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       5/22update

 

毎週日曜の集会

☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆

各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
消毒を行ってください。
 発熱のある場合は集会出席を控えてください
・受付で検温し、受付簿に記名と検温結果を記載
願います。

・礼拝堂の人数は15名までとし、超過した場合は
食堂などへ分散します。
・礼拝は10:30-11:15と時間を短縮します。
・席については前後左右を空けるようにし、
1テーブルにつき1名が座るようにします。
窓やドアの開放に加え、換気扇と扇風機により
常時換気を行います。
・各テーブルに週報を置きますので、その位置に
着座してください。
 ↓白紙で例示しました  飛沫防止用のアクリル板
       
・各自水筒などを持参し、水分補給してください。

昼食や午後の集会は当面見合わせます。


 
9:30〜9:45  教会学校
(乳幼児から中高生が対象)月刊誌「ハッピー月号掲載
 
10:30〜11:15 礼拝
  
5月29日聖日礼拝 晶子師
説教題
      「わたしを見る」
聖書箇所
       
   ヨハネの福音書14章15〜26節
5月22日聖日伝道礼拝 晶子師
説教題
「必ず生きる」   
聖書箇所
       
    申命記4章1〜8節
申命記はモーセの告別説教であり、説教が主要部分を占めています。
また申命記全体の鍵語となるのが「聞け」「従え」「覚えよ」です。モーセはイスラエル
の民に「必ず生きる」ために必要なことを明確に示しました。自分にとって「生きる」
とは、どういうことでしょうか。聖書で言う「生きる」は、私たちが1人も滅びることなく
「必ず生きる」生き方です。

@神のことばを聞く(1)
 申命記で語られている重要な教えの1つに「主は私われわれの神、主はただ一人
である」(申6:4)と唯一の主であることです。その上で、神が願っているのは「ひとりと
して滅びることなく、永遠のいのちを持つ」(ヨハネ3:16)こと、つまり「必ず生きる」です。
そのために必要なことは「神のことばを聞く」ことである、と言うのです。「聞く」とは、ヘ
ブル語で「聞いて具体的な行動に移すこと」の意味が含まれています。神のことばに
生きることが「必ず生きる」永遠のいのちへとつながっていくのです。歴史の事実を
振り返って、バアル(偶像の神)に従った者は根絶やしに。しかし神にすがって…しが
みついてきた者は生きている!と。神のことばを聞く(聞き従う)時に、人間は神に反抗
してしまうのです。自らの経験、地位、価値観などを優位にし、神のことばに背を向け
てしまいやすいのです。自分のありのままの姿を認めて神の前に悔い改め、神のこ
とばに聞き従う時、私たちは知恵と力を頂き、所有しようとしている未来の地(永遠の
いのち)の真ん中に、知らずの内に歩む者とならせて頂くのです。

A神がいつも近くにおられる(7)
 「神のことばに聞き従う」ことを自分の決断や、力で成し遂げることは難しいことです。
自分1人でできる!と言い切れる方は、神を必要としていないのではないでしょうか。
神の前に救いを求める(悔い改め)があってこそ、神のみわざが大いに実現していくの
です。その為にも神が「近くにおられる」のです。私たちを裁くためでなく、救うために
「いつも、近くに」です。このことをこの地上で実現して下さったのがイエス・キリストです。
イエスの十字架による救いによって、偉大な国民とされたのです。まさしく「このような
神を持つ偉大な国民が、どこにあるだろうか」(7)ではないでしょうか。「必ず生きる」生
き方を示して下さった神に感謝します!ハレルヤ!!
5月15日聖日礼拝 晶子師
説教題
「神への賛美」   
聖書箇所
       
   ヨナ書2章1〜10節
逃避の預言者、祈りの、服従の、不満の預言者としての姿が聖書から読み取るとが
できるヨナ。神にニネベへ行くように命じられましたがタルシシュに逃れたのです。そ
のタルシシュに向かう途中、海に激しい暴風が起こり、難破しそうになりました。そこ
でだれのせいで、この災いが私達に降りかかったかくじを引くことにしました。すると
ヨナに当たりました。ますます荒れてきたので、ヨナは「私を海に投げ込みなさい」と
言い、彼らはヨナを海に投げ込みました。すると、海は静かになり、ヨナは神が備え
てくださった大きな魚に飲み込まれたのです。ヨナはそれから三日三晩、魚の腹の
中にいました。魚の腹の中で、ヨナはどのように過ごしたのでしょうか。

@祈ったヨナ(1)
 「水は、私ののどを絞めつけ、深淵は私を取り囲み、海草は私の頭にからみつき」(5)
と言うように、死をも覚悟せざるを得ない状態です。何もできない自然界での恐ろしさ以
上に、ヨナは神の裁きであることも「あなたは私を海の真ん中の深みに投げ込まれました。
〜あなたの波と大波がみな私の上を超えて」(3)と祈りの中で強調しています。死の絶望
の中で、ヨナは祈ったのです。それも神に対しての悲しみ、怒りではなくまず神に「もう一度、
私はあなたの聖なる宮を仰ぎ見たいのです」(4)と救いを求めた(悔い改め)のです。ヨナの
祈りには、詩編が9つ引用されています。ヨナは聖書に書かれているみことばを用いて
祈った。つまり、神のことばであるみことばを信じ、みことばには力があることを確信して
いたからではないでしょうか。みことばは祈りの力であり盾です。
 ヨナの祈りは救いを求めた、神の前にへりくだった祈りであり、神のことばを信じた
力強い祈りだったのです。

A神への賛美(9)
 死の絶望の中で、最後の瞬間とでも言うべき時に「主を思い出した」(7)と。思い出した
のは、主のみわざや約束でなく、主ご自身だったのです。「私の神、主よ」ともあるように、
自分にとって神がいかなる存在であるか、神への信頼を思い出した時に、自分の祈りは
神に届いた、という確信に押し出されたのではないでしょうか。その時ヨナは「感謝の声を
あげて」と神への賛美に満たされたのでした。さらに「救いは主のものである」、救いは主
から来ることを確信したのです。ヨナの悔い改めが神への賛美へとつながっていきました。
「私の誓い」(9)は具体的に書かれていませんが、後のヨナの行動を通して知ることができ
ます。それは神の命令に従って、どこにでも行きます、ではないでしょうか。祈りの後にヨナ
は、神の命令によって魚の口から吐き出されました。そして、最初に行かなかった神の命令
「ニネベの町に行き、わたしがあなたに告げることばを伝えよ」に、従ってニネベの町に行っ
たのです。
 私たちも日々の生活の中で、神を賛美するには、まず神の救いを求める悔い改が必要で
あることを学びました。主の前にひれ伏し、神への賛美で満ち溢れさせて頂こうではありま
せんか!
5月8日聖日礼拝 晶子師
説教題
「目を開いて、見えるように」   
聖書箇所
       
    第U列王記6章8〜23節
アラムの策略を見抜きイスラエルの王に忠告を与え、アラムの策略は何度も失敗に
終わってしまいます。自分たち中に密告者がいるのではないか、アラム王は怒りに
燃える中、家来が預言者エリシャが策略の失敗の原因であることを伝えました。
アラム王の怒りの矛先は、エリシャに向かいました。多くの馬、戦車、大軍を送り、
一夜にしてエリシャがいるドタンの町を包囲してしまいました。さあ、この戦いの結末
はどうなったでしょうか。
@目が見えない状態(15)
 「目が見えない状態」とは、肉体的に考えると暗闇です。光が全くない暗闇です。
霊的に考えても「目が見えない状態」とは、光がない、つまり救いがないと捉えるこ
とではないでしょうか。アラム王の怒りによって送り出された強力な軍備の大軍が
自分たちを包囲している、逃げ場がない、どうすることもできない押し迫った状態。
召使ががエリシャに「どうしたらよいのでしょう」と恐怖の叫びを挙げます。目の前の
現実のみを見て、何を見るべきか、わからなくなってしまっている。「死の綱は私を
取り巻き、滅びの川は、私を恐れさせた。よみの綱は私を取り囲み、死のわなは
私に立ち向かった」(詩篇18:4,5)。これは敵のサウルの手に恐れを抱いていた時の
ダビデの思いです。目の前の現実のみに心を奪われてしまう時、私たちは恐ろしい
恐れ、不安に支配されてしまいます。そしてエリシャの召使のように「どうしたらよい
のでしょう」と叫ばざるをえない、目が見えない状態になってしまうのです。
A目が開かれた状態(17)
 目が見えない状態にいる召使に「恐れるな」とエリシャは言います。これは自信を
持て!ということではなく、見るべきものを見なさいと言う事なのです。そこで「彼の目
を開いて、見えるようにして下さい」(17)と、エリシャは神に祈ります。するとどうでしょ
うか。「火の馬と戦車がエリシャを取り巻いて山に満ちていた」(17)のです。これは神
の臨在、守りとは、いかなるものかを幻で見る時が与えられたのです。何か出来事
に合う時、私たちはついつい、目の前の出来事に圧倒されてしまわないでしょうか。
目の前の出来事をしっかりと捉えることも大事ですが、まず私たちが見るべきものは
「火の馬と戦車」である神の臨在なのです。肉の目でなく、霊の目が開かれていると、
どのような時にも神の臨在が最大の武器、力であることを確信し、平安のうちに進め
るのです。
B最大のもてなしをした(23)
 攻めて来たアラムの軍勢は、エリシャの祈りによって目が見えなくなって、イスラエル
の捕虜となってしまいました。エリシャの言葉に導かれて目が開かれた時には、勝利者
としてサマリヤの真ん中に立つ予定でしたが、捕虜として立つことになったのです。しか
し、そこで最大のもてなしを受け、アラムの国に帰ることができました。私達を最大のも
なしで迎えて下さったのは、イエス・キリストです。罪ゆえに滅ぶのが当然である私た
ちに、全き愛イエス・キリストを与えてくださいました。1人でも多くの方が救われるため
にも、キリストの愛をもって最大にもてなしをする者とならせていただこうではありませ
んか。その為にも「わが目を開いて、見えるように」と日々祈ることができますように。
5月1日聖日礼拝 晶子師
説教題
「からの器を」   
聖書箇所
       
    第U列王記4章1〜7節
エリシャのしもべであった夫が死に、借金も返せないでいると債権者
が2人の息子を奴隷にするためにもうすぐ来る、といった切迫感のただ中でやもめは、
エリシャに救いを求めたのです。エリシャは「あなたのために何をしましょうか」と叫びに
応えた時、やもめは自分の家には何もない事、あるのは油の1つぼであることを伝えま
した。そこで「からの器を」人に借りてでも、数多く持ってくるようにエリシャは言いました。
この箇所から多く学び取ることができますが、今朝は3点学びたいと思います。

@油のつぼが1つある(2)
 夫が死に生活が困窮していた中、エリシャに持ち物を聞かれて「油のつぼ1つしかあり
ません」と答えました。彼女にとっては「1つしか」だったかも知りませんが、神の前には、
そうではないのです。「1つある」ことが大事なのです。イエス様も多くの群衆(約5千人)の
人々に対して、1人の少年が差し出したパン5つと2匹の魚に対して「それを、ここに持っ
て来なさい」と言われ祝福し、集まった群衆のお腹を満たすほどになったのです(マタイ
14:13~21)。困窮している現実のみを見るのでなく、今自分に与えられている現実も見るこ
とが大切ではないでしょうか。神の前に自分が持っているもの、立場、才能など神の前に
差し出す時、神のみわざが始まっていくのです。

Aからの器であること(3)
 エリシャは1つや2つではなく、できるだけ多くの「からの器を」隣の人みなから借りてくる
ように指示したのです。「からの器」である、ということはそれだけ器の中には沢山、油が入
ります。神様の祝福を待ち望む時、私たちは先ず自分自身が、神の前に「から」になること。
つまり神の前に謙遜になって、神に全てをお委ねすることです。「まことに私は、自分のたま
しいを和らげ、静めました。乳離れした子が母親の前にいるように、私のたましいは乳離れ
した子のように私の前におります。」(詩篇131:1,2)
「うしろの戸を閉じなさい」とは、神に求める時は密室で祈ることであり、エリシャが同じ部屋
に入らない、と言う事は人の助けでなく、神のわざのみであることが明確にされているのです。

B器がいっぱいになった(6)
 2人の子どもたちが次々に、器を隣りの人から借りて持って来ました。「もう器がありません」
と言うまで、油は器につがれていったのです。器にいっぱいになった油を売ることによって「負
債を払」うことができ、さらに「あなたと子どもたちは暮らしていける」とエリシャは告げました。
エリシャの言葉を信じ従って行ったときに、神のわざが成就したのです。それは負債返済だけ
でなく、生活まで潤すほどでした。神様は、私たちを常に恵みで満たして下さるのです。神の
ことばに従い、どのような時にも神を信頼し、神の恵みを受け取れますように。
4月24日聖日伝道礼拝 田沼師
説教題
「すべての人を生かすキリスト」   
聖書箇所
       
  Tコリント人への手紙15章20~22節 
20節 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
聖書は人間の死を、魂と肉体が分離することとして取り扱っています。死者が「眠る」とは、
肉体が滅んで裸の状態になった魂が世の終わりの復活の時まで自由な活動を停止した
状態を指しています。キリストは眠った死者を代表する初穂として死からよみがえられました。
初穂には二重の意味があります。
@神のもの:作物だけでなく人間の場合も長子は神のものです。すべてのクリスチャンは
神の前に長子です(へブル12:23)。
Aそのあとに沢山の収穫が続く:実際に、現代の私たち一人一人も沢山の収穫のうちの
一員です。

21節 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して
来たからです。

人類の祖先アダムは悪魔(サタン)にそそのかされ、神に背いて罪を犯してしまいました。
その結果、この世界に死が入りました。けれども神様は万が一の時のために安全装置を
あらかじめ用意しておられました。それがイエス・キリストというお方だったのです。
キリストの使命は、全人類の罪を一つ残らず背負って十字架上で死に、罪と死を滅ぼして
復活することでした。キリストは先駆者として、罪と死に打ち勝つ道を切り開いて下さったの
です。

22節 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべて
の人が生かされるからです。

全人類はアダムから罪と死を生まれながらに相続してしまいました。これを「アダムにあって
全ての人が死んでいる」と表現しています。
しかし、キリストが十字架上で身代わりの死を遂げた瞬間、救いの安全装置のスイッチが
入ったのです。永遠のいのちに生きる歩みへと再度造り変えて下さいます。死の問題が
解決すると日々の生活に平安と希望が湧いて来ます。
この恵みを自分のものとするには、たった一つだけ条件があります。イエス・キリストの十字
架は自分のためであったと「信じる」ことなのです。
4月17日イースター聖日礼拝 晶子師
説教題
「非常な喜び」   
聖書箇所
       
    ルカの福音書24章32〜53節
イエスが十字架上で死なれ「暗い顔つき」だった弟子たちが「神をほ
めたたえ」る姿に変わったのはなぜでしょうか。神をほめたたえるこ
とになった「非常な喜び」を具体的に見ていきたいと思います。
@心はうちに燃えていた喜び(32)
 エマオへの途上にある2人の弟子に近づかれたイエス。2人の弟子から
エルサレムでの出来事(イエスの十字架)を聞き、復活されたイエスは聖
書を説き明かされました。イエスとの交わりを通して「私たちのそばに…」
と言う思いが込み上げてきたのでしょう。まだ旅を続けようとするイエスに
「いっしょにお泊りください」と無理に願いました。イエスがパンを祝福し裂
かれた時、ようやく彼らは一緒にいた方がイエスであること、「心はうちに
燃えていた」自分たちの姿にも気づかされました。心が燃やされるために
必要なのは、聖書によってキリストを示されることです。燃やされた心は力
で満たされ、喜びへと押し出されます。この喜びこそ、私たちの想定外の
非常な喜びとなるのです。
Aまさしくイエスである喜び(39)
 弟子の2人は、エルサレムに戻って11人の弟子と仲間たちに報告します。
これらのことを話している間にイエスご自身が真ん中に立って「あなたがたに
平安があるように」と言われました。しかしまだ、イエスが復活されたと信じが
たい弟子たち。イエスは「まさしくわたしです」と宣言され、焼いた魚も召し上が
られました。ご自分が復活されたこと、み言葉が成就したことを弟子たちに示
されたのです。肉眼で見ることができなくても、私たちは聖書を通して「イエスが
生きておられる」ことを確信し「まさしくイエスである」と気づかされた時「非常な
喜び」であり、平安で満たされます。
B祝福された喜び(50)
 地上においての贖罪を完成し、復活され、さらに手を上げて祝福のお祈りを
してくださったイエス。それゆえに私たちは守られ、力づけられ、信仰の戦いを
戦うことができるのです。信仰の戦い、それは神と私たちの関係を壊そうとする
悪魔との戦いです。死に勝利を得られた復活の主(キリスト・イエス)によって、私
たちも勝利の「祝福された喜び」に生かされ「いつも宮にいて神をほめたたえる」
者とされるのです。この上もない喜びを与えられご降誕され、非常な喜びを与え
られて昇天されたイエスにハレルヤ!と賛美しつつ復活の主を賛美致します。
4月10日聖日礼拝(受難週) 晶子師
説教題
「十字架による救い」   
聖書箇所
       
    マルコの福音書15章25〜39節
イエスを殺そうと宗教家、学者が、指導者たちに捕らえられたイエスは心騒ぐことなく
「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(14:49)と、はっきりと言われました。
聖書の言葉が実現する、つまり神のみ心が実現することを願われたのです。イエス・
キリストが与えてくださった「十字架による救い」を具体的に学びます。

@全人類の罪を受けられた救い(34)
 兵士たちは十字架上で苦しむイエスの姿を目の前にしても、イエスをののしり、あざ
けった。この姿を同じ人間として理解しがたいですが事実なのです。兵士以外にも宗教
家、学者、指導者たち、群衆たちがイエスの十字架をみて勝ち誇っていたのではないで
しょうか。罪は、人間の心を破壊してしまうのです。「十字架につけろ!」と叫ぶ多くの群
衆の中にもし、自分がこの現場にいたら…どうしていたでしょうか。「君もそこにいたのか
 主が十字架に付くとき ああ何だか心が震える 震える 震える 君もそこにいたのか」
(新聖歌113)。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(34)と言わ
れたイエスの言葉。これは神を呪ったのではなく、全人類の罪を、すべてご自身の身に受
けられた叫びです。罪を負われたゆえに、神との関係が壊れたのです。罪は、人を破壊す
る恐ろしい存在であり、神が聖なるお方であることが伝わってくるのではないでしょうか。

 A完了した救い(37)
 「完了した」は、旧約聖書の預言をすべて成就して、贖いのわざを「成し遂げた」勝利の
雄叫びです。イエスはこの地上において、常に神のみ心が成就することを願われて、成し
遂げられてきました。その集大成が十字架による救いだったのです。この「完了した」と叫
ばれた時のイエスの心は、喜びで満ち溢れていたのではないでしょうか。「神殿の幕が上
から下まで真っ二つに裂けた」(38)とは、救いが完了したことにより、神と人との関係の道
が回復し、新しい父と子の関係が与えられたことを意味します。十字架による救いが「我
がため」であることを受け入れていく時に、自分がこれほどまでに神に愛されていることが
わかり、希望をもって神の国の実現を待ち望む者とならせて頂くのです。
「十字架による救い」に日々生きる者とならせてください。アーメン。
4月3日聖日礼拝 晶子師
説教題
「新たなる生き方」   
聖書箇所
       
    ガラテヤ人への手紙5章16〜25節
イエス・キリストを信じる者は「神の子」とされ、新たなる生き方が与えられるのです。
「新たなる生き方」を具体的に学びます。
@肉の願うこと(16)から
 肉(神との関係が壊れた人間の我)と御霊は「互いに対立」しています。では肉は、
罪なのか…そうではありません。しかし「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を
生みます」(ヤコブ1:15)とあるように、御霊に対立する肉は、罪を生み出してしまうの
です。様々な日常生活の中にあって、私たちの心にある肉の思いが「不品行、汚れ、
好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ,酩酊、
遊興、こういった類」の行いとなって明らかになってくる、とパウロは言っています。この
肉の思いは、クリスチャンになってからでも、なかなか縁をきることができない難しい問
題ではないでしょうか。パウロも「自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したく
ない悪を行っています」(ローマ7:19)と、自分の心にある肉と向き合っています。肉の願
うこと、それは「肉に従って生きる」ことであり、これは私たちを死(滅び)へと突き進ませ
るのです。「肉の思いは死であり、御霊による思いは、いのちと平安です」(ローマ8:6)。
Aキリスト・イエスにつく者(24)へと
 肉の思いが行いとなり、結果が罪に。「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、
十字架につけてしまった」者は「神の子ども」(3:26)とされるのです。罪に連鎖する肉の
思いは、生涯私たちを追いかけてきます。しかしキリスト・イエスを信じる者は「肉の思い」
と決別する聖化の恵みが与えられています。キリストの十字架が私の罪のためだった、
身代わりであったと言うだけでなくキリストと共に十字架につけられた「十字架経験」へ
と導かれるのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きて
いるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(2:20)まさに、キリスト・イ
エスにつく者の生き方であり「御霊によって導かれて、進む」(25)新たなる生き方です。
キリストと共に十字架について死ぬ時、私たちは御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、自制」を結ぶ者とならせてくださる。「割礼を受けているかい
ないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です」(6:14~18)。キリスト・
イエスの十字架によって与えられた新たなる生き方に日々、生きる者となりますように。
3月27日聖日伝道礼拝 田沼師
説教題
「永遠のいのちの保証」   
聖書箇所
       
    ルカの福音書21章18〜19節、33節
本章はイエス様が世の終わりについての語られている場面です。エルサレムを
引き合いに、イエス様が世の終わりに再臨して救いを完成されます。この預言の
一部は紀元70年に実現したのです。

18節 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
  世の終わりに、イエス様を信じる者(クリスチャン)は必ず栄光(復活)のからだ
によみがえらされます。それゆえ、最終的に髪の毛一筋すらも失われないのです。

19節 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
イエス様を信じ救われたならば、その信仰を地上生涯の最後の日まで忍耐をもっ
て持ち続けなければなりません。

33節 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
クリスチャンがなすべきことの第一は、世の中の動きをみことばを通して判断する
ことです。他人の意見や噂に惑わされて恐れが残るのであれば、それは自分の内
にはっきりとした判断基準がないためです。
昔も今も、そしてこれからも変わらぬ明確な基準は「わたし(イエス・キリスト)のこと
ば」(33節)だけです。

私の母はスキルス胃がんを患いました。私は母への悔い改めの思いとイエス様の
十字架による救いのみことばを手紙にして手渡しました。母はそれを何度も繰り返
して読んでくれました。そしてついに、「よし、分かった。お母ちゃんもイエス・キリスト
を信じる!」と告白したのです。母は病床で寺田先生より洗礼を授けて頂きました。
すると心に平安が与えられました。それから間もなく母は地上生涯を終えましたが、
母に与えられた平安は、魂に永遠のいのちの保証が与えられた証拠でした。
3月20日聖日礼拝 晶子師
説教題
「2つの律法」   
聖書箇所
       
    ローマ7章15節〜8章2節
聖書は昔に書かれた書物ですが「変わらない人間の姿」、時代の流れがあっても
人間そのものは変わらない…と何とも複雑な思いに立たされます。そして自分の
姿を思っては、主の前にひれ伏す者です。
 パウロは、自分の中に2つの律法があることを見い出し、そこから救い出してくれ
るのがイエス・キリストであることを明確に言っています。この2つの律法について学
びます。
@罪の律法(7章21節)
 律法と言うとモーセが神から直接与えられた十戒ばかりでなく、すべての規則、しつ
け、教えを指し示しています。律法があることによって、私たちは「決意、確認」する時
が与えられるのではないでしょうか。さあ、いかかでしょうか!律法…等、私たちを真理
に導くこれら全てを守りきれるのか。それ以上に「自分のしたくないことをしている」こと
はないか。パウロはこれを「罪」であると断言しています。パウロでさえ「自分のしている
ことがわかりません」「実行することがないから」「したくない悪を行って」と言っています。
これは、パウロだけでなく、人間のありのままの状態であリ、イエス様も十字架上で「彼
らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言われました。そこで「自分でした
いと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行」う時、罪ゆえに死(滅び)」への道
に踏み出して行くことになるのです。罪の律法とは、自分のしていることがわからない
「悪が宿っている」(21)状態です。
A神の律法(8章2節)
 神の律法は、クリスチャンに与えられた聖化の恵みです。罪が宿っている状態から、
イエス・キリストと共に生きる状態へと新しく生まれ変わるのです。移植をすると新しい
細胞の働きが体内で与えられていきます。イエス・キリストと共に、移植したように新し
い状態が与えられ、永遠のいのちにつながる生涯へとつながるのです。そこで律法を
守りきれなかった不可能が可能へと神が成長(聖化)させてくださるのです。
クリスチャンは、この2つの律法の間で様々な葛藤があります。その時パウロも「私は、
ほんとうにみじめな人間です」(24)と嘆きますが「ただ神に感謝します」と賛美に変えられ
ています。「主イエス・キリストのゆえに」「罪と死の原理から解放された」からです。この
聖化の恵みを頂き、主の再臨を待ち望む日々となりますように!
3月13日聖日礼拝 田沼師
説教題
「みことばの処方箋」   
聖書箇所
       
