12月22日 クリスマス礼拝 10:30〜11:30

                祝会    11:45〜13:15

          イブ礼拝  16:00〜17:00
 

幸手キリスト教会のホームページへようこそ!
   11/24update

   

当教会は、聖書に基づく伝統的なプロテスタント教会です。エホバの
証人(ものみの塔)、統一教会、モルモン教とは一切関係ありません。

毎週日曜の集会
 初めて礼拝へ出席される方は、何も持たずに
お越しください。貸し出し用の聖書と新聖歌をご利用
ください。
 礼拝の中で献金の時間がありますが、洗礼を受けて
いない方はパスして頂いて結構です。


☆☆コロナウイルス感染防止のために☆☆

各自マスク着用の上、玄関で手指のアルコール
消毒を行ってください。
 発熱のある場合は集会出席を控えてください
・受付で検温し、受付簿に記名と検温結果を記載
願います。

窓やドアの開放に加え、換気扇により常時換気を
行っています。


 
礼拝 10:30〜11:30 
  


教会学校(ファミリー礼拝)
  礼拝後10分程度(←時間帯が変わりました)
 

(乳幼児から大人まで対象)月刊誌「ハッピー月号掲載


2024年



               
          
12月1日聖日礼拝(アドベント) 10:30〜11:30
   今年は12/1〜24を救い主イエス・キリストのご降誕を
  待ち望む期間として「アドベント」と呼びます。
説教題
「来たるべき救い主」
聖書箇所
 イザヤ9章6〜7節






11月24日聖日伝道礼拝 10:30〜11:30
説教題
「からし種の信仰」
聖書箇所
 ルカ13章18〜19節
 イエス様は「神の国はからし種のようなもの」と言われました。
「神の国」(18節)とは「神のご支配」のことで、場所や歴史を超えた
神の民の広がりを指します。この「神の国」は次の中に実現します。
(ルカ17:21参照)
 1)イエス様を信じる人々の間に
 2)信じる人自身の中に

@いのちがある
 からし種は大きさ1ミリにも満たないとても小さな種で、人の目には
隠れているような小さな存在です。しかし、そこにはいのちがあります。
同じように、福音(イエス様の救いのことば)の種も小さく見えますが、
そこには永遠のいのちがあります。心にまかれた福音を受け入れる、
即ちイエス様の十字架による救いを信じる人には誰でも、この永遠
のいのちが与えられます。

 小さい福音の種によって信じる人のうちに始まった神の国は、
はじめは人の目には見えません。しかし、内側からその人を生かし
て造り変え、神と共に歩む新しい人生を歩ませて下さるのです。

A成長する
 小さなからし種が庭に蒔かれると成長して木になり、空の鳥が
巣を作るほどになります。種の成長は私たち人間の努力では
できません。成長させて下さるのは神です。
 同じように、その人が福音を信じて信仰を持っていると、人知
れずに神がその信仰が成長させてくださいます。やがて豊かな
実を結び、それが生き方となって外に見えるようになります。

B鳥が巣をつくる
 はじめは小さな群れであったイエス様の弟子たちが福音を引き
継ぎ、彼らを通してイエス様を信じた人々が世界中に広がって行き
ました。「鳥」とはユダヤ人だけでなく私たち異邦人も含めた世界
中の人々のことを指します。

 「巣」は鳥にとっては家であり、それは愛の交わりと安らぎを表わ
しています。そこで私たちはイエス様の愛の中に包まれて、たま
しいに安らぎを与えられます。それは地上生活だけに限らない、
永遠の安らぎです。福音を信じた者は、天に住まいが備えられ、
神と共に永遠に安らぐことが保証されているのです。


11月17日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
「とりなしの祈りの手本」
聖書箇所
 ルカ11章1,5〜8節
 弟子たちはイエス様に祈りを教えて下さるようお願いしました。
すると、「主の祈り」に続いて「とりなしの祈り」をたとえで教えて
下さいました。「とりなしの祈り」とは、他の人に代わりに神に向
かって祈ることです。

@人の必要に対する自発的な愛
 このたとえの主人公は、旅の途中で自分の家にやって来た友人
がお腹を空かせているのを見て取りました。主人公は、友人に
食べ物を出してあげたいという自発的な愛で、真夜中に友だちの
家に行きます。
 このたとえは、私たちのとりなしの祈りの動機が愛によるべきこと
と、人生にどうしても必要なものは、神が必ず備えて下さっている
こととを示しています。
 
A自分の無力感
 「3つのパン」とは、人が一日を生きるのに必要な食糧を指し
ます。たとえの主人公は友のために出すパンがなく、助ける力が
ないことを言い表します。
 これは私たちが謙虚になり、まず祈りにおいてイエス様の元に
行くべきことを示しています。

B本物の愛は拒絶から始まる
 たとえの主人公は、友だちからもう戸締りもして、子どもたちも
自分も寝てしまっているからと断られます。
 私たちは自分の愛が相手に拒絶されることにより、その愛が
どれほど本物か試されます。忍耐が必要です。神への信頼が
どれほどなのかが試されます。
 イエス様も愛をもってこの世に来られたのに、世から拒絶され
ました。(ヨハネ1:10〜11参照)

C神を信頼してあくまでも祈り続ける
 たとえの友だちは、友だちからの頼みだからというのでなく、
あくまでも頼み続けるなら起き上がって必要なものを与えます。
ましてや神はそれ以上のことをして下さり、それ以上のものを
備えて       いて下さいます。だから祈り続けなさいとイエス様は言わ
れました。

 神からの答えが、自分の望んだものと違うことや時期がずれる
こともあります。しかし、祈りは必ず聞かれており、神は愛と知恵
によって答えて下さいます。祈った本人が召天した後に、祈りが
答えられることもあります。
 "祈りは決して死ぬことがない"のです。


11月10日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
「産みの苦しみの初め」
聖書箇所
 マタイ24章1〜14節
 弟子たちはイエス様にエルサレム神殿の建物を指し示し、その
すばらしさを称賛した。しかし、イエス様はやがてこの神殿は徹底
的に破壊されると予告しました。そこで彼らはイエス様に次のこと
を質問しました。

◎いつ、エルサレム神殿が破壊されるのか
◎イエス様が(世の終わりに再び)来られる時にはどんな前兆が
 あるのか
◎世の終わりにはどんな前兆があるのか

 それを受けて、イエス様はその時に起きる出来事や注意すべき
ことを語られました。実際に、4〜28節に記されている事が紀元
70年にエルサレム神殿が破壊されるまでに実現しました。それは
世の終わりにイエス様が再び地上に来られる時にも実現します。

