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毎週日曜の集会

☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆

各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
消毒を行ってください。
 発熱のある場合は集会出席を控えてください
・受付で検温し、受付簿に記名と検温結果を記載
願います。

・礼拝堂の人数は15名までとし、超過した場合は
食堂などへ分散します。
・礼拝は10:30-11:15と時間を短縮します。
・席については前後左右を空けるようにし、
1テーブルにつき1名が座るようにします。
窓やドアの開放に加え、換気扇と扇風機により
常時換気を行います。
・各テーブルに週報を置きますので、その位置に
着座してください。
 ↓白紙で例示しました  飛沫防止用のアクリル板
       
・各自水筒などを持参し、水分補給してください。

昼食や午後の集会は当面見合わせます。


 
9:30〜9:45  教会学校
(乳幼児から中高生が対象)月刊誌「ハッピー月号掲載
 
10:30〜11:15 礼拝
  
7月25日聖日伝道礼拝
説教題
「いのちなるキリスト」   
聖書箇所

ガラテヤ2章20節


7月18日聖日礼拝
説教題
「パウロの祈り」   
聖書箇所

エペソ3章14〜21節

この3章に書かれているパウロの祈りは、とりなしの祈り(互いの
ために祈りなさい。ヤコブ5:16)です。どのようなとりなしの祈りだっ
たのでしょうか。先ずパウロの祈りの姿勢から見ていきたいと
思います。
@パウロの祈りの姿勢(14?15、20~21)
「私はひざをかがめて〜父の前に祈ります」とあります。ここから
パウロの信仰が見えてきます。父なる神の前に屈服し「栄光が、
世々にわたって、とこしえまでありますように」と、神に栄光を帰し
ています。神の前に襟を正し、へりくだった思いと同時に、全ての
者の父としての神を信頼しているパウロの信仰が、祈りの言葉と
なっていることがわかります。
A個人に対する祈り(16~17a)
 新しい心、生き方を与えられたクリスチャンとして「内なる人を強
くしてくださいますように」つまり、罪と悪に打ち勝っていけますように。
その為にも一人一人の心に、イエス・キリストが住んでくださいます
ように、という祈りです。イエス様が住んで(永住)下さる時、私たちの
心は常にイエス様のことばによって、生かされていくのです。
様々な罪、悪魔にも打ち勝ち、また多くの悩み、悲しみにも勝利、
感謝が与えられるのです。イエス様に知られたくない心の部屋は
ないでしょうか。自分の心、どこにでもイエス様がおいでになって
も大丈夫でしょうか。日々新たな思いで「イエス様、私の心におい
でくださり、日々新たに力を与えて下さい」と祈る者とならせていた
だこうではありませんか。
B教会に対する祈り(17b~19)
 「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」とは、イエス様の愛に生
きるということです。私たちが一人も滅びないようにご自分の命を
捨てて下さったほどの愛によって生かされているクリスチャンは、
「すべての聖徒とともに」…教会において、神の愛の広さ、長さ、
高さ、深さを理解する事ができますように。個人的にでなく「ともに」
が大切なのです。教会は、ともに神の愛をお互いが理解できるよ
うに、祈り支え合っていく。そして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、
私たちが霊的にも成長していくことが大切であることがパウロの祈り
からも伝わってきます。
クリスチャンが表面的な一致によって助けを求めることをやめ、
キリストへの変わることのない献身により、神の御座のもとに一つ
になることを求め、神の御霊の力を求めてやむことのないとりなし
をしていくとき、教会は美しい衣を身にまとい、力をつけ、世に打ち
勝つのです。(アンドリュー・マーレ―「とりなしの奥義」より)

7月11日聖日礼拝
説教題
「アテネ伝道

    〜知られない神に〜」
聖書箇所

使徒の働き17章16〜28節

シラス、テモテよりもひと足先にアテネに着いたパウロが見たもの。
それは多くの偶像であり心に憤りを感じ(心を傷め)ました。アテ
の状況とそれに対するパウロの対応を見ていきたいと思います。
@アテネの状況(16〜21節)
 アテネは、エピクロス派とストア派の哲学者もいて、人々は何か
耳新しいことを話したり、聞いたりして過ごしていました。ゼウスの
神を中心とした12人の神がいて、その他に何千何百という神々が
いる多神教の国家でした。その神々が、人間と同じように罪を犯す
とゼウスが罰を与えるのでした。この宗教は人々に善と悪、命と
死の問題に対して、真の解答を与えることが出来ず、人々は哲学
に自分の思いを向けたり、生きる真の目的を追い求めことでしょう。.
自分たちが拝んでいない神がいないように、拝まなかったゆえに、
その神から復讐されないよう自分が知らない神「知られない神に」
といった祭壇まで築いたのです。

Aパウロの対応 (22〜31節)
 パウロが見(観察し)て、アテネの状況を把握してとった対応は
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と真の
救い(イエスと復活)を語ることでした。キリスト教の神は@造られ
た神でなく、創造主であること。A神は万物を支配している。つまり
私たちは神によって生かされていること。B神は正しい裁きを行う
方であるから、悔い改めることを教えました。しかし、イエスの
十字架と復活の話を聞いて、あざ笑ったり、またいつか聞くことに
しようと「信じる」ことを延期したりする人々がいました。しかし、
その中にあって信じる人々もいたのです。

パウロのアテネにおいての伝道は、失敗したかのように感じますが、
神様は「信じた人々」を祝福して下さり、時を超え今、ギリシャには
多くのキリスト教会があります。私たちも、現実の状況を見た時、
傷めた心を祈りに変え、真の救いについて語る者とならせて
いただこうではありませんか。

 
7月4日聖日伝道礼拝
説教題
「川辺での出会い」
聖書箇所

使徒の働き16章6〜15節

「川辺での出会い」が、ヨーロッパ最初の教会:ピリピ教会
へとつながっていきます。パウロは、イエス様に出会って
から、多くの人々にもこの救い:福音を伝えたい!と伝道旅行
に3回、出かけます。今日のピリピでの伝道は、2回目の伝道
旅行における出来事です。「川辺での出会い」に至るまで、
どのような道筋だったのでしょうか。
@神の導きがある(6,7,10節)
 パウロ達は、アジヤ(今のトルコ)に行きたいと思って
いましたが、神(聖霊,イエスの御霊)の導きによって予定が
変わりました。閉ざされた理由は書かれていませんが、自分
たちの計画が進まない何か理由があったと思います。その旅
の途中で幻を見ます。マケドニヤ人が「私たちを助けて下さ
い」と懇願したのです。そこでパウロ達は今まで、自分たち
の計画が進まなかったのは、「神が私たちを招いて、彼らに
福音を宣べさせる」ためであったことが分かり、神の導きで
あることの確信へとつながったのです。「あなたの目はあな
たの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、
あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言う
ことばを聞く(イザヤ30:20,21)
A救いがある(15節)
 ユダヤ人は10名程集まるとシナゴーグという会堂を作りま
すが、それ以下だと水辺で祈り会をします。その祈り会の中に
王族、貴族に高級な生地を納品する商人であり、神を敬うルデ
ヤがいました。神はルデヤの心を開いてくださり、パウロの語
る事、福音に心を留めるようにされたのです。そこで、ルデヤ
は心に留めるだけでなく、信じてバプテスマを受けました。
その喜びが家族の救いへとつながったのでした。さらに「私の
家にお泊りください」とパウロ達に申し出ます。ルデヤの喜び、
熱心さによって、パウロ達のこの町における住まい、拠点…
ピリピの家の教会として用いられ、ピリピ教会の礎となった
のです。 
 パウロ達のように、私たちも日々主と共に歩む中で、自分が
歩むべき道に導かれるのです。そして、これこそ神の導きであ
ることを確信し、また人、出来事と出会うこところには必ず
救いへの道があり、ルデヤの救いがピリピ教会の礎となった
ように、大いなる祝福が備えられているのです。

6月27日聖日伝道礼拝
説教題
「クリスチャンの喜び」
聖書箇所

ローマ5章1〜5節

 パウロはユダヤ教の「最も厳格な派に従ってパリサイ人として
生活(使徒26:5)」をし、イエス様の弟子達に対する「激しい怒りに
燃えて、ついには国外の町にまで彼らを迫害(使徒26:11)」してい
ました。キリスト者迫害運動で活躍していたパウロ(サウロ)の生涯を
通して「クリスチャンの喜び」を具体的に見ていきたいと思います。
@神との平和を持っている(ローマ5:1)
 サウロはいつものようにキリスト者を迫害しようと道を進んで
いる時に、天からの光に照らされます。「なぜわたしを迫害する
のか」と復活されたイエス様の声を直接聞いたサウロは、目が見え
なくなります。そこで衝撃を受けたサウロは自分のしてきたことを
振り返り、悔い改めへと導かれます。悔い改めることによって神
との関係が回復したパウロは「神との平和を持っている」と確信
して告白できたのです。また「神の栄光」、つまり神と共に生きる
ことが大いなる喜びとなったのです。。
A神の愛が私たちの心に注がれている(ローマ5:5)
 「患難さえ喜んでいます。〜患難が忍耐を〜忍耐が練られた
品性を〜練られた品性が希望を生み出す(ローマ5:3~5)」のです。
パウロは、伝道であまり成功しない時、共に励んでいたバルナバや
ペテロとの対立。伝道中の投獄だったり、教会内の問題が起き
たり…ある本では「苦難の連続でした」と紹介されています。その
ような患難も喜びにつながるのは、患難を歓迎しているのでも、
自分が強い人間であることを誇示しているわけでもないのです。
そのような患難の中にあっても、喜びを与えて下さるキリスト・イエス
を崇めているのです。
神の愛が心に注がれている…パウロが力強く語っているのも、
パウロ自身が神の愛を感じないではおられなかったことが伝わって
きます。
 クリスチャンの喜びは、「神との平和を持っている」「神の愛が
私たちの心に注がれている」からです。礼拝を通して、日々聖書を
通して神のことばを聞くことによって、またこの自然界を通して、
人を通して神の愛は確かに、注がれているのですから、
神の愛に押し出された人生を歩みだそうではありませんか!

6月20日聖日礼拝
説教題
「主なるクリスチャン」
聖書箇所

ピリピ4章1〜7節

パウロとシラスの伝道によってできたヨーロッパ最初の教会が、
ピリピに誕生しました。その後ローマに捕らわれ、獄中にいる
パウロにピリピの教会から近況報告と心からなる献金が届きます。
その礼状として書かれたのが4章になります。
神様がパウロを通して教会においてのクリスチャンのあり方を
見ていきたいと思います。
@主にあってしっかりと立つ(ピリピ4:1)
 パウロにとって喜び、冠は、ピリピの教会の方々が、イエス様を
救い主と信じる信仰でした。イエス様を救い主と信じて「しっかりと
立つ」とは、イエス様との生きた交わりがあるということです。生きた
交わり、イエス様のことばを日々聞いて、応答する関係です。
その中で、信仰が揺るがされず、しっかりと立つ者とならせて
頂けるのです。
A主にあって一致する(ピリピ4:2)
 一致するとは、機械的に同じ思いになる、ということでは
ありません。かと言って、各自が自己中心にする!という事でも
ないのです。「主にある」この言葉が鍵になります。主の思いを
求める、つまり「主のことばに立ち帰る」ことです。この時、私た
ちは主の前にへりくだり、相手の思いを寛容な心で受け止め、
一致へと展開していくのです。 一致することによって福音を
広めるために、お互いに真の協力者となることができるのです。
B主にあっていつも喜ぶ(ピリピ4:4)
 いつも喜ぶ、寛容な心を示す、思い煩わない勧めがあります。
勧めがある、ということはそれが「なかなかできない、難しい」
ということです。その中、クリスチャンが「できる」秘訣は、
神の平安が私たちの心をキリスト・イエスにあって守ってくださる
からです。
主にあって…救い主イエス様との生きた交わりがあるからこそ
「しっかりと立つ、一致する、いつも喜ぶ」時が与えられるのです。
神様から与えられている教会生活を、私たちは「主にある
クリスチャン」であることを感謝しつつ、自覚しつつ送らせて
頂こうではありませんか!