   詩篇119篇41〜50節
 神は聖書のみことばを通し、日々私たちを導こうとされます。どんなみことばの
処方箋が出されているか見て参りましょう。

@みことばが成就するようにとの祈り(41〜48節)
 神の憐れみと救いを祈り求めています。本篇の作者は敵からそしられておりま
すが、そうした相手に対してもみことばは対処できるようにして下さると証ししてい
ます。
 みことばにより頼んで祈ると心の中に希望が湧いて来ます。みことばを口に出し
て習慣化しますと、その人の周りにはみことばに相応しい状況が実現していきます。
 みことばに立った生活をしていれば、何も恐れるものはありません。そこには喜
びがあり、確信が与えられます。

Aみことばを通し逆境に打ち勝つ力が与えられる(49〜50節)
 神のみことばは悩める心に光と慰めを与えます。時に人からあざけられるのは辛
いことですが、みことばに従って行くと、いずれ良い結果が得られます。神は前もって
人の思いにまさる良きものを備えて下さっているからです。

 昨年の6月の入院中、私は体調も思わしくなく、主治医からの経過説明も良くない内
容でした。そんな時、私を担当して下さったヘルパーのAさんが5年間の勤務を全うし、
挨拶にやって来られました。Aさんは、泣きながら「倍生きてください」と言われました。
これは今までの人生の倍生きて下さいという意味です。私が永遠への目が開かれた
ような気がしました。
 そのAさんはキリスト教主義の高校を出ており、その高校は次のような教育方針を
掲げています。「神様を敬うとは、まず神様の御心・ご意志を聞くことではないでしょう
か。そこで礼拝時には必ず聖書が読まれ…。」
 Aさんの心の中にみことばを中心とする生き方が入っているので、とっさに前述の
ようなことばがサッと出て来たのではと感じたのです。神は人を十分に用いてみわざを
なさるお方です。なぜなら神は人を愛しているからです。その表れがイエス・キリストの
十字架だったのです。そのひとり子イエス様を十字架につけてまでも、私たちを罪の滅
びから救い出して下さったのです。
3月6日聖日礼拝 晶子師
説教題
「主の御手に」   
聖書箇所
       
   ヨハネの福音書6章1〜13節
少年が持っていた5つのパンと2匹の魚で大勢の人の群れのお腹を満たされた
イエス様。その数は、男だけで5千人ほどで、女、子どもも合わせるとさらに多く
の人数になったことでしょう。この出来事は、イエス様がピリポに「どこからパン
を買って来て、この人々に食べさせようか」と言われたことから、始まって行きま
した。この箇所から、私たちは何を学ぶべきでしょうか。
@忘れていませんか?(7,9節)
 突然イエス様に難題を与えられ、ピリポは「200デナリあってもパンは足りませ
ん」と、さらにアンデレがパンと魚を持っている少年を見つけ出し「それが何にな
りましょう」と計算をしたのです。このように私たちは日々の生活の中で、解決す
るのが難しい生活の、人間関係の…様々な問題があります。皆さんは、その時
どうでしょうか。まず目の前の問題をどのように解決するか、ピリポたちの姿に私
たちも近いように思います。計算もとても大切です。しかし、それ以上にまず、する
べき事があったのです。ピリポ、アンデレに「忘れていませんか?」と声をかけるこ
とができたらハッと気づいて「イエス様!」と叫んだかも知りません。そうなのです、
目の前に今まで多くの奇跡を起こされてきたイエス様がおられるのです。イエス様
がおられるのに、人間の頭の中で解決法を計算してしまっていたのです。日々の
生活の中で問題と向き合う時「主の力」をまず求めることを忘れないようにしたい
です。
A余るほどのパン(12,13節)
 少年が捧げたパンと魚を受け取られたイエス様は、神様に感謝をささげました。
そしてパンを分けられると、人々は「食べて満腹した」のです。少年が持っていた
パンと魚は、多くの群衆から見たらとても小さなものに見えたかも知りません。し
かし、少年が捧げた時にイエス様は豊かに用いてくださったのです。少年にとっ
てこのパンと魚は、自分のまたは家族に必要な食べ物だったと思いますが
少年は、ささげたのです。自分にとってのパンと魚は何でしょうか。生活スタイル、
人間関係、様々な悲しみ、問題…1つ1つを神様に捧げていこうではありません
か。主の御手に捧げられる時、神が祝福して下さり神のわざが始まっていくの
です。それは神の奇しいみわざ、奇跡そのものです。
 「主の御手に」ささげることができる恵みを感謝致します。
2月27日聖日伝道礼拝
説教題
「感激の涙に」   
聖書箇所
       
   詩篇84篇5〜7節
詩篇は、全て神を信ずる者たちの、その時々の心から溢れた信仰の歌であり、
祈りです。詩篇84篇は、神を礼拝する者たちの歌であり「心の中にシオンへの
大路のある」神の国(神を礼拝する)を目指してこの地上生涯を生きる者は何と
幸いなことであるかを歌っています。ここでいう「涙の谷」「泉」の奥義を学びます。
@涙の谷
 神を礼拝するためにエルサレムへ向かう時に通過する実在の谷であり「バル
サムの木の谷」とも呼ばれています。木の名前の正確なことは明白でないので
新英訳では「渇ける谷」とも訳されています。エルサレム(神を礼拝する)までの道
は、乾いた、荒れ果てた地で飢えとの戦い、盗賊の難など、涙も伴う困難な道筋
があったのです。私たちの人生においても涙の谷を通る時が、あったのではない
でしょうか。聖書の中にも多くの方々の涙が記録されています。イエス様の涙は
「悲しみのあまり死ぬほど」でした。十字架にかかられる前の祈りにおいての涙で
す。また十字架上で「わたしは渇く」と言われました。イエス様もこの地上において、
死ぬほどの悲しみを体験され、渇くほどに神を慕い求められたのです。イエス様の
姿を通しても、私たちが様々な出来事を通しての涙の谷にある時は「神を、生ける
神を求めて渇いている」(詩篇42:2)時となるのではないでしょうか。
A泉
 幸いなことに、涙の谷を進む時も、私たちの目的「神を礼拝する」を変えずに進
んでいく時にこそ、神が涙の谷を泉としてくださるのです。水がわき上がる泉は喜
び、平安であり永遠のいのちにつながります。永遠のいのちを与えて下さったのが
イエス様の十字架による完全な救いです。イエス様も涙の谷を過ぎる時「神のみ心
がなりますように」という目的を変えず十字架の道を突き進まれました。シオンへの
大路(神の国:神を礼拝する)を目指して人生の道のりを進んでいく時、どのような
涙の谷においても、私たちは力から力へと押し出されていくのです。この力は、私た
ちにとって「感激の涙に」なるのではないでしょうか。
神の祝福は、雨が降らない夏の乾ききった大地を秋の始めに潤した「初めの雨」の
ように私たちを生かすのです。神の祝福の原点は、イエス様の十字架による完全な
救いです。ハレルヤ!!
2月20日聖日礼拝
説教題
「おごそかに命じた事」   
聖書箇所
       
  Uテモテ4章1〜8節、16〜18節
獄中にいたパウロから愛するテモテへの手紙。その遺言とも言われる手紙の最後
には、何が書かれているのでしょうか。おごそかな思いで自分の心にある思いを書
き始めます。
@みことばを宣べ伝える(2節)
 みことばは、神が私たちに委ねてくださった和解のことば(Uコリント5:19)です。神
とこの世(神に背を向ける生き方)を和解させるためにキリストの十字架と復活によっ
て救いを完成させてくださったのです。この福音を伝えることが大事なのです。なぜな
ら、健全な教え(キリストの教え)に耳を貸そうとしない時代、自分に都合の良いことを
言ってもらう、空想話の時代になるから!とパウロは先を見据えて言っています。時
が良くても悪くても、神の寛容に基づき、絶えず教えながら悔い改めてキリスト者にな
るように自分の務めを果たすことを命じたのです。
A信仰を守る(7節)
 「私が世を去る時はすでに来ました」とパウロは、自分の殉教が目前であることを
言っていますが、パウロにとって「世を去る」とは、単なる死ではなく神の国への出発
でした。ですから殉教の苦しみを遥かに超えて「いのちの冠」に望みを置いたのです。
イエス様も十字架の苦しみを超えて救いの完成を望みにされました(へブル12:2)。
いのちの冠を受ける為にも走るべき道のり(神から与えられた人生)において、信仰を
守り(見張り)通すことであることを自らの体験からも勧めています。いのちの冠を望み
とすることが信仰を守る生き方となるのです。
Bキリストの臨在(17節)
 ローマ法廷では最終判決が出るまで何回かの尋問が行われます。そこで被告人は
弁明の時が与えられるのですが、古き友人たちはパウロを見捨ててしまったのです。
孤独であったパウロですが「しかし、主は、私とともに立ち」とキリストの臨在を確信し
ていました。現実としての孤独、誤解、中傷などがあっても「力を与えて」「助け出され
た」と喜んでいます。それは判決の結果が問題でなく、パウロにとっての勝利は天の
御国に入ることだったのです。その思いがあるからこそ「主に、御栄えがとこしえにあ
りますように。アーメン」と主への賛美が書き記されているのです。「おごそかに命じた
事」を実行する為にもまず、自らが福音に生きる者とならせて頂こうではありませんか!
2月13日聖日礼拝
説教題
「再び燃え立たせる」   
聖書箇所
       
  Uテモテ1章1〜8節
パウロが殉教前に書いた遺言と言うべき最後の手紙であり、異端を警戒し、
後輩の牧師であったテモテに励ましと共に、福音の真理に堅く立つことを勧
めたのです。その為にもまず、パウロが伝えたのは「神の賜物を再び燃え立
たせる」ことでした。「燃え立たす」は、ギリシャ語で「十分な炎に保ち続ける」で、
「消えかけている火を燃やし続ける」ことを意味します。具体的に学びたいと思
います。
@消えかけている状態(4節)
 テモテが牧会している教会の中で、テモテの牧師としての権威を疑い。偽りの
教えを説く人々がいました。また先輩であるパウロが、残虐と言われたローマ皇
帝ネロによって殉教に追いやられる時が目前に迫っていました(Uテモテ4:6)。
このような状態の中にあってテモテの心情はどうだったでしょうか。パウロは獄中
からテモテに、私たちが神から与えられているのは「おくびょうの霊ではなく」と言っ
ています。テモテが勇気を失い、恐れにおののいている姿が見えてきます。 
消えかけている状態、それは全能の神が共におられる平安以上に、目の前の出
来事に圧倒されて恐れてしまっている状態です。
A火を燃やし続ける状態
 消えかけている火を再び燃やすには、まず火力を弱めてしまっている原因を取り
除き、更なるエネルギーを追加するのではいでしょうか。イエス様が、私たちの助け
主として御霊を約束して下さいました(ヨハネ14:16~19)。御霊によって私たちは、どの
ような時にも燃やし続ける、生きる時が与えられるのです。その御霊は「おくびょうの
霊ではなく、力と愛と慎みとの霊」であるとパウロは言っています。人生の困難、試練
においてどんなことをもすることができる「力」です。この力は絶えずキリストが示してく
ださった「愛」によって動かされるのです。また自分の心の状態に気づかせて自制へ
と導いて下さるのが「慎み」の霊です。テモテをはじめ、私達クリスチャンにとってエネ
ルギーは、神の賜物としての御霊なのです。

燃え立たせ続けていたら、必ずその熱、温かさは伝わっていきます。福音を伝える時
に、御霊によって「力と愛と慎み」の霊を大胆に用いていく者とならせて頂こうではあり
ませんか!
2月6日聖日礼拝
説教題
「主の喜びの中に」   
聖書箇所
       
  マタイ25章14〜30節
      
天の御国」についてイエス様は「自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです」と
話されました。この財産は「タラント:賜物」であり、神から与えられたもの、恵みとし
ての贈り物の意味です。それは様々な形で与えられていますが、神からの最大の
賜物は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは
御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」と
ヨハネ3:16に書かれているように、キリスト(イエスによって与えられる救い)ご自身
です。キリストから救いを受けたクリスチャンに更なるタラントを預けて下さったのです。
@タラントを預けた主人の思い
 おのおのその能力に応じて、5・2・1タラントが預けられたのです。預けられた時、
最初に何を考えるでしょうか。タラントを預けて下さった方のことではないでしょうか。
どうして自分に…と、主人(神)の心を探らないでしょうか。神のみ心は「ひとりも滅び
ることなく」です。ですから、自然と神のみ心が実現する為にも、先に救われたクリス
チャンが「福音を伝える」使命へと押し出されていくのです。
Aタラントを預けられた者の使命
 福音を伝えるため1人1人に必要なタラントを預けて下さったのです(Tコリント12:11)。
そのタラントを用いて増やすことが主人の喜びであると書かれています。このことから
も救われた私たちは、神と共に生きる中で与えらえた愛、喜び、平安、寛容、親切、
善意、誠実、柔和、自制(ガラテヤ5:22,23)用いて、福音を伝えることがタラントを預け
られた者の使命なのです。その時にこそ、タラントはさらに増えて、満ち溢れていくの
ではないでしょうか。
B主人の喜びの中に
「よほどたってから」主人が突然帰る、と言うのは再臨の時と捉えることができます。
いつ主にお会いしてもいいように、日々忠実に使命に生きることを神は求めておられ
るのです。忠実は原語で真実です。信仰において主の心を求めて、忠実(真実)に生
きることが、主人の喜びそのものとなり、自分の喜びともなるのです。タラントを隠し
てしまう恐れでなく、感謝をもって忠実に主の喜びの中に生きる者とならせて頂きま
しょう!(Tペテロ4:10~11)
1月30日聖日礼拝
説教題
「必要なのは今」   
聖書箇所
       
  マタイ9章35〜38節
      
イエス様は、ガリラヤ地方をめぐって福音(神の国と救い)を宣べ伝えられました。
その中にあってイエス様は弟子たちに、人々の状態についてはっきりと言われま
した。その状態は、真の救いを必要としていることです。この状態に対して「必要
なのは今」であることが強く伝わってきます。何が必要であるのか学びます。
@キリストのまなざし (36節)
人々を支え、導く政治家、宗教家は、律法に関する専門的な議論で人々を当惑
させ、支えよりむしろ重荷でした。イエス様はこの状態(エゼキエル34:1~6)を見抜
き「かわいそうに思われた」のです。この思いは、はらわたの底から出て来る思い、
非常に強い感情をもってあわれまれたことを意味します。私たちも目の前の人々の
状態、出来事を外見で判断してしまうのでなく、キリストのまなざし(人はうわべを見
るが、主は心を見る:1サムエル16:7)をもって見る時に、真の救いを求めている人の
状態が見えるのではありませんか。
A収穫のための働き手(37節)
 パリサイ人は人々を焼き捨てるもみがらと見なし、罪人の滅亡を待ち望んでいま
した。しかしイエス様は、刈り入れて保存すべき収穫であると捉えられたのです。収
穫は刈り入れる人がいなければ、収穫はできません。収穫のための働き手を必要
とされたのです。収穫、それは福音(神の国と救い)を信じることです。福音を信じる
ためには、聞くことが必要です。その為にも福音を宣べ伝える人(収穫のための働き
手)が必要なのです。「弟子たちに言われた」つまりイエス様に従うクリスチャンに収穫
のための働き手になることをイエス様が求めておられるのです。
B祈り求める(38節)
 「祈りなさい」と言われたイエス様。「祈る」と言うことは、その祈りの課題を自分の
こととして重荷を負うということにつながります。自分の祈りとして祈っていく時に、
その祈りに対する神のみ心が実現していくのです。(神は、みこころのままに、あなた
がたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。ピリピ2:13)「必要
なのは今」であることを心に刻みつつ、 先に救われた者として「はい、私を収穫のた
めの働き手として用いてください」と主の前に告白する者とならせて頂こうではあり
ませんか。
1月23日聖日伝道礼拝
説教題
「どうしても必要なこと」   
聖書箇所
       
  ルカ10章38〜42節
      
イエス様は、十字架を目前にひかえ、エルサレムにのぼる途中でした。その中で、
2人の性格が全く反対のマルタとマリヤ姉妹に出会います。2人のおもてなしも正
反対でした。2人の各おもてなしを通して「どうしても必要なこと」を学びます。
@マルタのおもてなし (40節)
 マルタは主をお迎えするにあたって、気が落ち着かない状態で働いていました。
掃除や料理など細やかな配慮が見えてくるようです。そしてその愛のおもてなしが、
妹マリヤへの批判へとつながってしまいました。
それはどうしてでしょうか。マルタの性格から出て来る様々なおもてなしの数々は、
愛による(相手を思う)おもてなしから、自己満足のおもてなしへと変わっていった
からではないでしょうか。それゆえに自分のおもてなしに賛同して働かないマリヤ
に対して、批判となってしまったのです。マルタにとって主のことばよりも、主ご自身
をおもてなしする、外側のことに心が満たされてしまって、自分の心の渇きに気づ
かなかったのです。
Aマリヤのおもてなし(39節)
 マリヤは「主の足元にすわって、みことばに聞き入っていた」のです。
足元にすわる、と言うのは「弟子入り」としての姿勢です。熱心に神に仕えてきた者
として、まず「主」のことばを求めたのでした。この姿からもマリヤが求めていたのは、
心の満たしであることが伝わってきます。主が来られる前から、神のことばを日々
思い巡らし、求めていたことでしょう。救いのことばを主から直接聞ける、その時を
マリヤは喜んだのでした。
B良いほうを選ぶ(42節)
 イエス様は「いろいろなことを心配して、気をつかって」とマルタのおもてなしに気づ
いて見てくれていました。ここにイエス様の愛、優しさを思わざるを得ません。しかし、
主は私たちを罪の滅びより救うために「どうしても必要なこと」をはっきりと示してくだ
さったのです。みことばを慕い求めて聞くという「良い方を選ぶ」マリヤの姿勢です。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています」詩篇42:1,2。
このみことばに生きる者とならせて頂きましょう。
1月16日聖日礼拝
説教題
「悲しむ者は幸いです」   
聖書箇所
       マタイ5章4節
       イザヤ6章1〜8節
イスラエルを昔のように回復してくれたウジヤ王でしたが、高ぶりと不信仰の
罪により、神に打たれて死にました。これはやがて下されるユダ王国へのさば
きの前触れでした。しかし人々は、無関心で、不信仰と不道徳の生活を送って
いました。イエス様が「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」と
仰いました。「悲しむ」という事について、また「慰め」の原意について預言者
イザヤの姿から学びます。
@「主を見た」時に(1~5節)
 このような状況にあって、イザヤは「主を見た」のです。主は「栄光は全地に満」
つ聖なるお方であった。ここで明確にされているのは「イザヤが主を見た」事実
です。その他の日時、場所、主の外見については不明です。このところからも、
イザヤは肉眼で見た、と捉えるよりも、神の栄光と聖さをはっきりと示された、幻の
うちに神に出会ったということではないでしょうか。「主を見た」時に、イザヤは「ああ。
私は、もうだめだ」…私こそ滅ぶべき存在である、自分が聖なる神の前で罪人であ
ることを嘆き悲しんだのです。「悲しむ」の原意は、「悔いる、悔い改める」という意味
もあるのです。
A「口に触れ」た時に(6〜7節)
 5節でイザヤは、自分が滅んでもおかしくない罪人であることに気づかされ、霊的に
「死」の状態を意味しています。そこに「すると」と6節は始まりますが、神の救いがイザ
ヤに実現したのです。「祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭が…私の口に触
れ」た時に、キリストの十字架のひな型、罪が贖われ(原意は、覆われる)たのです。
B「幸い」に押し出される時(8節)
 罪によって霊的に死んでいたイザヤが、罪の赦しの行為とことばによって、復活した
のです。それゆえ神が「だれを遣わそう」と仰った時にイザヤは、はっきりと「ここに、私
がおります」と答えました。「慰められる」は、神からの慰めを受ける、つまり「救いを受
ける」につながります。
悲しむ(神の前で自分のが罪人であることを知る)者は、神の慰め、救いを受け、新しく
いのち(永遠のいのち)が与えられるゆえに、「悲しむ者は幸い」なのです!!
1月9日聖日礼拝
説教題
「神の助けA」   
聖書箇所
 
     イザヤ41章14〜16節
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる(2022教会年間聖句)」と仰って下さった
「神の助け」を具体的に見てきました。さらに「神の助け」は、私たちの生涯にお
いて、どのような結果となるのでしょうか。
@虫けらのヤコブに対して(14節)
 ここで神は「虫けら」と言ってイスラエルの民を軽蔑したのではありません。弱い
惨めな状態に置かれていることの強調です。バビロンにて捕囚生活を70年、さら
に神に背を向けて与かるべき神の祝福をも拒絶してしまっている姿ではないで
しょうか。イザヤは「罪」の本質を「高ぶり、汚れ」(イザヤ9:8~10)と見ていました。
聖なる神の前では、その罪の状態がいつ滅んでもおかしくない「虫に等しき者」と
なるのです。しかし、神は「恐れるな。わたしはあなたを助ける」と仰って下さるの
です。
A新しいもろ刃の脱穀機とされる(15節)
 罪の状態にあって、本来の姿を見失っていたイスラエルの民を神は、捨てるこ
となく、新しく力強くして下さる!と言う意味が含まれているのです。人生において
私たちは「山」と言われるような問題と向き合いますが、その山々を私たちは主に
在って、「山々を踏みつけて粉々に砕く」「丘をもみがらのように」する勝利の人生が
約束されているのです。神の助けは、徹底的な助け、勝利であり、私たちを「強め、
助け、勝利の右の手で守」って下さる(10節)のです。
B喜びが与えられる(16節)
 「かぜが運び去り、暴風がそれをまき散ら」されるとは、全く無くなる、完全なる救い
です。完全な救いによって、神の前では何も隠れおおす(へブル4:13)ことのできない
私たちですが、新しい生き方、力が与えられるのです。これが私たちの大いなる喜び
となり、神を讃える「誇り」へと展開していくのです。「わたしは主によって大いに楽し
み、わたしのたましいも、わたしの神によって喜ぶ。主がわたしに、救いの衣を着せ、
正義の外套をまちわせ、花婿のように栄冠をかぶらせ、花嫁のように宝玉で飾って
くださるからだ。地が芽を出し、園が蒔かれた種を芽生えさせるように、神である主が
義と賛美とを、すべての国の前に芽生えさせるからだ。」(イザヤ61:10,11節)
1月2日聖日礼拝
説教題
「神の助け@」   
聖書箇所
 
     イザヤ41章8〜13節
イザヤが神のことばを書き記した時は、まだバビロン捕囚になって
いませんでした。イザヤが神のことばを伝えてから、200年後に歴史上に
実現したのです。イスラエルの民が70年間バビロンで捕囚生活を送る中、
神は私たちのことを捨てたのではないか…と神に疑念を抱き、偶像の神を
拝する人々の姿がありました。その時「恐れるな。わたしはあなたとともに
いる(2022教会年間聖句)」
と仰って下さった「神の助け」を具体的に見てい
きたいと思います。
@「わたしのしもべ」と呼んで下さる(8,9節)
 「わたしのしもべ、イスラエルよ」(8)、これは神とイスラエルの関係を示して
います。イスラエルは、今日でいうならば「神を信じるクリスチャン」のことです。
「しもべ」は、神に徹底的に従う、神のわざを遂行する忠実な姿の呼び名であり、
イスラエルの民全体に、また個々に対して神は「あなたは、わたしのしもべ」(9)
である、つまり神のみわざをあらわす存在、大切な尊い存在である!と仰って
下さるのです。
Aともにいて下さる(10節)
 私たちがどのような状態であっても神に捨てられず、ともにいて下さる、臨在
して下さる神です。日々の生活で「強め、助け、義の右の手(勝利)で守る」と力
強く宣言して下さいました。神は、ご自身を証明する為にも、時には歴史の中に
おいて、また人を通してご自身を現わされます。ですから私たちは、1つ1つの出
来事でなく、その背後に働かれる神を見るべきなのです。
B完全なる救い(11~13節)
「無いもののようになって滅びる」「全くなくなってしまう」、完全なる救いです。バビ
ロンはその後、ペルシャ王クロスによって滅ぼされます。「あなたの神、主である
わたしが、あなたの右の手を堅く握り、『恐れるな。わたしがあなたを助ける』と」
仰って下さっているのです。神から"あなた"へのメッセージです。力強い愛の奨励
に日々、耳を傾けていこうではありませんか。この神の奨励をことばだけでなく、
イエス・キリストを通して完全に指し示して下さいました。神の助け、それは完全
なる救いであり、イエス・キリストです。
1月1日(土)元旦礼拝
説教題
「”あなた”へのメッセージ」   
聖書箇所
 