@人に惑わされず、あわてない
 偽キリストが大勢現れて多くの人を惑わしたり。戦争や民族同士
・国同士の争い、飢饉と地震が起きますが、人の言葉に惑わされず
イエス様の言葉に聞き従い、あわてないことが大切です。

A産みの苦しみの目的は栄光の自由
 クリスチャンへの迫害、信仰のつまずき、偽預言者の登場、不法
のはびこり、多くの人々の愛が冷えるなどの前兆は「産みの苦しみ
の初め」だとイエス様は言われました。
 
 この産みの苦しみには目的と望みがあります。この世を覆う滅び
の束縛から解放され、栄光の自由に入れられることが目的なの
です。<ローマ8:18〜22参照>

B互いに助け合う
 互いに愛し合うのは、こうした世の流れに逆行するクリスチャン
信仰の証しです。熱く愛し合うこと、つまり互いに助け合うことを
心掛けて参りましょう。

C神は信仰者を必ず守り助け出される
 イエス様がこのみことば(ルカ21章20〜21節を含む)を語られて
から約40年後、クリスチャンたちはイエス様のみことばから
エルサレムの滅亡の時が来たことを知りました。彼らはイエス様
のみことばに従って、エルサレムを脱出し、ヨルダンに避難する
ことが出来ました。イエス様のみことばを信じない人々と共に死ん
だクリスチャンは1人もおらず、全員が助け出されたのです。
 神は試練と共に必ず脱出の道を備えていて下さるのです。
<Tコリント10:13参照>


11月3日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
「宝を天にたくわえる」
聖書箇所
 マタイ4章8〜11節、6章19〜24
@富を神とせず、主を拝み、主にだけ仕える
 人類の祖先アダムとエバが悪魔(サタン)の誘惑に負けて以来、
悪魔の持つ罪と死の力に支配されてしまいました。そこでイエス
様は救い主として、まず悪魔に打ち勝つため、荒野で悪魔の試み
を受けました。
 悪魔の誘惑の3番目は、もし悪魔を拝む(礼拝する)なら、この
世の栄華をすべてあげる、というものでした。

 昔も今も、悪魔は人々に経済的・物質的な豊かさばかりに目を
向けさせ、神から目をそらすよう誘惑しています。この世の富は
私たちの生活を豊かにする手段なのに、悪魔はそれを悪用し、
人々を自分の奴隷にしようようとしているのです。

 この誘惑に対し、イエス様は「引き下がれ、サタン。あなたの神
である主を拝み、主にだけ仕えよ」と聖書にみことばをもって撃退し、
勝利されました。私たちもこのイエス様に従って行くなら、悪魔の
誘惑に打ち勝つ、人生に勝利することが出来るのです。

A天に宝をたくわえようとする者の心は自由
 イエス様は「自分の宝は、天にたくわえなさい」と言われました。
地上の宝は一時的ですが、天にたくわえられた宝は永遠の価値
があるからです。「天に宝をたくわえる」とは、「自分の財産を神と
人のために大いに用いて、神からの報いを天にたくわること」です。

 地上に宝をたくわえようとする者の心は地上のことに執着して
神のことを考える余地がありません。しかし、天に宝をたくわえ
ようとする者の心は、物質(中心)主義から解放されて、自由なの
です。

 イエス様はこの生き方を「目」にたとえられました。その人の目
が神に向けられているなら、その人の生き方は健全でその人
全体が明るいのです。


10月27日聖日伝道礼拝 10:30〜11:30
説教題
「あなたも家族も救われます」
聖書箇所
 使徒16章16〜34節
@福音を伝える者の姿勢
 パウロとシラスは、無実の罪で訴えられ、牢屋の最も奥に入れ
られてしまいました。人の目には最暗黒と思える所です。しかし、
彼らはそこで「真夜中ごろ、神に祈りつつ、賛美の歌を歌った」
のです。彼らは置かれた状況にとらわれず、主を見上げ、そこを
祈りと賛美の場所へと変えたのです。

 彼らの態度は、他の囚人たちに神的なものを感じさせました。
彼らが祈りと賛美をささげる姿勢は、霊的な感化力を持っていた
のです。福音が有効に伝わるためには、福音を伝える者がどの
ような姿勢で伝えるかが大事です。

A福音を伝える者への信頼
 するとそこへ大地震が起き、獄舎のとびらは全部開き、囚人たち
の鎖が解けてしまいました。彼らが逃亡すれば、看守は責任を
取らされて処刑される可能性がありました。しかし、誰一人として
逃亡しませんでした。パウロとシラスの感化が囚人たちに及んで
いたからです。

 看守はこの出来事を神のみわざを受けとめ、恐れと罪を覚え
たのでしょう。パウロとシラスの前に、震えながらひれ伏し、「先生
がた・・・」とたましいの救いを求めました。この言葉に看守の二人
に対する信頼が表わされています。この信頼関係がある時に、
福音が人のたましいをとらえるのです。

B一人の救いは家族の救いにつながる
 二人は看守に「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも
あなたの家族も救われます。」と言いました。元の意味では、
「イエス様の上に自分を置く(ゆだねる)」ことです。実際に、私たち
の回りでも実現しつつあるように、一人が信じ救われると、それが
きっかけとなって家族全体の救われていくのです。


10月20日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
「心を合わせて熱心に祈る」
聖書箇所
 使徒12章1〜17節
 ヘロデ・アグリッパ王の迫害により、ヤコブが殺害され、今度は
ペテロが捕えられ投獄されました。エルサレム教会は、最大の危機
に瀕していました。教会はまるでこの世の権力に対して無力に見え
たのです。

@熱心に心を合わせて祈り続ける
 しかし、教会には一つの方法が残されていました。それは「祈り」
です。「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた」(5節)
 これは今日でも「教会は○○さんのために、神に・・・」と適用でき
るみことばです。

 神は「私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに」
(エペソ3:20)応えて下さいます。人の目には不可能に見えること
でも、あきらめないで「熱心に祈り続ける」ことが大事です。

A主の御使いが先導してくださる
 ペテロは牢に入れられ、番兵によって厳重に監視されていました。
しかし、突然主の御使いが現われ、牢の外へと彼を導いたのです。
神が介入される時、人の思いや力ではそれを止めることは出来
ません。現代でも、神は私たちの前に御使いを遣わし、進むべき道
を開いて下さるのです。