6月13日聖日礼拝
説教題
「神のことば」
聖書箇所
へブル4章12〜16節

イザヤ55章10〜13節
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰に
よる救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の
霊感によるもので〜(Uテモテ3:15~16)」。 キリスト教では、聖書
を「神のことば」と信じています。神のことばを信じて生きる時に、
神の祝福が実現していくのです。それはなぜでしょうか。
@必ず成し遂げ、成功させてくださる(イザヤ55:11)
 「光があれ」と、神が言われた時に光があり、この宇宙、地球…
ついには、人間を創造されたのです。神のことばによって命が与
えられたのです。命、神の祝福そのものではないでしょうか。神
のことばは、生きていて、力がある(へブル4:12)。つまり「生き
ている」…命があり「力がある」…物事を起こして下さるのです。
人間の目では不可能なことでも、神の前では可能なのです。
神のことばは「必ず成る、成功する」ことを信じ通すことが、神の
祝福につながるのです。
A安らかに導く(イザヤ55:12)
 この「安らかに」には、喜びが伴うのです。神は私たち以上に、
私たち1人1人の心の思い、状態をご存知です。「神の前では隠れ
おおせるものは何一つないのに〜弁明するのです(へブル4:13)」
これが人間の無力さ、罪の姿なのです。しかし、このような罪深
い私たちに与えられているのが「大祭司である神の子イエス」です。
罪赦された喜びを土台として安らかに日々、導かれていくのです。
B永遠のしるしとなる(イザヤ55:13)
 「いばらのかわりにもみの木、おどろの代わりにミルトスが生える」
とは、解放される、救いの結果、大祭司イエスがおられる。神の栄光
があらわされているのです。神のことばによって生かされた、新しい
いのち、生きる力が与えられたことが「永遠のしるし」として残される
のです。
日々の生活において神のことばを信じ、神の祝福のただ中に
生きる者とならせて頂こうではありませんか。


6月6日聖日礼拝
説教題
「愛ゆえの任命」
聖書箇所
マルコ3章13〜19節
 イエス様は12弟子を使命しました。その目的はイエス様の
そばに置いて教育訓練し、派遣して十字架の福音を宣べ伝え
させ、悪霊を追い出すことでした。
 私たちもイエス様を信じる時、この世の立場や職業が何であれ、
この12使徒のように使命が与えられます。それはキリストの
福音をこの世に証言すること。そして心に不自由を覚え、罪に
悩み、慰めを必要としている人々に自由と解放と慰めとを与える
ことです。

 しかし、イエス様が任命された12人は、この世の価値基準では、
最初から意見や社会的立場の対立、性格上の問題がありました。

 なぜ、イエス様はこうした彼らを任命したのでしょうか。そこには
イエス様(神)のご計画と深い愛がある。イエス様は彼らと寝食を
共にし、不完全で未熟な彼らを訓練し、取り扱われた。彼らも
イエス様を愛し、そのみことばに聞き従いました。イエス様はそう
した彼らに力を与え、性格を補い、神の器として用いて下さった
のです。

 彼らがイエス様に従っていく姿は、教会の姿を指しています。
12弟子の集まりは「小教会」です。神は仲間との出会いを愛し
やすい形で用意していません。最も愛しにくい人と、愛しにくい
状態で出会う。そして交わり、一緒に過ごしていく。これをイエス様
が実際にお手本を見せて下さったのです。

 私たちもイエス様を愛し従っていく時に、性格すら取り扱われ、
何の誉れもない者をも神の器としてこの現代に用いて下さいます。
私たちがイエス様と共に歩む時に、キリストにあって一つとなって
いくのです。


5月30日聖日礼拝
説教題
「イエス様から目を離さずに」
聖書箇所
マタイ25章1〜13節
 このユダヤの婚礼のたとえでは、主イエスの再臨を待つ者の
心構えを教えています。「ともしび」(1節)とは信仰。「花婿」(1節)
とはイエス・キリスト。「10人の娘」(1節)は私たち一人一人。「油」
(3節)とは聖霊のことを指しています。

 ユダヤでは先ず花婿が花嫁の家まで迎えに行き、共に花嫁を
連れ帰って結婚式を挙げました。式が一週間ほど続きました。
このたとえでは、花嫁の家では友達が10人出迎えに出た時の
光景が示されています。

 イエス様はこのたとえを通し、私たち一人一人に「油の用意が
出来ているか」を問うています。花婿が来るのが遅いので、10人
の娘はみなうとうとし始めました。しかし、普段から予備の油を
持っている娘は「賢い」と言われています。

 油を持つとは聖霊に満たされることです。そのためには、
普段から御言葉によって心が満たされていなければなりません。
かつて信仰を持って救われ、喜び、信仰のともしびが輝いて
いても、途中で油が尽きてしまうと愚かと言われ、天の御国
(天国)に入れなくなってしまうのです。イエス様から目を離さずに
いることが大切です。

 戦前から当教会を巡回して下さった故井上馨師がこのような
メッセージを残されています。
 「私たちにとって問題なのは、主がいつ来られるかではなく、
今、私たちは主にお会いする準備ができているかということです。
…今という時は私たちにとっては、恵みの時です。今日という日
は救いの日です。」

 
5月23日聖日伝道礼拝
説教題
「悔い改めとバプテスマ」
聖書箇所
使徒行伝2章36〜39節
☆毎月第4日曜日は、はじめての方向けに伝道礼拝を
  行っています。どなたでもお気軽にご参加ください。

 イエス様は、弟子たちに「父(神)の約束(聖霊降臨)を待ちな
さい」と言われました。弟子たちは、イエス様が昇天された後、
一つ所に集まって、祈りに専念していると、父の約束「聖霊降臨」
の時が与えられました。助け主「聖霊」が与えられると、弟子たち
は多くの外国の言葉で、イエス様から教えられたことを伝え始め
ました。そして、教会が誕生していったのです。教会が誕生する
まで、どのような展開があったのか見ていきたいと思います。

 人を恐れて、イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロも、
声を張り上げ、はっきりと「イエスを、あなたがたは十字架に
つけたのです」と大胆に語りました。人々はそれを聞いて、心を
刺され「私たちはどうしたらよいでしょうか」と問いかけました。
ペテロはそこで「悔い改めなさい」「バプテスマを受けなさい」と
伝えました。

@悔い改め…イエス様にお会いする
 自分の姿に気づかされ「この状態から救ってください」と、
今までの自己中心的な生き方から、神様に生かされる生き方に
方向転換することです。私たちを完全に救ってくださるイエス様に
お会いすることが、悔い改めなのです。

Aバプテスマを受ける…聖霊の恵みを受ける
 神様と人の前で「主は私の救い主」であると告白するのが、
洗礼式、バプテスマです。バプテスマを受けると、助け主であら
れる聖霊が与えられ、聖霊の恵みを体験することができるのです。
聖霊は、私たちをイエスさまにお会いできるよう、私たちを導く
助け主なのです。「真理の御霊(聖霊)が来ると、あなたがたを
すべての真理(イエス様)に導き入れます。(ヨハネ16:13)

 一人一人が、イエス様にお会いする時、聖霊の恵みを受け、
平安・喜び・確信が力となり、自分がお会いした「わたしの
イエス様」を伝えていくことによって、教会が誕生していったのです。
 日々新たに、イエス様にお会いし、聖霊の恵みに満たされて、
イエス様の証人として生かされることを、共に喜び感謝していこう
ではありませんか。


5月16日聖日礼拝
説教題
「賛美の勝利」
聖書箇所
U歴代誌20章14〜30節
 ユダ王国ヨシャパテ王の時代、モアブ人、アモン人、セイル山の
人々が、おびただしい軍団で攻めてきました。この戦いは、どの
ように展開していったのでしょうか。

@ただひたすら主に求めた
 ヨシャパテは恐れを感じた次の瞬間「ただひたすら主を求め」
たのです。何か作戦を立て直したりするのでなく、全国の人々に
断食を布告し,主に助けを求めたのです。そこには幼子、妻たち、
子どもたちも共にいたのです。この戦いは、心を1つにして主に祈る所から始まっていったのです。

A神の言葉を信じた
 主の霊がヤハジエルに臨み、ヨシャパテ王達の祈りに答えられ
ました。「恐れてはならない」「気落ちしてはならない」「神の戦い
である」「動かずにいよ」「主の救いを見よ」「主はあなたがたと
ともにいる」と。
 神の言葉を聞いたヨシャパテは地にひれ伏しました。人々も
みな、地にひれ伏し、主を礼拝したのです。このひれ伏した、
主を礼拝した、という姿からも「神の言葉を信じた」という確信に
満ちた力強い思いが伝わってきます。

B賛美したその時に勝利した
 戦いが終わっていないのに、大声を張り上げて賛美したのです。
「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と喜びの声、賛美の
声をあげ始めた時、敵の人々は打ち負かされたのです。敵同志の
間で、互いに力を出して滅ぼしあったのです。その分捕りをする
のに3日もかかるほど多くの武具、高価な器具などがありました。
 4日目、ベラカの谷(賛美の谷)で、主をほめたたえました。この
戦いを聞いた地のすべての王国が、神の存在を思わざるを
えませんでした。

 このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏で神は、周囲の者
から守って、安息を与えられたのです。

 今を生きる私たちにとって、また自分にとって「敵」とは何で
しょうか。敵、自分を滅ぼそうとする人、出来事、病、言葉…と
ありますが、1番の敵は自分自身の心の奥深いところにあるの
です。恐れを感じたその瞬間、私たちもまず、祈りによって賛美の
勝利を得る者とならせて頂こうではありませんか!


5月9日聖日礼拝
説教題
「わたしを通してでなければ」
聖書箇所
ヨハネ14章1節〜11節
 最後の晩餐において「主よ。どこにおいでになるのですか」
「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか」と
動揺し、心騒いでいる弟子達に「あなたがたは心を騒がしては
なりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われた
イエス様。さらに「わたしは場所(天においてのすばらしい場所)を
備えに行くのです〜わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
と。しかし弟子のトマスは「私たちにはわかりません」と言いました。
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、
いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父の
みもとに来ることはありません」(6節)
 どうして、イエス様を通さなければいけないのでしょう。

@道である…贖いの道を与えてくださった
 先ず、神様と人間の関係は罪によって崩されてしまっている
のです。そのために、イエス様は十字架の死を通して、神様と
人間の関係を回復してくださったのです。
 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちの
ためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(へブル
12:20)

A真理である…イエス様の生き方に現わされている
 ことば=神様=イエス様(ヨハネ1:1,14)であり、これこそ
永遠に変わらない真理、そのものです。イエス様の生き方から
真理を学ぶことができます。
「〜わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが
来ます。」(マタイ11:29)

Bいのちである…永遠のいのちが与えられる
 いのちは、私たちに欠かせない原動力です。この地上だけで
なく、新しい天と地につながる永遠のいのちなのです。永遠の
いのちは、私たちの平安、喜び、希望、感謝につながるのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、
死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 日々の生活の中で、道であり、真理であり、いのちであって
くださるイエス様を、ただ信じる者とならせて頂きましょう!信じる
時に、神様のわざが始まっていくのです。


5月2日聖日礼拝
説教題
「主の日を待ち望む」
聖書箇所
Uペテロ3章1節〜13節
 「主の日」とは、昇天されたイエス様が、再びこの地上においで
下さる「再臨、神の日、神の約束」の時です。その時、イエス様を
救い主と信じる者は、新しい天と新しい地(13節)が与えられますが、
この天の万象は、焼き尽くされるのです(10,12節)。かつてノアの
時代、罪(自分の欲望のままに生きる)ゆえに水で滅ぼされた
ように、次は火で滅ぼされるのです。
 私たちは、どのようにして「主の日を待ち望め」ば、よいので
しょうか。

@知るべきこと(3節)
 キリストの来臨の約束はどこにあるのか…と、あざける者の姿を
通して「今こそ世の末である」と捉えること。まだイエス様は来られ
ない!ではなく、「今こそ」と日々、このことを見据えて生活する
ことが大切です。

A見落としてはいけないこと(8節)
 主がいつ来られるのか、私たちは知ることができません。神様に
とって「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とある
ように、神様は、時間を超越されているお方です。このことを
見落としてはいけないのです。

B「忍耐深くあられる主」がおられる(9節)
 こうして、私たちが地上において、生活が与えられているのも、
神様の忍耐深さによるのです。すべての人が悔い改めに進む
ことを願っておられます。人を悔い改めに進ませるのは「神の慈愛、
忍耐、寛容」(ローマ2:4)です。

 私たちは、いつ「主の日」がきてもいいように、聖い生き方、
敬虔な人である(11節)ことを求めるようになります。それと同時に
「一人も滅びることがないように」と言う主の望みが、自分の望み
となり、伝道へとつながっていくのです。そして一人の魂が、滅び
から救われた時、神様が喜んでくださいます。神様の喜びが
私たちの喜びとなるのです。これこそ、神様の祝福そのものでは
ないでしょうか!!