     イザヤ41章10節
神は、歴史の中でご自身の力を現わすために敵をも用いられる時があります。
バビロン捕囚にあったイスラエルの民をまず解放する為にペルシャ王クロスを
起こしますが、クロス王は破竹の勢いで更に国々を征服していきます。そこで
諸国は、偶像の神に頼ろうとします。しかし神は、イスラエルの民に力強く奨励
されたのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(2022年年間聖句)。
偶像の神を拝していたにも関わらず、神は民が滅びることのないように、ねんご
ろに「あなたとともにいる」「あなたの神である」「あなたを強くし」「あなたを助け」
「義(勝利)の右の手で、あなたを守る」と激励してくださったのです。この神の
ことばは、今の時代を生きる「あなた」に神が語りかけてくださっているのです。
永遠に変わらない神のことばを心に据えて、新しい年を歩み出そうではありま
せんか!
12月26日聖日伝道礼拝
説教題
「クリスマスの続き」   
聖書箇所
 
     ルカ2章8〜20節
皆さんは「クリスマスの続き」があって、今を生きる私たちに続いて
いるのをご存知でしょうか。羊飼いの姿を通して「クリスマスの続き」
がなぜ、私たちに続いているのか、イエス様がお生まれになった時代に、
心をワープさせて読み解いていきたいと思います。
@告げられた神のことば(10~13節)
羊飼いは、羊の世話の為、祭儀律法のすべてを守り切ることができず、
人々から軽蔑され、礼拝からも締め出されることがあったそうです。しかし、
その羊飼いに主の御使いが現われ、神のことばを告げたのです。
「恐れることはありません。〜きょうダビデの町で、あなたがたのために、
救い主がお生まれになりました〜」と。神は私たちにことばを通して語り
かけて下さいます。今の時代は、聖書を通して神が語りかけてくださるのです。
A神のことばを信じた羊飼い(15節)
 神のことばを聞いた羊飼いは互いに「話し合った」とあります。口語訳聖書
では互いに「語り合った」とあります。話し合った…議論し合ったのではなく、
語り合ったのです。私たちはどのような時に語り合うでしょうか。羊飼いたちが
興奮気味になっている姿が見えてくるようです。御使いが告げた神のことばを
単純に信じたことがわかります。信じた思いがお互いに「救い主がお生まれに
なった出来事を見に行く」ことに一致団結したようです。「信じる」その時、
神のことばが信じる者に実現していくのです。
B喜びに押し出された羊飼い(17,20節)
 「飼葉おけに寝ておられるみどりごとを探し当てた」羊飼い。そして「見聞きし
たことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰っ
て行った」のです。単純に信じて、単純に喜ぶ姿に、何か、自分自身が忘れか
けている姿を思い浮かべないではいられません。
みどりごイエス様にお会いして、言いようもない感動を受けた喜びが
伝わってこないでしょうか。
私たちは、羊飼いたちの喜びのバトンを受け取っているのです。神のことばを
信じ、救い主イエス様にお会いする時、自分にとって大いなる喜びとなり、神を
崇め賛美する思いへと押し出されるのです。ハレルヤ!!
12月24日(金)16:00〜17:00
クリスマスイブ礼拝
竜ケ崎教会:大塚満師、治美師による特別賛美
をはじめ、キャンドルサービスによって灯りがともる中、賛美、
聖書朗読を通して、救い主イエス様のご降誕を待ち望みます。
どなたでも自由に参加できます。心より、お待ちしています。

12月19日クリスマス礼拝
説教題
「イエス様を心に」   
聖書箇所
 
     ルカ2章1〜7節
マリヤに受胎告知がなされ、マリヤは「神のみ心がこの身になります
ように」と御使いガブリエルに告げます。神のみ心、救いのご計画は、
どのように実現していったのでしょうか。
@ベツレヘムへ(1〜4)
皇帝アウグストから「住民登録せよ」との勅令、クレニオがシリヤの
総督であった時。この2人の名前と出来事からも、イエス様のご降誕の
時期を特定できるようになったのです。また御子イエス様がこの世に送
られたのは歴史的事実であることをルカが強調したかったのではないで
しょうか。人々が自分の町に向かっていった中に、ヨセフもマリヤと一緒
に120キロほどあるベツレヘムに向かったのです。勅令が出される前から、
イエス様が誕生されるのは、ベツレヘムであることは決まっていたの
です(ミカ5:2)。
Aダビデの家系から(4〜7節)
ヨセフは「ダビデの家系であり血筋でもあった」とあります。この記
述は、旧約時代に預言された神の御計画を指し示しているのではない
でしょうか。「1人の偉大な王によって」「揺らぐことのない王国」の確立が
預言される。救い主イエス様の誕生の預言(Uサムエル7:12)です。全世
界に祝福を与える道は、ダビデの家系を通してであること。神の御計画
「ダビデの家系から偉大な王がでる」が、ヨセフを通して、さらに進められ
ました。
B飼葉おけの中に(7節)
 ローマは世界的な帝国としての経済力、軍事力を高めようとしていま
した。それに対比して救い主イエス様が誕生し、寝かされたのは、飼葉
おけの中です。飼葉おけがあるのは、馬、ロバがつながれる場所であり
出産にはむかない場所、ふさわしくない場所ではないでしょうか。でも
そこに、赤ちゃんがいたら…輝きます。喜びになりませんか?この飼葉
おけは、私たちの心をあらわします。このクリスマスに救い主イエス様
を心にお迎えしようではありませんか。
「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を
聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところに入って、彼とともに食事
をし、彼もわたしとともに食事をする。(黙示録3:20)
12月12日聖日礼拝〜アドベント第3週〜
説教題
「汝の言のごとく」   
聖書箇所
 
     ルカ1章26〜38節
今日の箇所は「マリヤへの受胎告知」とも言われる個所です。そ
の前には、エリサベツへの受胎告知があり、救い主イエスの誕生
の前に、ヨハネが誕生します。ヨハネとイエスの関係は密接であり、
どちらも神の力による誕生であり、両者とも神の救いの働きの為
に用いられるのです。
まず2人の誕生の共通点は、神の御告げがあったことです。思い
がけない受胎告知に対して、マリヤはどのように応答したので
しょうか。
@思い巡らしたマリヤ(29,34節)
マリヤの親戚エリサベツが身ごもってから「6か月目」に、御使い
ガブリエルがマリヤのところに来て「おめでとう、恵まれた方」と挨
拶をしました。「おめでとう」の直訳は「喜びなさい」です。さらに自分
が結婚する前に身ごもることを聞き、人間の域を超えた御使いの
知らせに「どうしてそのようなことになりえましょう」と、どうしても理解
できない思いを伝えました。しかしマリヤは、戸惑う思いだけに捉わ
れていなかったのです。そこで「考え込んだ、思い巡らしていた」から
です。理解できない中で、あちらこちらと思いを伸ばして語られた
神のことばを理解しようとする姿です。マリヤは自分の思いだけで
なく、共にいて下さる神の御心を求めていたのです。
A心静めたマリヤ(38節)
 御使いが3つの返事をします。@聖霊が特別に臨む。A老齢のエリサ
ベツが妊娠している事実。B神の全能性。これらの御使いの励ましによ
ってマリヤが出した答えは「汝の言のごとく」でした。この言葉は、マ
リヤの神に対する信頼そのものではないでしょうか。石打ちの刑にあう
かもしれない、ヨセフが去ってしまうかもしれない等、多くの不安、戸
惑いに打ち勝つことができたのです。神が計画されていることが実現す
ることを心から願った瞬間でした。
「汝の言のごとく」とマリヤが応答したことによって神の救いのご計
画、救い主イエス様のご降誕が実現したのです。「やめよ。わたしこそ
神であることを知れ」(詩篇46:10)やめよ‥静まれとも訳されています。
自分の心の中にある様々な思いを静める時、「汝の言のごとく」と神を
信頼する応答へとつながります。さらに神の栄光が現わされ、私たちは
神を知る、崇める時が与えられるのです。ハレルヤ?
12月5日聖日礼拝〜アドベント第2週〜
説教題
「知恵であるわたし」   
聖書箇所

箴言8章12〜21節
先週「神のことばであるキリスト」と題して、キリストは「永遠なる
お方である」ことを学びました。そのヨハネ1:1〜3と符合している
箇所が今日の聖書個所です。知恵の擬人化と解し、それがキリ
ストを指し示しているのです。「キリストは神の力、神の知恵なの
です(Tコリント1:24)」「キリストのうちに、知恵と知識のとの宝が
すべて隠されています(コロサイ2:3)」「知恵であるわたし」と言わ
れた神の子キリストの姿を見ていきたいと思います。
@知恵の性質(12〜14節)
「分別を住みかとする」とは、悟り、真理を日々の生活の中で体得す
ることで「主を恐れること」につながります。知恵と対立するのは、高
ぶり、おごり、悪の道、ねじれたことばです。また摂理(はかりごと)と
すぐれた知性、分別と力があると書かれていますが、これらの性質は、
救い主預言「その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、
はかりごとと能力の霊(イザヤ11:2)」において救い主が完全に備えて
いることと合致しています。つまり知恵はキリストである、ということです。
A知恵の感化(15〜17節)
わたしによって治め、正義を制定する。つまり知恵であるキリストを
信頼した人たちの姿です。彼らは、いよいよキリストを切に求め、
見い出す、キリストにお会いする時が与えられるのです。なぜそこまで
求めるのか、それは彼らが自分の悟りにたよらず、キリストの守りと導
きを信じているからではないでしょうか。「神と人の前に好意と聡明を
得よ。心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。(箴言3:4~5)」
B知恵の与える祝福(18〜21節)
「わたしを愛する者には財産を受け継がせ、彼らの財宝を満たす(21)」
と書かれています。この祝福は、物的な表現の中に、それを超えた
霊的なものを指し示しています。知恵、キリストの教えに従う時、
私たちを光り輝かせる。そこに真の幸福があるのです。
 「知恵であるわたし」イエス・キリストを通して、私たちはどのよう
な時にも、平安と喜び、希望をもってしっかりと歩み出していくことが
できるのです。なぜならイエス・キリストが語られたことばは、私たち
を永遠のいのちの道へと導いて下さるからです。(箴言3:13~18) 
11月28日聖日伝道礼拝〜アドベント第1週〜
説教題
神のことばであるキリスト」   
聖書箇所
ヨハネ1章1〜14節
「ことば」とは何か。ヨハネ1:14に明白に書かれています。「ことばは人と
なって、私たちの間に住まわれた」と。「ことば」は、イエス・キリストを示し
ているのです。「ことばは神とともにあった」は、イエスは、神ときわめて親
密な関係で、イエスのことば、わざを通して私たちは神がどのようなお方
であるかを知ることができます。イエス・キリストを通して、私たちは神に
導かれるのです。イエス・キリストの姿を具体的に見ていきたいと思います。
@永遠なるお方である(1節)
「初めに,ことばがあった」の「初めに」は創世記の「初めに」(創1:1)と同じ
で「創造のわざが開始された時」を意味します。また「あった」は継続性を
含むので「すでにことばは存在していた」と解することができるのです。つ
まり「ことば」であるイエスは、被造物の一部ではなく、創造以前から存在
する永遠なるお方なのです。
Aいのちがあった(4節)
 「この方に(このことばに)いのちがあった」とは、生まれながらの命、動物
的な命だけでなく、それ以上に人間を永遠のいのちへと押し出す豊かな
いのちなのです。イエス・キリストを信じて永遠のいのちが与えられ、新しい
生き方が与えられる。これこそが、神の子どもとされる特権(12)です。
B人の光であった(4節)
 イエスは、私たちにとって「光」なのです。罪ゆえに人の魂は、救いを求め
てさまよい、闇のただ中に生きているのです。しかし「ことばは人となって、
私たちの間に住まわれた(14)」とあるように、イエスがこの闇のただ中に
おいで下さり、人の子としてお生まれくださったのです。イエスを救い主と
して信じる時に、私たちの光となって導いてくださる。私たちは、光のうちを
歩む日々が与えられるのです。
 「神のことばであるキリスト」が人の子としてお生まれくださり、私たちに
いのちと光を与えてくださったことを喜び、感謝する時が「クリスマス」です。
11月21日聖日礼拝
説教題
「あらゆる境遇に対処する秘訣」   
聖書箇所
ピリピ4章12〜13節

 ヤコブ5章13〜18節
パウロは、あらゆる境遇を「貧しさの中、豊かさの中、飽くこと、飢える
こと、富むこと、乏しいこと」、つまりあらゆる種類の災難や不幸など生
活問題であることを言っています。救ってほしい、助けて欲しいと、この
救いを求めるのが、祈りとなります。祈りは、人間誰もが持っている、
救いを求める姿です。パウロは、救いを求める時、あらゆる境遇に対し
ての「救われるための秘訣を心得ている!だから、私はどんなことでも
できる!」と力強く言っています。パウロの力強い確信が伝わってきます。
これほどまでの「あらゆる境遇に対する秘訣」が何であるかを具体的に
見ていきたいと思います。
@祈りと讃美である(ヤコブ5:13)
生活問題は、私たちの心身の命であり、生き方につながってくるのでは
ないでしょうか。あらゆる境遇に対して、まず「神に祈る」ことを勧めてい
ます。イエス様も十字架にかかられる前夜「苦しみもだえて、いよいよ切
に」(ルカ22:44)祈られました。また喜んでいる(あらゆる境遇の中で、神
が最善に成して下さることを信じている)人は、賛美する(神に感謝する
こと、神が喜ばれる)ことです。神は、賛美を先頭に立てて事を進められ
ようとされています。祈りと讃美、ここから「詩篇」という名が由来している
のです。
A主の御名による祈り(ヤコブ5:14)
 オリーブ油が強調されているのではなく、1つの方法として書かれてい
ます。それ以上に主の御名による祈りこそ力強い祈りです。私たち人間
は罪ゆえに神との関係が壊れましたが、イエス様によって、完全なる救い
は完成し、私たちは神に祈る特権が与えられ、神が私たちの祈りを聞い
て、応えて下さるのです。
B信仰による祈り(ヤコブ5:15)
 信仰とは、神との正しい関係が与えられている状態です。神に祈り求め
る時に、求める祈りが、いつしか自分の心のための祈りに変わることがあ
りませんか。私たちが神に近づき、祈る時に私たちは、神に立ち帰り、日々
神との関係が新しく与えられていくのです。
この祈りに生かされていく時、私たちは、あらゆる境遇においても、神を
信頼し、神の祝福のただ中に生かされるのです。
11月14日聖日礼拝
説教題
「王妃エステルの祈り」   
聖書箇所
エステル記3章13〜4章3節

     4章10〜17節
1人のハマンというペルシャ帝国において皆がひれ伏すほどの大臣の
憤りが満ちて、ユダヤ人虐殺法令へと発展したのです。ハマンの憤り、
それはユダヤ人モルデカイが自分に対して、ひれ伏すことをしなかった
からです。しかし、このユダヤ人虐殺法令は実行されませんでした。そ
こに1人の女性、王妃エステルの祈りがあったのです。でもエステル記
には「神」と言う言葉がでてきません。祈りの言葉も具体的に書かれて
いないのです。しかし、読んでいくと自然に「神」の摂理を信じ、信仰
をもって力強く生きている姿を思わざるを得ません。
 王妃エステルの祈りを具体的に見ていきたいと思います。
@勇気と覚悟をもった祈り(4:16)
ユダヤ人虐殺法令が発令されてからモルデカイに「王に憐れみを求め
るように」と王の宦官ハタクを通して伝えられたエステルは、躊躇します。
この30日間、王からの召しもない中、自ら王の元へ行くと殺されてしまう
かもしれないからです。するとモルデカイは、エステルが王妃となったのも
「もしかすると、この時のためであるかもしれない」と神の摂理(providence
、あらかじめ備える)を伝えます。自分を育ててくれた従兄弟のモルデカイ
の言葉に、エステルは躊躇していた思いから、気持ちが解き離れたのか
「このために断食をしてください」と何か力強さが伝わってくるエステル
でした。この勇気は、今の虐殺という恐ろしさに心を留めるのでなく、全て
をご支配しておられる神に心を留めた瞬間だったのではないでしょうか。
そして「死ななければならないのなら、死にます」と、神の摂理に全てを
お任せする覚悟をもったのです。まだ救われていないのに、なぜここ
まで力強く言うことができたのでしょうか。
A神の摂理を信じた祈り(4:14)
エステルの「勇気と覚悟をもった祈り」に、神が全てを最善に導いて下さる
ことの確信が伝わってきます。神に全てをお任せする、委ねる思いが原点
となっていたのです。どのような時にも神が最善になして下さることを信じ、
勇気と覚悟をもって祈る者とならせて頂こうではありませんか!
 「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々の為
には、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っています」
(ローマ8:28)
11月7日聖日礼拝
説教題
「神殿の大掃除」   
聖書箇所
ヨハネ2章13〜25節
過越しの祭りが近づき、イエス様と弟子たちは宮の中に。その状態を
ご覧になりイエス様は、細なわでムチを作りお叱りになられました。
イエス様のムチは牧者のムチで羊飼いが使う、音で誘導する導きの
ムチであり、暴力的なムチではありません。イエス様は何を示され、
導かれたのでしょうか。イエス様がご覧になられた神殿を具体的に
見ていきたいと思います。

@神殿としての建物(13~17)
 宮(神殿)に入って、最初に見たのが牛、羊、鳩を売る者たち、両替
人達でした。そこで不当な利益をむさぼっており、人の利益や便宜を
図ることを看板にして私腹を肥やしていたのです。神の臨在の場所、
祈りの場所として神聖であるべき神殿に俗気が満ち、金銭欲がみな
ぎっていました。神を礼拝するところ(祈りの家)であるのに、商売の家
になっていたのです。
A神殿としてのイエス様(18~22)
ユダヤ人たちはイエスに、宮きよめをする権威があることを示す「し
るし」をもとめました。質問に対してイエス様は「神殿を壊してみなさい。
私は3日でそれを建てよう」と、十字架で殺され死んでも3日目によみが
えられることを言われました。すなわち救いは、昔ながらの犠牲制度
では不完全であること、完全な救いはご自身が完全に建て上げることを
言われました。そして礼拝の中心となるのは、イエス様ご自身であり
「神殿」そのものであり、完全な救いについて示されたのです。
B神殿として与えられた体(23~25)
神を信じる者のただ中に、神がご臨在下さる「神殿」としてくださる
(Tコリント3:16.17)のです。ですから、私たちは神が喜んで下さるよ
うに、「人のうちにあるもの」を知っていて下さるイエス様に自分自身
の心を砕いて頂き、きよめて頂こうではありませんか。
神殿の大掃除(宮きよめ)によって、私たちは完全な救いが与えられ、
さらに私たち自身も生涯かけて「金のように、銀のように純粋にされ
る(マラキ3:1~3)」のです。その為にも心砕き、悔いた心で神の前にひれ
伏す者とならせて頂こうではありませんか!

10月31日聖日礼拝
説教題
「シャロームの完成」   
聖書箇所
黙示録21章22節〜22章5節
「新しいエルサレム」(黙21:2)は、イエス様の再臨の時に神から与え
られる神を礼拝する神の国(教会)であること。神は、私たちを喜び、
楽しんで下さる、つまり「シャローム」を完成させて下さったのです。
シャロームは、平安、平和と訳される個人的な救いだけではなく、
神との罪による隔たりが天地宇宙において完全になくなる「神の
平和」と捉えるべきです。神の平和、シャロームが、新しいエルサレム
においてどのように与えられるのかを見ていきたいと思います。
@栄光と誉れとを携えて来る(21:26)
新しいエルサレムは、太陽も月もいらないほど、神の栄光が都を
照らし、子羊イエスが都のあかりだからです。そこに夜(暗黒や影)が
ないのは、夜を支配するサタンが完全に滅ぼされたからです。そこで
神であられる主と子羊なるイエスに「栄光と誉れを携えて来る」とは
栄光を帰す、神のみを崇める、賛美する者とならせて頂くという
ことです。主の祈りで「願わくは、御名を崇めさせ給え」と祈りますが、
新しいエルサレムにいる者にとっての願いがこのことに尽きるのです。
ハレルヤ!ハレルヤ!と叫ぶ多くの喜びと感謝の叫びで満たされて
いるのではないでしょうか。
Aいのちの水の川といのちの木がある
エデンの園を潤すために、1つの川が与えられました。いのちの水の
川は天地を潤し、その恵みが人を豊かにしたのです。その後、人が
罪を犯したゆえにエデンの園から追放され、永遠のいのちを与える
いのちの木(創3:22)への道も遮断されて(創3:24)しまったのです。しかし、
新しいエルサレムでは、神の平和が完成し、いのちの水の川といのちの
木が再び与えられるのです。いのちの水の川、いのちの木は、そこに
いる人々に永遠のいのちの感謝と喜び、賛美となるのです。さらに
神を、子羊イエスを永遠の王として崇める特権に与かれるのです。
そこで「子羊のいのちの書」に名が書かれていない(自分の罪を悔い
改めず、神との関係回復に背を向けた)人々は、この新しいエルサレム
に入ることができないのです。「子羊のいのちの書」に名が記入される
方々が1人でも多く与えられますように日々、シャロームの完成を待ち
望みつつ、私たちクリスチャンは、祈りの手を上げ続けようでは
ありませんか。
10月24日聖日伝道礼拝
説教題
「新しい天と新しい地」   
聖書箇所
黙示録21章1〜4節
黙示録は、世の末に神の裁きが起きる…と何か、恐ろしい書と
いうイメージがありますが、実はそうではないのです。むしろ
「幸い」というキーワードが7回も出て来る「希望の書」でもあるの
です。神様が私たちに与えて下さった希望、それはまさしく「新
しい天と新しい地」なのです。具体的に見ていきたいと思います。
@以前の天と以前の地が過ぎ去った後に(1)
 現在の地球は、罪によって汚染された天地です。罪の世界
での生活は、神を信じる者にとって、悩みが多い(詩篇34:19)
ことでしょう。神様は私たちのことを心配していてくださり、このまま
放棄されることはないのです。既に「新しい天と新しい地」を備えて
くださっているのです。その為にも、まず以前の…罪に汚染された
天と地は、滅ぼされる(Uペテロ3:7~10)のです。
A新しいエルサレム(2)
 新しい天と新しい地の中心が「新しいエルサレム」なのです。
これはキリストのからだである教会の象徴です。ですから、
現在のエルサレムでなく、新しく造られた神の民の中心地なの
です。その新しいエルサレムの目的は、神様の「喜び」であり、
その民、神を信じる者を「楽しみ」として(イザヤ65:18,19)
下さる為なのです。
B神の幕屋が人とともにある(3)
 幕屋は、神様のご臨在を象徴するものです。神様が私たちと
ともに住んで下さる、つまり私たちは、神様との新しい交わりが
与えられます。神様と人間の関係は、アダムが罪を犯す前の
状態「非常に良かった」(創世記1:31)の関係に回復されるのです。
私たちの敵である死を始め、悲しみ、叫び、苦しみもなくなります。
神様が「彼らの涙をすっかりぬぐいとってくださる」からです。
神様が創造される「新しい」は、ギリシャ語カイノスで、古びない
新しさを意味しています。
私たちが、この地上での生活のみを希望として生きていくのでなく、
神様が備えて下さっているこの「新しい天と新しい地」を希望として
生きていく時に、私たちの心の奥底から「ハレルヤ!!ハレルヤ!!」と
神様を崇め賛美する日々が与えられるのです。さあ「新しい天と
新しい地」に立っている自分の姿を想像して、日々の喜び、希望
として感謝しつつ過ごさせて頂こうではありませんか。ハレルヤ!!
10月17日聖日礼拝
説教題
「神に委ねる時」   
聖書箇所