B祈りの答えを受け取る
 牢から助け出されたペテロは、クリスチャンたちが集まって祈って
いる所へ行き、入口の戸をたたきました。しかし、彼らはそれが
ペテロだと信じようとしませんでした。彼らはこんなに早く祈りが
応えられるとは思ってなかったのです。

 神はしばしば私たちの常識や予想を超えて祈りに応えて下さい
ます。私たちは、祈るだけでなく、心を開いて祈りの答えを神から
「受け取る信仰」が必要です。


10月13日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
「信仰によって」
聖書箇所
 ヘブル1章1〜3節
講師
M師
「信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信
させるものです」(1節)

 私は任地で挫折の連続でした。また、生活の厳しさ、闇が地を
覆っていました。「ここでどうやってクリスチャンが生きて行けば
よいのか」という思いにとらわれました。

 しかし、このへブル書のみことばは、私に「上」を見るよう引き
上げて下さいました。上を見ると、真っ青な空が広がり、私は「ああ、
イエス様だ」と思いました。私はイエス様から目を離し、目に見える
問題や状況にとらわれていたのです。

 しかし、私たちは信仰によって、目に見えないイエス様を見て
行かねばなりません。イエス様によって私たちは望みと確信が
与えられるからです。私たちの信仰はイエス様が始めて下さり、
すでに完成させて下さいました。初めから終わりまで「イエス・キリ
スト」なのです。

 ヘブル書11章には旧約の立派な聖徒たちのことが記されて
います。「信仰によって、信仰によって」と。これによって私たちは
励ましを受けます。しかし、彼らにさえ与えられなかった約束が、
私たちには与えられていると書いてあります。それが「イエス・キリ
スト」なのです。そして私たちの内に住んで下さる「聖霊」なのです。

 そしてイエス様が約束して下さった「わたしは必ず戻って来る」
との望みを抱いて歩んで行き、目に見えない天国を確信していくと、
それには報いがある。それは決して、今をあきらめることではなく、
今を生きる力となっていくのです。目に見えない未来の約束を
確信していくことが現在の力になっていくのです。
 まだ成就していない約束を「すでに成就した」と見て行く時、恐れ
が無くなります。喜びが溢れ、期待に胸がおどります。

 ある女性がイエス様を信じて告白した出来事を通し、私たちの
告白や祈りは目に見えない世界に大きな影響を与えていることを
学びました。そして私たち自身が光であり、イエス様の光を輝か
せているのです。この光はこの暗くなる世界でますます輝いていく
のです。


10月6日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
 「豊かな実を結ぶ」
聖書箇所
  ヨハネ15章1〜8節
 旧約時代において、イスラエルは神が植えられたぶどうの木や
ぶどう畑にたとえられました。しかし、彼らは神の期待に反して純粋
な甘い実ではなく、周辺国の偶像礼拝や習慣を取り込んでしまい
ました。その結果、雑種のすっぱいぶどうを実らせました。そこで
「まことのぶどうの木」であるイエス様が来られ、それを完成させる
のです。神は本日の聖書個所を通して、私たちが豊かな実を結ぶ
ことを期待しておられます。

@神による刈り込み(聖化)がある (2〜3節)
 イエス様は神を「農夫」、ご自身を「ぶどうの木」、みことばを聞い
て信じた私たちを「ぶどうの枝」にたとえられました。神は、私たち
に多くの良い実を結ばせるため、刈り込みをして無駄な部分を取り
除かれます。

「実」とは、私たちの信仰を通して結ばれる実のことで天国に行って
までも残る実です。具体的には、
 (@)悔い改めの実  (マタイ3:8)
 (A)品性の中に結ぶ御霊の実(ガラテヤ5:22-24)
 (B)奉仕の働きの実 (ピリピ1:22,コロサイ1:6)

Aイエス様にとどまる (4〜6節)
 「とどまる」とは、イエス様を信じ続けることです。枝がぶどうの
木にしっかりとどまっていれば、木から必要な養分が来て、その
枝は必ず多くの実を結びます。
 イエス様を離れては、神に栄光を帰すことは「何もすることが
できない」のです。

Bイエス様のみこころにかなう祈り(7節)
 その人がイエス様にとどまるなら、祈りもまたイエス様の教えと
一致したものになります。その祈りは必ず聞かれます。私たちが
豊かな実を結ぶためには、イエス様のみこころにかなう深い祈り
が必要です。

Cイエス様の弟子となる (8節)
 「弟子」とは、師に従いその教えを守り行う者のことです。私たち
がイエス様の弟子となることによって、神は栄光をお受けになり
ます。私たちが良い実をたくさん結ぶ時、父なる神の喜びは満ち
溢れるのです。


9月29日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
  「キリストのからだである教会」
聖書箇所
  エペソ1章17〜23節
 使徒パウロは、教会に所属する私たち一人一人に神を知るため
の御霊が与えられて心の目が開かれ、神の世界をはっきり見る
ことが出来るようにと祈りました。

@望み (18節)
 クリスチャンは神から永遠かつ最大の望みを与えられている
存在です。キリストの十字架により、罪赦されて永遠の命が与え
られました。肉体の死を経験しても、やがて復活させられて栄光の
からだが与えられ、永遠に神を賛美することが約束されているから
です。私たちが天国で相続するものは、「栄光に富んだもの」なの
です。

A神の力 (19〜21節)
 イエス・キリストを信じる者のうちに具体的に働きます。「神は、
その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中
からよみがえらせ」(20節)とあります。この神の力は、現在の
私たちの諸問題を解決する力として働いています。この神の力に
心の目が開かれているならば、どんな苦しみや困難に遭っても、
平静さを保つことが出来るのです。

Bキリストは教会のかしら (22〜23節)
 「教会」とは、「エクレシア=国のために召集された集会)」という
意味です。私たちは神の国(天国)を相続するために、この世から
キリストによって呼び集められたのです。
 神はキリストを復活させて、天に昇らせ、全宇宙に神が力ある
お方だとお示しになられました。それと同時に、キリストを「かしら」
として地上に教会を建てられました。

 「キリストのからだ」である教会は、キリストによって満たされて
います。ですから「からだ」を構成する「各器官」である私たちが
キリストに従って行く限り、必ず建て上げられ成長するのです。
私たちはなおキリストに心の目を開いて頂き、主導権を委ね、
そのみことばに従って参りましょう。

 普段、教会やクリスチャンは小さくバラバラのように見えても、
「かしらであるキリスト」において一致した時に神の素晴らしい
みわざが目に見える形で現わされるのです。


9月22日聖日伝道礼拝
説教題
 「真の平安を得るには」
聖書箇所
  マルコ4章35〜41節
イエス様が弟子たちを伴って乗られた「舟」は、「私たちの人生」や
「教会」にたとえられてきました。