4月25日聖日伝道礼拝
説教題
「平安が与えられる」
聖書箇所
ヨハネ14章27節
 イエス様は間もなくご自分が十字架にかかって、全人類の罪の
身代わりに死なれる時が近いことを悟られました。時が迫って
いる中で、弟子たちに語られたのは平安についてでした。

 イエス様の言われた「平安」とは、イエス様がこの世を去った後、
聖霊が与えて下さるキリストの平安(平和)のことです。なぜなら、
イエス様ご自身が「平和(平安)の君」(イザヤ9:6)だからです。

 イエス様の与える平安は、魂の平安のことです。これは罪を
犯して道を見失った者が、イエス様の十字架の血によって再び
神と和解させられたところから来るものです。
 イエス様は「心を騒がせてはなりません」と言われます。この
言葉は、私たちの外部には私たちをおびえさせる事柄が確かに
存在することを示しています。

 しかし、この世の平安と違うのは、どのような状況にあっても
決して失われず、奪われない平安なのです。これは置かれた
環境や私たちの心の状態によって左右されるものではなく、聖霊
によって与えられるものだからです。この平安は信仰を通して、
私たち一人一人に必ず与えられるのです。


4月18日聖日礼拝
説教題
「日々新たにされている」
聖書箇所
Uコリント4章11〜18節
 使徒パウロは、ギリシャのコリント地方に伝道するにあたって
命が危うくなるほどの迫害と苦難に遭いました。しかし、このような
中にあってもパウロは復活のイエス様を信じたことによって、
一つ一つの迫害や苦難を乗り越えることが出来たのです。

 パウロの死の苦難によって、かえってコリントの人々に福音が
伝えらえれ、魂が救われることになりました。宣教における誰かの
労苦が、後の世代の祝福になるのです。
 そして今や、信じる者の内側に与えられる聖霊によって、2千年
前と同じ信仰を今日も証しすることが出来るのです。

 神はイエス様を十字架の死からよみがえらせましたが、
イエス様を信じる私たちをもイエス様の再臨の際には、イエス様と
共によみがえらせて下さいます。そして、神の御前に恐れなく
立つことが出来、苦難に耐える力となるのです。

 信仰を通して復活の命が私たちの内側に与えられ、やがて
天国において永遠の栄光が与えられることを知らされました。
それゆえ私たち信仰者は勇気を失いません。私たちの肉体や、
生まれながらの人間性は衰えても、イエス様によって新しくされた
内なる人(新しい自分)は日々新たにされています。
 そうした私たちの究極的な目的は地上の楽しみでなく、天国に
おける永遠の栄光なのです。


4月11日聖日礼拝
説教題
「わたしの証人となる」
聖書箇所
マルコ15章1〜15節
 復活されたイエス様は、40日間使徒たちに現われ、神の国の
ことを語り、ご自分が生きていることを示されました。昇天される
前に語られたメッセージが「わたしの証人となる」ことでした。
 わたし…イエス様の証人となるとは、まず…

@復活されたイエス様にお会いする(3節)
 証人とは、事実を証明する人、経験した事実を証明する人の
ことを言います。私たちが経験した事実、それは「復活された
イエス様にお会いする」つまり、救いを信じる、イエス様を神の子と
信じることです。私たちが信じるために「数多くの確かな証拠を
もって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」たのです。
イエス様にお会いした経験、自分とイエス様の関係で与えられた
救い、平安、喜び…恵みを語り伝えていくことなのです。使徒たちが
語り伝えたゆえに、今こうして、私たちもイエス様に実際、お会い
していなくても、聖書を通してイエス様にお会いすることができる
のです。

A父の約束を待つ(4節)
 父の約束、それは聖霊(助け主)が与えられるということ(ヨハネ
14:16,26)です。人間の思い、力、情熱は、限度があります。
イエス様と一緒に死ぬことになっても、知らないとは決して言わない、
と力を込めて言ったペテロですが、実際にはイエス様のことを
「知らない」と3回言ってしまう(マルコ14:30,31)のです。この姿こそ、
私たち人間の姿なのです。ですから、私たちは父の約束、聖霊
降臨を待つことが大切なのです。

B再臨を待ち望む(11節)
 昇天されたイエス様は、使徒たちが見た時と同じ有様で、また
この地上においでくださいます。このことを再臨と言います。その時は
いつなのか、わかりませんが、この約束を信じて、私たちはこの
地上生涯を過ごすことが大切です。(新聖歌465)

 復活されたイエス様にお会いした人々は、「みな心合わせ、
祈りに専念」(14節)していました。私たち教会一同、心を合わせ、
祈りに専念し「わたしの証人」として、生かされて頂こうではあり
ませんか!


4月4日聖日礼拝
説教題
「わたしの平安」
聖書箇所
ヨハネ21章1〜14節、14章27節
 一人の罪びととして死んでくださったイエス様。私たちを滅びから
永遠のいのちへと救うために、人の子として働きを成し遂げて
くださったイエス様。十字架の死から3日目、イエス様は蘇られた
のです。それから、イエス様は弟子達の前に現われました。
お姿を見せられて、今回は、3回目。イエス様が与えてくださった
「わたしの平安」について、復活されたイエス様のお姿から、
具体的に見ていきたいと思います。

@共にいてくださる(4節:イエスは岸辺に立たれた)
 漁で、何もとれずにいた様子を、イエス様は岸辺に立たれて
見つめておられました。しかし、弟子たちはそれがイエス様だとは
わからなかったのです。弟子たちの空腹を理解し「子どもたちよ」
とイエス様の親から子への愛のまなざしを思わざるを得ません。
 イエス様がおられることに気づかなかった弟子のように、私たちも
イエス様が、共にいて下さるのに気づかないのが人間の姿では
ないでしょうか。(詩:あしあと)

A教えてくださる(6節:船の右側に網をおろしなさい)
 弟子たちの必要を理解されているイエス様。必要の為に何を
するべきなのか、具体的にイエス様は教えてくださるのです。
イエス様の言われた通りに従った時、弟子たちは自分たちが
必要としていた大漁を体験しました。私たちも日々、聖書を通して
教えて下さるイエス様の言葉に従う者とならせて頂きましょう。

B与えてくださる(13節:彼らにお与えになった)
漁から戻った弟子たちに、イエス様は炭火の上に魚とパンを
すでに備えていて下さいました。私たちの必要を知り、すでに
用意して下さっているのです。そして、私たちに与えて下さるのです。

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた
にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、
世が与えるとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。ヨハネ14:27


3月28日聖日伝道礼拝
説教題
「完了した救い」
聖書箇所
マルコ15章25〜39節
 受難週に入りました。イエス様が十字架上で発せられたことばを
通して改めて、イエス様の「完了した救い」について学びたいと
思います。                  

@一人の罪びととして死んで下さった(34節)
 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
イエス様は、いつもなら「わが父よ」と神様に呼びかけていました。
それが「わが神、わが神」に代わっている…つまり、神様とイエス様の
関係が崩れたからです。イエス様が全人類の罪を背負って下さった
ゆえに。罪は、神様との関係を崩してしまうほどの恐ろしい存在です。
イエス様は、全人類を滅びから永遠のいのちへと救うために、
新しい救いの道を開くために、十字架で身代わりの罰を受けて、
一人の罪びととして死んで下さったのです。

A人の子としてのお働きを成し遂げて下さった(37節)
 ヨセフ、マリヤの子として30年間過ごされ、伝道されたのは3年間
でした。しかし、その短期間の中でも、イエス様の救いを実現したい!
という情熱は伝わってきます。十字架を前にして「この杯(十字架)を
わたしから取りのけて下さい」「今わたしの心は騒いでいる」と言われ
ています。しかし、イエス様は十字架を決意して、進んでくださいました。
 どのような苦しみ、痛み、悲しみのただ中にあっても、神様の思い
「一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつため」を実現する
ために。
 完了した…とは、完成した、の意味でなく「終わった」「成し遂げた」
の意味です。イエス様は、この地上においての人の子としての働きを
「成し遂げた!!」と痛みの中で、勝利の叫びを大声で言われた
のでした。

 神殿の幕が真っ二つに裂けたのも、神様と人の間に、新しい
救いの道が与えられたことを現わしているのです。またイエス様の
様子を見ていた百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と
言ったように、私たちも日々新たに、イエス様の十字架を通して、
イエス様が救い主、神の子であることを告白する者とならせて
頂こうではありませんか。イエス様から目を離さないでいると、
必ず「わかる」時があります。信じて多くの方々の救いのためにも
お祈りいたします。


3月21日聖日礼拝
説教題
「叫びの結果」
聖書箇所
マルコ15章1〜15節
@イエス様の叫び(1〜5節)
 ローマ帝国の支配下では、ユダヤの最高議会には人を死刑に
する権限がありませんした。そこで祭司長たちは、ローマ総督の
ピラトのもとへイエス様を引き渡し、ローマ帝国へ反逆する政治犯
として訴えたのです。
 ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王ですか」とイエス様に尋ねると、
イエス様は「そのとおりです」(以上2節)とお答えになられました。
イエス様は「霊的な王」の意味でお答えになりました。
 イエス様は祭司長たちが多くのことで厳しく訴えても、何もお答えに
なりませんでした。イエス様は十字架につくことを覚悟しており、
沈黙の叫びをもって裁判に臨んだのです。

A群衆の叫び(13〜14節)
 つい数日前、イエス様に向かって「ホサナ」と叫んだ群衆は
「十字架につけろ」(13節)と叫びました。何と変わり方の早いこと
でしょう。これは祭司長たちが扇動したことにもよりますが、群衆は
期待が裏切られたことによって怒ったのです。イエス様を政治的な
解放者だと期待していたからです。期待が外れたというだけの
理由で担ぎ上げた人を投げ捨てる私たち人間の性質は昔も今も
変わりありません。それゆえ人の評価は真には当てになりません。
神に信頼を置くことが大事です。

B叫びの結果(14〜15節)
 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことに、
気づいていた」(10節)にも関わらず、「群衆のきげんをとろうと
思い、バラバを釈放し・・・イエス様を十字架につけるようにと引き
渡し」(15節)ました。彼は正当な裁判よりも、自分の権力を守る
ことを選んだのです。
 しかしここに救いの真理が隠されています。イエス様が十字架に
付けられることにより、強盗殺人の罪を犯したバラバが死刑を
免れ救われました。イエス様が十字架に掛けられることによって、
私たちの罪が赦され、救われるという十字架の福音のひな型と
なったのです。


3月14日聖日礼拝
説教題
「ロバに乗った柔和な王」
聖書箇所
マタイ21章1〜17節
 本日のテキストにはイエス様が十字架刑を前に、エルサレムへ
入城する際の様子が記されています。

@「主がお入り用なのです」(3節)
 イエス様がお乗りになったのは、大人のロバではなく子ロバでした。
体が小さく、力の弱い子ロバが元大工のイエス様をお運びするのは
大変だったでしょう。しかし子ロバはイエス様への奉仕を全うしました。
 現代の私たち一人一人も、イエス様から「あなたを必要としている」
「神様のご用の一部を担ってくれないか」と声を掛けて頂いています。

