Satte christ church



   

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お知らせ

          日曜の集会



  

9:30〜10:00  教会学校
(乳幼児から中高生が対象)
月刊誌「ハッピー月号を掲載しました!




聖日礼拝 毎週日曜10:30〜12:00
 
 
5月5日
 聖日礼拝

説教題
「たましいの贖い主」


聖書箇所
ヨブ記33章18〜28節

 礼拝に続き、聖餐式と子ども
祝福式が行われます。

どなたでも
  お気軽にお越しください。




<過去の説教要旨>

4月14日聖日(受難週)礼拝
「十字架上の祈り」
ルカ23章33〜43節

1)罪の赦し
聖書には、イエス様が十字架で語られた
ことばが7つ記録されています。その最初の
言葉が「父よ。彼らをお赦しください。彼らは
何をしているのか自分で分からないの
です。」(34節)との祈りでした。

イエス様の十字架刑は私たち人類が犯した
罪の赦しのためであったことが明らかにされ
ました。イエス様は自分を救おうとせず、罪を
犯して神の敵となった私たちのために神の
御前でとりなし、救いの御業を成し遂げようと
されたのです。
イエス様のこの祈りは、何と愛に満ち、私たち
聞く者に悔い改めを迫るものでしょう。この祈り
の招きによって、今まで全世界で数多くの
人たちが神に立ち返って来ました。

このような中で悔い改めたのは、イエス様の
両側で十字架につけられた強盗のうちの一人。
彼は神を畏れ、自分の犯して来た罪の多さを
自覚していました。私たちにとって良い行いを
することや、良い人になること以上にはるかに
大事なことは、イエス様の十字架を通して
神様に赦して頂かねばならない罪人だと自覚
することなのです。

2)いのちの保証
悔い改めた強盗はイエス様に「あなたの御国の
位にお着きになるときには、私を思い出して
下さい。」とお願いしました。するとイエス様は
即座に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイス
(楽園)にいます。」(43節)と約束されました。

このように死の間際に置かれた者であっても、
イエス様はご自分の名前を呼び求める者の
魂を瞬時に救って下さいます。
そして彼はもはや十字架から降りることを願い
ませんでした。いま死んでも永遠の御国で
イエス様に自分を思い出して頂くことを願いました。
彼は魂においてはパラダイスに住むことを許され、
肉体においては十字架上でイエス様と激痛を通り
ました。これは永遠のいのちが保証され、イエス
様と共に十字架を負うクリスチャンの歩みを物語
っています。現代を生きる私たちもイエス様の救い
を頂き、困難に打ち勝つ力が与えられるのです。


4月7日 聖日礼拝
「天国と復活の予告」
マルコ12章18〜27節

 これから十字架に掛からんとするイエス様に
対し、サドカイ人がからかい半分の質問を
しました。「7人の兄弟が1人の女を次々に妻と
して死んだ場合、復活の際には誰の妻となる
のか?」
サドカイ人とは祭司職でありながら政治的に
有力なグループで、復活や霊の存在、天国
などを否定していました。旧約聖書の最初の
5書(モーセが書いたとされる創世記〜申命記)
以外は聖書と認めませんでした。

 しかし、イエス様は天国をはっきりと明言され
ました。「そんな思い違いをしているのは、
聖書も神の力も知らないからではありませんか。」
 サドカイ人たちは先にラザロのよみがえりや
イエス様が復活の予告をされたことを見聞きした
にも関わらず、反対の意見を持ってきたのです。
個人や社会、国家の問題もすべての思い違いの
多くは聖書のことと神の力とを知らないことに
原因があります。

 イエス様は出エジプト記3章のみことばを引用
されました。「『わたしは、アブラハムの神、
イサクの神、ヤコブの神である』とあります。」
神は昔も今も生きておられるだけでなく、肉体の
死を迎えたユダヤ人の祖先アブラハム、イサク、
ヤコブも神の御前で生きていると言われたのです。