@「嵐」という現象ではなく、イエス様を見る
 
 イエス様が乗られた舟は、突然の嵐に遭います。このことは
イエス様が共におられるからといって、私たちが人生の苦難や
試練を免れることは出来ないことを指します。
 弟子たちの中には、ガリラヤ湖を熟知した漁師もおり、舟に入って
来た水をかき出そうと一生懸命努力したことでしょう。しかし、人生
には経験や努力ではどうしようもないことが起きます。舟は入って
きた水で一杯になり、弟子たちは死を恐れました。

 共におられるイエス様から目を離し、この世の現象に目をとら
われると、恐れが心を支配します。警戒すべきは「外の波」ではなく、
「心の波」です。嵐の中でも、イエス様を見なければなりません。

Aイエス様が共におられることを認める

 私たちは神が共におられることを認めることによって、恐れから
救われます。弟子たちはすぐそばで眠っておられるイエス様を
認めた(気づいた)時に、イエス様のすばらしい救いのみわざが
成されるのです。

B自分の恐れや弱さを素直にイエス様に話す(祈る)

 弟子たちはイエス様を起して、不安を素直にイエス様に話しま
した。すると、すぐさまイエス様は起き上がって、暴風をしかりつけ
て静めました。イエス様は大自然をも誤配されるお方です。

 このようにイエス様に話す(祈る)ことは、自分で自分を救おうと
する殻を打ち破ります。人生の嵐は突然のようにやって来ますが、
私たちはいつでもイエス様に助けを祈り求めることができるのです。

 祈ってもなかなか助けが与えられず、まるでイエス様が眠って
いるように思える時があるかも知れません。しかし、イエス様は
私たちの祈りに応えて、最善のタイミングで助け出して下さるのです。

 
9月15日聖日礼拝
説教題
  「内なる人は日々新たに」
聖書箇所
   Uコリント4章16〜18節
@外なる人の衰えと内なる人の成長が同時に起きる

 「外なる人」とは、人間の肉体(土の器)や生まれながらの古い
人間性を指し、これらは衰えて行きます。
 「内なる人」とは、キリストによって新しくされた人間の内面の
ことで、魂や心、知性などを指します。自分の内にキリストを宿す
人は、これらのものが日々成長(成熟)させられて行くのです。

 私たちの現実生活において、外なる人の衰えと、内なる人の
成長は同時に起きます。信仰を通して聖霊が働いて下さるから
です。

A今の患難は、重い栄光をもたらす

 「患難」とは「イエスのため」(11節)の患難を指します。イエス・
キリストを信じる故に全てのクリスチャンが必ず患難を通ります。

 使徒パウロが経験した患難は決して軽いものではありません
でした。しかし、パウロはやがて天国で神から頂ける重い栄光に
比べたら、現実の患難がいかに重くてもそれは取るに足りないと
言うのです。

 私たちも苦難を通りますが、それがかえって私たちの内に働い
て、天国での測り知れない重い栄光として与えられるのです。

B肉眼では見えない永遠の真理に目を留める

 「外なる人」は目に見える物を対象とし、目標として生きます。
しかし「内なる人」は見えないもの、つまり永遠の真理を目標として
生きます。

 目に見えるものがどんなに魅力的でも、それは一時的であり、
ついに過ぎ行きます。しかし、キリストによって明らかにされた永遠
の真理は、いつまでも変わらずに続くのです。


9月8日聖日礼拝
 
説教題
  「神に感謝し続ける人生」
聖書箇所
ルカ17章11〜19節、Tテサロニケ5章16〜18節
@まず神を賛美し、感謝して礼拝したサマリヤ人
 10人のツァアラトに冒された人たちは、イエス様にツァアラトを
きよめて頂きました。ところが、イエス様のもとに帰って来たのは
1人のサマリヤ人だけでした。彼は「大声で神をほめたたえながら
引き返し、イエス様の足もとにひれ伏して感謝した」のです。
 残りの9人はこの世の利益を第一として、それで満足する姿勢を
象徴しています。
 一方、1人のサマリヤ人は素直にイエス様を信じ、感謝して礼拝
する異邦人クリスチャンを象徴しています。

A健康に関係なくイエス様を信じた時から救いが続く
 イエス様は1人のサマリヤ人に言われました。「あなたの信仰が
あなたを救った」・・これは「あなたがわたしを信じた瞬間から、
今までずっと救われている」という意味です。彼はイエス様にお会
いして、ツァアラトが癒される前から、すでに救われていたのです。
救いは病が癒されるかどうかに関係ないのです。

B神に祈り、聖霊の助けを頂いて、感謝し続ける人生へ
 神に感謝し続ける人生は、自分の力や心がけでは実現できま
せん。神に祈り、みことばを学び、聖霊の助けを頂くこと。そうして
心の中の「苦い根」が取り除かれて実現されます。神は最終的に
「すべてのことを働かせて益としてくださる」と知り得たからこそ、
私たちはすべてのことを感謝できるのです。


9月1日聖日礼拝
説教題
  「神に栄光を帰す人生」
聖書箇所
   マルコ12章13〜17節
 当時の多くのユダヤ人にとって、ローマ皇帝へ納める皇帝税
(人頭税)が不評でした。納税に使われるデナリ銀貨には、ローマ
皇帝の肖像と「崇高なる神の子、崇高なる皇帝にして大祭司なる
ティベリウス」との文字が刻印されていたからです。彼らにとって、
それはお金の問題でなく、心の問題でした。

 祭司長たちは、この納税問題を通してイエス様をわなに陥れよう
として、人を遣わして2つの質問をさせました。「カイザル(ローマ
皇帝)に税金を納めることは、律法にかなっているか?」「納める
べきか?」

 それに対して、イエス様はあらゆる時代、あらゆる民族に当て
はまる大原則を告げられました。「カイザルのものはカイザルに返し
なさい。そして神のものは神に返しなさい」
 
@カイザルのものはカイザルに
  〜国民としての義務は国王(国家)に果たす
 国の指導者がどうであろうと、私たちはキリストにある良い国民
・良い市民として納税の義務を果たして生きる。私たちは納税を
通しても、キリストのしもべとして良き証しを立てていかねばなり
ません。

A神のものは神に
  〜人としての責任は神に尽くす
 神に似せて造られた私たちは、心とたましいを神にささげて歩む
べきです。そして私たちは、神から才能や時間、お金や収穫物
など様々な賜物を頂いております。その一部を感謝をもって神に
お返しします。