Aイエス様は王であり、柔和なお方(5節)
 「柔和なお方」とはしもべとしての救い主を表わします。その使命は
十字架で全人類の罪の贖いのために命を与えることでした。最も
低い所で私たちに仕えてくださったイエス様は、今度は王なる救い
主として私たちの行くべき御国を建てて下さいました。イエス様は
柔和な姿勢で私たちの心を開いて下さるのです。

Bイエス様を心の最も良いところへお迎えする(9節)
 入城されるイエス様に向かって、大人も子供も「ホサナ」(9節)と
叫んで喜びを表わしました。「ホサナ」とは「救って下さい」「助けて
下さい」と言う意味です。神殿に入ることのできなかった盲目の
人々や足の不自由な人々は、神殿の中にいたイエス様のもとに
来て癒やして頂きました。
 一方、エルサレムの指導者たちはプライドゆえにイエス様を
拒絶し、数日後には十字架につけてしまいます。法外な利益を
得ていた神殿の商売人たちは、イエス様に追い出されました。

 私たちも心の門を開き、イエス様を心の最も良い部分(心の
王座)にお迎えし、賛美しつつ歩んで参りましょう。


3月7日聖日礼拝 
説教題
「あらゆる国の人々を弟子とする」
聖書箇所
マタイ28章16〜20節
 本日はイエス様がお命じになられた次の7つのうち、最後の
7番目についてのメッセージです。
@悔い改めて信じる  A信じた人に洗礼を授ける  B神と隣人を
愛する C祈り、神の言葉を学ぶ  D施し(献金)をする  E主の
食卓(聖餐)に与る F弟子をつくる

 「弟子」(16節)とはイエス・キリストの弟子のこと。神は復活された
イエス様に天と地のすべての権威を託されました。(18節)
イエス様の生涯においては、イスラエルの民に福音を伝えることが
目的でした。しかし、イエス様の復活後は、この権威をもってあら
ゆる国の人々を弟子とするよう弟子たちに命じられました。

 次に「父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授け」(19節)る
よう命じられました。バプテスマは、神との霊的な交わりに入ることを
意味します。(参照ローマ6:3,4)

 さらに「命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教え」
(20節)るよう命じられています。これはイエス様の教えが、弟子
たちを通して他の人々に正しく教えられ、それが生活の中で生か
されるようにすることです。

 以上のことは、これらは弟子たちも、現代の私たちも自分の
力ではとても成し遂げることが出来ません。そのために、「見よ。
わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」(20節)
との約束を持って弟子たちを励ましたのです。イエス様はその
お手本として「あなたは見ていなさい」⇒「あなたも一緒にやって
みなさい」⇒「あなたがやってみなさい」と弟子たちを訓練し励ました
のです。

 弟子たちはやがて聖霊の力を受けて全世界へ出て行きますが、
それは世の終わりにイエス様が再び来られる時まで、イエス様の
弟子とされた人々によって忠実に続けられます。先ず各人が神を
礼拝する姿が、次世代を弟子とする大きなきっかけになるのです。


2月28日聖日伝道礼拝  
説教題
「いのちを得る」
聖書箇所
ヨハネ20章26〜31節
 十二弟子の一人トマスは、イエス様が復活された日曜日の
集いに居合わせませんでした。仲間の弟子が「わたしたちは主を
見た」(25節)と言っても、それを信じることが出来ませんでした。
 
 次の日曜日に、イエス様はトマスもいる時に弟子たちのもとに
再び現れて下さいました。トマスは「私の主、私の神」(28節)と
イエス様に向かって告白しています。
 トマスは単にイエス様の復活を認めたのではなく、「私の主」と
呼ぶ関係になりました。イエス様と個人的に親しく交わる関係に
なったのです。

 しかし、現代の私たち一人一人にはトマスよりももっと素晴らしい
約束と祝福が語られています。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は
幸いです。」(29節)
 なんと12弟子のトマスよりも、イエス様を直接見たことはないが
イエス様を信じる現代の私たちの方が幸いだと記されています。

 最後の31節には、このヨハネの福音書が書かれた目的が記さ
れています。
 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト
であることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、
イエスの御名によっていのちを得るためである。」(31節)

 十字架上で私たちの罪の身代わりに死に、死から復活された
イエス様を信じ、永遠のいのちを得て頂きたい。


2月21日聖日礼拝  
説教題
「足の裏」
聖書箇所
ヨシュア記3章6〜17節
 カナン(神様からイスラエルの民に与えられた祝福)の地を目指
した40年に及ぶ旅。モーセの死後、ヨシュアが神様から選ばれて
イスラエルの民の先頭に立ちます。その中でヨルダン川を目の前
にします。どのようにして、渡り切ることができたのでしょうか。

@契約の箱(6節)
 契約の箱には、十戒を刻んだ石の板2枚が収められていました。
十戒は神様から直接与えられた愛の戒めです。これは、単なる
戒めではなく、神様のご臨在と導きを表徴しているのです。ですから
「契約の箱を先頭にして川を渡る」ということは、神様がまず、
私たちの渡るべき道を示し、渡らせて下さる。つまり神様が、私たち
の様々な問題を戦って下さる!ということなのです。

A足の裏(15節)
 「足が水ぎわに浸ったとき…流れ下る水は完全にせきとめられた」
と書かれています。神様のことばを信じて私たちが一歩前に、自分
の足で歩みだす時、足の裏が地面についた瞬間から神様のわざが
はじまっていくのです。ヨルダン川の多くの水がせき止められるとは、
想定外のことだったでしょう。イスラエルの民(100万人以上と家畜
たち)は、ヨシュアを通して語られた神様のことばを信じて自ら、
足の裏を通して歩み始めたのです。

B完全なる救い(17節)
 ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わったのです。渡り終わった…
完全なる救いです。この箇所からも救い主イエス様をみることが
できます。あの十字架上で「完了した」と大声で叫ばれたイエス様。
神様のことばを信じて歩みだす時、私たちに完全なる救いが実現
していくのです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで
いなさい。」へブル12:2
 1400年後、ヨシュア達が渡り終わったヨルダン川の地点で、
イエス様がバプテスマを受けられたそうです。


2月14日聖日礼拝  
説教題
「ただ、おことばを」
聖書箇所
マタイ8章5〜13節
 カペナウムに、イエス様が入られると百人隊長がみもとに来て、
懇願して言いました。
・「主よ。私のしもべがひどく苦しんでいます。」
・「主よ。あなたを同じ屋根の下にお入れする資格はありません。
ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
・私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいま
して、そのひとりに『行け』と言えば行きますし〜『これをせよ』と
言えば、そのとおりにいたします。」
 イエス様は、これを聞いて驚かれました。イエス様が驚かれる
ほどの百人隊長の信仰をみてみましょう。

@イエス様を権威あるお方であることを信じていた。
・イエス様のことを「主よ」と2度も呼びかけています。
・「〜資格はありません」と謙遜な姿がみられる。謙遜な姿から、
百人隊長が癒しを切に求めていることが分かります。
・自分の立場から、権威あるお方のことばの力強さを捉えています。
カペナウムにおいて、今までもイエス様の教えを聞いていたのでしょう
か。百人隊長がしもべの癒やしを求める姿から「この方こそ!」と
イエス様が権威あるお方であることを信じていることが伝わって
きます。

Aイエス様のことばが実現すると信じ切っていた。
・「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
ここで「直るでしょう」でなく「直ります」と言い切っている所からも、
権威あるお方イエス様が言われたお言葉は、実現すると信じ
切っていたことがわかります。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを
苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その
滅びの穴から彼らを助け出された。(詩篇107:19,20)
 私たちが日々の生活で何を求めて、何を必要としているので
しょうか。「ただ、おことばを」とイエス様から直接おことばを頂いて、
おことばを体験(みことば体験)する信仰の歩みを積み重ねて
いこうではありませんか!


2月7日聖日礼拝  
説教題
「書いてある」
聖書箇所
ルカ4章1〜13節、エペソ6章17節
 バプテスマを受けられ聖霊に満ちたイエス様は、荒野にて40
日間悪魔の誘惑にあわれました。イエス様が宣教を開始される
前に、まず悪魔に打ち勝たなければいけませんでした。
 それは、アダムとエバが罪を犯して以来、この世は悪魔の主権
の中にあり、私たちは奴隷となっているのです。人々を悪魔から
解放すること、神様との関係を回復することが、イエス様の使命
なのです。
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば
を受け取りなさい。」エペソ6:11,12,17

@悪魔の誘惑
 イエス様の再臨まで、神から一定の主権と栄光(栄誉)が許されて
いる悪魔の目的は、私たち人間を滅びへと追いやることです。
悪魔は、たくみに私たちに近づいてきます。そして神様と人との信頼
関係をくずし、神様に対するおそれをなくさせ、神様を神様と思えなく
させるのです。そこで、悪魔は「少しぐらい…、大丈夫…」と誘惑して
きます。その誘惑が「自分がしたいと思う善を行わないで、かえって、
したくない悪をおこなっています。」ローマ7:19,20、このような罪へと
つながっていくのです。

A剣としての神のことば
 剣は、敵を防ぐ、打ち破ることができる攻撃する武器です。イエス様
は「書いてある」と何度も神様の言葉を悪魔に指し示しました。すると
どうでしょうか!悪魔は、イエス様から離れていったのです。神様の
ことばは、剣のように鋭く、私たちを罪で滅びることのないように、
守ってくれるのです。
 私たちも、神様から与えられた救いのかぶとを自らかぶり、平安と
確信をもって、神様のことばを剣として用いた時、悪魔の誘惑に打ち
勝つのです。そのためにも、まず神様のことばを日々蓄えていこうでは
ありませんか!


1月31日聖日礼拝  
説教題
「その中に切り株がある」
聖書箇所
イザヤ6章8〜13節
 イザヤ6章は、イザヤが聖なる神様を見たことにより、「ああ、
私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で…」と告白します。
すると神様は「あなたの罪も贖われた」と言われ、イザヤは罪赦
される経験をします。すると、どうでしょう、神様が(イスラエルの
民を救うために)「誰を遣わそう…」と言われた時、イザヤは
「ここに、私がおります。」と答えました。イザヤが遣わされたイス
ラエルの民は「その中に」ある状態でした。

@「その中に」とは(9〜13前半)
・神様からイスラエルの民への言葉は逆に「悟るな、知るな、鈍ら
せ、耳を遠くし…立ち返っていやされることのないように」でした。
これはまさしく、心を頑なにしている姿です。神様は人々が、罪に
自ら示され、真の悔い改めに導かれるように、あえて「心の頑なな
ままの状態」にされました。神様の思いを想像する時に、神様の
愛の痛みを思わざるをえません。
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さに与から
せようとして、懲らしめるのです。」へブル12:5〜11

・イザヤも心痛め「心が頑ななままの状態」が続くのは「いつまで
ですか」と神様に聞くと、町は滅び、バビロンに捕囚される。民も
十分の一が残ってもさらに焼き払われ、少数となる…神様の徹底
した裁きがあることを仰せられたのです。
「その中」とは、イスラエルの民は「心頑なな姿」であり、それは
「滅び」につながっていること。

A「切り株」とは(13後半)
 神様の裁きの中にも…「切り株がある」とは、神様は僅かであっても
残された者に救いの計画を与えてくださったのです。その救いは
「聖なる」性質にあずかる者として下さる、聖化してくださることです。
究極的な「聖なるすえ」こそ救い主イエス様です。

 ご自分の心が頑なになっている所はないでしょうか。私たちの心は
滅びに向かっていないでしょうか。
 常に私たちの心の中に、救い主イエス様がおられることを信じて、
「ここに、私がおります」と救い主イエス様を、家族、友人、知人に
伝えていこうではありませんか!