 私たちもサドカイ人のように聖書全体を読まない
でいると誤った信仰姿勢を取る可能性があります。
聖書全体を読んで健全な信仰を持つよう心掛け
たい。
 また、神の力は日々の信仰生活の中で体験
するのではなければ、サドカイ人のように神の
御業を否定することになりかねません。

 それゆえ私たちは「イエス様、私は聖書と神の
力とをまだまだ良く知りません。どうぞ教え体験
させて下さい」という姿勢を取るべきです。
イエス様のみことばを信じて歩む時に、生きる力・
困難に立ち向かう力が日ごとに与えられます。
それだけでなく、来るべき天国のために準備が
成されていることをも忘れないようにしましょう。


3月31日聖日礼拝
「主イエスの涙の入城」
 ルカ19章41〜46節

 イエス様はロバの子に乗ってエルサレム
郊外のオリーブ山に到着されました。
十字架刑に掛かられる4,5日前のことです。
イエス様は軍隊の王としてではなく、平和の
君として来られたのです。
ところが、人々は何度もイエス様の福音を
耳にしながらその真意が分からず、自分の
都合の良いように考えてイエス様をお迎え
したのです。

 イエス様はエルサレムをご覧になって涙を
流されました。それは約40年後にエルサレムが
滅亡することを見通してその悲惨を嘆かれた
からです。人々は自分の運命を知らずに
「平和だ、安全だ」と平気でいましたが、愛の
主イエス様は人々の末路を知ってもだえ
苦しまれたのです。
イエス様の涙は、人々に悔い改めを迫る
憐れみの表われでした。

 イエス様はエルサレムに入城して神殿に
入られると、商売人たちを追い出して言われ
ました。「わたしの家は、祈りの家でなければ
ならない。」
いわゆる「宮きよめ」です。一度目はユダヤ
伝道の初期(ヨハネ2:14〜17)、その3年後に
神殿は再びきよめなければならない状態に
陥っていました。神殿も神礼拝からほど遠く、
境内での物売りや両替は暴利をむさぼるもの
となっていたのです。まさに口先では神を敬う
が、心は神から離れ去っていました。一度きよめ
られてまた堕落すると、以前よりも更に悪く
なってしまうのです。(マタイ12:45)

 神は数千年に渡って預言者をイスラエルに
送って、罪の赦しによる神との和解の道を示して
下さいました。しかし、人々はそれを無視し、
追い出して来たのです。そこで神は最後に、
そのひとり子イエス様を平和の君として地上に
お遣わしになられました。神は誰一人として
滅びること(永遠に神と別離してしまうこと)を
望まず、憐れみを注いで下さるお方です。
イエス様は十字架による赦しによって、私たち
人間に神と和解する道を与えるために来られ
ました。

 先ず私たち一人一人が自分の信仰姿勢を
点検しましょう。本当に神を敬っているでしょうか、
自分の利得のために信仰を利用していないで
しょうか。そしてイエス様がエルサレムのために
泣かれたように、私たちも多くの人々の救いの
ために涙を流す者となりたいものです。


3月24日聖日礼拝
「救いのみことば」
 ヤコブ1章21節

「ですから、すべての汚れやあふれる悪を
捨て去り、心に植えつけられたみことばを、
すなおに受け入れなさい。みことばは、
あなたがたのたましいを救うことができます。」

 私たちの内面の罪は、言葉となって外に
表われます。相手の話をよく聞くことは、相手に
価値を認めることなのです。一方、自分ばかり
しゃべり過ぎてしまことは、それは自己中心の
表われなのです。それは往々にして怒りと結び
ついてしまうものです。神様にある正義の怒りで
なく、自分の価値が認められなかったゆえの
自己中心から来る怒りは、神のご計画を妨げて
しまいます。

 そこで本書は「すべての汚れやあふれる悪を
捨て去り」なさいと勧めています。具体的には
良心に痛みを覚える過去の言動を、イエス様の
十字架の前に告白して赦しを求めることです。
 そうすると、イエス様はすべての悪を赦して
きよめて下さいます。

 悪が心から取り除かれると、すでに心に植え
付けられていた聖書のみことば(キリストのことば)
が力を発揮し出します。その人が素直にみことばを
神の御心として信じ受け入れる時に、みことばが
魂を救うことが出来るのです。みことばには人を
罪の滅びから救い出す力があるからです。