 そうしてみると、私たちの人生そのものが神から与えられた賜物
です。それゆえ、私たちの生活を通して神に感謝を捧げ、栄光を
返して参りたい。


8月25日聖日伝道礼拝
説教題
  「良心をきよめる救い主」
聖書箇所
   ルカ5章12〜16節
 「ツァアラト」(12節)とは、感染性を持つ重い皮膚病のことです。
とんどいやされることない、絶望的な病で、町外れに隔離され
ました。その人の罪が原因と考えられ、「汚れた人」「罪人(つみ
びと)」と言われました。

@自分の罪と汚れに気づかれた人
 彼は自分が神の前には全く罪人であり、罪と汚れ(罪の結果)
は神によってしかきよめることができない、救いがないと自覚して
いました。しかし、聖書によれば、すべての人は神の前に罪人です。
ですから「全身ツァアラトの人」とは、『自分の罪と汚れに気づか
された人』を表わしているのです。

A大胆な信仰と謙遜
 彼は律法(旧約聖書)の定めにより、人に近づくことを禁じられ
ていました。しかし、彼は刑罰を覚悟の上で、最後の望みをかけ
てイエス様の前に進み出てひれ伏しました。自分はきよめてもらう
に値しないと自覚しながらも、大胆かつ謙遜に願い出たのです。
イエス様は彼の態度に応えて下さいました。

Bイエス様は瞬時に私たちの良心をきよめる救い主
 するとイエス様は、手を伸ばして彼に触れ、「わたしの心だ。
きよくなれ」(13節)と言われ、すぐに彼のツァアラトが消えました。
これはイエス様が彼の罪と汚れという「良心の病」を身代わりに
引き受けて下さり、瞬時にきよめて下さったことを表わしています。
この出来事はイエス様の十字架による救いを予表しています。

 現代でもイエス様を罪と汚れからの救い主だと信じ告白した
瞬間に、その人の良心はきよめられ、神との交わりが回復する
のです。


8月18日聖日礼拝
説教題
  「働き手を送って下さい」
聖書箇所
   マタイ9章35〜38節
@人々の魂の状態(霊的状態)とイエス様のあわれみ
 イエス様がガリラヤ地方の町や村を巡られ、「教え」「宣べ伝え」
「いやした」のでした。そこで見た人々の魂の状態は「羊飼いの
いない羊のように弱り果てて(苦しめられて)倒れている」という
ものでした。
 イエス様はそのような人々を見て、「かわいそうに思われた」
のでした。イエス様の救いの動機は「あわれみ」なのです。

A魂の収穫は多いが、働き手が少ない  〜神の畑はいつでも働き人不足
 イエス様は言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない」
・・神の畑を見上げるならば、多くの救われるべき魂が収穫の時
を待っています。イエス様がこのみことばを語られてから現在に
至るまで、実際に働き手が全世界で不足しています。働き手さえ
起こされれば魂の収穫は多いのです。

B働き手を送って下さるよう祈る
  〜魂の収穫をされる主に祈る
 人々の魂をイエス様の救いに導く働き手は、神が起こして下さ
らなければ地上には存在しません。人々の魂を救う働きは神の
御業だからです。それゆえ私たち人間にできることは、そのため
に祈り求めることです。
 イエス様は魂の収穫のために神の畑で働く「働き手」を送って
下さるよう、「収穫の主」である神に祈りなさいと私たちに命じられ
ています。

 実際に魂の収穫をするのは、私たちの後の世代かも知れま
せん。しかし、私たちは神の畑にみことばの種を蒔き、働き手が
起こされるよう祈って参りましょう。


8月11日聖日礼拝
説教題
  「一杯の水を差し出す愛」
聖書箇所
   マタイ10章40〜42節
 「わたしの弟子だというので」(42節)とは、原文では「わたしの弟子
の名において。」「小さい者」(42節)とは、クリスチャンのこと。
「水」(42節)とは「冷たい水」「取るに足りない」との意味があります。

@キリストの弟子にふさわしい言動
   〜受けた恵みを他者へ取り継ぐ者として
 「弟子」とは先生に従い、教えを守り行って似る者となり、教えを
広める者のこと。ゆえに、キリストの弟子とは先生であるキリストに
従い、教えを守り行ってキリストに似る者となり、受けた救いの恵み
を他の人にも広める役割を負っています。その尊い役割にふさわ
しい言動がキリストから求められます。なお家族や周囲の人々の
救いと祝福を祈って参りましょう。

A小さな愛のわざへの永遠の報い
   〜神はクリスチャンへの小さな愛のわざを忘れず、必ず
   報いて下さる
 本書が書かれた頃には、ローマ皇帝ネロによるクリスチャン迫害
が始まっていました。そのような特にクリスチャンが困難にある中で、
水一杯でも飲ませることは、自分に危険が及ぶ可能性がありました。
 そんな中で、「キリストの弟子だというので」差し出された水一杯は、
キリストに対してなされた愛の業とみなされるのです。キリストは
そのことを決して忘れず、究極的には天国で必ず報いて下さるのです。


8月4日聖日礼拝
説教題
  「目を上げて神の畑を見る」
聖書箇所
   ヨハネ4章35〜38節
@神の畑を見上げる
   〜イエス様のビジョンに立つ
 旧約時代は様々な預言者が労苦してイスラエルに神の言葉を
伝えて来ました。その最後にイエス様は救い主として来られ、
福音の種を蒔かれました。その結果、弟子たちが異邦人から直ち
に救われる者を刈り入れることが可能になったのです。その「たま
しいの刈り入れ」はイスラエルの麦の収穫のように、種蒔きから
4ヶ月もかかりません。
 
 しかし、弟子たちのように人への偏見や民族的な感情があると、
心も視野も狭くなります。目を上げて神の畑を見るなら、神様の
広い世界を見ることが出来ます。

A受けた恵みを次世代につなぐ
   〜まだ見ぬ次世代のために種を蒔く
 福音の種を蒔く人と、その実を刈り取る人が必ずしも一致する
とは限りません。しかし、最終的には天国でその実の収穫を共に
喜ぶことが出来るのです。現代の私たちが救われるためには
血を流した多くの殉教者と涙と汗をもって福音を宣べ伝えた多くの
先人がおられます。私たちも未だ見ぬ次の世代が魂の刈り取り
できるよう福音の種を蒔いて参りましょう。

B新規開拓の秘訣
   〜いつでも自分から始められる
 本日の箇所を私たちの生活や仕事に応用しますと、新規開拓
の秘訣は次の3つです。
 〇神に喜ばれることか
 〇人の必要を満たすことか
 〇誰もやっていないか


