周りの人達の妨害により頓挫してしまったのです。
それが、この地域の姿に似ていることを示された上で神は、ゼカリヤ書から、私達に何を語り、何を呼び掛けておられるのかを学ぶようにと言われました。
神は、まず「わたしに帰れ」とおっしゃいました。そこで神に帰るとはどういうことかを学び、それは罪に死に恵みに生きることであり、そのためにはどうすれば良いのかを確認しました。
それこそ先ほど言った一番目の生き方から、二番目の生き方に改めよと言われていま
す。
さて今日のメッセージの題を「時はまだ、か」としました。それは、今はそんな時ではないだろうとか、それは我々の仕事ではないと、もし思っているとしたら、今日の個所
は、そんな私達に対する神の問いかけになるからです。
私達は、まだ、その時ではない。私達には力もない、こんなに小さなグループだと考えているかもしれませんが、本当にそうかと神は問うておられるのです。
山口県にある厚狭教会は、私達を含めて15人ほどの教会でしたが、それでも神が厚狭教会を用いようとしておられることを受け止めて、とりあえず4年間、私達を宣教師として送り出すと決めました。そして結局、私達がこの教会に召されるまで15年間支援を続けることができました。しかも、その間に何人かが洗礼を受け、礼拝出席も倍くらいになりました。1年半前にバスを貸し切って来られ、ここで一緒に礼拝したことを覚えている方もいらっしゃるでしょう。
だから弱いとか小さいとかというのは関係ありません、むしろ神は小さい者を選ばれるのです。
今日ギデオンの働きについて伺いますが、ギデオンその人も、「私の分団はマナセのうちで最も弱く、私は父の家で一番若いのです」(士師6:15)と言いました。
今週の聖句にローマ人への手紙2:28〜29を上げました。週報またはスクリーンをご覧ください。「外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上の、つまり、体の割礼が割礼なのではありません。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れ
は、人からではなく、神から来るものです」と教えられています。
それは人種的なイスラエル人が神の目にイスラエル人なのではない。つまり洗礼を受けたとか教会のメンバーであるとかという形ではなく、もちろんそれも大事なことですが、御霊によって心が新しくされている人がイスラエルであるという意味です。
つまり、罪を悔い改めて十字架の赦しをいただき、心が神に向いているならイスラエルです。
ではイスラエルであることの意味は何でしょうか。その言葉は「彼は神として支配される」という意味です。そこから「彼は勝利される」という意味も出てきます。彼というのは、「わたしはある」とおっしゃる方、私達が神とお呼びしている方です。ですからイスラエルであることの意味は、その全能である方を自分の神として、その支配のもとにいることです。つまり神の御命令に服従している人がイスラエルです。だから神の御心ではなく、自分の意志に従っている人、一番目の生き方をしている人はイスラエルとは言えません。主のしもべがイスラエルです。
私達の神が、全世界、全宇宙の神として支配される、そして全てのものに対して勝ちを収められるのですから、主のしもべは支配者の側にいます。勝ちを収めるのです。
皆さんの生活にも色々な戦いがあります。しかし、その戦いは神の戦いです。神が闘ってくださるのです。しかも神は常に勝利を収められますから、私達は勝ちます。私達には戦いの全体を知ることはできませんが、今も続いている戦い
は、すでに私達の勝利が決定しています。
人生には苦しみが伴いますが、勝利が決定している戦いから逃げ出したらどうなりますか。苦しいからといって、あるいは自分には他にしたいことがあると、勝利チームから抜けてしまったらどうでしょう。その人は勝てません。戦いの苦しい部分だけ経験して、勝利の喜びを自分のものにすることができないのですから、みじめです。
忍耐して留まっていれば、すでに勝ちは決まっているのですから、いずれ勝利は自分のものです。私達のチームは既に勝利の栄冠を得ているのです。見えないだけです。
でも逃げてしまったら、……勝利の栄冠も私達の手から逃げてしまいます。
もう一度スクリーンを見てください。ローマの2:29の最後に「その誉れは神から来るものです」とあります。神が収めておられる勝利を私達がいただくのです。忍耐しましょう。助け合い、励まし合いながら日々の戦いを戦い抜きましょう。そして勝利を共にしましょう。
さて、長く間が空いたので確認の意味で以上を、お話ししました。
今日はゼカリヤ書ではなく、ハガイ書を読んで頂きました。ゼカリヤ1:1は「ダリヨスの第2年の第8の月に、イドの子ベレクヤの子、預言者ゼカリヤ
に、次のような主の言葉があった」と記しています。そしてハガイ1:1は「ダリヨス王の第2年の第6の月の1日に、預言者ハガイを通して」とあります。紀元前520年のことです。
2人の預言は2か月しか違いません。彼らは同じ時期に同じ場所つまりエルサレムで預言活動をするようにと神に召されました。同時に2人の預言者を遣わされたことが聖書に記録されているということは、彼らの伝えたことはとても大切なことだと神が考えておられるということです。
神は彼らを通して2人の指導者に語りかけておられます。シェアルティエルの子ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュアは神殿再建の中心になった人達で
す。彼らは神の民として再出発しようとしていた人達の政治的指導者と宗教的指導者でし
た。
シェアルティエルの子ゼルバベルと言われていますが、この親子の名はルカの福音書3:27の主イエスの系図に、それぞれゾロバベル、サラテルとして登場します。つまりゼルバベルは主イエスの血統上の先祖です。読みが違っているの
は、旧約聖書ではヘブライ語で書かれ、新約聖書ではギリシャ語で書かれているため、音読みの違いです。
さて、今日の個所で主は何と言っておられるでしょうか。
「預言者ハガイを通して、シェアルティエルの子、ユダの総督ゼルバベルと、エホツァダクの子大祭司ヨシュアとに、次のような主の言葉があった。万軍の主はこう仰せられ
る。この民は、主の宮を建てる時はまだ来ない、と言ってい
る。」
4節。「この宮が廃墟となっているのに、あなた方だけが板張りの家に住むべき時であろうか。」この部分は新共同訳の方が分かりやすいかもしれません。こう書いてあります。「今、お前達は、この神殿を廃虚のままにしておきながら、自分達は板で張った家に住んでいて良いのか。」