かつては汚れや悪が心から溢れていたのに、
みことばの示す方向に従って生活していくと、
今度は永遠のいのちが与えられた喜びと力が
溢れ出るようになります。


3月17日聖日礼拝
「一粒の麦がもし死ねば」
 ヨハネ12章20〜26節

過ぎ越しの祭りを前に、ギリシャ人
たちがイエス様への面会を希望し、
弟子のピリポとアンデレは連れ立って
イエス様にその旨を伝えました。
このようにイエス様のもとへ人々を
お連れする配慮は、その人々への
愛の表われです。

 なお、ギリシャ人たちがイエス様への
面会を希望した動機は、イエス様を
彼らの住む地方にお迎えしたかった
からです。 
 彼らの求めに対し、イエス様は「一粒
の麦」としてご自分が死ぬことを教えました。
イエス様が全人類の罪を負い、一粒の
麦として十字架上で死ぬことによって
救いが完成するのでした。

 そのイエス様を救い主として信じる者は、
イエス様と共に十字架で一度死んだ者です。
神を知らず、罪の中に生きていた古い自分が
そこで裁かれて死に、イエス様の復活と
共に新しく生きる者とされたからです。
 救われて後も絶えずこの救いを意識し、
自分をイエス様に献げていかねばなりません。
それは自己中心に生きるのではなく、イエス様
中心に生きることです。そうすると、自分の
計画の質も形も変えられて、神に用いられる
ようになります。

 イエス様は「仕えたいというなら、その人は
わたしについて来なさい」と言われました。
従うとは自分を第一にしないで、神(キリスト)を
第一とすることです。そうした時に、その人は
イエス様がおられるところにおり、神がその人に
報いて下さるのです。


3月10日聖日礼拝
「キリストこそ私たちの平和」
 エペソ2章11〜22節

聖書は、人の幸せの根底には安心・
平安がなければ本当の幸せではないと
言っています。それを実現するお方が
イエス・キリストです。そのイエス様は、

@平安を与える
神から離れた人間には真の平安があり
ません。なぜなら罪から来る不安がある
からです。
 本書が書かれた当時のユダヤ人は、
神に民であると言いながら心は神から
離れ去っていました。自分たち以外の
異邦人(外国人)を悪い者と見ていました。
 そこへイエス様が来られて、ユダヤ人も
異邦人もイエス様によって近づくことが
できるようになったのです。イエス様は平和
そのものです。イエス様による平和は、
与えられたその人自身が安心・平安で
あるだけでなく、同時に周囲の人々まで
平安にする力があるのです。

A和解させる
 人の犯した罪によって神と人の関係は
断絶してしまいました。イエス様は神と人とを
和解させるため、十字架を負われました。
それだけでなく、罪によって仲たがいが
起きる人間同士をもイエス様は十字架に
よって和解させて下さるのです。

B神の家族にする
  「イエス様を信じて救われた」ということは、
「神の家族とされた」ことをも意味します。
それを建物にたとえると、土台がイエス様、
その上に預言者や先人の信仰者たち、
その上に私たちが建て上げられて行きます。
この建物(教会)の中に神がお住いになられ、
栄光が現わされます。イエス様の十字架に
よる平和が私たち同士の中にあるならば、
この建物は必ず世の終わりまで成長して
いきます。

平和のないところには、真の幸福はありません。
イエス様にある平和(シャローム)を求めて
歩んで参りたいものです。





「キリストによって、からだ全体は、一つ一つ
の部分がその力量にふさわしく働く力により、
また、備えられたあらゆる結び目によって、
しっかりと組み合わされ、結び合わされ、
成長して、愛のうちに建てられるのです。」(4:16)

教会は、人間が作り出したものではなく、
神の愛と真理が私たちの生活の中に実現する
という「神の目的」ために、「神の計画」によって
生み出されました(エペソ1章)。

1 神の愛と真理
 人が、罪によって失った、神の愛と真理に
生きる道を、イエス様は、十字架の贖いによって
回復してくださいました。教会は、そのイエス様に
よる救いを全世界に表すために、存在しています。