7月28日聖日伝道礼拝
説教題
  「父なる神の愛」
聖書箇所
   ルカ15章11〜24節
@本来あるべき姿
    〜失ってはじめて気づく
 イエス様の話に出てくる「父」は神のこと。2人の息子
とは私たちのことです。次男は父の財産を受け取り、
遠い国で乱費してしまいます。すると、彼は奴隷のよう
な扱いを受けます。
 これは私たちが父なる神のもとから離れると、この世
の奴隷になることを示しています。父なる神のもとから
迷い出て、頂いた恵みを失い、虚しさを覚えた時に
自分の姿に気づき、神のことを思うのです。

A悔い改めと和解
    〜神は愛ゆえに私たちの立ち返りを待って
    おられる。
 次男は我に返った時、罪を告白し謝罪します。「お父
さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を
犯しました。」
 この謝罪は、私たちが神の前に罪を悔い改め、イエス
様の十字架のゆえに和解が成り立つことのひな型です。
神は今か今かと私たちの立ち返りを待っておられるのです。

B救いと喜び
    〜まるで生き返ったような救いの喜び
 神にとって私たちが罪を悔いて立ち返って来るのは、
まるで死んでいた者が生き返ったかのような喜びです。
 この話では、父親が次男に「一番良い着物」を着せます。
これはイエス様を信じて救われた者が神から「着せら
れる」イエス・キリストという罪の汚れのないお方を示し
ています。(ガラテヤ3:27)


 7月21日聖日礼拝
説教題
  「イエス様に出会うと人は変わる」
聖書箇所
   ヨハネ4章16〜26節
@イエス様の前で罪を隠さなくてよい
 サマリヤの女は、イエス様に物資的な豊かさや便利さ
を求めました。それに対し、イエス様は「行って、あなた
の夫をここに呼んで来なさい」(16節)と言われました。
これこそが、彼女の心の奥底にある不幸の原因でした。
イエス様は彼女の心の外科手術をされました。彼女は
愛情に飢え渇き、孤独でした。イエス様はそんな彼女の
ことをすべてお見通しでした。隠す必要はなく、素直に
悔い改めれば良いのです。

Aどんな罪人でもイエス様の救いに与かれる
 イエス様の言葉は、彼女をさげすんだり、責め立てる
ものではありませんでした。ここにイエス様の愛が豊か
に現わされます。彼女がイエス様のもとに導かれたこと
は、どんな罪人でも・・・社会的、道徳的、霊的に最低
最悪でも、イエス様の救いに与かれることを示しています。

Bイエス様に会うと人は変えられる
 イエス様は彼女に「霊とまこと(真実)をもって礼拝し
なければならない」(24節)と告げます。真の礼拝は
場所や儀式ではなく、どのような姿勢で臨むかが大事なのです。
 そしてイエス様は「このわたしがそれ(キリスト)」
(26節)だと言われました。彼女は待ち望んでいた救い
主に出会ったのです。すると、それまで人目を避けて
生活していた彼女が、町中にイエス様のことを宣伝して
歩きました。救いの喜びが彼女を変えたのです。
イエス様はどんな人を救い、あとに続く人々の救いの
導火線として用いて下さるか分かりません。


7月14日聖日礼拝
説教題
  「渇き求める」
聖書箇所
   ヨハネ4章1〜15節
@偏見や差別によらない、イエス様の愛の情熱
 イエス様は旅の疲れで井戸のかたわらに腰をおろして
休まれ、喉の渇きを覚えていました。そのイエス様は
「サマリヤを通って行かなければならなかった」(
4節)
とあります。
 サマリヤ人は、ユダヤ人とアッシリアなど外国人の
混血でした。そのためユダヤ人は、彼らを入国民の
ように軽蔑していました。
 しかしイエス様にとって、民族や性別、人格など何の
問題でもない。イエス様は偏見や差別を越えて、飢え
渇く人を救い、いのちの水を与えようと今日も愛の情熱
を燃やされます。

A私たちの渇きを永遠に満たされるイエス様 
 サマリヤの女は、人目を避けて暑い昼の時間帯を
狙って水汲みに来ました。彼女も水に渇いていたが、
それ以上に彼女の心は過去から現在に至る結婚生活
の失敗で、渇いていたのです。
 しかし、どんなに心の深い井戸でも、イエス様はすで
に見通されていました。イエス様はその底にある問題
を解決し救いを与えて下さるお方です。

 イエス様が本当に私たちに与えようとしている水は、
「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき
出る」と言われた、聖霊による新しいいのちなのです。

Bイエス様のへりくだりと救いへの渇き求め
 イエス様は女を救いに導くため、へりくだってサマリヤ
の女に「わたしに水を飲ませてください」と言いました。
イエス様は喉の渇きを覚えていたが、それ以上に渇き
求めるものがありました。それが私たち人間のたましい
の救いでした。「わたしは渇く」(ヨハネ19:28) ・・・
このイエス様の渇き求めは、今もなお続いているのです。


7月7日聖日礼拝
説教題
  「いのちのパン」
聖書箇所
   ヨハネ6章25〜40節
@永遠のいのちに至る食物のために
 当時の人々の関心は、この世における幸福に向けら
れていた。特にパンと水の問題はパレスチナ地方では
切実でした。しかし、そうしたものは私たちには必要だが、
朽ちてしまう食物に過ぎません。イエス様は永遠のいの
ちへ至る食物を求めるように諭されています。
 そのために私たちは何をすべきでしょうか。
イエス様は「神がお遣わしになった者(イエス・キリスト)
を信じること。それが神のわざです」(29節)とお答えに
なりました。
イエス様を信じるとは、イエス様ご自身を求めることです。
「永遠のいのちに至る食物のために働く」(27節)とは
イエス様ご自身を求めて日々歩むことなのです。

Aキリストはいのちのパン
 人々は祖先たちがエジプトを出た後、荒野でマナ(パン)
が与えられたことを持ち出しました。人々は救い主メシア
は、モーセのようにマナを与えると信じていたからです。
 しかし、イエス様は「神のパンは、天から下って来て、
世にいのちを与えるものだからです」(33節)と言われ
ました。天からのパンとは、永遠のいのちに至る食物の
ことで、やがて十字架にかかって永遠のいのちを私たち
に分け与えるイエス様ご自身のことです。このパンは、
私たちの霊の飢え渇きを永遠に満たして下さると約束
されました。