1月24日聖日伝道礼拝  
説教題
「立ち止まる時に」
聖書箇所
使徒27章18〜26節
  
クリスチャンのS弁護士は、日々を振り返ってこう証ししています。
「…あなたは何をやってもまるで上手く行かないような時がない
でしょうか?そんな時は、立ち止まって何が原因がよく考えて
みる必要があります。神の前に心を静めて祈って行くと、自分の
思い違いや動機の不純を示されたりする。」

 あの使徒パウロも、大きな船に乗ってローマへ向かう途中、
太陽や星が何日も見えない日が続くのを経験しました。激しい
暴風で助かる最後の望みも絶たれようとしました。
 そんな時に、パウロは「元気を出しなさい」「恐れてはならない」
と人々に語りました。なぜそのような言葉を語ることが出来たの
でしょう? それは彼が神のみことばを最優先し、寝る前や
早朝に祈りをし、静かに神のみことばを聞いていたからです(23節)。
真の解決は、祈りを通して与えられるからです。

 パウロは「私の仕えている神」(23節)と言います。普段から
仕えていなかったら、いざという時に神の守りを信じることが
難しいからです。
 そういう彼もかつてはイエス様を迫害する者でした。しかし、
イエス様は彼に赤信号を示してその歩みをストップさせられました。
彼は自分の罪を示されて悔い改め、伝道者となったのでした。
立ち止まる時、それは神に立ち返り、神のみことばを仰ぐ
チャンスなのです。神に立ち返る者を神は決してないがしろには
しません。必ず答えを下さり良き道を開いて下さるのです。

 276名が乗り込んだ船にパウロ一人がいたことによって全員の
いのちが助け出されました。実はパウロに救いの力があった
のではなく、彼のうちにイエス様がいて下さったことによって、
他の275名にも救いの恵みが及んだのです。ぜひイエス様を
「舟」というご自分の人生に迎え入れ、ぜひ幸いな道を歩んで
頂きたい。


1月17日聖日礼拝
説教題
「主の晩餐にあずかる」
聖書箇所
ルカ22章17〜20節
  
イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、過越の食事を弟子
たちと共にしました。過越の食事は、かつてイスラエルがエジプト
で奴隷であった状態から、神の恵みによって救い出されたことを
記念し感謝するものでした。

 イエス様は弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えました。
パンはイエス様が十字架上で裂かれ、そのことによって永遠の
いのちが信じる者に与えられること。ぶどう酒はイエス様が血を
流されることにより、信じる者の罪が赦されることを表わして
います。
 これをイエス様が地上に来られるまで行うよう弟子たちに
お命じになり、現在まで世界中の教会で「聖餐式」として継続して
来たのです。

 イエス様が来られる前の時代(旧約時代)には、動物を
いけにえとしてささげれば、神はその人の罪を赦されました。
 しかし、動物の血は完全に人の罪を取り除くことは出来ず、
毎日毎年繰り返さなければなりませんでした。

 しかし、今やイエス様はたった一度全人類の罪を背負って
十字架で血を流されたことによって、罪を取り除いて下さった
のです。イエス様の十字架は、私たちと神との関係を正しい状態に戻して下さいます。

 私たちはこの恵みを忘れないよう、繰り返しパンとぶどう酒
(聖餐式)によってイエス様の十字架による救いの恵みを覚え
続けなければなりません。イエス様の十字架のもとにへりくだり、
砕かれる時こそ神との関係が正しくされる恵みの機会なのです。


1月10日聖日礼拝
説教題
「喜んで与える(施す)」
聖書箇所
Uコリント9章6〜11節
  
使徒パウロは、諸教会の代表と共に献金を持ってエルサレム教会
へ行こうとしていました。かつて福音を伝えてくれたエルサレム
教会が迫害下で経済的に困窮していました。パウロは同教会
からの霊的な恩義に対し、経済的(物質的)なお返しをしようと
献金を呼びかけたのでした。

パウロは6節でこの献金を種蒔きに例えました。「少しだけ
蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取り
ます。」 この「豊かに」という言葉は「祝福をもって」という意味も
あります。この原理は昔も今も変わることがありません。他者
への祝福をもって献金する人は、経済的な祝福だけでなく、
生き方や品性までも神様に祝福されるのです。

次に、献金の姿勢が7節に示されています。「心で決めた通り
にしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 
自発的な思いで、神を愛し他者を愛する姿勢を、神はご覧に
なっておられるのです。

神はそのひとり子イエス様を、私たちの救いのためにお与え
になりました。富んでおられたイエス様が、貧しい人の姿と
なって地上に来られ、やがて全人類の罪を背負って十字架に
掛かって下さったのです。神の動機は愛のゆえです。神は
惜しみなく私たちに分け与えるお方です。

神は私たちに種まき用の種と食べるパンとを備えて下さいます。
種まきという献金を通し、実際に経済も祝され、品性や愛の
行いという義の実を増し加えて下さいます。その結果、
私たちは「あらゆる点で豊かに」なる(11節)と約束されています。
この恵みを覚え、ぜひますます喜んで与える者とされたい。


1月3日聖日礼拝
説教題
「日々祈り、神のみことばを学ぶ」
聖書箇所
ルカ18章1〜8節
  
イエス様は祈りとみことばを学ぶ姿勢について、次のように
教えています。

@祈り
いつでも祈る姿勢でいること、失望しないで祈ることです。
不正な裁判官ですら、やもめのうるさい(しつこい)求めには
ついに求めを聞き入れます。ましてや夜昼(いつも)神を呼び
求める民のためには祈りを聞き、応えて下さるのです。

神は私たちに最善(ベスト)のものを与えようとされます。
私たちの求めが第二、第三番目のものであったら、あえて
その通りにはなさらないのです。

また、困難に直面すると祈れなくなってしまうことがあります。
その時には「祈りの友」の存在がとても大きいのです。
教会生活の中で自然に祈り合えることは大きな恵みです。

A神のみことば(聖書のみことば)
 イエス様は神の真理をたとえを用いて語られました。
祈りと同じく、毎日聖書のみことばを読み、思いめぐらすなら、
「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた
者となる」(Uテモテ3:17)のです。

 また、みことばが心に蓄えられて行きますと、他の人々に
イエス・キリストを証しする助けになります。(詩篇119:9〜13)


2021年1月1日(金) 元旦礼拝
説教題
「破れ口に立つ者」
聖書箇所
エゼキエル22章30節
  
昨年より現在に至るまで、私たちはコロナ禍の中で様々な破れを
経験しました。神はこうした破れを通し、私たち一人一人に"破れ
口に立つ者は誰か"と呼びかけています。本日の聖書個所は
イスラエルが南北に分裂した時代に、北に続いて南も罪を重ねて
滅ぶ直前に神から発せられたみことばです。

「破れ口に立つ者(修理する者)」とは、イエス・キリストに他なりま
せん。イエス様は罪と死の入り混じるこの世において、十字架上
で私たちの身代わりに死んで救い出して下さいました。自分の
破れをイエス様に修復して頂いた恵みを知っているのがクリス
チャンです。
 私たちもイエス様のしもべとして、破れが覆われるよう祈り、
みことばに従って行動を起こす者としてこの1年間を歩んで参りたい。


12月27日聖日礼拝
説教題
「神の祝福に生かされる」
聖書箇所
イザヤ30章18〜26節

神は、世的な力に傾くのではなく、ご自身に立ち帰る時、大いに
祝福することを約束してくださいました。神は「待っておられ」
「あわれもうと立ち上がられる」「答えてくださる」「主は必ずあなた
に恵み」くださるお方です。

@神の言葉を聞く
神は羊飼いのように、私たちを後ろから見守り、導いてください
ます。私たちは、神の言葉によって生かされる祝福に生かされて
いるのです。

A真理を知る
神の言葉を聞いていく時、私たちは、真理を知らされます。真理を知
る時に、私たちは、人間が作り出した偶像、自己中心的な考え
などから、神中心の生き方へと方向転換するのです。

B主の栄光があらわされる
大いなる虐殺の日…とは、イエス様が再びこの地上に来られる
再臨の時です。キリスト再臨の時、神の敵はすべて滅ぼされます。
そして、主の栄光で輝き、月も日も必要ないぐらいの輝きで満た
されるのです。私たちは、日々の生活において、主の栄光を待ち
望むと同時に、いつその日か分かりませんが、必ず来られる
キリスト再臨の時を待ち望んで行こうではありませんか。


12月24日(木) イブ礼拝
    16:00〜17:00

 特別賛美ゲスト 大塚  満師・治美師(竜ケ崎教会)

  メッセージ   大塚  満師
    
『大きな喜びの知らせ』
         ルカ2章10,11節

 


12月20日クリスマス礼拝
説教題
「この上もない喜び」
聖書箇所
マタイ2章1〜12節

「この上もない喜び」を博士たちはなぜ、体験できたのでしょうか。

@救い主を求めていた(1-2節)
 神様のことについて十分な知識も無かった。けれども、博士たちは、
人づてに聞いた神様の救いの約束を信じていたのです。信じて
いた・・からこそ、「その方の星」の存在に気づき、はるばる砂漠も
こえる長旅を行動にうつしたのです。博士たちは「救い主を求めて
いた」という目的があったからこそ、この上もない喜びへとつな
がったのです。

A星に導かれた(9節)
 博士たちは、星をよく観察し、星の動きによって人や出来事を
占ったり、夢のなぞを解いたり、知識人ともいわれる存在でした。
 10節「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。
不安が多い長旅の中で、ベツレヘムまで、自分たちを導いて
くれた星に、平安と救い主に必ず会える!と言った確信に博士
たちは、この上もなく喜ぶことができたのです。
 今を生きる私たちにもその、星が与えられているのです。
私たちを救い主イエス様に出会わせてくださる星、それは神様です。

Bひれ伏して拝んだ
 博士たちは、イエス様にお会いして、ひれ伏して拝んだのでした。
この方こそ救い主、ユダヤ人の王である!だからこそ、自分たち
が持っていた、高級な黄金、乳香、没薬を捧げたのです。イエス様
に用いて下さい!とささげたのです。博士たちのこの上もない喜び
が伝わってきますね!
 救い主を求めた、星に導かれた、ひれ伏しておがんだ・・・
今の時代に生かされている私たちも、常に救い主を求めること、
星‥神様に導かれること、日々イエス様の前にひれ伏して拝むこと
によって、自分が想像もしていないほどの「この上もない喜び」に
満たされますように。


12月13日アドベント(第三週)礼拝
説教題
「平和の君」
聖書箇所
イザヤ9章1〜7節

@救いの宣言(2節)
 預言者イザヤの時代、イスラエルは神様に背を向け、悪を行って
いました。国同士の戦いにおいても、神様でなく強くて大きな国に
助けを求めていたのでした。そして、イスラエルは苦しみ、やみの中、
死の陰にいました。そのようなイスラエルにイザヤは、後に回復
して光栄を受ける「救いの宣言」をしました。大きな光を見た、光が
照った、と。
 暗闇にいると光は大きな救いとなります。
 「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に
導く。」ルカ1:79

A神による勝利(3〜5節)
 神の勝利は、刈入れ時の喜び、獲物を分かつ時の喜びに例え
られています。神様が、重荷のくびきと、肩のむち、しいたげる者の
杖から解放してくださった。神様の勝利は、人間の知恵や力、
軍備によらず、徹底的に神の力により頼んだところから生じます。
そして、その結果は、完全な平和となるのです。

B万軍の主の熱心
  やみから光へ、争いから平和へ。これは「ひとりのみどりご」の誕生
によって、完成されるのです。神様が私たちを愛してくださっている
からこそ、私たちの救いのためにイエス様を与えてくださったのです。
 イザヤは、救い主イエス・キリストの姿を伝えました。
「不思議な助言者」…私たちの悩み苦しみを聞き、アドバイスをくだ
さる。
「力ある神」…どのような戦いにも勝利に導くことのできるお方。
「永遠の父」…いつまでも神様が、私たちのお父さんでいてくださる。
「平和の君」…どのようなことがあっても、それを乗り越える平安を
与えてくださる。
 私たちの救い、平和のためにお生まれくださったイエス様を、
心にお迎えしようでは、ありませんか!