Tサムエル記23章1〜5節

  詩篇28篇7節

神に委ねた生き方と自分に委ねた生き方があります。皆さんは、
どちらの生き方を選ばれますか?聖書の中に、この生き方をした
2人の人の生涯が記録されています。サウル王と後のダビデ王です。
2人とも神から選ばれた人でした。しかし、その生涯は2つに分か
れたのです。自分に委ねた(主のことばを退けた)生き方をした
サウルは、王位から退けられ敗北した生涯となりました。ダビデは、
神に委ねる生き方を選んだのです。「神に委ねる時」は、
どのような生き方になるのか、ダビデの姿から学びます。
@主に伺う生き方(2,4)
ダビデに「ペリシテ人がケイラを攻めている」ことが知らされます。
その時、ダビデは自分の考えに頼ることなく、まず「主に伺った」
のです。つまり、主の御心を求めたのです。それはどうしてで
しょうか。「主」と言う言葉に注目したいと思います。「主」とは、
旧約聖書では、創造主なる神です。ダビデにとって「主は私の力、
私の盾」と信仰告白をしています。神様は、自分を生かす原動力
であり、神様によって自分は守られている。主の御心にこそ自分の、
人々の救いがあることを信じていたのです。その信仰があった
からこそ、「主に伺う」ことができたのではないでしょうか。

A主のことばに従う生き方(5)
 部下が恐れて不安な中にあっても、その不安に流されず、ただ
ひたすら主のことばに寄り頼みました。ダビデは主のことばを聞い
てすぐに「ケイラに行き、ペリシテ人と戦い」ました。そして「ケイラ
の住民を救った」のです。もしダビデが、この時主のことばに従って
いなかったらどうだったでしょうか。主のことばを退けていたら、
サウルと同じように敗北していたのではないでしょうか。
主のことばに従う時にこそ、神様の大いなるみわざが実行されて
いくのです。

「主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。
それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝
しよう。」詩篇28:7この御言葉は私たちにも与えられているのです。
感謝します!
10月10日聖日礼拝
説教題
「良心が麻痺する時代に」   
聖書箇所

Tテモテ4章1〜11節

「良心が麻痺しており」の直訳は「焼き印を押される」です。サタン
の焼き印のために善悪の判断ができなくなってしまった状態、
これはパウロの時代であり、今の時代でもあり、未来の時代でも
あるのではないでしょうか。人間の儀式だけでは、罪の問題を解
決することはできない。それはサタンの所有物として焼き印が押
されてしまっているからなのです。この人間社会の中で、やはり大
きく取り上げられる問題の根源は、やはり罪とつながるのではない
でしょうか。またこの罪と言う問題は、昔も今もわらない共通問題
です。「良心が麻痺する時代に」それは、どのような時であり、何を
なすべき時なのか見ていきたいと思います。
@心を奪われる時(1)
惑わす霊(人を正統的キリスト教から迷い出させてしまうサタン)と
悪霊の教え(サタンが偽教師を用いて説く教え)によって、私たちの
心は奪われます。1人でも多くを滅ぼそうとするサタンの執念を思わ
ざるを得ません。これは「後の時代(差し迫った時)」なのです。まさに
サタンに焼き印を押されてしまい、善悪の判断ができなくなってし
まって、心奪われた状態です。善悪の判断ができなくなっている例
として…結婚をすることを禁じたり、食物を断つことを命じたり…
様々な教えが、偶像の神を生み出していきました。では心を奪われ
ないためにも、私たちはどうするべきなのでしょうか。
2,敬虔を修行する時(7)
 敬虔(神を敬う)のために自分を鍛錬(新改訳)、修行(口語訳)し
なさいと書かれています。偽りの教えに対する最大の戦略は@良き
教えのことば(キリスト・イエスの教え)によって養われる、自らを訓練
するのです。A俗悪で愚にもつかぬ空想話を避ける。この修行は、
「今のいのち」と「未来のいのち(永遠のいのち)」に有益です。
この時こそ私たちは、今の時代の状態、心を奪われる「良心が麻痺
している」時代であることをしっかりと見据えて、敬虔の修行をする者
とならせて頂きましょう。いかに厳しいものであるかもしれませんが、
生ける神に望みを置く時に、私たちは、この教えに生きる者とならせ
て頂くのです。
10月3日聖日礼拝
説教題
「永遠の大祭司」   
聖書箇所

へブル7章23〜28節

「天よりも高くされた大祭司こそ、私たちにとってまさに必要な方
です」と言われています。大祭司とは、誰を指し示しているので
しょうか。なぜ私たちにとって必要なのでしょうか。大祭司と私た
ちの関係を見ていきます。

@神から与えられた律法と祭司制度
 恐怖、不安などを取り除くために多くの人々は、超越を超えた
存在、神に近づこうと救いを求めた結果、時代を超えて多くの
宗教が誕生してきたのではないでしょうか。そこで、創造主なる
神は、人間が神と交わりを持つことができるように、律法と祭司
制度を与えて下さいました。
律法は「鏡」のようであり、律法を通して、私たちは自分の姿に
気づかされ救いを求める機会になります。律法は神が私たちを
束縛するためではなく、神との関係を回復するための神からの
救いの手引きなのです。
神から与えられた祭司制度により、年に1度、贖いの儀式が
大祭司によって執り行われていました。祭司は(神と人の間の
橋渡しをする役目)民の罪のためにいけにえをささげるのですが、
まず大祭司本人が、自分自身の罪のためのいけにえをささげる
ことから始まりました。このことからも、人間によってささげられる
犠牲は、不完全であることが伝わってきます。この儀式は毎年繰り
返し行われ、人間の罪を取り除くことはできなかったの
です(へブル7:18~19)。
 私たちを完全に救うために必要な方(ふさわしい方)は誰でしょうか。
A神から与えられた永遠の大祭司
 私たちに完全な救いを与えて下さったのは、大祭司キリスト・
イエスです。罪も汚れもないイエス様は、十字架の死によって、
救いを完了して下さったのです。滅びより救い、いのちを与える
ために、自分自身をささげてくださったのです。それゆえに、私た
ちはイエス様を救い主として信じるだけで、神との関係が回復され、
交わりが与えられるのです。
永遠の大祭司イエス様は、今も生きて、私たちのためにとりなして
くださっています。
 日々の生活において、あわれみと恵みを頂いて、おりにかなった
助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうでは
ありませんか!(へブル4:14~16)
9月26日聖日伝道礼拝
説教題
「すべての人に与えられている」   
聖書箇所

ローマ1章16〜17節

パウロは、この「すべての人に与えられている」のは「福音であり、
イエス・キリストそのものである(ローマ1:2~4)」と語っています。
イエス・キリストを通して現わされた「福音」について、具体的に
見ていきたいと思います。
@神の救い
 神の救いとは、神による恵みのわざを示します。人間が生きる
にあたって災害、不幸、外敵、病気などにおいて神の救いが聖書
に記録されています。「わたしは主、あなたをいやす者である。」
(出エ15:26)救いによって、神がおられることを、神が救い主である
ことを指し示すためでした。そして何よりも救いの中心的な意味は、
罪ゆえに滅びゆく人間に永遠のいのちを与えることです。救いを
完成させるために、イエス様を人の子として遣わされたのです。
A神の力
 神の力は、人間を変え、人生を変えることができるのです。その
例として出エジプトの出来事、パウロやザアカイを始め、聖書の中
には、神の力によって新しい生き方を与えられた人々が、多く記録
されています。イエス様の十字架による救いを信じた時、私たちの
罪は赦され平安と喜び、また罪に打ち勝つ力が与えられるのです。
罪びととして滅んでもおかしくない存在の私たちに、永遠のいのち
が約束された新しい人生が与えられるのです。
B神の義
 神は義なるお方であるからこそ、罪を悔い改める者に対して、
赦しを与えて下さるのです。罪ゆえに神との関係が崩れていまし
たが、神の救いを信じる時、神との関係が正しくされる存在(義人)
となるです。まさに神の義は、神の教えを心に持つ(イザヤ51:1,7,8)、
救いそのものです。

この福音は、どうしたら与えられるのでしょうか。「義人は信仰に
よって生きる」と書かれています。信仰とは「神が与えて下さった
福音を信じる」ことなのです。さあ、神の福音に生きる者とならせて
頂こうではありませんか。信じた瞬間から、神の救い、神の力、
神の義が私たちの生活のただ中で、成就していくのです。ハレルヤ!
9月19日聖日礼拝
説教題
「主に立ち返る時」   
聖書箇所

申命記30章1〜10節

 イスラエルの人々は、エジプトから出て、この荒野を旅する中で、
神の御業を身近で見て体験してきましたが、人々は神との契約を
捨て、他の神々を拝みました。そのような時、神は激しい怒りを
もって滅ぼされるお方でもあるのです。しかし主に立ち返るならば、
再び約束の地に連れ戻し繁栄させて下さる、と祝福を約束して
下さったのです。「主に立ち返る時」とは、どのような「時」なのか、
聖書から学びたいと思います。
@心に留める時(1節)
 神はイスラエルの人々に、祝福とのろい(申命記28章)を告げら
れました。そこで「主だけが神である」ことを知り、心に留める(自ら
反省する、考えてみる)ことを求められたのです。先ずは自分の心
の状態に気づかされることが大切です。
A御声に聞き従う時(2,8,10節)
 神の「御声に聞き従う」ことによって、神の祝福に連れ戻してくだ
さいます。また心を尽くし、精神を尽くして(全心全霊で)神を
愛する(アーヘイブ:神が人を愛される時に用いられる語)ことに
よって人は、生きる命を得るのです。まず心を包む皮(かたくな
な心)を切り捨て、心を開き、みことばを聞いて従うことが、神を愛
することにつながるのです。
B神が私たちを栄えさせ喜ばれる時(9節)
 かつて、神に背を向けている人間の姿を見て「主は、地上に人を
造ったことを悔やみ、心を痛められた」(創世記6:6)にも関わらず、
立ち返る者を神は栄えさせ、喜んで下さるのです。栄えさせるとは、
あなたを幸せにする、その数を多くされることです。罪深い人間
ですが「主に立ち返る」ことによって、主はあわれんで、豊かに赦し
て下さり(イザヤ55:7)さらに、喜んで下さるのです。
 私たちの心がいつも主に立ち返っているか、心に留めながら、
神のことばに聞き従う者とならせて頂こうではありませんか。その時、
神の祝福のただ中に生かされていることを感謝する日々となるのです。
    
9月12日聖日礼拝
説教題
「神の臨在」   
聖書箇所

民数記7章89節

見たこともなく、触ったこともなく、聞いたこともない神の存在…
臨在を私たちは、どうしたら確信することができるのでしょうか。
モーセの姿から学んでいきます。
 @主と語るために会見の天幕に入った
 会見の天幕に主の栄光が満ちた(出40:34)ことから、神が民の
間に住んでくださっていることを確信し、神の御住まいとしてイスラ
エルの人々の宗教生活の中心でもありました。モーセは、神を求
めて会見の天幕に入りました。主と語るために、それは「祈り」です。
祈りは神との会話の時、自分の思いを神に知って頂くだけでなく、
神のことばを聞く時でもあるのです。モーセは自分の為に、あるいは
民の為に、神の指示を待つ為にでしょうか。神からの指示通りに幕
屋の建立、幕屋の礼拝に必要なささげ物をした後に、まず何よりも神
を求めて、祈ることを優先したモーセでした。
A贖いの蓋の前にいた
 贖いの蓋:あかしの箱の蓋。2つのケルビム(人間の顔と獣のような
体をもつものの姿で現わされている)が、その翼で贖いの蓋を覆うよう
にしている。贖いの蓋は、十戒の2枚の石の板の真上におかれ、律法
と恩恵(キリスト)の姿を思わされる。
 モーセは贖いの蓋の前にいました。ケルビムは聖なる神の臨在を示
しています。聖なる神の前で自分は罪びとであることを自覚しつつ、
神の前でひれ伏し、厳粛に神を待ち望んでいるモーセの姿が見えて
くるようです。
B御声を聞いた
 神のことばを聞くことができたモーセ。「聞く」ために必要なことは
聞こうとする姿勢であり、まず自分の思いを静めることです。モーセが
神のことばを聞くことができたのも、神の前で心砕かれ、悔いた
心(詩篇51:17)でひれ伏していたのではないでしょうか。その時に、
神は語って下さるのです。
神の臨在を確信するためにも、まず聖なる神の前で1人祈る時間を
生活の土台としていこうではありませんか。「主は彼に語られた」と
ありますように、私たちにも語ってくださいます。ハレルヤ!
9月5日聖日礼拝
説教題
「モーセの祈り」   
聖書箇所

出エジプト記17章8〜16節

モーセは、イスラエルの人々と共に神の約束の地カナンを目指
して旅を続けていました。その旅の途中、様々な困難と直面しま
すが、モーセは常に、神に祈る人でした。この時には、アマレク人
が突然現われ、イスラエルの人々を攻撃(申命記25:18)してき
ました。モーセはまず、ヨシュアに戦いの準備をするように命令
しますが、モーセは人間の力だけに寄り頼んだわけではないの
です。モーセは何に寄り頼んだのでしょうか。モーセの祈りの姿
から学びたいと思います。
@神の杖を持つ祈り(9節)
 神の杖、それは元々モーセの羊飼いの働きをしていた時の
羊飼いの杖でした。その杖が、神が仰るように蛇となり、杖と
なったのです。このことを通して、神が現われた事をモーセが
信じるためでした(出エジプト4:1~5)。この時から、モーセの杖は
神の杖と呼ばれるようになったのです。神を恐れないエジプトに
10の災いを杖を通して神の裁きが現わされました。また荒野にて
の旅でも、杖を通してイスラエルの人々は救い出されてきたの
です。「神の杖を持つ」ということは、神が共にいて下さっている
「神の臨在」のしるしなのです。
「2,3人わが名によりて集まるところには 我もその中に在るなり」
(マタイ18:20)
A手をあげた祈り(11節)
 神は、戦う方法について言われませんでしたが、モーセは
自分が今、与えられている最大の武器「祈り」を通して、敵である
アマレクに向かったのです。「手をあげる」とは、祈りの姿勢を
意味します。神の力を仰ぎ、その力がイスラエルの人々に与え
られるように祈ったのです。これこそ、とりなしの祈りの基本的
態度です。
B支えられた祈り(12節)
 祈りは、体力も精神力も消耗します。この時の戦いは、
夕方まで続いたようです。その間、ずっと神の杖を持ちあげつつ、
勝利を祈り求めていたモーセの手が下がってきた時、
アロンとフルがそれぞれの手を支えたのです。
3人は心を一つにしてとりなしの祈りをしたのです。

モーセ、アロン、フル3人の祈りによって、ヨシュアを先頭に戦った
イスラエルは勝利を得ました。私たちも神の臨在のもと、
神の力を仰ぎ、共に心を一つにして祈る時、神からの多くの
勝利が与えられるのです。
8月29日聖日礼拝
説教題
「日々更新」   
聖書箇所

テトス3章4〜6節

救い主イエス様の十字架によって、私たちは新生と更新の恵み
が与えられました。新生(イエス様を救い主と信じ、新しい心が与
えられる・クリスチャン生活の始まり)の恵みだけにとどまってい
ませんか?この地上において更新の恵みに生かされていく時、
永遠のいのちを喜び、感謝することができるのです。
「更新」の恵みを具体的に見ていきます。

@聖霊に導かれる更新(6節)
 聖霊は、イエス様が昇天された後、私たちに助け主として与え
られました。聖霊は私たちを真理に導きます。聖霊によって私
たちは自分の心で内戦が起きていること、罪を犯させる力がある
ことを気付かされるのです。その時こそ「更新の時」なのです。
神様の前に悔い改め、さらなる救い(更新)を求めるのです。
更新することによって、私たちの心は、日々新しくされ、造り
変えられていくのです。
「心を新たにすることによって、造りかえられ」(口語訳、ローマ12:2)

A永遠のいのちの相続人としての更新(7節)
 永遠のいのち、それはこの地上を去った後も天の御国に
おいて生かされることと同時に、イエス様ご自身のいのち
(Tヨハネ5:20)が与えられる,つまりイエス様に信頼して従う
という生き方が与えられます。永遠のいのちを相続させて頂い
た私たちの心は、やはり日々更新していくことが必要です。
更新することによって、自分の心にある罪が赦され、この地上に
おいて永遠のいのちを喜び、感謝する日々が与えられます。
神様の御名が崇められるのです。更新、日々新しく心を造り
変えて下さるのは、イエス様のことばです。イエス様のことばに
養って頂く更新の時を祈り求めていこうではありませんか。
 「主のように主のように きよくしてください 
この心奥深く 御姿を写して」新聖歌382心から願うのは

「あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せ
られてますます新しくされ、真の知識に至らせるのです。」
コロサイ3:9,10)

8月22日聖日伝道礼拝
説教題
「2つのいのち」   
聖書箇所

詩編23篇1〜6節

星野富弘さんの詩「いのちが一番大切だと思っていたころ生きる
のがくるしかった いのちより大切なものがあると知った日生きて
いるのが嬉しかった」この富弘さんが言われている「いのち」は、
心臓の音からも確認できる肉体的ないのちのことを言われている
と思います。2つのいのちの1つは肉体的ないのち。2つ目のいの
ちは「いのちよりたいせつなもの」です。星野さんは具体的に言わ
れていませんが、聖書から受け止めるとしたならば、霊的ないのち。
すなわちイエス様から与えられた新しい心、生き方ではないかと思
います。富弘さんも「いのちより大切なものがあると知った日生きて
いるのが嬉しかった」と言っていますが、ダビデもその喜びをこの
詩篇23篇で歌っているのです。ダビデは若いころ羊の牧者であり、
神様と自分の関係を牧者と羊にたとえて神様のすばらしさを賛美
しています。イエス様から与えられた新しい心、生き方…私たちの
「いのち」となるのは何か、ダビデの賛美から学びたいと思います。
 @主は牧者である(1~4節)
 「主は私の羊飼い」と、神様と自分の関係を明らかにしています。
つまり、自分は羊…牧者である神様に養われている存在である
ことです。牧者は、羊をあらゆる場面において、命をかけて養い
ます。その姿が、そのまま神様であることをダビデは宣言してい
ます。羊はとても弱い動物です。羊を自分に置き換えるほど、
ダビデは自分の無力さ、弱い者であることを認めていました。
それ故に、自分を養って下さる、共にいて下さる神様がおられる
ことは、何と大きな喜び(緑の牧場、いこいの水;生命を支える
ものを与えられる)であり、平安(救いの道に導かれる)と希望
(神様が共にいて下さるから勇気が与えられる)となります。
A満ち溢れたいのち(5~6節)
この地上においては、様々な問題:敵の前であっても、神様が
私たちに必要な平安(備えられた食事によって心身満たされる)と
喜び(あふれるほど神との豊かな交わり)と希望(いつくしみと恵み
が与えられる)に生かされるのです。さらに主の家に住む:安息が
約束されているのです。
 羊飼いであるイエス様が私たちを罪から救うために十字架に
よって死んで下さいました。それゆえに私たちは、あらゆる日々に
おいて平安、喜び、希望が与えられる「満ち溢れたいのち」に
生かされるのです。
8月15日聖日礼拝
説教題
「ためらう時」   
聖書箇所

第一サムエル記13章1〜15節

ためらう…迷いを断ち切る、高ぶりや悲しみなどで乱れた心
をおさえる意味をもちます。自分自身の心にある思いが乱れた
時に思い切った行動へとつながるのではないでしょうか。
今日は、終戦記念日です。この戦争においても多くの方々の
思いがお互いに、ためらいながら展開していったような気が
します。サウルの「ためらう時」がどのような行動へと展開
していったのでしょうか。
@心の変化
 イスラエルの人々は,全ての王国の手から、救い出してくだ
さった神を退けて(Tサムエル8:5~)王を立ててください」と
サムエルに願いました。サムエルは主に祈り、油を注がれた
サウルは王となりました。突然、王になったサウルは戸惑いが
ありましたが、度重なる勝利は自信を与え、謙遜な思いから
高慢(12:25、13:7)と変わっていったのです。つまり神中心
でなく、自分中心の生き方になってしまったのではないで
しょうか。
A心の現われ
 ペリシテ人との戦いにおいて、その「ためらう時」がきた
のです。ペリシテ人は製鉄技術を持つ強力な民族です。戦車
3万、騎兵3千…を見て、イスラエル人は、ひどく圧迫され、
危険を感じ、隠れたり、逃げ出したのです。サムエルに7日間
待つこと、なすべきことを聞く(10:8)ように言われて待って
いたサウルも、目の前のペリシテ人の存在とその動きに恐れを
抱き、ためらう思いを断ち切って…思い切って(13:12)、祭司
の務めである全焼のいけにえをささげてしまったのです。
B何をするべきなのか
 サムエルが到着した時、サウルは自分がしたことを悔い改め
るのでなく、やむを得なく、仕方がなかったことを強調して、
弁明…言い訳をした(11~12)のです。サウルに対してサム
エルは「愚かなことをした…」と嘆きます。サムエルが言った
「私がなすべきことを教えます(10:8)」とは、主のことばを聞
いて、従うということです。そこに、神様の祝福が備えられ
ているのです。
 自分の心の変化に気づかされ、心の現われが「罪」となら
ないように日々、神のことばを聞いて従う者とならせて
頂きましょう。
8月8日聖日礼拝
説教題
「ただ私だけが」   
聖書箇所

第一列王記19章1〜18節

 17章:民を助けての奇跡的行為によって、18章:バアルの
預言者たちとの対決で賞賛されていたエリヤが、19章では
一変した姿に。そこでエリヤは「ただ私だけが」と神様に
訴えることになります。どうして、そのような叫びになった
のか、エリヤの姿を見ていきたいと思います。
@恐れたエリヤ(3節)
エリヤが一変したのは、バアル崇拝者イゼベルのひと言で
した。今にもエリヤを殺すかのように告げられたひと言に
よって、エリヤは恐れてしまったのです。エリヤは荒野にて
「私のいのちを取ってください」と神様に祈り、眠りにつき
ます。肉体的にも疲れ切っていたのでしょう。御使いに
よって食べ物が与えられますが、食べてまた、横になるの
です。それから充分に休めたエリヤは、神の山ホレブに向
かいました。
A失望したエリヤ(10,14節)
 恐れは失望へと私たちを押し出すのです。神様が「ここで
何をしているのか」と神様に声をかけられても、エリヤは
自分のことだけしか見えていませんでした。恐れがエリヤを
支配してしまっていたのでしょう。自分は神様に熱心に仕え
て来たのに…「ただ私だけが」と自分がしてきたことだけを
神様に訴えることしかできなかったのです。失望している
エリヤに神様は、主の前に立つ…神様のことばを聞くことを
求められました。「大風、地震、火の中にも主がおられな
かった」というのは、神様は自然現象の中におられるのでは
ない、ということを明確に示しています。神様はことばで、
ご自身を啓示されるのです。
B希望が与えられたエリヤ(12節)
 恐れと失望で「ただ私だけが」と叫ぶことしかできない中、
神様を見い出すことができなかったエリヤでしたが「かすかな
細い声」を聞くことができたのです。神様が備えておられる計
画@新しい王がたてられるAエリヤの後継者エリシャが与えら
れるBバアルを崇拝しなかった7千人を残している、と告げてく
ださったのです。その計画は、エリヤにとって大きな慰めで
あり、希望となったのです。
 私たちにとって恐れ、失望に感じるただ中にあっても、
主は細き御声をかけてくださり、私たちは希望が与えられる
のです。

8月1日聖日礼拝
説教題
「実を結ぶ秘訣」   
聖書箇所

ヨハネ15章1〜8節

 旧約聖書では、イスラエルがぶどう畑やぶどうの木に例
えられています。良いぶどうの木であったはずのイスラエ
ルが、悪い実を結ぶ結果となってしまった。そこで神は、
御子イエスを救い主としてこの世に遣わされました。イス
ラエルだけでなく、人間すべてに罪が存在し、良い実を結
ばせるのが難しくなったのがこの世の状態です。そこで
「実を結ぶ秘訣」をぶどうの木を通してイエス様が教えて
くださったのです。神が農夫で、イエスをぶどうの木とし
て今、生かされている枝としての私たちの姿は、教会その
ものの姿です。
実…@悔い改めの実A御霊の実(愛、喜び、平安、寛容、
親切、善意、誠実、柔和、自制)B奉仕の上に結ぶ働きの実

@刈り込みをする(2節)
 刈り込みは、さらに実を結ばせるために必要な過程です。
注意深く枝を見て、切り捨てるのです。刈り込むという
言葉は、きれいにする、清める意味が含まれています。
私たち1人1人が多くの実を結ぶためにも、農夫である神が、
責任を持って私たちの姿を見、実を実らせるために不必要
な思い、行い、言葉…であることを気付かせて下さり、私
たちは悔い改め、さらなる清めを求めていくことができる
のです。