Bキリストを信じる者を終わりの日によみがえらせる
 神がイエス様をこの世に遣わされた目的は、イエス様
を信じる者すべてに永遠のいのちを与え、世の終わりに
よみがえらせることなのです。


6月30日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
  「光は闇の中に輝ている」
聖書箇所
   ヨハネ1章1〜14節
@初めから神と共におられたキリスト (1〜3節)
 全宇宙の造られる前からイエス・キリストは神と共に
おられ、万物を造られました。この方は、永遠のいのちを
与える人の光でした。
 人はイエス様の十字架による罪の赦しを通して、神と
出会い、神を知ることができるようになりました。この
ようにイエス様ご自身が神と人とが出会う場所になって
下さったのです。

A人の光であり、永遠のいのちであるキリスト 
                       (4〜8節)
 「このいのちは人の光であった」(4節)
イエス・キリストは、
(@) 暗黒を打ち負かす力 (創世記1:3)
(A) 隠れたものを明らかにする力 (ヨハネ3:19〜20)
(B) 人を導く力 (ヨハネ12:36)

B神の子どもとされる特権 (9〜13節)
 昔も今もキリストを救い主として受け入れないのが
この世であり、その中に生きていたかつての私たちの
姿です。
 しかし、「その名を信じた人々には、神の子どもと
される特権をお与えになった」(12節)とあります。
この「子ども」とは「〜に属する者」という意味で、
「神に属する者とされる特権を与えられた」のです。
 
その人が神の子とされ、闇から光の中に移された時、
次のようなことが起きます。
(@) 恐怖心が取り去られる。「愛には恐れがない。
   「完全な愛は恐れ取り除く」(Tヨハネ4:18)
(A) 聖霊の導きが与えられる
(B) 生活を広げて下さる・・自分のことだけでなく、
   人のことをも考えて生きるようにさせて下さる。


6月23日聖日伝道礼拝 10:30〜11:30
説教題
  「ひとり子を与える神の愛」
聖書箇所
   ヨハネ3章16〜21節
@ひとり子を与えるほど世を愛された神
「世」ということばは、「罪に汚れ神に反抗するこの世界」
を表わします。神はこのような世を「ひとり子を与える
ほどに愛された」のです。それはイエス・キリストを
十字架の死に渡すことを指しています。神の最愛の
対象は私たち一人一人です。

A永遠のいのちはキリストを信じる者に与えられる
 神はそのひとり子イエス・キリストをこの世に遣わ
されました。それはこの世を裁くためではなく、キリスト
によって世が救われるためです。人類の祖先が犯した
罪によって、全世界に滅びがもたらされてしまいました。
キリストは死と滅びに縛られているこの世を最終的
には救われます。
 神の愛はこの世の全てに注がれています。しかし、
永遠のいのちはキリストを信じる者に与えられることが
約束されています。

B今、信じるかどうかが永遠の運命を決定づける
 「人間には、一度死ぬことと死後に裁きをうけることが
決まっています」(へブル9:27)
 イエス・キリストを信じるなら、いま永遠のいのちが
与えられます。私たちは出入国の際に、税関で審査を
受けます。それにたとえると、天国へ入国する審査が
事前に終わっていることになるのです。
 ぜひ救いの光としてこの世に来られた、イエス・キリスト
を信じ、永遠のいのちと天国をご自分のものとして頂き
たい。


6月16日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
  「人がよみがえるときには」
聖書箇所
   マルコ12章18〜27節
@聖書と神の力
 サドカイ人は、モーセ5章と呼ばれる旧約聖書の創・出・
レビ・民・申命記のみを聖書だと主張しました。そこには
復活について明確に記されていないとして、彼らは
イエス様を困らそうと難問を考え出したのです。
 7人の兄弟が一人の女を妻にし、子を残さずに死んだ
場合、その女は誰の妻になるのかと質問したのです。
サドカイ人たちは、復活後の様子をこの世の延長だと
考えていました。
 それに対しイエス様は「そんな思い違いをしているのは、
聖書も神の力も知らないからではありませんか」(24節)
と言われました。
 現代の私たちも、まだまだ聖書も神の力も知らない
者です。なお聖書と神の力を知らせて頂けるよう求めて
参りましょう。

A人がよみがえるときには
イエス様は続けて「人が死人の中からよみがえるとき
には、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちの
ようです」(25節)と言われました。
神の国は地上の延長ではありません。この世においては、
どんな夫婦愛、親子愛、兄弟愛、友愛であっても、
完全な一致と平和を得るのは不可能です。神の国は、
罪と死がないので、血縁などの愛のきずなを超えて、
互いに一致と平和が満ちているのです。

B神は生きている者の神
 次にイエス様は、復活が必ずあることを出エジプト記
から示されまいた。(同3:6)
 死んで過去の人であるはずの、アブラハム・イサク・
ヤコブは、今も神の前では生きており、「神は死んだ者
の神ではない。生きている者の神です」(27節)と言わ
れました。
 神のおられる所に死はない。神はいのちの神でだから
です。神は無から有を生じさせる造り主だから、死者を
復活させることは当然おできになるのです。


6月9日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
  「信仰による救い」
聖書箇所
   ローマ人への手紙3章21〜26節
聖書の大きなテーマである「救い」。パウロは「しかし、
今は」と救いもこの律法から信仰による救いへと展開
されたことを力強く語っています。

@律法(21節)
 律法によって人は、自分の力の限界を知り、自分の
罪を示され、神の救いを求めるようになる。律法は神の
救いへと私たちを押し出すのです。

A罪(23節)
 神に似せて造られた人間でしたが、アダムとエバが
神に背いてしまってから、神と人間の関係が壊れ「神
からの栄誉を受けることができず(23)」つまり、神に似
せて造られたのに神の栄光にふさわしくない状態、
罪の奴隷となってしまったのです。自分の満足を求め
続けているのが人間の姿の一面ではないでしょうか。
これは神との関係が壊れてしまっているからです。

B信仰による救い(24〜26節)
 そこで神は、裸であることに気づかされたアダムと
エバに皮の衣(神の救い)を与えて下さいました。
罪からの救いは、人間自らの行為(懺悔、修行など)
によっては救われません。神の義は、神の救いその
ものではないでしょうか。神の救いは「信仰による」と。
律法的行いがなくてもイエス・キリストを信じる信仰、
この1つで救われると言うのです。
 イエス・キリストを信じるとは、イエス様を通して示
された神の救い(十字架と復活)を信じること。罪に
対する神の裁き、怒りをなだめる、おさえ静める為に、
イエス様は十字架で命を神にささげ、罪の奴隷となって
いる私たち人間を贖って、買い取って下さったのです。