12月6日アドベント(第二週)礼拝
説教題
「その名はインマヌエル」
聖書箇所
マタイ1章18〜25節

 マタイの福音書は、系図から始まっています。この系図の意味は
「始まり」の意味が含まれています。そうです、新しい時代イエス・
キリストの誕生によって「インマヌエル」の時代が始まったのです。
インマヌエル(神は私たちとともにおられる)とは、どういうことか。
ヨセフの姿から見ていきたいと思います。

@思いを巡らしたヨセフ
 ヨセフとマリヤは婚約をしていました。イスラエルにおいての婚約は、
法律上において、完全な「夫婦」でした。その中にあって、マリヤが
身重になっていることがわかり、ヨセフはマリヤを思い、内密に去ら
すべきなのか、思い巡らしていました。ヨセフは正しい人だった、
とあります。正しい人は、律法を守る人、憐れみ深い人の意味があります。
神様を信じていたヨセフは、憐れみの心を持って、マリヤのことを思い
巡らしていました。

A主の使いの言葉を聞く
ヨセフが思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れて言われました。
・恐れず、妻マリヤを迎えなさい。
・胎に宿っているのは聖霊によるのです(神様のみわざ)
・男の子を産む、イエス(神は救い、の意味)とつけなさい。
・この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
・その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれる。
 み言葉が実現する
 主の使いの言葉を聞いたヨセフは、命じられたとおりにしました。
すると、子どもが生まれ、名前をイエスとつけたのです。まだ人として、
理解することが難しく、多くの疑問があったことでしょう。しかし、その
疑問を盾にせず、主の使いの言葉を盾にしました。
 そこで、救い主イエス様が産まれる旧約時代からの神様の約束が
実現したのです。

 クリスマスを迎えるにあたって、もう一度「その名は、インマヌエル」
として、お生まれくださった恵みを心に留めたいと思います。そして、
神様がともにあって下さる、日々の生活において、み言葉が実現
していく時となりますように、お祈りいたします。


11月29日アドベント(第一週)礼拝
説教題
「平和をつくるイエス様」
聖書箇所
ゼカリヤ9章9,10節

 ゼカリヤが預言した王様はロバの子に乗るお方です。ロバは
人や荷物を載せても、戦いには行かないため、平和の象徴です。
 
 本当はお互いに武器が要らない世界が一番安全安心なのです
が、現実を見るとそれが一番難しいのです。平和の王は武器を
すべて無くして真の平和をつくるお方なのです。

 平和の王は、イスラエルだけの王ではなく、世界の国々に平和を
つくる王としてやって来られます。そして私たちの心に平和の王と
して来られるのです。まだ最終的には実現していないが、部分的に、
また信じる者のうちに一部が実現して時の経過と共に完成へと
進んでいるのです。

 イエス様は子ロバにのってエルサレムへ入られました。しかも
まだ人が乗ったことのない子ロバに。これは手なずけるのが大変
なのだそうです。
 しかし、イエス様は子ロバを落ち着かせ、安心させてお乗りに
なられました。この出来事は、私たちの心も武力や権力による支配
ではなく、十字架の愛とあわれみによって治められる時に、平和と
柔和な人生へと向かわせて頂けることを物語っているのです。

 まず神と人との平和を実現するために。つぎに人間同士の平和の
ために。イエス様は十字架に掛かって私たちの罪の贖いを成し
遂げて下さいました。
 それだけでなく、十字架上で死なれてから3日目に、死に打ち
勝って復活されたのです。イエス様は、信じる私たち一人一人の
心に平和の王として住んで下さっておられます。

<祈り> イエス様、あなたは軍馬にまたがる王ではなく、ろばに
乗る平和な王・柔和な王として来て下さいました。私たちも自己中心
やプライド、傲慢、自分へのこだわり、怒りや裁きという目に見え
ない馬に乗ることがあります。こうした軍馬から降りて、子ロバに
乗って私たちのもとに来られた主イエス様を日々、自分の心に
お迎えすることが出来ますように。不満や不安で一杯の時にも、
どうぞ私の心をイエス様の平和で一杯に満たして下さい。アーメン


11月22日聖日伝道礼拝
説教題
「神の気前良さ」
聖書箇所
マタイ20章1〜16節

 イエス様は、天国をぶどう園にたとえて語られました。
神はぶどう園の主人であり、そこで働く労務者を雇いに朝早く
市場(この世)へ出かける姿にたとえられています。

 パレスチナではぶどうの収穫時期が9月で、そのあとすぐに
雨期が来ます。そこで一刻を争って人手を必要とし、たとえ1時間
しか働けない人でも歓迎されたのです。午後6時の定時を前に、
午後5時まで雇い主が現われなかった労務者はどれほど真剣に
雇用を待ち望むでしょう。その人が雇われたならば、どんなに
感謝し喜んで1時間の作業に取り組むことでしょう。

 一日の労務が終わり、主人は後から雇われた人から順に報酬を
支払います。後から雇われた人も、先に雇われた人も同じ1デナリ
でした。このたとえは私たちに次のことを教えさとしています。

1)弟子たちへの警告
 早い段階から、教会とその交わりの中に入る特権を与えられ
ました。後になると他の人たちがイエス様の十字架を信じ、罪を
悔い改めて救われ、この交わりに入って来ます。その時、最初
からいた者として特別な地位や名誉を得ようと思ってはなりません。
神の前にはすべての人の魂が等しく大事なのです。

2)ユダヤ人への警告
 彼らは絶えず自分たちが"神に選ばれた民族"であることを
意識し、異邦人を軽蔑し、滅亡を願っていました。役割が
異なっていても、神に特別に愛される国民は存在しません。
これがイエス様によって明らかにされた福音の恵みなのです。

3)私たちへの指針
 神の国(救い)に入る時期は早い時期の人もいれば、晩年に
なる人もいます。神の立場からは、救いに早すぎるとか遅すぎる
ということはないのです。報酬を考えずに神と人とのために
喜んで奉仕するならば、天国では必ず素晴らしい報酬が与え
られるのです。



☆☆ YouTube動画の更新は暫くお休みします ☆☆

YouTubeの当教会チャンネルアドレス:
 https://www.youtube.com/channel/UC-fFJZs-MuQDsQI5iPKu8Bg

9月6日聖日礼拝
説教題
「とどまる」
聖書箇所
ヨハネ15章7〜10節


ショートメッセージ動画(9/6午前10:30公開)


8月30日聖日礼拝
説教題
「死からいのちへ移っている」
聖書箇所
ヨハネ5章24〜25節


ショートメッセージ動画(8/30午前10:30公開)
https://youtu.be/GwLfrxE6Wus

8月23日聖日伝道礼拝
説教題
「一粒の麦」
聖書箇所
ヨハネ12章24節
 伝道礼拝は教会へ初めて来会される方でも、分かりやすい
内容になっております。どなたでもお気軽にご参加ください。

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/DmgpEpS0m5w

8月16日聖日礼拝
説教題
「しばらく休むがよい」
聖書箇所
マルコ6章30-32節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/6z4hMTycl78

8月9日聖日礼拝
説教題
「平和を追い求める」
聖書箇所
へブル12章14節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/Mg271Ir6D28

8月2日聖日礼拝
説教題
「最後にきよめる」
聖書箇所
Uテモテ2章20〜22節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/JuZ58qhcUXU

7月26日聖日伝道礼拝
説教題
「あなたも家族も救われます」
聖書箇所
使徒16章29〜34節
 伝道礼拝は教会へ初めて来会される方でも、分かりやすい
内容になっております。


ショートメッセージ動画(7/26午前10:30公開)
https://youtu.be/D2l2LL-KYfk


7月19日聖日礼拝
説教題
「試練と同情心」
聖書箇所
へブル2章17〜18節、4章15〜16節

https://youtu.be/ebfJMo9WYX4


7月12日聖日礼拝
説教題
「涙の谷を泉へ変える主」
聖書箇所
詩篇84篇5〜7節

https://youtu.be/N4T5Qb65c0A

<説教要旨>
この詩の作者はエルサレムから遠い外国におり、エルサレム
神殿への巡礼の旅を想像します。彼は自分の人生の歩みをこの
旅路に重ね合わせます。神が祈りに応えて力を与えて下さり、
ついに天の都に到着する様子を歌っています。

@神により頼み、神を思い求める人は幸い (5節)
「その力があなたにあり」とは自分の力に頼らず神の力に頼る姿勢。
「シオンへの大路」とは神を思い求める心、天国の代名詞。

A人生の苦難が恵みに変えられる (6節)
「涙の谷」とは全く水が無く、流す涙しか無いような荒涼とした土地
のこと。そこから人生の苦難を表わします。
「泉のわく所」「初めの雨」とは、秋の初めに降る雨のことで、夏には
一滴も雨が降らない乾ききった土地を豊かに潤してくれまし。

以上から、私たちは人生の途上でまったく水の無いような谷間を
通ることが示されています。しかし、心は常にシオンの大路(天国)
を歩いているから、希望が湧いてくるのです。神により頼み、神を
思い求めていくと、時が来て苦難が一気に恵みへと変えられるの
です。

イエス様はこのことを語られます。「わたしが与える水はその人の
うちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)
イエス様の十字架のゆえに、私たちに決定的な滅びをもたらす罪悪
は取り除かれているからです。

B神の力をその都度頂きつつ天国へ行ける (7節)
作者は神の力をその都度頂きつつ、ついには天国に入れられる。
これは私たちも同じです。天国では神の御前で直接顔と顔を合わせて
礼拝し、永遠にお交わりすることが出来ます。神にある目標を持つと、
その人の人生は輝いて来るのです。



7月5日聖日礼拝
説教題
「イエスはすべての人の主」
聖書箇所
使徒10章34〜36節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/BqhK1CGYAbQ


<説教要旨>
イエス様の福音(十字架と復活の良き知らせ)がエルサレムから
世界へ向けて広がる中で、教会は3つの偏見を解決しました。

@民族
 ユダヤ人はクリスチャンになっても、外国人(異邦人)を「汚れて
いる」と言って、交わろうともしませんでした。しかし、神はローマ
帝国の百人隊長コルネリオの信仰と施しを例に挙げられました。
「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても神を恐れ
かしこみ、正義を行う(神のみことばに聞き従う)人なら、神に
受け入れられる」(34,35節)ことが示され、民族的な偏見が取り
除かれました。
 
A食物
 神はペテロに幻を通し、食物の偏見を取り除かれました。「神が
きよめた物を、きよくないと言ってはならない」と声が掛かりました。
旧約聖書の律法の規定で汚れた食べ物であっても、神によって
きよめられ、食べて良いとされたのです。
       
B職業
 たとえユダヤ人同士であっても職業による偏見がありました。
皮なめしのシモンは、人々からの偏見のゆえに街の片隅で
ひっそりと生計を立てていました。
 しかし、そんな差別に苦しむ彼の家で異邦人のローマ百人隊長
たちと、ペテロたちユダヤ人クリスチャンが出会い、交わることに
なりました。イエス様の十字架と復活のゆえに、ユダヤ人も異邦人も
共に神を礼拝し交わる…これは教会のひな型でした。
 
 私たちもイエス様の十字架のゆえに、先ず罪が取り除かれて
神と平和な関係にされます。そして人間同士の狂った関係も
イエス様が介在して下さる時に、平和な関係にされるのです。
 イエス様こそ全ての人の救い主(36節)であり、救いにおいては
ユダヤ人と異邦人との区別が、イエス様のゆえにもはや存在しない
のです。


6月28日聖日伝道礼拝
 伝道礼拝は礼拝へはじめて出席された方でも
安心して礼拝できるような内容になっております。
説教題
「ひとり子を与えるほどの神の愛」
聖書箇所
ヨハネ3章16〜17節

ショートメッセージ動画(6/28午前10:30公開)
https://youtu.be/aFnRYsKxo9k

<説教要旨>
「そのひとり子」「御子」(16節)とはイエス・キリストのことです。
「世」(同節)とは罪に汚れたこの世界と人間のことです。
神の愛は具体的に次のような形で現わされます。

@関わる
 人は神を知りながら神に背いて罪を犯し、それが全世界に
広がりました。その結果、死と滅びを招きました。しかし神は
世を愛され、どこまでも人と関わろうとされます。神の愛は
様々な恵みの形で、イエス様を信じる人・信じない人、すべての
人に対し今も注がれ続けています。

A応答を求める
 神は人の幸せをひたすら願われます。神はイエス様を
十字架上に付けて、私たちにイエス様を救い主として信じるよう
求めておられます。なぜなら人が神から離れることは自ら滅びを
招くことになるからです。神の御心は私たちがイエスを信じ、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。

B怒る
神は罪に対して、不正に対して正義の怒りをもって裁かれます。
神は愛なるお方であると同時に正義のお方でもあるからです。
罪や不正をいつまでも放置することは決してなさいません。
イエス様をこの世に遣わしたのは、世を裁くためではなく
救われるためだと言われます。イエス様は私たち人間を滅びから
救い出すためにそのすべての罪を背負い、十字架上で神の
怒りを身代わりに受けて死なれました。

ここで"裁き"には「滅びる」あるいは「決断」という意味が
あります。イエス様の十字架は私たちにイエスを救い主として
信じるか、信じないかの決断を迫っておられます。
 なぜなら、神の愛の場合とは違って、永遠のいのちはイエス様と
無関係には与えられないからです。驚くべきことに、イエス様を
信じる人は、今この瞬間に永遠のいのちを受け取ることが
出来るのです!