2 教会を支えるもの
その教会は、二つの神の恵みによって守られ、
神に敵対する様々なこの世の罪の力に勝つことが
出来るのです。
@神の愛と真理  体(教会)、御霊、召しに
よる希望、主、信仰、バプテスマ、父なる神。
この七つの真理の言葉こそ、教会の土台です。
A神の秩序 しかし教会は、この真理の
言葉を見失わないために、神による秩序を必要と
しています。使徒、預言者、伝道者、牧師、教師と
呼ばれる人々、すなわち聖職者の制度です。
この秩序が守られず、聖職者が軽んじられることを
神は決してお許しにはならないのです(民数記16章、
使徒6:2、他)。

3 神の愛実現の教会
 神の愛の実現は、教会や家庭での「言葉の生活」
に最もよく表れます。人は罪のため、神の真理を
愛から切り離して勝手に使うようになりました。
愛から切り離された「冷たい真理の言葉」によって、
この世では、限りない争い、憎しみが絶えないのです。
そして教会も、常にこの危険にさらされています。
しかし、神の愛と真理が、教会の秩序の中で
守られる時、「キリストの体」と呼ばれるのにふさわしい
「神の愛実現の教会」が建てられるのです。


2月24日聖日伝道礼拝
「その水を私に下さい」
 Tヨハネ4章1〜15節

イエス様は、炎天下で井戸のそばに腰を
掛けていました。そこでサマリヤの女が
水がめを抱えて水を汲みに来ました。
通常は朝夕の涼しい時間帯に水を汲みに
来るのが普通でした。女は心の闇を抱えて、
人目をはばかっていたからです。

イエス様はのどの渇きを覚え、女に「私に
水を飲ませて下さい」(7節)と語り掛けました。
この姿は神であるお方が人間の世界に来て、
私たちに救いの言葉をかけて下さる謙遜さ
(へりくだり)を物語っています。イエス様の
渇きは人の魂を救わんがための激しい渇望
でした。
一方、水がめを抱えた女の渇きは、魂が
渇いていることを物語ってます。 

 女はユダヤ人のイエス様が声を掛けて
下さった事に驚きました。当時、ユダヤ人と
サマリヤ人の間には憎しみと対立があった
からです。イエス様は神と私たち人間の
架け橋となって下っただけでなく、人間同士の
架け橋にもなって下さったのです。

 続いてイエス様は女が誰にも触れられたく
ないと頑なになっていた、心の闇に光を当て
ます。女は過去に5人の夫を次々に変え、
いま一人の男と同棲しています。しかし、夫を
替えても魂の渇きは致されませんでした。
なぜなら罪の解決なくしては、神から祝福された
人生を歩むことが出来ないからです。それは
自分の力では解決できないのです。イエス様
だけが十字架で解決して下さったのです。

 彼女の抱えている水がめは、彼女の人生
そのものだったのです。「自分」の象徴が水がめ
でした。井戸の水は一時的には渇きを潤す。
しかし、井戸の水を汲んでも汲んでもまた渇き、
孤独は癒されなかったからです。
 渇いた魂に新鮮な水を注いで潤して下さる
お方は、イエス様です。霊と真実(聖霊と
イエス様)によって、神を礼拝する場所する時に、
尽きない恵みの泉がその人の内から湧き出て
くるのです。
 
 彼女はイエス様が自分の悩みを見抜かれ、
罪を赦して下さっているkとを知ると、水がめを
イエス様のみともに置きました。それは人生に
おける罪の重荷をイエス様のみもとに捨て
置いたことを意味します。やがてイエス様はこの
重荷を負い、十字架に掛かられました。


2月17日 聖日礼拝
「心を注ぎ出す祈り」
 Tサムエル1章10〜20節

エルカナには二人の妻がいました。ハンナと
ペニンナです。ハンナには子供が無く、ペニンナ
には複数の子どもが与えられました。ペニンナは
ハンナを憎み、子どものことでハンナをいじめた
のです。
 そこでハンナは神殿で泣きながら祈りを神に
ささげました。彼女の姿から神に喜ばれる祈りの
姿勢を4つ。