Aイエス様にとどまる(4節)
とどまる枝に対して木は、常に樹液やいのちの力を供給
しています。イエス様も私たちのために、ご自分のいのち
を捨ててまで、私たちに永遠のいのちを与えてくださった
のです。イエス様からのいのちの水、いのちのパンとなる
のは、イエス様のことばそのものなのです。イエス様にと
どまるためにも私たちは日々、イエス様のことばを聞くこと
です。それが私たちにとって、いのちとなって多くの実を
結ぶ秘訣となるのです。

あなたにしか結ぶことができない実、あなただからこそで
きる実があるのです。自分はどのような実を結ぶことがで
きるのか農夫である神に、木であるイエスに「今この時も
真のぶどうの木につながり、実を結ぶ者としてください」
と祈っていこうではありませんか

7月25日聖日伝道礼拝
説教題
「いのちなるキリスト」   
聖書箇所

ガラテヤ2章20節

パウロにとってなぜ「いのちなるキリスト」なのでしょうか。
@私はキリストとともに十字架につけられた
 パウロは自分を「自分でしたいと思う善を行わないで、
かえって、したくない悪を行っています」「罪人のかしら
です」「ほんとうにみじめな人間です」…つまり罪の奴隷
であると捉えています。神の前で自分が一人の罪人である
ことを自覚した時に、キリストの十字架をただ客観的に受け
入れるだけでなく、自ら一人の罪人として死ぬべき体である
とした思いが「キリストとともに十字架につけられた」と
いう言葉になったのです。しかしパウロが、自らの罪の罰と
して十字架によって死んでも救いにはならないのです。完全
なる救いを与えてくださったキリストとともに十字架にかか
ることに意味があるのです。キリストと1つになって死ぬこと
です。「死ぬ」とは、今までの罪の奴隷となっていた生き方
から解放されることです。
「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、
罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷で
なくなるためであることを、私たちは知っています。死んで
しまった者は、罪から解放されているのです。」(ローマ6:6~7)
Aキリストが私のうちに生きておられる
自分自身の十字架経験をした時に、そこで死んで終わるの
でなく、復活してくださったイエス・キリストとともに生き
る新しい生き方が与えられます。十字架を通して現わして下
さった神の愛に日々生かされていることを思わざるを得ない
日々となります。日々の生活の中で外側から、また自分自身
の内側からでてくる様々な思いが、神から私たちを遠ざけよう
と、罪を犯させようとするただ中にあっても、私たちはそこで
罪を犯さない、いのちを選んで、勝利を得ることができるの
です。そんな自分の生き方に気づかされる時、自分の力で生
きているのでなく、今「キリストが私のうちに生きておられる」
ことを告白せざるをえないのです。
 パウロも多くの患難、苦しみ、迫害、飢え、危険…を体験
しました。しかし、パウロがイエス・キリストを信じ続けた
のも、自分が罪深い弱い人間であることを認め、その古い生
き方を十字架にかけ、死んだことによって新しい生き方が与
えられ続けたからです。「キリストが私のうちに生きておら
れる」生涯を歩んだパウロ。この生涯は、キリストを信じる
1人1人にも与えられているのです。「いのちなるキリスト」
をこれからも信じて、歩ませて頂こうではありませんか。

7月18日聖日礼拝
説教題
「パウロの祈り」   
聖書箇所

エペソ3章14〜21節

この3章に書かれているパウロの祈りは、とりなしの祈り(互いの
ために祈りなさい。ヤコブ5:16)です。どのようなとりなしの祈りだっ
たのでしょうか。先ずパウロの祈りの姿勢から見ていきたいと
思います。
@パウロの祈りの姿勢(14?15、20~21)
「私はひざをかがめて〜父の前に祈ります」とあります。ここから
パウロの信仰が見えてきます。父なる神の前に屈服し「栄光が、
世々にわたって、とこしえまでありますように」と、神に栄光を帰し
ています。神の前に襟を正し、へりくだった思いと同時に、全ての
者の父としての神を信頼しているパウロの信仰が、祈りの言葉と
なっていることがわかります。
A個人に対する祈り(16~17a)
 新しい心、生き方を与えられたクリスチャンとして「内なる人を強
くしてくださいますように」つまり、罪と悪に打ち勝っていけますように。
その為にも一人一人の心に、イエス・キリストが住んでくださいます
ように、という祈りです。イエス様が住んで(永住)下さる時、私たちの
心は常にイエス様のことばによって、生かされていくのです。
様々な罪、悪魔にも打ち勝ち、また多くの悩み、悲しみにも勝利、
感謝が与えられるのです。イエス様に知られたくない心の部屋は
ないでしょうか。自分の心、どこにでもイエス様がおいでになって
も大丈夫でしょうか。日々新たな思いで「イエス様、私の心におい
でくださり、日々新たに力を与えて下さい」と祈る者とならせていた
だこうではありませんか。
B教会に対する祈り(17b~19)
 「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」とは、イエス様の愛に生
きるということです。私たちが一人も滅びないようにご自分の命を
捨てて下さったほどの愛によって生かされているクリスチャンは、
「すべての聖徒とともに」…教会において、神の愛の広さ、長さ、
高さ、深さを理解する事ができますように。個人的にでなく「ともに」
が大切なのです。教会は、ともに神の愛をお互いが理解できるよ
うに、祈り支え合っていく。そして神ご自身の満ち満ちたさまにまで、
私たちが霊的にも成長していくことが大切であることがパウロの祈り
からも伝わってきます。
クリスチャンが表面的な一致によって助けを求めることをやめ、
キリストへの変わることのない献身により、神の御座のもとに一つ
になることを求め、神の御霊の力を求めてやむことのないとりなし
をしていくとき、教会は美しい衣を身にまとい、力をつけ、世に打ち
勝つのです。(アンドリュー・マーレ―「とりなしの奥義」より)

7月11日聖日礼拝
説教題
「アテネ伝道

    〜知られない神に〜」
聖書箇所

使徒の働き17章16〜28節

シラス、テモテよりもひと足先にアテネに着いたパウロが見たもの。
それは多くの偶像であり心に憤りを感じ(心を傷め)ました。アテ
の状況とそれに対するパウロの対応を見ていきたいと思います。
@アテネの状況(16〜21節)
 アテネは、エピクロス派とストア派の哲学者もいて、人々は何か
耳新しいことを話したり、聞いたりして過ごしていました。ゼウスの
神を中心とした12人の神がいて、その他に何千何百という神々が
いる多神教の国家でした。その神々が、人間と同じように罪を犯す
とゼウスが罰を与えるのでした。この宗教は人々に善と悪、命と
死の問題に対して、真の解答を与えることが出来ず、人々は哲学
に自分の思いを向けたり、生きる真の目的を追い求めことでしょう。.
自分たちが拝んでいない神がいないように、拝まなかったゆえに、
その神から復讐されないよう自分が知らない神「知られない神に」
といった祭壇まで築いたのです。

Aパウロの対応 (22〜31節)
 パウロが見(観察し)て、アテネの状況を把握してとった対応は
「あなたがたが知らずに拝んでいるものを、教えましょう」と真の
救い(イエスと復活)を語ることでした。キリスト教の神は@造られ
た神でなく、創造主であること。A神は万物を支配している。つまり
私たちは神によって生かされていること。B神は正しい裁きを行う
方であるから、悔い改めることを教えました。しかし、イエスの
十字架と復活の話を聞いて、あざ笑ったり、またいつか聞くことに
しようと「信じる」ことを延期したりする人々がいました。しかし、
その中にあって信じる人々もいたのです。

パウロのアテネにおいての伝道は、失敗したかのように感じますが、
神様は「信じた人々」を祝福して下さり、時を超え今、ギリシャには
多くのキリスト教会があります。私たちも、現実の状況を見た時、
傷めた心を祈りに変え、真の救いについて語る者とならせて
いただこうではありませんか。

 
7月4日聖日伝道礼拝
説教題
「川辺での出会い」
聖書箇所

使徒の働き16章6〜15節

「川辺での出会い」が、ヨーロッパ最初の教会:ピリピ教会
へとつながっていきます。パウロは、イエス様に出会って
から、多くの人々にもこの救い:福音を伝えたい!と伝道旅行
に3回、出かけます。今日のピリピでの伝道は、2回目の伝道
旅行における出来事です。「川辺での出会い」に至るまで、
どのような道筋だったのでしょうか。
@神の導きがある(6,7,10節)
 パウロ達は、アジヤ(今のトルコ)に行きたいと思って
いましたが、神(聖霊,イエスの御霊)の導きによって予定が
変わりました。閉ざされた理由は書かれていませんが、自分
たちの計画が進まない何か理由があったと思います。その旅
の途中で幻を見ます。マケドニヤ人が「私たちを助けて下さ
い」と懇願したのです。そこでパウロ達は今まで、自分たち
の計画が進まなかったのは、「神が私たちを招いて、彼らに
福音を宣べさせる」ためであったことが分かり、神の導きで
あることの確信へとつながったのです。「あなたの目はあな
たの教師を見続けよう。あなたが右に行くにも左に行くにも、
あなたの耳はうしろから『これが道だ。これに歩め』と言う
ことばを聞く(イザヤ30:20,21)
A救いがある(15節)
 ユダヤ人は10名程集まるとシナゴーグという会堂を作りま
すが、それ以下だと水辺で祈り会をします。その祈り会の中に
王族、貴族に高級な生地を納品する商人であり、神を敬うルデ
ヤがいました。神はルデヤの心を開いてくださり、パウロの語
る事、福音に心を留めるようにされたのです。そこで、ルデヤ
は心に留めるだけでなく、信じてバプテスマを受けました。
その喜びが家族の救いへとつながったのでした。さらに「私の
家にお泊りください」とパウロ達に申し出ます。ルデヤの喜び、
熱心さによって、パウロ達のこの町における住まい、拠点…
ピリピの家の教会として用いられ、ピリピ教会の礎となった
のです。 
 パウロ達のように、私たちも日々主と共に歩む中で、自分が
歩むべき道に導かれるのです。そして、これこそ神の導きであ
ることを確信し、また人、出来事と出会うこところには必ず
救いへの道があり、ルデヤの救いがピリピ教会の礎となった
ように、大いなる祝福が備えられているのです。

6月27日聖日伝道礼拝
説教題
「クリスチャンの喜び」
聖書箇所

ローマ5章1〜5節

 パウロはユダヤ教の「最も厳格な派に従ってパリサイ人として
生活(使徒26:5)」をし、イエス様の弟子達に対する「激しい怒りに
燃えて、ついには国外の町にまで彼らを迫害(使徒26:11)」してい
ました。キリスト者迫害運動で活躍していたパウロ(サウロ)の生涯を
通して「クリスチャンの喜び」を具体的に見ていきたいと思います。
@神との平和を持っている(ローマ5:1)
 サウロはいつものようにキリスト者を迫害しようと道を進んで
いる時に、天からの光に照らされます。「なぜわたしを迫害する
のか」と復活されたイエス様の声を直接聞いたサウロは、目が見え
なくなります。そこで衝撃を受けたサウロは自分のしてきたことを
振り返り、悔い改めへと導かれます。悔い改めることによって神
との関係が回復したパウロは「神との平和を持っている」と確信
して告白できたのです。また「神の栄光」、つまり神と共に生きる
ことが大いなる喜びとなったのです。。
A神の愛が私たちの心に注がれている(ローマ5:5)
 「患難さえ喜んでいます。〜患難が忍耐を〜忍耐が練られた
品性を〜練られた品性が希望を生み出す(ローマ5:3~5)」のです。
パウロは、伝道であまり成功しない時、共に励んでいたバルナバや
ペテロとの対立。伝道中の投獄だったり、教会内の問題が起き
たり…ある本では「苦難の連続でした」と紹介されています。その
ような患難も喜びにつながるのは、患難を歓迎しているのでも、
自分が強い人間であることを誇示しているわけでもないのです。
そのような患難の中にあっても、喜びを与えて下さるキリスト・イエス
を崇めているのです。
神の愛が心に注がれている…パウロが力強く語っているのも、
パウロ自身が神の愛を感じないではおられなかったことが伝わって
きます。
 クリスチャンの喜びは、「神との平和を持っている」「神の愛が
私たちの心に注がれている」からです。礼拝を通して、日々聖書を
通して神のことばを聞くことによって、またこの自然界を通して、
人を通して神の愛は確かに、注がれているのですから、
神の愛に押し出された人生を歩みだそうではありませんか!

6月20日聖日礼拝
説教題
「主なるクリスチャン」
聖書箇所

ピリピ4章1〜7節

パウロとシラスの伝道によってできたヨーロッパ最初の教会が、
ピリピに誕生しました。その後ローマに捕らわれ、獄中にいる
パウロにピリピの教会から近況報告と心からなる献金が届きます。
その礼状として書かれたのが4章になります。
神様がパウロを通して教会においてのクリスチャンのあり方を
見ていきたいと思います。
@主にあってしっかりと立つ(ピリピ4:1)
 パウロにとって喜び、冠は、ピリピの教会の方々が、イエス様を
救い主と信じる信仰でした。イエス様を救い主と信じて「しっかりと
立つ」とは、イエス様との生きた交わりがあるということです。生きた
交わり、イエス様のことばを日々聞いて、応答する関係です。
その中で、信仰が揺るがされず、しっかりと立つ者とならせて
頂けるのです。
A主にあって一致する(ピリピ4:2)
 一致するとは、機械的に同じ思いになる、ということでは
ありません。かと言って、各自が自己中心にする!という事でも
ないのです。「主にある」この言葉が鍵になります。主の思いを
求める、つまり「主のことばに立ち帰る」ことです。この時、私た
ちは主の前にへりくだり、相手の思いを寛容な心で受け止め、
一致へと展開していくのです。 一致することによって福音を
広めるために、お互いに真の協力者となることができるのです。
B主にあっていつも喜ぶ(ピリピ4:4)
 いつも喜ぶ、寛容な心を示す、思い煩わない勧めがあります。
勧めがある、ということはそれが「なかなかできない、難しい」
ということです。その中、クリスチャンが「できる」秘訣は、
神の平安が私たちの心をキリスト・イエスにあって守ってくださる
からです。
主にあって…救い主イエス様との生きた交わりがあるからこそ
「しっかりと立つ、一致する、いつも喜ぶ」時が与えられるのです。
神様から与えられている教会生活を、私たちは「主にある
クリスチャン」であることを感謝しつつ、自覚しつつ送らせて
頂こうではありませんか!

6月13日聖日礼拝
説教題
「神のことば」
聖書箇所
へブル4章12〜16節

イザヤ55章10〜13節
「聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰に
よる救いを受けさせることができるのです。聖書はすべて、神の
霊感によるもので〜(Uテモテ3:15~16)」。 キリスト教では、聖書
を「神のことば」と信じています。神のことばを信じて生きる時に、
神の祝福が実現していくのです。それはなぜでしょうか。
@必ず成し遂げ、成功させてくださる(イザヤ55:11)
 「光があれ」と、神が言われた時に光があり、この宇宙、地球…
ついには、人間を創造されたのです。神のことばによって命が与
えられたのです。命、神の祝福そのものではないでしょうか。神
のことばは、生きていて、力がある(へブル4:12)。つまり「生き
ている」…命があり「力がある」…物事を起こして下さるのです。
人間の目では不可能なことでも、神の前では可能なのです。
神のことばは「必ず成る、成功する」ことを信じ通すことが、神の
祝福につながるのです。
A安らかに導く(イザヤ55:12)
 この「安らかに」には、喜びが伴うのです。神は私たち以上に、
私たち1人1人の心の思い、状態をご存知です。「神の前では隠れ
おおせるものは何一つないのに〜弁明するのです(へブル4:13)」
これが人間の無力さ、罪の姿なのです。しかし、このような罪深
い私たちに与えられているのが「大祭司である神の子イエス」です。
罪赦された喜びを土台として安らかに日々、導かれていくのです。
B永遠のしるしとなる(イザヤ55:13)
 「いばらのかわりにもみの木、おどろの代わりにミルトスが生える」
とは、解放される、救いの結果、大祭司イエスがおられる。神の栄光
があらわされているのです。神のことばによって生かされた、新しい
いのち、生きる力が与えられたことが「永遠のしるし」として残される
のです。
日々の生活において神のことばを信じ、神の祝福のただ中に
生きる者とならせて頂こうではありませんか。


6月6日聖日礼拝
説教題
「愛ゆえの任命」
聖書箇所
マルコ3章13〜19節
 イエス様は12弟子を使命しました。その目的はイエス様の
そばに置いて教育訓練し、派遣して十字架の福音を宣べ伝え
させ、悪霊を追い出すことでした。
 私たちもイエス様を信じる時、この世の立場や職業が何であれ、
この12使徒のように使命が与えられます。それはキリストの
福音をこの世に証言すること。そして心に不自由を覚え、罪に
悩み、慰めを必要としている人々に自由と解放と慰めとを与える
ことです。

 しかし、イエス様が任命された12人は、この世の価値基準では、
最初から意見や社会的立場の対立、性格上の問題がありました。

 なぜ、イエス様はこうした彼らを任命したのでしょうか。そこには
イエス様(神)のご計画と深い愛がある。イエス様は彼らと寝食を
共にし、不完全で未熟な彼らを訓練し、取り扱われた。彼らも
イエス様を愛し、そのみことばに聞き従いました。イエス様はそう
した彼らに力を与え、性格を補い、神の器として用いて下さった
のです。

 彼らがイエス様に従っていく姿は、教会の姿を指しています。
12弟子の集まりは「小教会」です。神は仲間との出会いを愛し
やすい形で用意していません。最も愛しにくい人と、愛しにくい
状態で出会う。そして交わり、一緒に過ごしていく。これをイエス様
が実際にお手本を見せて下さったのです。

 私たちもイエス様を愛し従っていく時に、性格すら取り扱われ、
何の誉れもない者をも神の器としてこの現代に用いて下さいます。
私たちがイエス様と共に歩む時に、キリストにあって一つとなって
いくのです。


5月30日聖日礼拝
説教題
「イエス様から目を離さずに」
聖書箇所
マタイ25章1〜13節
 このユダヤの婚礼のたとえでは、主イエスの再臨を待つ者の
心構えを教えています。「ともしび」(1節)とは信仰。「花婿」(1節)
とはイエス・キリスト。「10人の娘」(1節)は私たち一人一人。「油」
(3節)とは聖霊のことを指しています。

 ユダヤでは先ず花婿が花嫁の家まで迎えに行き、共に花嫁を
連れ帰って結婚式を挙げました。式が一週間ほど続きました。
このたとえでは、花嫁の家では友達が10人出迎えに出た時の
光景が示されています。

 イエス様はこのたとえを通し、私たち一人一人に「油の用意が
出来ているか」を問うています。花婿が来るのが遅いので、10人
の娘はみなうとうとし始めました。しかし、普段から予備の油を
持っている娘は「賢い」と言われています。

 油を持つとは聖霊に満たされることです。そのためには、
普段から御言葉によって心が満たされていなければなりません。
かつて信仰を持って救われ、喜び、信仰のともしびが輝いて
いても、途中で油が尽きてしまうと愚かと言われ、天の御国
(天国)に入れなくなってしまうのです。イエス様から目を離さずに
いることが大切です。

 戦前から当教会を巡回して下さった故井上馨師がこのような
メッセージを残されています。
 「私たちにとって問題なのは、主がいつ来られるかではなく、
今、私たちは主にお会いする準備ができているかということです。
…今という時は私たちにとっては、恵みの時です。今日という日
は救いの日です。」

 
5月23日聖日伝道礼拝
説教題
「悔い改めとバプテスマ」
聖書箇所
使徒行伝2章36〜39節
☆毎月第4日曜日は、はじめての方向けに伝道礼拝を
  行っています。どなたでもお気軽にご参加ください。

 イエス様は、弟子たちに「父(神)の約束(聖霊降臨)を待ちな
さい」と言われました。弟子たちは、イエス様が昇天された後、
一つ所に集まって、祈りに専念していると、父の約束「聖霊降臨」
の時が与えられました。助け主「聖霊」が与えられると、弟子たち
は多くの外国の言葉で、イエス様から教えられたことを伝え始め
ました。そして、教会が誕生していったのです。教会が誕生する
まで、どのような展開があったのか見ていきたいと思います。

 人を恐れて、イエス様のことを三度も知らないと言ったペテロも、
声を張り上げ、はっきりと「イエスを、あなたがたは十字架に
つけたのです」と大胆に語りました。人々はそれを聞いて、心を
刺され「私たちはどうしたらよいでしょうか」と問いかけました。
ペテロはそこで「悔い改めなさい」「バプテスマを受けなさい」と
伝えました。

@悔い改め…イエス様にお会いする
 自分の姿に気づかされ「この状態から救ってください」と、
今までの自己中心的な生き方から、神様に生かされる生き方に
方向転換することです。私たちを完全に救ってくださるイエス様に
お会いすることが、悔い改めなのです。

Aバプテスマを受ける…聖霊の恵みを受ける
 神様と人の前で「主は私の救い主」であると告白するのが、
洗礼式、バプテスマです。バプテスマを受けると、助け主であら
れる聖霊が与えられ、聖霊の恵みを体験することができるのです。
聖霊は、私たちをイエスさまにお会いできるよう、私たちを導く
助け主なのです。「真理の御霊(聖霊)が来ると、あなたがたを
すべての真理(イエス様)に導き入れます。(ヨハネ16:13)

 一人一人が、イエス様にお会いする時、聖霊の恵みを受け、
平安・喜び・確信が力となり、自分がお会いした「わたしの
イエス様」を伝えていくことによって、教会が誕生していったのです。
 日々新たに、イエス様にお会いし、聖霊の恵みに満たされて、
イエス様の証人として生かされることを、共に喜び感謝していこう
ではありませんか。


5月16日聖日礼拝
説教題
「賛美の勝利」
聖書箇所
U歴代誌20章14〜30節
 ユダ王国ヨシャパテ王の時代、モアブ人、アモン人、セイル山の
人々が、おびただしい軍団で攻めてきました。この戦いは、どの
ように展開していったのでしょうか。

@ただひたすら主に求めた
 ヨシャパテは恐れを感じた次の瞬間「ただひたすら主を求め」
たのです。何か作戦を立て直したりするのでなく、全国の人々に
断食を布告し,主に助けを求めたのです。そこには幼子、妻たち、
子どもたちも共にいたのです。この戦いは、心を1つにして主に祈る所から始まっていったのです。

A神の言葉を信じた
 主の霊がヤハジエルに臨み、ヨシャパテ王達の祈りに答えられ
ました。「恐れてはならない」「気落ちしてはならない」「神の戦い
である」「動かずにいよ」「主の救いを見よ」「主はあなたがたと
ともにいる」と。
 神の言葉を聞いたヨシャパテは地にひれ伏しました。人々も
みな、地にひれ伏し、主を礼拝したのです。このひれ伏した、
主を礼拝した、という姿からも「神の言葉を信じた」という確信に
満ちた力強い思いが伝わってきます。

B賛美したその時に勝利した
 戦いが終わっていないのに、大声を張り上げて賛美したのです。
「主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで」と喜びの声、賛美の
声をあげ始めた時、敵の人々は打ち負かされたのです。敵同志の
間で、互いに力を出して滅ぼしあったのです。その分捕りをする
のに3日もかかるほど多くの武具、高価な器具などがありました。
 4日目、ベラカの谷(賛美の谷)で、主をほめたたえました。この
戦いを聞いた地のすべての王国が、神の存在を思わざるを
えませんでした。

 このようなわけで、ヨシャパテの治世は平穏で神は、周囲の者
から守って、安息を与えられたのです。

 今を生きる私たちにとって、また自分にとって「敵」とは何で
しょうか。敵、自分を滅ぼそうとする人、出来事、病、言葉…と
ありますが、1番の敵は自分自身の心の奥深いところにあるの
です。恐れを感じたその瞬間、私たちもまず、祈りによって賛美の
勝利を得る者とならせて頂こうではありませんか!