6月21日聖日礼拝
説教題
「神に義と認められる人」
聖書箇所
ルカ18章9〜14節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/O90Eyo-qHyw


<説教要旨>
 イエス様は自称義人で他の人を見下してしまうことへの警告と、
神に義と認められる人の姿勢をたとえ話で語られました。たとえ
では二人の人物が祈るために神殿に上ります。一人はパリサイ人、
もう一人は取税人です。

パリサイ人◇ ・社会的なリーダーで尊敬を受けている
     ・良い行いに励んでいたが、虚栄であり自己防衛の人
     ・お祈りのようだが、実はひとりごと
     ・神を見ずに他の人と自分を比較し、見下した

取 税 人◇ ・職業柄、人々から敵視され嫌われていた
     ・自分の罪を自覚し、神の前に自分を飾らない人
     ・他の人を見ずに、神のみを見上げた
     ・自分を飾らずに素直に神に憐れみを求めて叫んだ

 二人のうち、取税人が神に義(正しい態度)と認められ家に
帰りました。イエス様はこのたとえを通し、私たちは自分が罪人
だと徹底的に知らされる必要があることを示しています。
 イエス様の十字架以外に救いはないことを信じると、「罪の支配」
から解放されます。すると今度は、「復活の経験」をします。
「復活の経験」とは、イエス様にある新しいいのち(生き方)です。
 
 ですから、神の前に自分には「欠け」があること認めることは
恵みです。「欠け」があるから祈れるようになるからです。具体的
には、病になると祈らざるを得ません。人生に嵐が吹くような
問題が起きて心に平安がなくなると祈らざるを得ません。すると、
イエス様がこの欠けを埋めて下さり、平安を与えて下さいます。

 イエス様は「自分を低くする者は高くされる」(14節)と語られます。
神の前で自分を高く見せようとするのは高慢の表われです。
神の前にへりくだってお祈りする人を神は豊かに祝して高くして
下さいます。それは天国での神からの報いにつながっている
のです。


6月14日聖日礼拝
説教題
「信仰と御霊とに満ちた人」
聖書箇所
使徒6章1〜7節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/M6OWAZkVs_Q


<説教要旨>
 初代教会(エルサレム教会)が成長すると、大きな
2つの問題が起きた。一つは、人数の急増による
コミュニケーション不足によるパンの問題。
もう一つは使徒たちが食卓のことで時間が取られ、
神のみことばの奉仕が後回しになってしまったこと。
これは教会の危機であった。

 この背景には、すでに1万を超える人々が教会に
集い、外国生まれでギリシャ語を話す少数派の人々と、
イスラエル国内で生まれ育ち、ヘブル語を話す主流派
の人々との間では言葉や習慣が異なっていたことがあった。


 使徒たちは問題解決のため、「御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち7人を選」ぶ(3節)ことにした。
相応しい人物を立て、食糧配給の役割を委任した。
 相応しい人物の不和しい状況は、
・御霊  神に自分を委ね、聖霊のご支配にある
・知恵  神からの知恵に満ち、実際問題に対処できる
・評判  「よく証しされている」が原意。社会生活で信仰と
     人格の証しが立っている

 そして使徒たちは「祈りとみことばの奉仕に専念する」(4節)。
この提案を全員が承認し、使徒たちは祈って手を彼らの
上に置いた(按手した)。
 これらは新しい役割が7人の上に与えられたことを公にし、
必要な恵みが神から与えられるよう祈り、協力していくことを示す。

 今日も教会に集う一人一人には、神からの尊い役割がある。
それは人と優劣を比べるものではない。神は各教会に適材適所、
人を配置しておられる。
 
 ここで問題が何もないのが教会や私たちの人生で理想なの
ではない。教会は宣教を通して様々な人々が集い、養っていく上で
必ず問題は起きていく。
 大事なことは、こうした問題が教会や私たちの人生に起きて
来た時に、神の御言葉に従って問題に向かうこと。
神はむしろ問題や挫折、失敗や病などを通して私たちに悔い改めや
向かうべき道を明らかに示して下さることが多いから。

 初代教会(エルサレム教会)は、起きて来た問題を神からの
聖霊とみことばによる知恵とによって乗り越え、教会が強められた。
 すると、7節には「神のみことばはますます広がって行き、
エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの
祭司たちが次々に信仰に入った」とある。
 かつてイエス様を十字架につけた人々のいるエルサレムで、
本来反対勢力である祭司までが救われ、信仰に入れられたことは
驚くべき出来事であった。


6月7日聖日礼拝
説教題
「初代キリスト者の生活」
聖書箇所
使徒2章40〜47節

    ショートメッセージ動画
    https://youtu.be/dZYZuk1Ap-w


<説教要旨>

 ペンテコステ(聖霊降臨)によって誕生した教会では、初代
キリスト者たちによって次の4つのことが特徴的に行われ
ました。(42節)

@使徒たちの教えを固く守った
 「使徒たちの教え」とは、今日で言う新約聖書を指します。
使徒たちを通して伝えられたイエス様の教えに聞き従いました。
聖書の教えを整理し、また実際生活を学ぶことで神に近づく
ことが出来ます。

A交わりをした
 「交わり」という言葉には「共有」という意味もあります。
お互いに与えられているあらゆる祝福を共有するという、
深い霊的な交わりをしました。

Bパンを裂いた
 通常の食事とは区別し、イエス様が行うように命じられた
パン裂きの儀式(聖餐式)を行いました。そのことを通し、
イエス様の十字架の贖いを思い起こしました。イエス様にあって
一つの家族とされた、親密な交わりをしました。

C祈りをした
 彼らは集まるごとに祈っていました。祈りに真剣でした。

 これら初代キリスト者たちの生活ぶり、その姿は私たちの
模範です。「主も毎日救われる人が仲間に人々を仲間に加えて
くださった」(47節)ほどの著しい成長の理由は何だったのでしょうか?
 それは神を心から敬う敬虔さと温かい交わりだったからです。
その背後には、彼らがイエス様に信頼されるに相応しい魂の
状態にあったからです。

 現代の私たち一人一人も、初代キリスト者たちの生活を手本と
して心に刻みましょう。イエス様に信頼されるにふさわしい魂の
状態にされるよう、悔い改めと祈りをもって願い求めて参りたいもの
です。


5月31日ペンテコステ(聖霊降臨)説教
説教題
「聖霊が注がれる」
聖書箇所
使徒2章1〜4節

https://youtu.be/lBpVc_-pbbc

<説教要旨>

 天から注ぐ太陽の光と熱、降り注ぐ天からの雨に
よって地上のすべての生物が生きています。
 同じように、親の注ぐ愛情によって子供は成長し、
親の注意や保護によって子供たちは守られています。

 愛なる神から遣わされたイエス様は、十字架上の
死をもってご自分の愛をこの世に示されました。
 そして、いのちの水である聖霊を注いで信じる者を
聖霊の宮、すなわち生きた神殿として下さいます。
 このことはエゼキエル47章などのみことばによって
約束されていました。

 父なる神は、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と
約束され、ついに五旬節(ペンテコステ)の時に、
聖霊が弟子たちにくだり、約束が成就しました。
 本日の聖書個所にあるように、この聖霊の働きに
よって教会は誕生し、育てられ、二千年後の今日に
至っています。

 「風」(2節)は、息や霊とも訳される言葉。
息は人にいのちを与えます。息(あるいは風)が死んだ
ような人にいのちを与えることを象徴しています。

 聖霊を受けた使徒たちは、たった一回聖霊を受けた
だけではなかった。その都度、聖霊の感動と証しの力
を頂いて、イエス様の十字架と復活を唯一の救いとして
証しをし、力ある働きをしたのです。

 また、いつでも求める時に注がれます。人は注がれて
いる聖霊によって、未来に対する神の御心を知り、
無くならない希望を与えられています。そして豊かに
注がれる聖霊によって、神の愛を知らされています
(ローマ5:5)。
 
 「他国のことば」(4節)とは、聖霊に満たされると
外国語を話すようになる、というのではありません。
 クリスチャンだけに分かる会話ではなく、相手が誰で
あれ伝わる話をすることが出来るという意味。聖霊に
満たされる時に!
 その確信が来るまで、平安が与えられるまで聖霊に
満たされるよう祈ることが必要です。

 また、この神の愛を注がれた者は、自分の子のため、
子孫のため、若者たちのため、すべての人のために
心を注いで祈らなければなりません。(哀歌2:19)

 ペンテコステ以来、神の国が完全に実現するまで、
教会は聖霊によって働き続けるのです。
 神は霊の子(信仰の子)をこの世に生み出すために、
生みの苦しみをされます。陣痛をさえれる神です。
 先に救われ聖霊を頂いている人は、他の人のために
苦しみの祈りをし、また自分自身も良き聖霊の器と
されるよう苦しみの祈りをしなければなりません。


5月24日説教
説教題
「エルサレムにとどまる」
聖書箇所
ルカ24章45〜50節
   YouTubeオンライン伝道礼拝 

https://youtu.be/fxYZAS2b-AU
   
<説教要旨>

 イエス様は弟子たちに約束の聖霊を受けるまでは、
エルサレムの都にとどまるよう命じられました。

ではなぜ、エルサレム以外の所へはいけなかったので
しょうか。

@エルサレムは、イエス様が十字架上で死なれ、
全人類の罪の買い戻し(贖い)が実現したところだから


Aエルサレムはイエス様が死んで復活されたところ
だから

 人が救いの恵みを受けるためには、イエス様の十字架の
身代わりの死を信じると共に、イエス様が死から復活された
ことを信じなければなりません。

Bエルサレムとは、「神の平安」という意味だが、真の平安は
イエス様を信じて受ける平安だから

 それはイエス様の十字架を信じる信仰のゆえに、神の裁きから
解放された平安と、復活の希望による死の恐怖から解放された
平安だからです。

 このようにエルサレム、つまり「十字架・復活・平安」に留まる
時に、それぞれの人生また家庭に平安が満ちるのです。


5月17日説教
説教題
「舟の右側に網をおろしなさい」
聖書箇所
ヨハネ21章1〜31節
   YouTubeオンライン礼拝

https://youtu.be/wvaWe2RASd4
   
<説教要旨>

 弟子のペテロたちは、故郷のガリラヤに戻りそこで元の
漁師の仕事をしていました。彼らは夜通し働いたが何も
取れませんでした。収穫が無く、疲れ果てた時に、復活
されたイエス様が現われました。
 イエス様は彼らに「舟の右側に網をおろしなさい」と命じ、
彼らがその通りにすると大漁でした。