1)舌を制した
 ハンナはペニンナの愛の無い言葉に傷ついて
いました。しかしハンナは仕返しをしたり、神や
夫に不平を言うことはありませんでした。彼女は
舌を制する人でした。
言葉にならないような深いうめきをもって祈りを神に
ささげていたことによって、祭司エリからは酔っぱ
らっているのだと誤解されます。しかし、誤った
見方をした相手を感情的になって責めず、自分の
気持ちや祈っている理由を説明しました。

2)神に心を注ぎ出した
 ハンナは神の前に出て、心の中にある真実をあり
のまま涙と共に注ぎだしました。確信を得るまでは
退かない決意をもって祈り続けました。
その結果、目に見えるところでは何一つ解決して
いないにも関わらず、ついに彼女は祈りの内に勝利
を得、また祭司エリの言葉で確信を強めたのです。
イエス様も十字架上で祈りの手本を示されました。
 「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を
死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と
涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔の
ゆえに聞き入れられました。」(へブル5:7)

3)神に子供をささげる素晴らしさを知っていた
 ハンナは神と共に歩む人生の素晴らしさを体験して
いました。それゆえ彼女は神の前に誓願を立て、
与えられた子供の一生を神にささげることにしました。
彼女が子供を求めたのは、子どもを通してますます
神に仕えるためでした。

4)神の恵みを忘れなかった
 ハンナは与えられた子供に「サムエル」と名付け
ました。「サムエル」とは「神の名」、「私が神に願った
から」という意味があります。子供の名を呼ぶ度に神の
恵みを忘れないようにしたのです。


2月10日 聖日礼拝
「愛のとりなし」
 使徒19章26〜28節

サウロはかつてクリスチャン達を激しく迫害した
人物でした。ダマスコの町へクリスチャン達を
迫害しに行く途中、突然イエス様の御声を聞き、
心を照らされ、彼は回心しました。すると彼は
すぐに伝道を始めました。

 その後サウロがエルサレム教会に行き、
弟子たちの仲間入りをしようとしたところ、弟子
たちの方で彼を恐れました。彼の回心が本物
だとは信じてもらえなかったのです。
回心した人の古い悪を覚えてその人を疑ったり、
恐れたりするのはイエス様から出た態度では
ありません。人の狭い心から出たものです。
 
 そんな時、バルナバは愛をもって忍耐強く
サウロが仲間に入れるようとりなしをしてくれました。
サウロの回心後の言動を証言したのです。
バルナバは聖霊に導かれ、サウロが将来イエス様に
よって大いに用いられる器であることを見抜いて
いました。
何よりもバルナバは"自分がどんなところから救われた
のか"を思い、イエス様による救いを喜んでいたので
しょう。

バルナバのようにイエス様にしっかりと結びつき、
聖霊の導きに聞き従う人はイエス様の愛を深く受け
止め、疑いや恐れることなく、すべてを期待し相手を
信頼することが出来るのです。(Tコリント13章参照)

 サウロがいくら有能であり、旧約聖書に通じていても、
教会の交わり無くしては信仰が成長しないし、霊の
状態が衰えて行きます。それは教会のかしらがイエス様
だからです。バルナバのとりなしによって異邦人に福音を
宣べ伝えるすばらしい器が見出されたのです。

 サウロの名前は、イスラエルの初代の王の名に
ちなんでいます。「サウロ」とは「求める者」との意味
です。ところがサウロは後に自分のことをニックネームで
「パウロ」と紹介しています。「パウロ」とは「小さい者」
という意味です。彼がどれだけイエス様の救いを喜び、
そのしもべとされたことを感謝したかが伺い知れます。

 私たちも自分がどんなところから救われたのかを
改めて思い返して喜び、今度はバルナバのように
イエス様から頂いた愛と忍耐をもって、後に続く人の
ためにとりなす者とされたい。