自分が何をしているのか良く考えなさいと神は言っておられます。
5節を新改訳は「あなた方の現状をよく考えよ」と訳し、新共同訳では「お前達は自分の歩む道に心を留めよ」と訳しています。このままで良いのか、お前の歩んでいる道は正しいのかと神は迫っておられます。そして6節で「あなた方
は、多くの種を蒔いたが少ししか取り入れず、食べたが飽き足らず、飲んだが酔えず、着物を着たが暖まらない。かせぐ者がかせいでも、穴のあいた袋に入れるだけだ」と神は言われます。
つまり、お前達の労苦は報われず、満ち足りることもない、すべてにおいて事欠く有様ではないかと指摘され、そして畳みかけて7節で、もう一度「あなた方の現状をよく考え
よ」と言われます。
9節〜11節にも6節と同じような状況が描き出されます。労苦が多く収穫が少ない、満たされない生活です。
なぜだと思うかと主は問われ、「それは、廃墟となったわたしの宮のためだ。あなた方が皆、自分の家のために走り回っていたからだ」と言われました。主の宮の再建をなおざりにし、自分の生活のためだけに走り回っているからだと言われたのです。
自分の生活のために走り回るのをやめ、わたしが計画している働きを行えと主は言われるのです。私達に。私達は主の言われることよりも自分の生活を第一に考えています。
そうではなく「山に登り、木を運んで来て、宮を建てよ。そうすれば、わたしはそれを喜び、わたしの栄光を現わそう」と言われます。神殿を建てれば、神は喜んで、栄光を表わされるのです。
神殿つまり神の家が荒れ果てたままで住む所がないので、お困りになるから早く建てるようにとおっしゃっているのでしょうか。
そうではありません。神は自分の神殿がほしいと言っておられるのではありません。彼らが建てることになる神殿とは比べ物にならないほど素晴らしい神殿を建てたソロモンは次のように言っています。
「神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。実に天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なお更のことです。」(T列王8:27)「天も、天の天も主をお入れできないのに、一体誰が主のために宮を建てる力を持っているというのでしょうか。」(U歴代2:6)
神は全宇宙の主であり、宇宙に存在するものは全て神によって造られ、支えられています。全ては神のものです。ご自分の神殿がほしいからといって神は神殿を建てるように言っておられるのではありません。
では何のために神殿を建てるように言っておられるのでしょうか。
「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。」(出エジプト記25:8)神は、こう言われたのです。「わたしは、あなた方と一緒に住みたい。私が、あなた方と一緒にいることが、あなた方によく分かるように、あなた方自身のために宮を建てよ」と神は言われるのです。
私達は、この世での務めが終わると天の国に帰ります。その時の様子を黙示録21:3は次のように言っています。「見よ。神の幕屋が人と共にある。神は彼らと共に住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らと共におられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。」
つまり神殿、幕屋、聖所は、神が私達と共に住んでくださる場所です。御言葉に従うなら、神は私達と共に住んでくださいます。死んで天国に行くのを待つ必要はありません。
マタイ1:23を読みますから、お聞きください。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私達と共におられる、という意味である)」
後に神からイスラエルという名を頂いたヤコブは、兄のエサウに命を狙われて逃げる時に、神から約束をいただきました。「見よ。わたしはあなたと共にあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そ
う。」(創世記28:15)
主イエスは天に帰られる前に私達に一つの大切な命令を残していかれました。
「わたしがあなた方に命じておいた全てのことを守るように教えなさい。見
よ。わたしは世の終わりまで、いつも、あなた方と共にいます。」(マタイ28:19〜
20)
主イエスは、一緒に十字架につけられた犯罪人の一人に何と言われたでしょうか。
「まことに、あなたに告げます。あなたは今日わたしと共にパラダイスにいます。」
神は私達と共にいてくださいます。主イエスは私達と共にいることを望んでおられま
す。
「見よ、わたしは戸の外に立って叩く。誰でも私の声を聞いて戸を開けるな
ら、私は彼の所に入って、彼と共に食事をし、彼も私と共に食事をする」(黙示録3:
20)と主は言われます。
私達の心の戸を開けさえすれば主は入ってくださいます。この食事は私達が用意するのではありません。ピザの配達ではありませんが、主は入ってくださる時に食事をもってきてくださるのです。この食事は主が用意してくださる食事で
す。そして食事は親しい交わりを意味します。
私達がお招きに応じさえすれば、共にいてくださる。それがお約束です。そのために神殿を再建するように言われ、私達には神の国、神の共同体を建設するように言われているのです。
ハガイとゼカリヤが神の御言葉を伝えた時、ユダヤの人達はどうしたでしょうか。
「シェアルティエルの子ゼルバベルと、エホツァダクの子、大祭司ヨシュア
と、民のすべての残りの者とは、彼らの神、主の御声と、また、彼らの神、主が遣わされた預言者ハガイの言葉に聞き従った。民は主の前で恐れた」(1:12)と書かれていま
す。そして彼らは立ち上がりました。
彼らの姿を見て神は言われました。13節「わたしは、あなた方と共にいる。」
私達が神に従う時、神は共にいてくださり、祝福し、与えられた任務を果たさせてくださいます。
私達も立ち上がりましょう。
岡山県赤磐市桜が丘西1ー7ー9
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片山 進悟 牧師
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