5月9日聖日礼拝
説教題
「わたしを通してでなければ」
聖書箇所
ヨハネ14章1節〜11節
 最後の晩餐において「主よ。どこにおいでになるのですか」
「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか」と
動揺し、心騒いでいる弟子達に「あなたがたは心を騒がしては
なりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と言われた
イエス様。さらに「わたしは場所(天においてのすばらしい場所)を
備えに行くのです〜わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
と。しかし弟子のトマスは「私たちにはわかりません」と言いました。
 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、
いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父の
みもとに来ることはありません」(6節)
 どうして、イエス様を通さなければいけないのでしょう。

@道である…贖いの道を与えてくださった
 先ず、神様と人間の関係は罪によって崩されてしまっている
のです。そのために、イエス様は十字架の死を通して、神様と
人間の関係を回復してくださったのです。
 「イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちの
ためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(へブル
12:20)

A真理である…イエス様の生き方に現わされている
 ことば=神様=イエス様(ヨハネ1:1,14)であり、これこそ
永遠に変わらない真理、そのものです。イエス様の生き方から
真理を学ぶことができます。
「〜わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが
来ます。」(マタイ11:29)

Bいのちである…永遠のいのちが与えられる
 いのちは、私たちに欠かせない原動力です。この地上だけで
なく、新しい天と地につながる永遠のいのちなのです。永遠の
いのちは、私たちの平安、喜び、希望、感謝につながるのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、
死んでも生きるのです。」(ヨハネ11:25)

 日々の生活の中で、道であり、真理であり、いのちであって
くださるイエス様を、ただ信じる者とならせて頂きましょう!信じる
時に、神様のわざが始まっていくのです。


5月2日聖日礼拝
説教題
「主の日を待ち望む」
聖書箇所
Uペテロ3章1節〜13節
 「主の日」とは、昇天されたイエス様が、再びこの地上においで
下さる「再臨、神の日、神の約束」の時です。その時、イエス様を
救い主と信じる者は、新しい天と新しい地(13節)が与えられますが、
この天の万象は、焼き尽くされるのです(10,12節)。かつてノアの
時代、罪(自分の欲望のままに生きる)ゆえに水で滅ぼされた
ように、次は火で滅ぼされるのです。
 私たちは、どのようにして「主の日を待ち望め」ば、よいので
しょうか。

@知るべきこと(3節)
 キリストの来臨の約束はどこにあるのか…と、あざける者の姿を
通して「今こそ世の末である」と捉えること。まだイエス様は来られ
ない!ではなく、「今こそ」と日々、このことを見据えて生活する
ことが大切です。

A見落としてはいけないこと(8節)
 主がいつ来られるのか、私たちは知ることができません。神様に
とって「一日は千年のようであり、千年は一日のようです」とある
ように、神様は、時間を超越されているお方です。このことを
見落としてはいけないのです。

B「忍耐深くあられる主」がおられる(9節)
 こうして、私たちが地上において、生活が与えられているのも、
神様の忍耐深さによるのです。すべての人が悔い改めに進む
ことを願っておられます。人を悔い改めに進ませるのは「神の慈愛、
忍耐、寛容」(ローマ2:4)です。

 私たちは、いつ「主の日」がきてもいいように、聖い生き方、
敬虔な人である(11節)ことを求めるようになります。それと同時に
「一人も滅びることがないように」と言う主の望みが、自分の望み
となり、伝道へとつながっていくのです。そして一人の魂が、滅び
から救われた時、神様が喜んでくださいます。神様の喜びが
私たちの喜びとなるのです。これこそ、神様の祝福そのものでは
ないでしょうか!!


4月25日聖日伝道礼拝
説教題
「平安が与えられる」
聖書箇所
ヨハネ14章27節
 イエス様は間もなくご自分が十字架にかかって、全人類の罪の
身代わりに死なれる時が近いことを悟られました。時が迫って
いる中で、弟子たちに語られたのは平安についてでした。

 イエス様の言われた「平安」とは、イエス様がこの世を去った後、
聖霊が与えて下さるキリストの平安(平和)のことです。なぜなら、
イエス様ご自身が「平和(平安)の君」(イザヤ9:6)だからです。

 イエス様の与える平安は、魂の平安のことです。これは罪を
犯して道を見失った者が、イエス様の十字架の血によって再び
神と和解させられたところから来るものです。
 イエス様は「心を騒がせてはなりません」と言われます。この
言葉は、私たちの外部には私たちをおびえさせる事柄が確かに
存在することを示しています。

 しかし、この世の平安と違うのは、どのような状況にあっても
決して失われず、奪われない平安なのです。これは置かれた
環境や私たちの心の状態によって左右されるものではなく、聖霊
によって与えられるものだからです。この平安は信仰を通して、
私たち一人一人に必ず与えられるのです。


4月18日聖日礼拝
説教題
「日々新たにされている」
聖書箇所
Uコリント4章11〜18節
 使徒パウロは、ギリシャのコリント地方に伝道するにあたって
命が危うくなるほどの迫害と苦難に遭いました。しかし、このような
中にあってもパウロは復活のイエス様を信じたことによって、
一つ一つの迫害や苦難を乗り越えることが出来たのです。

 パウロの死の苦難によって、かえってコリントの人々に福音が
伝えらえれ、魂が救われることになりました。宣教における誰かの
労苦が、後の世代の祝福になるのです。
 そして今や、信じる者の内側に与えられる聖霊によって、2千年
前と同じ信仰を今日も証しすることが出来るのです。

 神はイエス様を十字架の死からよみがえらせましたが、
イエス様を信じる私たちをもイエス様の再臨の際には、イエス様と
共によみがえらせて下さいます。そして、神の御前に恐れなく
立つことが出来、苦難に耐える力となるのです。

 信仰を通して復活の命が私たちの内側に与えられ、やがて
天国において永遠の栄光が与えられることを知らされました。
それゆえ私たち信仰者は勇気を失いません。私たちの肉体や、
生まれながらの人間性は衰えても、イエス様によって新しくされた
内なる人(新しい自分)は日々新たにされています。
 そうした私たちの究極的な目的は地上の楽しみでなく、天国に
おける永遠の栄光なのです。


4月11日聖日礼拝
説教題
「わたしの証人となる」
聖書箇所
マルコ15章1〜15節
 復活されたイエス様は、40日間使徒たちに現われ、神の国の
ことを語り、ご自分が生きていることを示されました。昇天される
前に語られたメッセージが「わたしの証人となる」ことでした。
 わたし…イエス様の証人となるとは、まず…

@復活されたイエス様にお会いする(3節)
 証人とは、事実を証明する人、経験した事実を証明する人の
ことを言います。私たちが経験した事実、それは「復活された
イエス様にお会いする」つまり、救いを信じる、イエス様を神の子と
信じることです。私たちが信じるために「数多くの確かな証拠を
もって、ご自分が生きていることを使徒たちに示され」たのです。
イエス様にお会いした経験、自分とイエス様の関係で与えられた
救い、平安、喜び…恵みを語り伝えていくことなのです。使徒たちが
語り伝えたゆえに、今こうして、私たちもイエス様に実際、お会い
していなくても、聖書を通してイエス様にお会いすることができる
のです。

A父の約束を待つ(4節)
 父の約束、それは聖霊(助け主)が与えられるということ(ヨハネ
14:16,26)です。人間の思い、力、情熱は、限度があります。
イエス様と一緒に死ぬことになっても、知らないとは決して言わない、
と力を込めて言ったペテロですが、実際にはイエス様のことを
「知らない」と3回言ってしまう(マルコ14:30,31)のです。この姿こそ、
私たち人間の姿なのです。ですから、私たちは父の約束、聖霊
降臨を待つことが大切なのです。

B再臨を待ち望む(11節)
 昇天されたイエス様は、使徒たちが見た時と同じ有様で、また
この地上においでくださいます。このことを再臨と言います。その時は
いつなのか、わかりませんが、この約束を信じて、私たちはこの
地上生涯を過ごすことが大切です。(新聖歌465)

 復活されたイエス様にお会いした人々は、「みな心合わせ、
祈りに専念」(14節)していました。私たち教会一同、心を合わせ、
祈りに専念し「わたしの証人」として、生かされて頂こうではあり
ませんか!


4月4日聖日礼拝
説教題
「わたしの平安」
聖書箇所
ヨハネ21章1〜14節、14章27節
 一人の罪びととして死んでくださったイエス様。私たちを滅びから
永遠のいのちへと救うために、人の子として働きを成し遂げて
くださったイエス様。十字架の死から3日目、イエス様は蘇られた
のです。それから、イエス様は弟子達の前に現われました。
お姿を見せられて、今回は、3回目。イエス様が与えてくださった
「わたしの平安」について、復活されたイエス様のお姿から、
具体的に見ていきたいと思います。

@共にいてくださる(4節:イエスは岸辺に立たれた)
 漁で、何もとれずにいた様子を、イエス様は岸辺に立たれて
見つめておられました。しかし、弟子たちはそれがイエス様だとは
わからなかったのです。弟子たちの空腹を理解し「子どもたちよ」
とイエス様の親から子への愛のまなざしを思わざるを得ません。
 イエス様がおられることに気づかなかった弟子のように、私たちも
イエス様が、共にいて下さるのに気づかないのが人間の姿では
ないでしょうか。(詩:あしあと)

A教えてくださる(6節:船の右側に網をおろしなさい)
 弟子たちの必要を理解されているイエス様。必要の為に何を
するべきなのか、具体的にイエス様は教えてくださるのです。
イエス様の言われた通りに従った時、弟子たちは自分たちが
必要としていた大漁を体験しました。私たちも日々、聖書を通して
教えて下さるイエス様の言葉に従う者とならせて頂きましょう。

B与えてくださる(13節:彼らにお与えになった)
漁から戻った弟子たちに、イエス様は炭火の上に魚とパンを
すでに備えていて下さいました。私たちの必要を知り、すでに
用意して下さっているのです。そして、私たちに与えて下さるのです。

 わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがた
にわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、
世が与えるとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。
恐れてはなりません。ヨハネ14:27


3月28日聖日伝道礼拝
説教題
「完了した救い」
聖書箇所
マルコ15章25〜39節
 受難週に入りました。イエス様が十字架上で発せられたことばを
通して改めて、イエス様の「完了した救い」について学びたいと
思います。                  

@一人の罪びととして死んで下さった(34節)
 「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」
イエス様は、いつもなら「わが父よ」と神様に呼びかけていました。
それが「わが神、わが神」に代わっている…つまり、神様とイエス様の
関係が崩れたからです。イエス様が全人類の罪を背負って下さった
ゆえに。罪は、神様との関係を崩してしまうほどの恐ろしい存在です。
イエス様は、全人類を滅びから永遠のいのちへと救うために、
新しい救いの道を開くために、十字架で身代わりの罰を受けて、
一人の罪びととして死んで下さったのです。

A人の子としてのお働きを成し遂げて下さった(37節)
 ヨセフ、マリヤの子として30年間過ごされ、伝道されたのは3年間
でした。しかし、その短期間の中でも、イエス様の救いを実現したい!
という情熱は伝わってきます。十字架を前にして「この杯(十字架)を
わたしから取りのけて下さい」「今わたしの心は騒いでいる」と言われ
ています。しかし、イエス様は十字架を決意して、進んでくださいました。
 どのような苦しみ、痛み、悲しみのただ中にあっても、神様の思い
「一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつため」を実現する
ために。
 完了した…とは、完成した、の意味でなく「終わった」「成し遂げた」
の意味です。イエス様は、この地上においての人の子としての働きを
「成し遂げた!!」と痛みの中で、勝利の叫びを大声で言われた
のでした。

 神殿の幕が真っ二つに裂けたのも、神様と人の間に、新しい
救いの道が与えられたことを現わしているのです。またイエス様の
様子を見ていた百人隊長が「この方はまことに神の子であった」と
言ったように、私たちも日々新たに、イエス様の十字架を通して、
イエス様が救い主、神の子であることを告白する者とならせて
頂こうではありませんか。イエス様から目を離さないでいると、
必ず「わかる」時があります。信じて多くの方々の救いのためにも
お祈りいたします。


3月21日聖日礼拝
説教題
「叫びの結果」
聖書箇所
マルコ15章1〜15節
@イエス様の叫び(1〜5節)
 ローマ帝国の支配下では、ユダヤの最高議会には人を死刑に
する権限がありませんした。そこで祭司長たちは、ローマ総督の
ピラトのもとへイエス様を引き渡し、ローマ帝国へ反逆する政治犯
として訴えたのです。
 ピラトが「あなたが、ユダヤ人の王ですか」とイエス様に尋ねると、
イエス様は「そのとおりです」(以上2節)とお答えになられました。
イエス様は「霊的な王」の意味でお答えになりました。
 イエス様は祭司長たちが多くのことで厳しく訴えても、何もお答えに
なりませんでした。イエス様は十字架につくことを覚悟しており、
沈黙の叫びをもって裁判に臨んだのです。

A群衆の叫び(13〜14節)
 つい数日前、イエス様に向かって「ホサナ」と叫んだ群衆は
「十字架につけろ」(13節)と叫びました。何と変わり方の早いこと
でしょう。これは祭司長たちが扇動したことにもよりますが、群衆は
期待が裏切られたことによって怒ったのです。イエス様を政治的な
解放者だと期待していたからです。期待が外れたというだけの
理由で担ぎ上げた人を投げ捨てる私たち人間の性質は昔も今も
変わりありません。それゆえ人の評価は真には当てになりません。
神に信頼を置くことが大事です。

B叫びの結果(14〜15節)
 「ピラトは、祭司長たちがねたみからイエスを引き渡したことに、
気づいていた」(10節)にも関わらず、「群衆のきげんをとろうと
思い、バラバを釈放し・・・イエス様を十字架につけるようにと引き
渡し」(15節)ました。彼は正当な裁判よりも、自分の権力を守る
ことを選んだのです。
 しかしここに救いの真理が隠されています。イエス様が十字架に
付けられることにより、強盗殺人の罪を犯したバラバが死刑を
免れ救われました。イエス様が十字架に掛けられることによって、
私たちの罪が赦され、救われるという十字架の福音のひな型と
なったのです。


3月14日聖日礼拝
説教題
「ロバに乗った柔和な王」
聖書箇所
マタイ21章1〜17節
 本日のテキストにはイエス様が十字架刑を前に、エルサレムへ
入城する際の様子が記されています。

@「主がお入り用なのです」(3節)
 イエス様がお乗りになったのは、大人のロバではなく子ロバでした。
体が小さく、力の弱い子ロバが元大工のイエス様をお運びするのは
大変だったでしょう。しかし子ロバはイエス様への奉仕を全うしました。
 現代の私たち一人一人も、イエス様から「あなたを必要としている」
「神様のご用の一部を担ってくれないか」と声を掛けて頂いています。

Aイエス様は王であり、柔和なお方(5節)
 「柔和なお方」とはしもべとしての救い主を表わします。その使命は
十字架で全人類の罪の贖いのために命を与えることでした。最も
低い所で私たちに仕えてくださったイエス様は、今度は王なる救い
主として私たちの行くべき御国を建てて下さいました。イエス様は
柔和な姿勢で私たちの心を開いて下さるのです。

Bイエス様を心の最も良いところへお迎えする(9節)
 入城されるイエス様に向かって、大人も子供も「ホサナ」(9節)と
叫んで喜びを表わしました。「ホサナ」とは「救って下さい」「助けて
下さい」と言う意味です。神殿に入ることのできなかった盲目の
人々や足の不自由な人々は、神殿の中にいたイエス様のもとに
来て癒やして頂きました。
 一方、エルサレムの指導者たちはプライドゆえにイエス様を
拒絶し、数日後には十字架につけてしまいます。法外な利益を
得ていた神殿の商売人たちは、イエス様に追い出されました。

 私たちも心の門を開き、イエス様を心の最も良い部分(心の
王座)にお迎えし、賛美しつつ歩んで参りましょう。


3月7日聖日礼拝 
説教題
「あらゆる国の人々を弟子とする」
聖書箇所
マタイ28章16〜20節
 本日はイエス様がお命じになられた次の7つのうち、最後の
7番目についてのメッセージです。
@悔い改めて信じる  A信じた人に洗礼を授ける  B神と隣人を
愛する C祈り、神の言葉を学ぶ  D施し(献金)をする  E主の
食卓(聖餐)に与る F弟子をつくる

 「弟子」(16節)とはイエス・キリストの弟子のこと。神は復活された
イエス様に天と地のすべての権威を託されました。(18節)
イエス様の生涯においては、イスラエルの民に福音を伝えることが
目的でした。しかし、イエス様の復活後は、この権威をもってあら
ゆる国の人々を弟子とするよう弟子たちに命じられました。

 次に「父・子・聖霊の御名によってバプテスマを授け」(19節)る
よう命じられました。バプテスマは、神との霊的な交わりに入ることを
意味します。(参照ローマ6:3,4)

 さらに「命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教え」
(20節)るよう命じられています。これはイエス様の教えが、弟子
たちを通して他の人々に正しく教えられ、それが生活の中で生か
されるようにすることです。

 以上のことは、これらは弟子たちも、現代の私たちも自分の
力ではとても成し遂げることが出来ません。そのために、「見よ。
わたしは世の終わりまで、いつも、あなたがたと共にいます」(20節)
との約束を持って弟子たちを励ましたのです。イエス様はその
お手本として「あなたは見ていなさい」⇒「あなたも一緒にやって
みなさい」⇒「あなたがやってみなさい」と弟子たちを訓練し励ました
のです。

 弟子たちはやがて聖霊の力を受けて全世界へ出て行きますが、
それは世の終わりにイエス様が再び来られる時まで、イエス様の
弟子とされた人々によって忠実に続けられます。先ず各人が神を
礼拝する姿が、次世代を弟子とする大きなきっかけになるのです。


2月28日聖日伝道礼拝  
説教題
「いのちを得る」
聖書箇所
ヨハネ20章26〜31節
 十二弟子の一人トマスは、イエス様が復活された日曜日の
集いに居合わせませんでした。仲間の弟子が「わたしたちは主を
見た」(25節)と言っても、それを信じることが出来ませんでした。
 
 次の日曜日に、イエス様はトマスもいる時に弟子たちのもとに
再び現れて下さいました。トマスは「私の主、私の神」(28節)と
イエス様に向かって告白しています。
 トマスは単にイエス様の復活を認めたのではなく、「私の主」と
呼ぶ関係になりました。イエス様と個人的に親しく交わる関係に
なったのです。

 しかし、現代の私たち一人一人にはトマスよりももっと素晴らしい
約束と祝福が語られています。
「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は
幸いです。」(29節)
 なんと12弟子のトマスよりも、イエス様を直接見たことはないが
イエス様を信じる現代の私たちの方が幸いだと記されています。

 最後の31節には、このヨハネの福音書が書かれた目的が記さ
れています。
 「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリスト
であることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、
イエスの御名によっていのちを得るためである。」(31節)

 十字架上で私たちの罪の身代わりに死に、死から復活された
イエス様を信じ、永遠のいのちを得て頂きたい。


2月21日聖日礼拝  
説教題
「足の裏」
聖書箇所
ヨシュア記3章6〜17節
 カナン(神様からイスラエルの民に与えられた祝福)の地を目指
した40年に及ぶ旅。モーセの死後、ヨシュアが神様から選ばれて
イスラエルの民の先頭に立ちます。その中でヨルダン川を目の前
にします。どのようにして、渡り切ることができたのでしょうか。

@契約の箱(6節)
 契約の箱には、十戒を刻んだ石の板2枚が収められていました。
十戒は神様から直接与えられた愛の戒めです。これは、単なる
戒めではなく、神様のご臨在と導きを表徴しているのです。ですから
「契約の箱を先頭にして川を渡る」ということは、神様がまず、
私たちの渡るべき道を示し、渡らせて下さる。つまり神様が、私たち
の様々な問題を戦って下さる!ということなのです。

A足の裏(15節)
 「足が水ぎわに浸ったとき…流れ下る水は完全にせきとめられた」
と書かれています。神様のことばを信じて私たちが一歩前に、自分
の足で歩みだす時、足の裏が地面についた瞬間から神様のわざが
はじまっていくのです。ヨルダン川の多くの水がせき止められるとは、
想定外のことだったでしょう。イスラエルの民(100万人以上と家畜
たち)は、ヨシュアを通して語られた神様のことばを信じて自ら、
足の裏を通して歩み始めたのです。

B完全なる救い(17節)
 ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わったのです。渡り終わった…
完全なる救いです。この箇所からも救い主イエス様をみることが
できます。あの十字架上で「完了した」と大声で叫ばれたイエス様。
神様のことばを信じて歩みだす時、私たちに完全なる救いが実現
していくのです。
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないで
いなさい。」へブル12:2
 1400年後、ヨシュア達が渡り終わったヨルダン川の地点で、
イエス様がバプテスマを受けられたそうです。


2月14日聖日礼拝  
説教題
「ただ、おことばを」
聖書箇所
マタイ8章5〜13節
 カペナウムに、イエス様が入られると百人隊長がみもとに来て、
懇願して言いました。
・「主よ。私のしもべがひどく苦しんでいます。」
・「主よ。あなたを同じ屋根の下にお入れする資格はありません。
ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
・私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいま
して、そのひとりに『行け』と言えば行きますし〜『これをせよ』と
言えば、そのとおりにいたします。」
 イエス様は、これを聞いて驚かれました。イエス様が驚かれる
ほどの百人隊長の信仰をみてみましょう。

@イエス様を権威あるお方であることを信じていた。
・イエス様のことを「主よ」と2度も呼びかけています。
・「〜資格はありません」と謙遜な姿がみられる。謙遜な姿から、
百人隊長が癒しを切に求めていることが分かります。
・自分の立場から、権威あるお方のことばの力強さを捉えています。
カペナウムにおいて、今までもイエス様の教えを聞いていたのでしょう
か。百人隊長がしもべの癒やしを求める姿から「この方こそ!」と
イエス様が権威あるお方であることを信じていることが伝わって
きます。

Aイエス様のことばが実現すると信じ切っていた。
・「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私のしもべは直ります。」
ここで「直るでしょう」でなく「直ります」と言い切っている所からも、
権威あるお方イエス様が言われたお言葉は、実現すると信じ
切っていたことがわかります。
 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを
苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その
滅びの穴から彼らを助け出された。(詩篇107:19,20)
 私たちが日々の生活で何を求めて、何を必要としているので
しょうか。「ただ、おことばを」とイエス様から直接おことばを頂いて、
おことばを体験(みことば体験)する信仰の歩みを積み重ねて
いこうではありませんか!


2月7日聖日礼拝  
説教題
「書いてある」
聖書箇所
ルカ4章1〜13節、エペソ6章17節
 バプテスマを受けられ聖霊に満ちたイエス様は、荒野にて40
日間悪魔の誘惑にあわれました。イエス様が宣教を開始される
前に、まず悪魔に打ち勝たなければいけませんでした。
 それは、アダムとエバが罪を犯して以来、この世は悪魔の主権
の中にあり、私たちは奴隷となっているのです。人々を悪魔から
解放すること、神様との関係を回復することが、イエス様の使命
なのです。
「救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことば
を受け取りなさい。」エペソ6:11,12,17

@悪魔の誘惑
 イエス様の再臨まで、神から一定の主権と栄光(栄誉)が許されて
いる悪魔の目的は、私たち人間を滅びへと追いやることです。
悪魔は、たくみに私たちに近づいてきます。そして神様と人との信頼
関係をくずし、神様に対するおそれをなくさせ、神様を神様と思えなく
させるのです。そこで、悪魔は「少しぐらい…、大丈夫…」と誘惑して
きます。その誘惑が「自分がしたいと思う善を行わないで、かえって、
したくない悪をおこなっています。」ローマ7:19,20、このような罪へと
つながっていくのです。

A剣としての神のことば
 剣は、敵を防ぐ、打ち破ることができる攻撃する武器です。イエス様
は「書いてある」と何度も神様の言葉を悪魔に指し示しました。すると
どうでしょうか!悪魔は、イエス様から離れていったのです。神様の
ことばは、剣のように鋭く、私たちを罪で滅びることのないように、
守ってくれるのです。
 私たちも、神様から与えられた救いのかぶとを自らかぶり、平安と
確信をもって、神様のことばを剣として用いた時、悪魔の誘惑に打ち
勝つのです。そのためにも、まず神様のことばを日々蓄えていこうでは
ありませんか!