2月3日 聖日礼拝
「神の国とその義とを
まず求める」
  マタイ6章30〜34節


今日あっても、明日は炉に投げ込まれる
野の草さえ、神がこれほどに装ってくだ
さる。まして、あなたがたに良くしてくださ
らないわけがありましょうか。
 
2/3玄関先に咲いて(生えて!?)いた野花


1月27日 聖日伝道礼拝
「神が与える真の愛」
  Tヨハネ4章7〜10節

@神は愛の根源
「愛は神から出ているのです」(7節)、「神は愛だからです」
(8節)と、愛の根源は神であることが示されています。人の
愛情は神の愛の反映にすぎません。しかし、人は愛する時に、
いちばん神のご性質に近いのです。
 しかし、神の愛が無ければ人の愛(家族愛や兄弟愛、
男女の愛)などは自己中心的でみにくいものに簡単に変わる
可能性があります。人が神の愛を持つ時に、これらのものは
真に良きものとなるのです。

A神の愛とは救い
 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、
いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに
示されたのです。」(9節)

 神の愛は相手を尊敬し、相手が生きられるようにしてあげる
ものです。このように相手を第一に考えられるような愛を人は
生まれつき持っていません。神の愛は神のひとり子イエス・
キリストがこの世に遣わされたことによって、私たちに示された
のです。

 「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの
罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。」(10節)
 私たちが神を知るようになるのは、ただ神の愛によるほかは
ありません。それは"イエス・キリストがこの私の罪の身代わりに
十字架に掛かった"という事実を認め、その救いを信じることです。
ですから、「神の愛」とは「救い」のことなのです。神からの最高の
プレゼントはイエス様なのです。

 イエス様によって自己中心の罪を赦しきよめて頂いて、神が人の
心に宿る時にのみ人は真に愛し合えます。イエス様によって
自分の価値を真に見出す(自分を受け入れる)と、もはや自分
自身にこだわらず、人の益を喜んで優先できます。そして隣人たち
にも神の愛を知って欲しいと願うようになるのです。



1月20日聖日礼拝
 「神の刈り込み」  田沼師
   ヨハネ15章1〜9節

 イエス様はブドウの木のたとえ話をされました。
ブドウの木はイエス様、私たちはその枝、刈り込みをする農夫は
神だと言われたのです。

 イスラエルは神がお植えになった純良種の良いブドウでした
(エレミヤ2:21)。しかし、イスラエルは神を捨て去り周辺国の偶像を
拝みました。イスラエルは質の悪い雑種のブドウに変わって
しまったのです。

 イスラエルだけでなく現代の私たちを含めて、枝であるすべての
人々が信仰によってイエス様というブドウの木につながらないと
良いブドウの実を結ばせることが出来ないのです。

 ここで「実」(2節)とは次の3つを指します。
@悔い改めの実(マタイ3:8)   悔い改めにふさわしい歩み
A品性の実  (ガラテヤ5:22〜24)御霊に導かれ品性が備え
                     られる
B奉仕の実  (ピリピ1:22他)  奉仕として働きが表わされる

私たちがこうした実を結ぶためには、ブドウの木であるイエス様に
つながっていなければなりません。「つながる」とはブドウの木と
枝が結びつき、樹液が循環するように、日々イエス様と交わること
です。具体的にはイエス様の十字架の救いに表わされた愛の中に
生活することです。すると必ず良い実が結ばれるのです。

農夫である神は、私たちに良い実を結ばせるために剪定されます。
実を結ばない枝を刈り込まれるのです。もし刈り込みをしないと枝
ばかり自分勝手に伸びて養分が分散し、貧弱な実しか結ばないの
です。
実際生活の中で起きた「損失」を思い巡らして下さい。その多くは
神がこの刈り込みをされたがゆえに起きたことではないでしょうか。

農夫である神は最後にブドウの実を収穫されます。私たちは多くの
実を結んで神の栄光を現わすために生かされています。私たちは
ブドウの木であるイエス様を離れては何もできません(5節)。自分の
無力を真に知ると共に、いよいよイエス様と固く結びつき、もっと豊か
に実を結ばせようと祈り求めて歩んで参りたいものです。

 


                           



※当教会はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。
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