 彼らはかつて、同じような経験をしています
    (ルカ5章1〜11節)。
 また彼らの召命のみことばは「わたしについて来なさい。
あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
    (マタイ4章18〜22節)でした。

 ペテロたちはその時のことを思い出し、再度召命に
導かれたことでしょう。そしてこのイエス様のみことばは、
以降のすべての宣教の働きの根幹を表わしていると言えます。

 また、人を救いに導く宣教の業は、人間の力だけでは
いくら働いても何の実を結ばないことを示しています。

燃え尽きたところへ、イエス様が来て下さいます。
 私たちもイエス様に助けを求め、指示されるお言葉通り
に従うことによってのみ実を結ぶことが出来ます。

 この経験は、その後の弟子たちの働きと歩みにとって
大きな支えになったことでしょう。結果が残らず働きに疲れを
覚える時、すでにイエス様がそばにおられ、助けを用意して
下さっていることを信じることが出来ました。世の終わりまで
共におられる主を見ることが出来ました。

 多くの魚がかかっても網が破れなかったのは、教会が
いつもイエス様によって守られていることを指します。また、
これ以降多くの弟子たちが全世界に出て行って人のたましいを
救いに導き、イエス様にあって一つとされることの約束です。

 さらにイエス様は、彼ら弟子たちのために炭火を起こし、
魚とパンを用意して待っておられた。主のために働く者に
休みと力を与えて労って下さる。行く先々に恵みを用意して
下さっている。
 またこの食事は、イエス様を中心とする聖餐の場であった。
聖餐は、十字架で死んで復活されたイエス様からの招きです。
それゆえ喜びに満ちたものです。


5月10日説教
説教題
「見ずに信じる者は幸い」
聖書箇所
ヨハネ20章24〜31節
   YouTubeオンライン礼拝

https://www.youtube.com/watch?v=nm0pTHCvMg4&t=73s

<説教要旨>

 復活されたイエス様は日曜日に弟子たちに姿を現わされました。
しかし、そこに「デドモ:双子」というニックネームのトマスが
居合わせませんでした。彼は直接イエス様にお会いすることが
出来なかったのです。今、集会を中止しているこのとき、改めて
集会の大切さをかみしめたい。

 他の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)と証ししても、
トマスはそれを信じることが出来ませんでした。彼はイエス様に
触って確かめることを求めました。

 このヨハネ20章で、マグダラのマリヤは復活されたイエス様に
お会いしているのに最初気づきませんでした(14節)。
弟子たちはイエス様を見てはじめて喜ぶことができました(20節)。

 トマスは自分には見えないと思っていたイエス様は、実は彼の
嘆きと悩みをお聞きになっておられたのです。イエス様は
一週間後の日曜には、再び姿を現わされました。それはトマスの
ためと言っても過言ではありません。

 イエス様はトマスに十字架上での傷跡をお見せになり、
「見ずに信じる者は幸いです」(29節)と言われました。トマスを
咎めるのではなく、トマスのところまで降りて来て、彼が信じられる
よう助けて下さいました。現代においても、その人が信じられるように
イエス様は寄り添って下さる場面を度々拝します。

 ここまでして下さったイエス様に対し、トマスはもはや触ることは
しなかったことでしょう。彼は「私の主、私の神」(28節)と告白しま
した。単にイエス様の復活を認めるだけではなく、「私の主、私の神」
と呼ぶ関係になること・・・これこそが31節に記された本書の目的
です。

31節「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、
また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため
である。」

 この栄誉がトマスに与えられた。彼はイエス様を信じ、自分の救い主・
神であると告白しました。まさに後なる者が先になった瞬間です。
 これは現代においても変わりません。イエス様を見て信じたトマスたち
よりも、見ないで信じた者の方がより幸いなのですから。


5月3日説教
説教題
「平安と派遣」
聖書箇所
ヨハネ20章19〜23節
   YouTubeオンライン礼拝
 
 https://youtu.be/rrGe5OgcEXY
 <説教要旨>

 復活されたイエス様が弟子たちに第一になさった
ことは平安を与えることでした。弟子たちはユダヤ人を
恐れ、固く戸を閉めて恐怖におののいていました。
 突然、イエス様が彼らの真ん中に立たれました。
復活されたイエス様は物質や時間に関係なく自由に
お働きになられます。

 イエス様は弟子たちに「平安があなたがたにある
ように」と言われました。これは通常の挨拶であり
ながらも、「神があなたがたにあらゆる良いものを
備えて下さるように」という意味が込められています。

 イエス様はこのみことばに続き、弟子たちに手と
脇腹を示されました。イエス様は十字架に釘打たれ、
ローマ兵に槍で脇腹を刺されました。しかし、イエス様は
復活された証拠として、その傷がいやされた跡を弟子
たちに見せたのです。弟子たちはそれを見て喜びました。
 現代でもイエス様にある復活の約束と喜びは、
私たちに不安と困難を乗り越える力になります。

 イエス様は弟子たちに平安を与えると、続いて遣わす
ことを宣言されました。今日でもキリストの弟子とされた者
には、神様からの尊い役割が与えられています。
 イエス様から派遣されるために必要なのは、聖霊を
受けることです(22節)。神は、人類の最初の人アダムに
のちの息を吹き込まれて、彼は生きる者となりました。
しかし、彼は罪を犯して栄光と地上における永遠の
いのちを失いました。

 そこで神はイエス様を通して私たちの罪を赦し、
イエス様と共に死に打ち勝つ「新しい人間」として
再創造してくださいました。イエス様はそういう私たちに
十字架による罪の赦しを伝える尊い役割を与えて
くださいました(23節)。

 私たちは呼吸を絶えずしていないと窒息してしまうように、
この役割を果たすためには絶えず聖霊の助けを頂か
ねばなりません。自らが罪赦され、きよめられた恵みの
体験を家族や周囲の人と分かち合って参りましょう。


4月26日説教
説教題
「共に歩まれるイエス様」
聖書箇所
ルカ24章25〜32節
    YouTube説教動画

 https://youtu.be/a1U_VM_MV9I

   <説教要旨>

 イエス様は聖書からご自分について二人の弟子に解き明かし
されました(25, 27節)。聖書全体がイエス・キリストを救い主だと
証言しています。イエス・キリストとは「イエスは救い主」という
意味です。神はイエス・キリストをこの地上に遣わし、罪から救わん
とするご計画を聖書に記し私たちに与えて下さいました。聖書
全部が大事です。聖書を千歳飴にたとえますと、どこを切っても
キリストが出て来ます。
キリストは必ず十字架の苦しみを受け、死んで復活される。
これが旧約聖書に予告されたことでした(26節)。

まずイエス様の方から二人の弟子に近づき、交わりを求められ
ました。今度は彼らがイエス様に一緒に泊まって下さるよう無理
に願い求めました(28,29節)。この切なる求めと深い交わりを
イエス様は喜ばれ、祝福して下さいます。

 夕べの食卓でイエス様はパンを割いて彼らに手渡されました
(30節)。イエス様は十字架で裂かれ、ご自身をいのちのパン
として私たちに与えようとされます。日ごとの食卓でイエス様を
覚えたいものです。

二人の弟子にイエス様のお姿が見えたり、見えなかったりする
のは、イエス様がいつも一緒にいて下さることを分かるように
されたからです(31節)。

二人はイエス様との交わりや聖書を開いて下さった時に、心が
燃えました(32節)。今日の私たちも祈りを通してイエス様と交わり、
神が聖書を通して自分に語って下さると受け止める時に、心が
燃やされます。私たちの心を燃やして下さるのは、イエス様の
私達人類への愛の炎です。


4月19日説教
説教題
「イエス様に目を開いて頂く」
聖書箇所
ヨハネ20章14〜18節
    YouTube説教動画

 https://youtu.be/wFA4WMNO1B4

   <説教要旨>

 復活されたイエス様が最初にご自身を現わされたのは、
マグダラのマリヤでした。なぜ彼女はイエス様の復活を
目撃するという栄誉に与かることが出来たのでしょうか。
 彼女はイエス様の体が納められたお墓が空っぽに
なっているのを確認しても、そのまま家に帰ることが出来
ませんでした。彼女は墓のそばで泣き続けていた。
 イエス様は涙を流してご自身を慕い求める者を決して
おろそかにはなさりません。イエス様は彼女の切なる
求めに応えて下さったのです。

 しかし、マリヤは復活されたイエス様にお会いしても、
それがイエス様だとは分からず園の管理人だと思い
ました。生前と復活後ではイエス様のお身体が違っている
からでしょう。
 イエス様が「マリヤ」(16節)と声を掛けられると、彼女は
イエス様だと気づきました。そして「ラボニ:私の先生!」と
返事をしました。現代の私たちもイエス様に目を開いて頂か
ねば、たとえイエス様と出会ったとしてもそれを認識できない
者なのです。

 マリヤがイエス様にすがりつこうとすると、それはよしなさい
と言われました。まだイエス様が父なる神の御許に上って
いないからだと理由を述べられました。そのことを弟子たちに
伝えるようマリヤに命じられました。彼女は確かにイエス様を
慕いつき従っていましたが、人間的な愛情の関係に留まった
ままでした。そうではなく、より高い霊的な関係に引き上げ
なければなりません。イエス様が父なる神の御許に上られると、
今度は助け主として聖霊が与えられることが予告されていた
のです。

 イエス様はもはや「ラボニ:私の先生」ではなく、「復活された
救い主」でした。科学が発達した現代においても、私たちは
死に対して無力です。愛する者の死の現実を前にマリヤと
同じように泣くしか出来ない者です。しかし、イエス様はこの
死という巨大な岩を打ち破って復活して下さいました。イエス様
の復活を世界で最初に目撃した証人として、彼女は弟子たちの
もとへ遣わされました。

 私たち一人一人もマリヤと同じように、きょう聖書を通し
イエス様から名前を呼ばれています。皆さんは何と応答される
でしょうか。それが神と自分(私)という人格の交わりであり、
信仰の原点なのです。イエス様は復活の新しい命を私たちに
与えんとしております。それは信仰を通して受けることが出来る
のです。

          

<過去の礼拝説教要旨はページ左側の
「過去の礼拝メッセージ」からご覧ください>



寺田末治牧師 召天賛美の集い
   2/23日 11:30〜12:00

 20日に召天された寺田師の遺言に従い、
 23日の礼拝に続いて記念会を行いました。



《久保川教授ご講演会について》
  
  時期をみて再度日程調整を行います。


  <昨年(2019)年の催し>


《マジックショー 12月1日()
 プロマジシャンフーガさん&はるかさん
  
 昨年に続き、今年もプロマジシャンのフーガさん・
はるかさんご夫妻がマジショーを行って下さいました。

☆9時30〜10時 教会学校にてテーブルマジック
☆10時30〜12時 礼拝の中でお証し
☆13時30〜14時30 マジックショー
☆14時30〜15時30 ティータイム

           
             
           
                   


 《一般高齢者向けの講演会》
  
日本保健医療大学教授の久保川真由美先生による
一般向けの講演が当教会で行われました。

 ◇タイトル「健康に老いるために
          ――老いと老年病――」
 ◇日時 10月27日(13:30〜14:30
 ◇会場 幸手キリスト教会
 ◇入場無料 

《久保川先生からのメッセージ》
 長寿社会日本では、100歳高齢者が7万人を超え、
国内最高齢が116歳と、人間の限界寿命に達する
状況になって来ました。「ピンコロ」と逝きたいもの
ですが、しかし、高齢期になると、老年病に罹りやすく
健康を害することが多くなります。健康長寿を保つに
秘訣はあるのでしょうか? 一緒に考えてみましょう。

《講師プロフィール》
 日本保健医療大学保健医療学部看護学科 教授
 老年・在宅看護額領域


                     



※当教会はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。
お困りの方はご相談ください。

幸手キリスト教会

〒340-0121
埼玉県幸手市上吉羽97−4

TEL 0480-42-1075