1月31日聖日礼拝  
説教題
「その中に切り株がある」
聖書箇所
イザヤ6章8〜13節
 イザヤ6章は、イザヤが聖なる神様を見たことにより、「ああ、
私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で…」と告白します。
すると神様は「あなたの罪も贖われた」と言われ、イザヤは罪赦
される経験をします。すると、どうでしょう、神様が(イスラエルの
民を救うために)「誰を遣わそう…」と言われた時、イザヤは
「ここに、私がおります。」と答えました。イザヤが遣わされたイス
ラエルの民は「その中に」ある状態でした。

@「その中に」とは(9〜13前半)
・神様からイスラエルの民への言葉は逆に「悟るな、知るな、鈍ら
せ、耳を遠くし…立ち返っていやされることのないように」でした。
これはまさしく、心を頑なにしている姿です。神様は人々が、罪に
自ら示され、真の悔い改めに導かれるように、あえて「心の頑なな
ままの状態」にされました。神様の思いを想像する時に、神様の
愛の痛みを思わざるをえません。
「霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さに与から
せようとして、懲らしめるのです。」へブル12:5〜11

・イザヤも心痛め「心が頑ななままの状態」が続くのは「いつまで
ですか」と神様に聞くと、町は滅び、バビロンに捕囚される。民も
十分の一が残ってもさらに焼き払われ、少数となる…神様の徹底
した裁きがあることを仰せられたのです。
「その中」とは、イスラエルの民は「心頑なな姿」であり、それは
「滅び」につながっていること。

A「切り株」とは(13後半)
 神様の裁きの中にも…「切り株がある」とは、神様は僅かであっても
残された者に救いの計画を与えてくださったのです。その救いは
「聖なる」性質にあずかる者として下さる、聖化してくださることです。
究極的な「聖なるすえ」こそ救い主イエス様です。

 ご自分の心が頑なになっている所はないでしょうか。私たちの心は
滅びに向かっていないでしょうか。
 常に私たちの心の中に、救い主イエス様がおられることを信じて、
「ここに、私がおります」と救い主イエス様を、家族、友人、知人に
伝えていこうではありませんか!


1月24日聖日伝道礼拝  
説教題
「立ち止まる時に」
聖書箇所
使徒27章18〜26節
  
クリスチャンのS弁護士は、日々を振り返ってこう証ししています。
「…あなたは何をやってもまるで上手く行かないような時がない
でしょうか?そんな時は、立ち止まって何が原因がよく考えて
みる必要があります。神の前に心を静めて祈って行くと、自分の
思い違いや動機の不純を示されたりする。」

 あの使徒パウロも、大きな船に乗ってローマへ向かう途中、
太陽や星が何日も見えない日が続くのを経験しました。激しい
暴風で助かる最後の望みも絶たれようとしました。
 そんな時に、パウロは「元気を出しなさい」「恐れてはならない」
と人々に語りました。なぜそのような言葉を語ることが出来たの
でしょう? それは彼が神のみことばを最優先し、寝る前や
早朝に祈りをし、静かに神のみことばを聞いていたからです(23節)。
真の解決は、祈りを通して与えられるからです。

 パウロは「私の仕えている神」(23節)と言います。普段から
仕えていなかったら、いざという時に神の守りを信じることが
難しいからです。
 そういう彼もかつてはイエス様を迫害する者でした。しかし、
イエス様は彼に赤信号を示してその歩みをストップさせられました。
彼は自分の罪を示されて悔い改め、伝道者となったのでした。
立ち止まる時、それは神に立ち返り、神のみことばを仰ぐ
チャンスなのです。神に立ち返る者を神は決してないがしろには
しません。必ず答えを下さり良き道を開いて下さるのです。

 276名が乗り込んだ船にパウロ一人がいたことによって全員の
いのちが助け出されました。実はパウロに救いの力があった
のではなく、彼のうちにイエス様がいて下さったことによって、
他の275名にも救いの恵みが及んだのです。ぜひイエス様を
「舟」というご自分の人生に迎え入れ、ぜひ幸いな道を歩んで
頂きたい。


1月17日聖日礼拝
説教題
「主の晩餐にあずかる」
聖書箇所
ルカ22章17〜20節
  
イエス様は、十字架に掛けられる前の晩、過越の食事を弟子
たちと共にしました。過越の食事は、かつてイスラエルがエジプト
で奴隷であった状態から、神の恵みによって救い出されたことを
記念し感謝するものでした。

 イエス様は弟子たちにパンとぶどう酒を分け与えました。
パンはイエス様が十字架上で裂かれ、そのことによって永遠の
いのちが信じる者に与えられること。ぶどう酒はイエス様が血を
流されることにより、信じる者の罪が赦されることを表わして
います。
 これをイエス様が地上に来られるまで行うよう弟子たちに
お命じになり、現在まで世界中の教会で「聖餐式」として継続して
来たのです。

 イエス様が来られる前の時代(旧約時代)には、動物を
いけにえとしてささげれば、神はその人の罪を赦されました。
 しかし、動物の血は完全に人の罪を取り除くことは出来ず、
毎日毎年繰り返さなければなりませんでした。

 しかし、今やイエス様はたった一度全人類の罪を背負って
十字架で血を流されたことによって、罪を取り除いて下さった
のです。イエス様の十字架は、私たちと神との関係を正しい状態に戻して下さいます。

 私たちはこの恵みを忘れないよう、繰り返しパンとぶどう酒
(聖餐式)によってイエス様の十字架による救いの恵みを覚え
続けなければなりません。イエス様の十字架のもとにへりくだり、
砕かれる時こそ神との関係が正しくされる恵みの機会なのです。


1月10日聖日礼拝
説教題
「喜んで与える(施す)」
聖書箇所
Uコリント9章6〜11節
  
使徒パウロは、諸教会の代表と共に献金を持ってエルサレム教会
へ行こうとしていました。かつて福音を伝えてくれたエルサレム
教会が迫害下で経済的に困窮していました。パウロは同教会
からの霊的な恩義に対し、経済的(物質的)なお返しをしようと
献金を呼びかけたのでした。

パウロは6節でこの献金を種蒔きに例えました。「少しだけ
蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は豊かに刈り取り
ます。」 この「豊かに」という言葉は「祝福をもって」という意味も
あります。この原理は昔も今も変わることがありません。他者
への祝福をもって献金する人は、経済的な祝福だけでなく、
生き方や品性までも神様に祝福されるのです。

次に、献金の姿勢が7節に示されています。「心で決めた通り
にしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。」 
自発的な思いで、神を愛し他者を愛する姿勢を、神はご覧に
なっておられるのです。

神はそのひとり子イエス様を、私たちの救いのためにお与え
になりました。富んでおられたイエス様が、貧しい人の姿と
なって地上に来られ、やがて全人類の罪を背負って十字架に
掛かって下さったのです。神の動機は愛のゆえです。神は
惜しみなく私たちに分け与えるお方です。

神は私たちに種まき用の種と食べるパンとを備えて下さいます。
種まきという献金を通し、実際に経済も祝され、品性や愛の
行いという義の実を増し加えて下さいます。その結果、
私たちは「あらゆる点で豊かに」なる(11節)と約束されています。
この恵みを覚え、ぜひますます喜んで与える者とされたい。


1月3日聖日礼拝
説教題
「日々祈り、神のみことばを学ぶ」
聖書箇所
ルカ18章1〜8節
  
イエス様は祈りとみことばを学ぶ姿勢について、次のように
教えています。

@祈り
いつでも祈る姿勢でいること、失望しないで祈ることです。
不正な裁判官ですら、やもめのうるさい(しつこい)求めには
ついに求めを聞き入れます。ましてや夜昼(いつも)神を呼び
求める民のためには祈りを聞き、応えて下さるのです。

神は私たちに最善(ベスト)のものを与えようとされます。
私たちの求めが第二、第三番目のものであったら、あえて
その通りにはなさらないのです。

また、困難に直面すると祈れなくなってしまうことがあります。
その時には「祈りの友」の存在がとても大きいのです。
教会生活の中で自然に祈り合えることは大きな恵みです。

A神のみことば(聖書のみことば)
 イエス様は神の真理をたとえを用いて語られました。
祈りと同じく、毎日聖書のみことばを読み、思いめぐらすなら、
「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた
者となる」(Uテモテ3:17)のです。

 また、みことばが心に蓄えられて行きますと、他の人々に
イエス・キリストを証しする助けになります。(詩篇119:9〜13)


2021年1月1日(金) 元旦礼拝
説教題
「破れ口に立つ者」
聖書箇所
エゼキエル22章30節
  
昨年より現在に至るまで、私たちはコロナ禍の中で様々な破れを
経験しました。神はこうした破れを通し、私たち一人一人に"破れ
口に立つ者は誰か"と呼びかけています。本日の聖書個所は
イスラエルが南北に分裂した時代に、北に続いて南も罪を重ねて
滅ぶ直前に神から発せられたみことばです。

「破れ口に立つ者(修理する者)」とは、イエス・キリストに他なりま
せん。イエス様は罪と死の入り混じるこの世において、十字架上
で私たちの身代わりに死んで救い出して下さいました。自分の
破れをイエス様に修復して頂いた恵みを知っているのがクリス
チャンです。
 私たちもイエス様のしもべとして、破れが覆われるよう祈り、
みことばに従って行動を起こす者としてこの1年間を歩んで参りたい。


12月27日聖日礼拝
説教題
「神の祝福に生かされる」
聖書箇所
イザヤ30章18〜26節

神は、世的な力に傾くのではなく、ご自身に立ち帰る時、大いに
祝福することを約束してくださいました。神は「待っておられ」
「あわれもうと立ち上がられる」「答えてくださる」「主は必ずあなた
に恵み」くださるお方です。

@神の言葉を聞く
神は羊飼いのように、私たちを後ろから見守り、導いてください
ます。私たちは、神の言葉によって生かされる祝福に生かされて
いるのです。

A真理を知る
神の言葉を聞いていく時、私たちは、真理を知らされます。真理を知
る時に、私たちは、人間が作り出した偶像、自己中心的な考え
などから、神中心の生き方へと方向転換するのです。

B主の栄光があらわされる
大いなる虐殺の日…とは、イエス様が再びこの地上に来られる
再臨の時です。キリスト再臨の時、神の敵はすべて滅ぼされます。
そして、主の栄光で輝き、月も日も必要ないぐらいの輝きで満た
されるのです。私たちは、日々の生活において、主の栄光を待ち
望むと同時に、いつその日か分かりませんが、必ず来られる
キリスト再臨の時を待ち望んで行こうではありませんか。


12月24日(木) イブ礼拝
    16:00〜17:00

 特別賛美ゲスト 大塚  満師・治美師(竜ケ崎教会)

  メッセージ   大塚  満師
    
『大きな喜びの知らせ』
         ルカ2章10,11節

 


12月20日クリスマス礼拝
説教題
「この上もない喜び」
聖書箇所
マタイ2章1〜12節

「この上もない喜び」を博士たちはなぜ、体験できたのでしょうか。

@救い主を求めていた(1-2節)
 神様のことについて十分な知識も無かった。けれども、博士たちは、
人づてに聞いた神様の救いの約束を信じていたのです。信じて
いた・・からこそ、「その方の星」の存在に気づき、はるばる砂漠も
こえる長旅を行動にうつしたのです。博士たちは「救い主を求めて
いた」という目的があったからこそ、この上もない喜びへとつな
がったのです。

A星に導かれた(9節)
 博士たちは、星をよく観察し、星の動きによって人や出来事を
占ったり、夢のなぞを解いたり、知識人ともいわれる存在でした。
 10節「その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」とあります。
不安が多い長旅の中で、ベツレヘムまで、自分たちを導いて
くれた星に、平安と救い主に必ず会える!と言った確信に博士
たちは、この上もなく喜ぶことができたのです。
 今を生きる私たちにもその、星が与えられているのです。
私たちを救い主イエス様に出会わせてくださる星、それは神様です。

Bひれ伏して拝んだ
 博士たちは、イエス様にお会いして、ひれ伏して拝んだのでした。
この方こそ救い主、ユダヤ人の王である!だからこそ、自分たち
が持っていた、高級な黄金、乳香、没薬を捧げたのです。イエス様
に用いて下さい!とささげたのです。博士たちのこの上もない喜び
が伝わってきますね!
 救い主を求めた、星に導かれた、ひれ伏しておがんだ・・・
今の時代に生かされている私たちも、常に救い主を求めること、
星‥神様に導かれること、日々イエス様の前にひれ伏して拝むこと
によって、自分が想像もしていないほどの「この上もない喜び」に
満たされますように。


12月13日アドベント(第三週)礼拝
説教題
「平和の君」
聖書箇所
イザヤ9章1〜7節

@救いの宣言(2節)
 預言者イザヤの時代、イスラエルは神様に背を向け、悪を行って
いました。国同士の戦いにおいても、神様でなく強くて大きな国に
助けを求めていたのでした。そして、イスラエルは苦しみ、やみの中、
死の陰にいました。そのようなイスラエルにイザヤは、後に回復
して光栄を受ける「救いの宣言」をしました。大きな光を見た、光が
照った、と。
 暗闇にいると光は大きな救いとなります。
 「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に
導く。」ルカ1:79

A神による勝利(3〜5節)
 神の勝利は、刈入れ時の喜び、獲物を分かつ時の喜びに例え
られています。神様が、重荷のくびきと、肩のむち、しいたげる者の
杖から解放してくださった。神様の勝利は、人間の知恵や力、
軍備によらず、徹底的に神の力により頼んだところから生じます。
そして、その結果は、完全な平和となるのです。

B万軍の主の熱心
  やみから光へ、争いから平和へ。これは「ひとりのみどりご」の誕生
によって、完成されるのです。神様が私たちを愛してくださっている
からこそ、私たちの救いのためにイエス様を与えてくださったのです。
 イザヤは、救い主イエス・キリストの姿を伝えました。
「不思議な助言者」…私たちの悩み苦しみを聞き、アドバイスをくだ
さる。
「力ある神」…どのような戦いにも勝利に導くことのできるお方。
「永遠の父」…いつまでも神様が、私たちのお父さんでいてくださる。
「平和の君」…どのようなことがあっても、それを乗り越える平安を
与えてくださる。
 私たちの救い、平和のためにお生まれくださったイエス様を、
心にお迎えしようでは、ありませんか!


12月6日アドベント(第二週)礼拝
説教題
「その名はインマヌエル」
聖書箇所
マタイ1章18〜25節

 マタイの福音書は、系図から始まっています。この系図の意味は
「始まり」の意味が含まれています。そうです、新しい時代イエス・
キリストの誕生によって「インマヌエル」の時代が始まったのです。
インマヌエル(神は私たちとともにおられる)とは、どういうことか。
ヨセフの姿から見ていきたいと思います。

@思いを巡らしたヨセフ
 ヨセフとマリヤは婚約をしていました。イスラエルにおいての婚約は、
法律上において、完全な「夫婦」でした。その中にあって、マリヤが
身重になっていることがわかり、ヨセフはマリヤを思い、内密に去ら
すべきなのか、思い巡らしていました。ヨセフは正しい人だった、
とあります。正しい人は、律法を守る人、憐れみ深い人の意味があります。
神様を信じていたヨセフは、憐れみの心を持って、マリヤのことを思い
巡らしていました。

A主の使いの言葉を聞く
ヨセフが思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れて言われました。
・恐れず、妻マリヤを迎えなさい。
・胎に宿っているのは聖霊によるのです(神様のみわざ)
・男の子を産む、イエス(神は救い、の意味)とつけなさい。
・この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。
・その名はインマヌエル(神は私たちとともにおられる)と呼ばれる。
 み言葉が実現する
 主の使いの言葉を聞いたヨセフは、命じられたとおりにしました。
すると、子どもが生まれ、名前をイエスとつけたのです。まだ人として、
理解することが難しく、多くの疑問があったことでしょう。しかし、その
疑問を盾にせず、主の使いの言葉を盾にしました。
 そこで、救い主イエス様が産まれる旧約時代からの神様の約束が
実現したのです。

 クリスマスを迎えるにあたって、もう一度「その名は、インマヌエル」
として、お生まれくださった恵みを心に留めたいと思います。そして、
神様がともにあって下さる、日々の生活において、み言葉が実現
していく時となりますように、お祈りいたします。


11月29日アドベント(第一週)礼拝
説教題
「平和をつくるイエス様」
聖書箇所
ゼカリヤ9章9,10節

 ゼカリヤが預言した王様はロバの子に乗るお方です。ロバは
人や荷物を載せても、戦いには行かないため、平和の象徴です。
 
 本当はお互いに武器が要らない世界が一番安全安心なのです
が、現実を見るとそれが一番難しいのです。平和の王は武器を
すべて無くして真の平和をつくるお方なのです。

 平和の王は、イスラエルだけの王ではなく、世界の国々に平和を
つくる王としてやって来られます。そして私たちの心に平和の王と
して来られるのです。まだ最終的には実現していないが、部分的に、
また信じる者のうちに一部が実現して時の経過と共に完成へと
進んでいるのです。

 イエス様は子ロバにのってエルサレムへ入られました。しかも
まだ人が乗ったことのない子ロバに。これは手なずけるのが大変
なのだそうです。
 しかし、イエス様は子ロバを落ち着かせ、安心させてお乗りに
なられました。この出来事は、私たちの心も武力や権力による支配
ではなく、十字架の愛とあわれみによって治められる時に、平和と
柔和な人生へと向かわせて頂けることを物語っているのです。

 まず神と人との平和を実現するために。つぎに人間同士の平和の
ために。イエス様は十字架に掛かって私たちの罪の贖いを成し
遂げて下さいました。
 それだけでなく、十字架上で死なれてから3日目に、死に打ち
勝って復活されたのです。イエス様は、信じる私たち一人一人の
心に平和の王として住んで下さっておられます。

<祈り> イエス様、あなたは軍馬にまたがる王ではなく、ろばに
乗る平和な王・柔和な王として来て下さいました。私たちも自己中心
やプライド、傲慢、自分へのこだわり、怒りや裁きという目に見え
ない馬に乗ることがあります。こうした軍馬から降りて、子ロバに
乗って私たちのもとに来られた主イエス様を日々、自分の心に
お迎えすることが出来ますように。不満や不安で一杯の時にも、
どうぞ私の心をイエス様の平和で一杯に満たして下さい。アーメン


11月22日聖日伝道礼拝
説教題
「神の気前良さ」
聖書箇所
マタイ20章1〜16節

 イエス様は、天国をぶどう園にたとえて語られました。
神はぶどう園の主人であり、そこで働く労務者を雇いに朝早く
市場(この世)へ出かける姿にたとえられています。

 パレスチナではぶどうの収穫時期が9月で、そのあとすぐに
雨期が来ます。そこで一刻を争って人手を必要とし、たとえ1時間
しか働けない人でも歓迎されたのです。午後6時の定時を前に、
午後5時まで雇い主が現われなかった労務者はどれほど真剣に
雇用を待ち望むでしょう。その人が雇われたならば、どんなに
感謝し喜んで1時間の作業に取り組むことでしょう。

 一日の労務が終わり、主人は後から雇われた人から順に報酬を
支払います。後から雇われた人も、先に雇われた人も同じ1デナリ
でした。このたとえは私たちに次のことを教えさとしています。

1)弟子たちへの警告
 早い段階から、教会とその交わりの中に入る特権を与えられ
ました。後になると他の人たちがイエス様の十字架を信じ、罪を
悔い改めて救われ、この交わりに入って来ます。その時、最初
からいた者として特別な地位や名誉を得ようと思ってはなりません。
神の前にはすべての人の魂が等しく大事なのです。

2)ユダヤ人への警告
 彼らは絶えず自分たちが"神に選ばれた民族"であることを
意識し、異邦人を軽蔑し、滅亡を願っていました。役割が
異なっていても、神に特別に愛される国民は存在しません。
これがイエス様によって明らかにされた福音の恵みなのです。

3)私たちへの指針
 神の国(救い)に入る時期は早い時期の人もいれば、晩年に
なる人もいます。神の立場からは、救いに早すぎるとか遅すぎる
ということはないのです。報酬を考えずに神と人とのために
喜んで奉仕するならば、天国では必ず素晴らしい報酬が与え
られるのです。



☆☆ YouTube動画の更新は暫くお休みします ☆☆

YouTubeの当教会チャンネルアドレス:
 https://www.youtube.com/channel/UC-fFJZs-MuQDsQI5iPKu8Bg

9月6日聖日礼拝
説教題
「とどまる」
聖書箇所
ヨハネ15章7〜10節


ショートメッセージ動画(9/6午前10:30公開)


8月30日聖日礼拝
説教題
「死からいのちへ移っている」
聖書箇所
ヨハネ5章24〜25節


ショートメッセージ動画(8/30午前10:30公開)
https://youtu.be/GwLfrxE6Wus

8月23日聖日伝道礼拝
説教題
「一粒の麦」
聖書箇所
ヨハネ12章24節
 伝道礼拝は教会へ初めて来会される方でも、分かりやすい
内容になっております。どなたでもお気軽にご参加ください。

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/DmgpEpS0m5w

8月16日聖日礼拝
説教題
「しばらく休むがよい」
聖書箇所
マルコ6章30-32節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/6z4hMTycl78

8月9日聖日礼拝
説教題
「平和を追い求める」
聖書箇所
へブル12章14節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/Mg271Ir6D28

8月2日聖日礼拝
説教題
「最後にきよめる」
聖書箇所
Uテモテ2章20〜22節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/JuZ58qhcUXU

7月26日聖日伝道礼拝
説教題
「あなたも家族も救われます」
聖書箇所
使徒16章29〜34節
 伝道礼拝は教会へ初めて来会される方でも、分かりやすい
内容になっております。


ショートメッセージ動画(7/26午前10:30公開)
https://youtu.be/D2l2LL-KYfk


7月19日聖日礼拝
説教題
「試練と同情心」
聖書箇所
へブル2章17〜18節、4章15〜16節

https://youtu.be/ebfJMo9WYX4


7月12日聖日礼拝
説教題
「涙の谷を泉へ変える主」
聖書箇所
詩篇84篇5〜7節

https://youtu.be/N4T5Qb65c0A

<説教要旨>
この詩の作者はエルサレムから遠い外国におり、エルサレム
神殿への巡礼の旅を想像します。彼は自分の人生の歩みをこの
旅路に重ね合わせます。神が祈りに応えて力を与えて下さり、
ついに天の都に到着する様子を歌っています。

@神により頼み、神を思い求める人は幸い (5節)
「その力があなたにあり」とは自分の力に頼らず神の力に頼る姿勢。
「シオンへの大路」とは神を思い求める心、天国の代名詞。

A人生の苦難が恵みに変えられる (6節)
「涙の谷」とは全く水が無く、流す涙しか無いような荒涼とした土地
のこと。そこから人生の苦難を表わします。
「泉のわく所」「初めの雨」とは、秋の初めに降る雨のことで、夏には
一滴も雨が降らない乾ききった土地を豊かに潤してくれまし。

以上から、私たちは人生の途上でまったく水の無いような谷間を
通ることが示されています。しかし、心は常にシオンの大路(天国)
を歩いているから、希望が湧いてくるのです。神により頼み、神を
思い求めていくと、時が来て苦難が一気に恵みへと変えられるの
です。

イエス様はこのことを語られます。「わたしが与える水はその人の
うちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)
イエス様の十字架のゆえに、私たちに決定的な滅びをもたらす罪悪
は取り除かれているからです。

B神の力をその都度頂きつつ天国へ行ける (7節)
作者は神の力をその都度頂きつつ、ついには天国に入れられる。
これは私たちも同じです。天国では神の御前で直接顔と顔を合わせて
礼拝し、永遠にお交わりすることが出来ます。神にある目標を持つと、
その人の人生は輝いて来るのです。



7月5日聖日礼拝
説教題
「イエスはすべての人の主」
聖書箇所
使徒10章34〜36節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/BqhK1CGYAbQ


<説教要旨>
イエス様の福音(十字架と復活の良き知らせ)がエルサレムから
世界へ向けて広がる中で、教会は3つの偏見を解決しました。

@民族
 ユダヤ人はクリスチャンになっても、外国人(異邦人)を「汚れて
いる」と言って、交わろうともしませんでした。しかし、神はローマ
帝国の百人隊長コルネリオの信仰と施しを例に挙げられました。
「神はかたよったことをなさらず、どの国の人であっても神を恐れ
かしこみ、正義を行う(神のみことばに聞き従う)人なら、神に
受け入れられる」(34,35節)ことが示され、民族的な偏見が取り
除かれました。
 
A食物
 神はペテロに幻を通し、食物の偏見を取り除かれました。「神が
きよめた物を、きよくないと言ってはならない」と声が掛かりました。
旧約聖書の律法の規定で汚れた食べ物であっても、神によって
きよめられ、食べて良いとされたのです。
       
B職業
 たとえユダヤ人同士であっても職業による偏見がありました。
皮なめしのシモンは、人々からの偏見のゆえに街の片隅で
ひっそりと生計を立てていました。
 しかし、そんな差別に苦しむ彼の家で異邦人のローマ百人隊長
たちと、ペテロたちユダヤ人クリスチャンが出会い、交わることに
なりました。イエス様の十字架と復活のゆえに、ユダヤ人も異邦人も
共に神を礼拝し交わる…これは教会のひな型でした。
 
 私たちもイエス様の十字架のゆえに、先ず罪が取り除かれて
神と平和な関係にされます。そして人間同士の狂った関係も
イエス様が介在して下さる時に、平和な関係にされるのです。
 イエス様こそ全ての人の救い主(36節)であり、救いにおいては
ユダヤ人と異邦人との区別が、イエス様のゆえにもはや存在しない
のです。


6月28日聖日伝道礼拝
 伝道礼拝は礼拝へはじめて出席された方でも
安心して礼拝できるような内容になっております。
説教題
「ひとり子を与えるほどの神の愛」
聖書箇所
ヨハネ3章16〜17節

ショートメッセージ動画(6/28午前10:30公開)
https://youtu.be/aFnRYsKxo9k

<説教要旨>
「そのひとり子」「御子」(16節)とはイエス・キリストのことです。
「世」(同節)とは罪に汚れたこの世界と人間のことです。
神の愛は具体的に次のような形で現わされます。

@関わる
 人は神を知りながら神に背いて罪を犯し、それが全世界に
広がりました。その結果、死と滅びを招きました。しかし神は
世を愛され、どこまでも人と関わろうとされます。神の愛は
様々な恵みの形で、イエス様を信じる人・信じない人、すべての
人に対し今も注がれ続けています。

A応答を求める
 神は人の幸せをひたすら願われます。神はイエス様を
十字架上に付けて、私たちにイエス様を救い主として信じるよう
求めておられます。なぜなら人が神から離れることは自ら滅びを
招くことになるからです。神の御心は私たちがイエスを信じ、
ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つことです。

B怒る
神は罪に対して、不正に対して正義の怒りをもって裁かれます。
神は愛なるお方であると同時に正義のお方でもあるからです。
罪や不正をいつまでも放置することは決してなさいません。
イエス様をこの世に遣わしたのは、世を裁くためではなく
救われるためだと言われます。イエス様は私たち人間を滅びから
救い出すためにそのすべての罪を背負い、十字架上で神の
怒りを身代わりに受けて死なれました。

ここで"裁き"には「滅びる」あるいは「決断」という意味が
あります。イエス様の十字架は私たちにイエスを救い主として
信じるか、信じないかの決断を迫っておられます。
 なぜなら、神の愛の場合とは違って、永遠のいのちはイエス様と
無関係には与えられないからです。驚くべきことに、イエス様を
信じる人は、今この瞬間に永遠のいのちを受け取ることが
出来るのです!


6月21日聖日礼拝
説教題
「神に義と認められる人」
聖書箇所
ルカ18章9〜14節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/O90Eyo-qHyw


<説教要旨>
 イエス様は自称義人で他の人を見下してしまうことへの警告と、
神に義と認められる人の姿勢をたとえ話で語られました。たとえ
では二人の人物が祈るために神殿に上ります。一人はパリサイ人、
もう一人は取税人です。

パリサイ人◇ ・社会的なリーダーで尊敬を受けている
     ・良い行いに励んでいたが、虚栄であり自己防衛の人
     ・お祈りのようだが、実はひとりごと
     ・神を見ずに他の人と自分を比較し、見下した

取 税 人◇ ・職業柄、人々から敵視され嫌われていた
     ・自分の罪を自覚し、神の前に自分を飾らない人
     ・他の人を見ずに、神のみを見上げた
     ・自分を飾らずに素直に神に憐れみを求めて叫んだ

 二人のうち、取税人が神に義(正しい態度)と認められ家に
帰りました。イエス様はこのたとえを通し、私たちは自分が罪人
だと徹底的に知らされる必要があることを示しています。
 イエス様の十字架以外に救いはないことを信じると、「罪の支配」
から解放されます。すると今度は、「復活の経験」をします。
「復活の経験」とは、イエス様にある新しいいのち(生き方)です。
 
 ですから、神の前に自分には「欠け」があること認めることは
恵みです。「欠け」があるから祈れるようになるからです。具体的
には、病になると祈らざるを得ません。人生に嵐が吹くような
問題が起きて心に平安がなくなると祈らざるを得ません。すると、
イエス様がこの欠けを埋めて下さり、平安を与えて下さいます。

 イエス様は「自分を低くする者は高くされる」(14節)と語られます。
神の前で自分を高く見せようとするのは高慢の表われです。
神の前にへりくだってお祈りする人を神は豊かに祝して高くして
下さいます。それは天国での神からの報いにつながっている
のです。


6月14日聖日礼拝
説教題
「信仰と御霊とに満ちた人」
聖書箇所
使徒6章1〜7節

ショートメッセージ動画
https://youtu.be/M6OWAZkVs_Q


<説教要旨>
 初代教会(エルサレム教会)が成長すると、大きな
2つの問題が起きた。一つは、人数の急増による
コミュニケーション不足によるパンの問題。
もう一つは使徒たちが食卓のことで時間が取られ、
神のみことばの奉仕が後回しになってしまったこと。
これは教会の危機であった。

 この背景には、すでに1万を超える人々が教会に
集い、外国生まれでギリシャ語を話す少数派の人々と、
イスラエル国内で生まれ育ち、ヘブル語を話す主流派
の人々との間では言葉や習慣が異なっていたことがあった。


 使徒たちは問題解決のため、「御霊と知恵とに満ちた、
評判の良い人たち7人を選」ぶ(3節)ことにした。
相応しい人物を立て、食糧配給の役割を委任した。
 相応しい人物の不和しい状況は、
・御霊  神に自分を委ね、聖霊のご支配にある
・知恵  神からの知恵に満ち、実際問題に対処できる
・評判  「よく証しされている」が原意。社会生活で信仰と
     人格の証しが立っている

 そして使徒たちは「祈りとみことばの奉仕に専念する」(4節)。
この提案を全員が承認し、使徒たちは祈って手を彼らの
上に置いた(按手した)。
 これらは新しい役割が7人の上に与えられたことを公にし、
必要な恵みが神から与えられるよう祈り、協力していくことを示す。

 今日も教会に集う一人一人には、神からの尊い役割がある。
それは人と優劣を比べるものではない。神は各教会に適材適所、
人を配置しておられる。
 
 ここで問題が何もないのが教会や私たちの人生で理想なの
ではない。教会は宣教を通して様々な人々が集い、養っていく上で
必ず問題は起きていく。
 大事なことは、こうした問題が教会や私たちの人生に起きて
来た時に、神の御言葉に従って問題に向かうこと。
神はむしろ問題や挫折、失敗や病などを通して私たちに悔い改めや
向かうべき道を明らかに示して下さることが多いから。

 初代教会(エルサレム教会)は、起きて来た問題を神からの
聖霊とみことばによる知恵とによって乗り越え、教会が強められた。
 すると、7節には「神のみことばはますます広がって行き、
エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの
祭司たちが次々に信仰に入った」とある。
 かつてイエス様を十字架につけた人々のいるエルサレムで、
本来反対勢力である祭司までが救われ、信仰に入れられたことは
驚くべき出来事であった。


6月7日聖日礼拝
説教題
「初代キリスト者の生活」
聖書箇所
使徒2章40〜47節

    ショートメッセージ動画
    https://youtu.be/dZYZuk1Ap-w


<説教要旨>

 ペンテコステ(聖霊降臨)によって誕生した教会では、初代
キリスト者たちによって次の4つのことが特徴的に行われ
ました。(42節)

@使徒たちの教えを固く守った
 「使徒たちの教え」とは、今日で言う新約聖書を指します。
使徒たちを通して伝えられたイエス様の教えに聞き従いました。
聖書の教えを整理し、また実際生活を学ぶことで神に近づく
ことが出来ます。

A交わりをした
 「交わり」という言葉には「共有」という意味もあります。
お互いに与えられているあらゆる祝福を共有するという、
深い霊的な交わりをしました。

Bパンを裂いた
 通常の食事とは区別し、イエス様が行うように命じられた
パン裂きの儀式(聖餐式)を行いました。そのことを通し、
イエス様の十字架の贖いを思い起こしました。イエス様にあって
一つの家族とされた、親密な交わりをしました。

C祈りをした
 彼らは集まるごとに祈っていました。祈りに真剣でした。

 これら初代キリスト者たちの生活ぶり、その姿は私たちの
模範です。「主も毎日救われる人が仲間に人々を仲間に加えて
くださった」(47節)ほどの著しい成長の理由は何だったのでしょうか?
 それは神を心から敬う敬虔さと温かい交わりだったからです。
その背後には、彼らがイエス様に信頼されるに相応しい魂の
状態にあったからです。

 現代の私たち一人一人も、初代キリスト者たちの生活を手本と
して心に刻みましょう。イエス様に信頼されるにふさわしい魂の
状態にされるよう、悔い改めと祈りをもって願い求めて参りたいもの
です。


5月31日ペンテコステ(聖霊降臨)説教
説教題
「聖霊が注がれる」
聖書箇所
使徒2章1〜4節

https://youtu.be/lBpVc_-pbbc

<説教要旨>

 天から注ぐ太陽の光と熱、降り注ぐ天からの雨に
よって地上のすべての生物が生きています。
 同じように、親の注ぐ愛情によって子供は成長し、
親の注意や保護によって子供たちは守られています。

 愛なる神から遣わされたイエス様は、十字架上の
死をもってご自分の愛をこの世に示されました。
 そして、いのちの水である聖霊を注いで信じる者を
聖霊の宮、すなわち生きた神殿として下さいます。
 このことはエゼキエル47章などのみことばによって
約束されていました。

 父なる神は、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」と
約束され、ついに五旬節(ペンテコステ)の時に、
聖霊が弟子たちにくだり、約束が成就しました。
 本日の聖書個所にあるように、この聖霊の働きに
よって教会は誕生し、育てられ、二千年後の今日に
至っています。

 「風」(2節)は、息や霊とも訳される言葉。
息は人にいのちを与えます。息(あるいは風)が死んだ
ような人にいのちを与えることを象徴しています。

 聖霊を受けた使徒たちは、たった一回聖霊を受けた
だけではなかった。その都度、聖霊の感動と証しの力
を頂いて、イエス様の十字架と復活を唯一の救いとして
証しをし、力ある働きをしたのです。

 また、いつでも求める時に注がれます。人は注がれて
いる聖霊によって、未来に対する神の御心を知り、
無くならない希望を与えられています。そして豊かに
注がれる聖霊によって、神の愛を知らされています
(ローマ5:5)。
 
 「他国のことば」(4節)とは、聖霊に満たされると
外国語を話すようになる、というのではありません。
 クリスチャンだけに分かる会話ではなく、相手が誰で
あれ伝わる話をすることが出来るという意味。聖霊に
満たされる時に!
 その確信が来るまで、平安が与えられるまで聖霊に
満たされるよう祈ることが必要です。

 また、この神の愛を注がれた者は、自分の子のため、
子孫のため、若者たちのため、すべての人のために
心を注いで祈らなければなりません。(哀歌2:19)

 ペンテコステ以来、神の国が完全に実現するまで、
教会は聖霊によって働き続けるのです。
 神は霊の子(信仰の子)をこの世に生み出すために、
生みの苦しみをされます。陣痛をさえれる神です。
 先に救われ聖霊を頂いている人は、他の人のために
苦しみの祈りをし、また自分自身も良き聖霊の器と
されるよう苦しみの祈りをしなければなりません。


5月24日説教
説教題
「エルサレムにとどまる」
聖書箇所
ルカ24章45〜50節
   YouTubeオンライン伝道礼拝 

https://youtu.be/fxYZAS2b-AU
   
<説教要旨>

 イエス様は弟子たちに約束の聖霊を受けるまでは、
エルサレムの都にとどまるよう命じられました。

ではなぜ、エルサレム以外の所へはいけなかったので
しょうか。

@エルサレムは、イエス様が十字架上で死なれ、
全人類の罪の買い戻し(贖い)が実現したところだから


Aエルサレムはイエス様が死んで復活されたところ
だから

 人が救いの恵みを受けるためには、イエス様の十字架の
身代わりの死を信じると共に、イエス様が死から復活された
ことを信じなければなりません。

Bエルサレムとは、「神の平安」という意味だが、真の平安は
イエス様を信じて受ける平安だから

 それはイエス様の十字架を信じる信仰のゆえに、神の裁きから
解放された平安と、復活の希望による死の恐怖から解放された
平安だからです。

 このようにエルサレム、つまり「十字架・復活・平安」に留まる
時に、それぞれの人生また家庭に平安が満ちるのです。


5月17日説教
説教題
「舟の右側に網をおろしなさい」
聖書箇所
ヨハネ21章1〜31節
   YouTubeオンライン礼拝

https://youtu.be/wvaWe2RASd4
   
<説教要旨>

 弟子のペテロたちは、故郷のガリラヤに戻りそこで元の
漁師の仕事をしていました。彼らは夜通し働いたが何も
取れませんでした。収穫が無く、疲れ果てた時に、復活
されたイエス様が現われました。
 イエス様は彼らに「舟の右側に網をおろしなさい」と命じ、
彼らがその通りにすると大漁でした。

 彼らはかつて、同じような経験をしています
    (ルカ5章1〜11節)。
 また彼らの召命のみことばは「わたしについて来なさい。
あなた方を人間をとる漁師にしてあげよう」
    (マタイ4章18〜22節)でした。

 ペテロたちはその時のことを思い出し、再度召命に
導かれたことでしょう。そしてこのイエス様のみことばは、
以降のすべての宣教の働きの根幹を表わしていると言えます。

 また、人を救いに導く宣教の業は、人間の力だけでは
いくら働いても何の実を結ばないことを示しています。

燃え尽きたところへ、イエス様が来て下さいます。
 私たちもイエス様に助けを求め、指示されるお言葉通り
に従うことによってのみ実を結ぶことが出来ます。

 この経験は、その後の弟子たちの働きと歩みにとって
大きな支えになったことでしょう。結果が残らず働きに疲れを
覚える時、すでにイエス様がそばにおられ、助けを用意して
下さっていることを信じることが出来ました。世の終わりまで
共におられる主を見ることが出来ました。

 多くの魚がかかっても網が破れなかったのは、教会が
いつもイエス様によって守られていることを指します。また、
これ以降多くの弟子たちが全世界に出て行って人のたましいを
救いに導き、イエス様にあって一つとされることの約束です。

 さらにイエス様は、彼ら弟子たちのために炭火を起こし、
魚とパンを用意して待っておられた。主のために働く者に
休みと力を与えて労って下さる。行く先々に恵みを用意して
下さっている。
 またこの食事は、イエス様を中心とする聖餐の場であった。
聖餐は、十字架で死んで復活されたイエス様からの招きです。
それゆえ喜びに満ちたものです。


5月10日説教
説教題
「見ずに信じる者は幸い」
聖書箇所
ヨハネ20章24〜31節
   YouTubeオンライン礼拝

https://www.youtube.com/watch?v=nm0pTHCvMg4&t=73s

<説教要旨>

 復活されたイエス様は日曜日に弟子たちに姿を現わされました。
しかし、そこに「デドモ:双子」というニックネームのトマスが
居合わせませんでした。彼は直接イエス様にお会いすることが
出来なかったのです。今、集会を中止しているこのとき、改めて
集会の大切さをかみしめたい。

 他の弟子たちが「私たちは主を見た」(25節)と証ししても、
トマスはそれを信じることが出来ませんでした。彼はイエス様に
触って確かめることを求めました。

 このヨハネ20章で、マグダラのマリヤは復活されたイエス様に
お会いしているのに最初気づきませんでした(14節)。
弟子たちはイエス様を見てはじめて喜ぶことができました(20節)。

 トマスは自分には見えないと思っていたイエス様は、実は彼の
嘆きと悩みをお聞きになっておられたのです。イエス様は
一週間後の日曜には、再び姿を現わされました。それはトマスの
ためと言っても過言ではありません。

 イエス様はトマスに十字架上での傷跡をお見せになり、
「見ずに信じる者は幸いです」(29節)と言われました。トマスを
咎めるのではなく、トマスのところまで降りて来て、彼が信じられる
よう助けて下さいました。現代においても、その人が信じられるように
イエス様は寄り添って下さる場面を度々拝します。

 ここまでして下さったイエス様に対し、トマスはもはや触ることは
しなかったことでしょう。彼は「私の主、私の神」(28節)と告白しま
した。単にイエス様の復活を認めるだけではなく、「私の主、私の神」
と呼ぶ関係になること・・・これこそが31節に記された本書の目的
です。

31節「イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、
また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るため
である。」

 この栄誉がトマスに与えられた。彼はイエス様を信じ、自分の救い主・
神であると告白しました。まさに後なる者が先になった瞬間です。
 これは現代においても変わりません。イエス様を見て信じたトマスたち
よりも、見ないで信じた者の方がより幸いなのですから。


5月3日説教
説教題
「平安と派遣」
聖書箇所
ヨハネ20章19〜23節
   YouTubeオンライン礼拝
 
 https://youtu.be/rrGe5OgcEXY
 <説教要旨>

 復活されたイエス様が弟子たちに第一になさった
ことは平安を与えることでした。弟子たちはユダヤ人を
恐れ、固く戸を閉めて恐怖におののいていました。
 突然、イエス様が彼らの真ん中に立たれました。
復活されたイエス様は物質や時間に関係なく自由に
お働きになられます。

 イエス様は弟子たちに「平安があなたがたにある
ように」と言われました。これは通常の挨拶であり
ながらも、「神があなたがたにあらゆる良いものを
備えて下さるように」という意味が込められています。

 イエス様はこのみことばに続き、弟子たちに手と
脇腹を示されました。イエス様は十字架に釘打たれ、
ローマ兵に槍で脇腹を刺されました。しかし、イエス様は
復活された証拠として、その傷がいやされた跡を弟子
たちに見せたのです。弟子たちはそれを見て喜びました。
 現代でもイエス様にある復活の約束と喜びは、
私たちに不安と困難を乗り越える力になります。

 イエス様は弟子たちに平安を与えると、続いて遣わす
ことを宣言されました。今日でもキリストの弟子とされた者
には、神様からの尊い役割が与えられています。
 イエス様から派遣されるために必要なのは、聖霊を
受けることです(22節)。神は、人類の最初の人アダムに
のちの息を吹き込まれて、彼は生きる者となりました。
しかし、彼は罪を犯して栄光と地上における永遠の
いのちを失いました。

 そこで神はイエス様を通して私たちの罪を赦し、
イエス様と共に死に打ち勝つ「新しい人間」として
再創造してくださいました。イエス様はそういう私たちに
十字架による罪の赦しを伝える尊い役割を与えて
くださいました(23節)。

 私たちは呼吸を絶えずしていないと窒息してしまうように、
この役割を果たすためには絶えず聖霊の助けを頂か
ねばなりません。自らが罪赦され、きよめられた恵みの
体験を家族や周囲の人と分かち合って参りましょう。


4月26日説教
説教題
「共に歩まれるイエス様」
聖書箇所
ルカ24章25〜32節
    YouTube説教動画

 https://youtu.be/a1U_VM_MV9I

   <説教要旨>

 イエス様は聖書からご自分について二人の弟子に解き明かし
されました(25, 27節)。聖書全体がイエス・キリストを救い主だと
証言しています。イエス・キリストとは「イエスは救い主」という
意味です。神はイエス・キリストをこの地上に遣わし、罪から救わん
とするご計画を聖書に記し私たちに与えて下さいました。聖書
全部が大事です。聖書を千歳飴にたとえますと、どこを切っても
キリストが出て来ます。
キリストは必ず十字架の苦しみを受け、死んで復活される。
これが旧約聖書に予告されたことでした(26節)。

まずイエス様の方から二人の弟子に近づき、交わりを求められ
ました。今度は彼らがイエス様に一緒に泊まって下さるよう無理
に願い求めました(28,29節)。この切なる求めと深い交わりを
イエス様は喜ばれ、祝福して下さいます。

 夕べの食卓でイエス様はパンを割いて彼らに手渡されました
(30節)。イエス様は十字架で裂かれ、ご自身をいのちのパン
として私たちに与えようとされます。日ごとの食卓でイエス様を
覚えたいものです。

二人の弟子にイエス様のお姿が見えたり、見えなかったりする
のは、イエス様がいつも一緒にいて下さることを分かるように
されたからです(31節)。

二人はイエス様との交わりや聖書を開いて下さった時に、心が
燃えました(32節)。今日の私たちも祈りを通してイエス様と交わり、
神が聖書を通して自分に語って下さると受け止める時に、心が
燃やされます。私たちの心を燃やして下さるのは、イエス様の
私達人類への愛の炎です。


4月19日説教
説教題
「イエス様に目を開いて頂く」
聖書箇所
ヨハネ20章14〜18節
    YouTube説教動画

 https://youtu.be/wFA4WMNO1B4

   <説教要旨>

 復活されたイエス様が最初にご自身を現わされたのは、
マグダラのマリヤでした。なぜ彼女はイエス様の復活を
目撃するという栄誉に与かることが出来たのでしょうか。
 彼女はイエス様の体が納められたお墓が空っぽに
なっているのを確認しても、そのまま家に帰ることが出来
ませんでした。彼女は墓のそばで泣き続けていた。
 イエス様は涙を流してご自身を慕い求める者を決して
おろそかにはなさりません。イエス様は彼女の切なる
求めに応えて下さったのです。

 しかし、マリヤは復活されたイエス様にお会いしても、
それがイエス様だとは分からず園の管理人だと思い
ました。生前と復活後ではイエス様のお身体が違っている
からでしょう。
 イエス様が「マリヤ」(16節)と声を掛けられると、彼女は
イエス様だと気づきました。そして「ラボニ:私の先生!」と
返事をしました。現代の私たちもイエス様に目を開いて頂か
ねば、たとえイエス様と出会ったとしてもそれを認識できない
者なのです。

 マリヤがイエス様にすがりつこうとすると、それはよしなさい
と言われました。まだイエス様が父なる神の御許に上って
いないからだと理由を述べられました。そのことを弟子たちに
伝えるようマリヤに命じられました。彼女は確かにイエス様を
慕いつき従っていましたが、人間的な愛情の関係に留まった
ままでした。そうではなく、より高い霊的な関係に引き上げ
なければなりません。イエス様が父なる神の御許に上られると、
今度は助け主として聖霊が与えられることが予告されていた
のです。

 イエス様はもはや「ラボニ:私の先生」ではなく、「復活された
救い主」でした。科学が発達した現代においても、私たちは
死に対して無力です。愛する者の死の現実を前にマリヤと
同じように泣くしか出来ない者です。しかし、イエス様はこの
死という巨大な岩を打ち破って復活して下さいました。イエス様
の復活を世界で最初に目撃した証人として、彼女は弟子たちの
もとへ遣わされました。

 私たち一人一人もマリヤと同じように、きょう聖書を通し
イエス様から名前を呼ばれています。皆さんは何と応答される
でしょうか。それが神と自分(私)という人格の交わりであり、
信仰の原点なのです。イエス様は復活の新しい命を私たちに
与えんとしております。それは信仰を通して受けることが出来る
のです。

          

<過去の礼拝説教要旨はページ左側の
「過去の礼拝メッセージ」からご覧ください>



寺田末治牧師 召天賛美の集い
   2/23日 11:30〜12:00

 20日に召天された寺田師の遺言に従い、
 23日の礼拝に続いて記念会を行いました。



《久保川教授ご講演会について》
  
  時期をみて再度日程調整を行います。


  <昨年(2019)年の催し>


《マジックショー 12月1日()
 プロマジシャンフーガさん&はるかさん
  
 昨年に続き、今年もプロマジシャンのフーガさん・
はるかさんご夫妻がマジショーを行って下さいました。

☆9時30〜10時 教会学校にてテーブルマジック
☆10時30〜12時 礼拝の中でお証し
☆13時30〜14時30 マジックショー
☆14時30〜15時30 ティータイム

           
             
           
                   


 《一般高齢者向けの講演会》
  
日本保健医療大学教授の久保川真由美先生による
一般向けの講演が当教会で行われました。

 ◇タイトル「健康に老いるために
          ――老いと老年病――」
 ◇日時 10月27日(13:30〜14:30
 ◇会場 幸手キリスト教会
 ◇入場無料 

《久保川先生からのメッセージ》
 長寿社会日本では、100歳高齢者が7万人を超え、
国内最高齢が116歳と、人間の限界寿命に達する
状況になって来ました。「ピンコロ」と逝きたいもの
ですが、しかし、高齢期になると、老年病に罹りやすく
健康を害することが多くなります。健康長寿を保つに
秘訣はあるのでしょうか? 一緒に考えてみましょう。

《講師プロフィール》
 日本保健医療大学保健医療学部看護学科 教授
 老年・在宅看護額領域


                     



※当教会はエホバの証人(ものみの塔)、モルモン教、統一教会とは一切関係ありません。
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