6月2日聖日礼拝 10:30〜11:30
説教題
  「復活と再会の約束」
聖書箇所
   Tテサロニケ4章13〜18節
@イエス様が世の終わりにもう一度来られる時(再臨時)
に、イエス様にあって亡くなった人たちが先ず復活させ
られる
 イエス様がもう一度来られること(再臨)は新約聖書の
中に318回も繰り返し記されている大真理です。
 イエス様の再臨時には、まずイエス様にある(属する)
死者が先ず、復活させられ、復活したイエス様と同じ体を
与えられます。栄光のからだとも呼ばれます。
 イエス様を信じて天に召された人たちは、その再臨の
時まで眠っています。これは文字通り寝ていると言うこと
ではなくて、ルカ伝16章の金持ちとラザロの場面によると、
地上にいた時のように自由な活動を制限されていること
を示しています。

Aその時、私たちの肉体にまで神の救いのみわざが
実現し、体も復活させられ、栄光の体に変えられる
 神の完全なさばきが地上になされる前に、生きていて
キリストを信じる者は死を経験しないで、栄光のからだに
変えられます。先に世を去った人たちと一緒に空中に移
されるのです。
 そしてそこでイエス様と会うのです。イエス様は花婿と
なって、私たちを花嫁として迎えて下さるのです。
「このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいる
ことになる」(17節)

Bイエス様の再臨の時に私たちも復活することこそ、
私たちの最終的な希望であり、愛する方々との再会
がある
 私たちはイエス・キリストにあって永遠のいのちを与え
られ、復活の希望があり、愛する方々との再会の希望が
あります。何と素晴らしい恵みでしょうか。


5月26日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
  「心の方向転換」
聖書箇所
   使徒2章36〜42節
イエス様の弟子であるペテロは、人々に語りかけました。
 ・世界の歴史は救いの完成の時代に入っている
 ・あなたがたは神が救い主として地上に遣わされた
イエス・キリストを十字架にかけて殺してしまった
 ・しかし、神はこのキリストを死から復活させた
 ・イエスを救い主だと告白する者には、だれでも聖霊が
注がれる

 その上で、「主ともキリストともされたこのイエスを、
あなたがたは十字架につけた」と告げたのです。

@イエス・キリストの十字架が、自分の罪のためだった
と気づく
 ペテロのメッセージを聞いた人々の心に変化が起きた。
ペテロのことばに「心を刺された」のです。それまで
イエス様のことを「自分とは関係ない」、「自分を神だと
自称して十字架につけられた犯罪人」くらいにしか思って
いなかったことでしょう。
 ところが、人々はイエス様の十字架が自分の罪の
ためだったと気づかされたのです。罪とは「まと外れ」
のことで、人は生まれながらにして神の望まれる道とは
外れた歩みをしてしまうのです。

A悔い改めとは「心の方向転換」のこと。自分の罪を認めて心を神
に向ける
 すると人々はペテロたちに尋ねます。「私たちはどう
したらよいでしょうか。」 そこでペテロは答えます。
 「悔い改めなさい。」
 悔い改めとは心を神の方へ方向転換することです。
心を神に向け、自分の罪を認め、イエス様を救い主と
して信じることです。

Bバプテスマを受け、その信仰と罪が赦されたことを
公にする
 ペテロは続けて言いました。「それぞれ罪を赦して
いただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマ
を受けなさい。」
 罪の赦しはその人が罪を認め、イエス様を信じる時に
与えられます。

 バプテスマは、イエス様を信じた者がその信仰を神と
人の前に公にすることであり、罪が赦されたしるしなの
です。イエス様を信じた者には、賜物として聖霊が与え
られるのです。


5月19日ペンテコステ(聖霊降臨)礼拝
             10:30〜11:15
説教題
  「全世界へ主を証しする力」
聖書箇所
   使徒2章1〜8節

@聖霊降臨によりすべての民族・言語に主を証しする
力が与えられた

 イエス様が十字架で死んでよみがえられてから、
ちょうど50日目のこと。あつまって祈っていたイエス様の
弟子たち120人に聖霊(神の霊であり、イエス様の霊)
が注がれました。

 その結果、聖霊を頂いた弟子たちは、世界中の
人々が神様の救いのことばを聞いて理解できるように、
世界中のことばで話すことが出来るようにされました。
クリスチャンであれば、だれでも主イエス・キリストの
救い(福音)を証しできる力が与えられたのです。
 それゆえ私たちも聖霊の助けを仰いで、相手が理解
できないことばではなく、その人の心に届くことばを
語りたい。

Aそれぞれの言語で福音を聞くことができるように
なった
 
ユダヤ人たちはバビロン捕囚以来、世界各地に移住
している者が多くいました。そこでエルサレムで大きな
祭りがある時には、エルサレムに各地から集まって神を
礼拝するのが習慣となっていました。彼らは聖霊を
注がれた弟子たちが、それぞれ自分の国のことばで
話すのを聞いて、驚きあきれてしまいました。
 これは、これからその世界各地にイエス様の救いの
知らせ(福音)が、宣べ伝えられ、それぞれの原語で
福音を聞くことが出来る予兆でした。
 実際に、現代の私たちも普段使っている言葉で福音を
聞くことが出来、その恩恵を受けています。

B「イエス・キリスト」を全世界の共通語として教会が
誕生した
 
 そしてこのペンテコステは、教会が誕生した出来事です。
神は今や人の救いのみわざを教会を通して成される
からです。
 かつて私たち人類の祖先は高慢になってバベルの
塔を建て、神の怒りを買い、互いに言葉が通じないよう
にされ、世界に散らされました。
 ところが、このペンテコステはそれとは反対の働きです。
聖霊の働きによってその国のことばに合わせて福音が
語られ、人々は救われて神の子どもとされ、キリストに
あって一つとされます。「イエス・キリスト」が全世界の
共通語なのです。


5月12日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
  「聞かれる祈り」
聖書箇所
   Tヨハネ5章14〜15節
@みこころにかなうこと(14節)
     〜みことばと内住の聖霊の導きによってみこ
      ころを知る

 「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら」と
強調されています。神はイエス様によって神の子どもと
された私たちに対し、最善のものを最善の時に与えよう
とされます。神の願いは、神のみこころと私たちの思い
が一致することです。それなら「神はその願いを聞いて
くださる」と約束しておられます。神は「何事でも求めな
さい」と私たちに大胆に祈り求めるよう招いておられます。
 
 では、どのようにして神のみこころを知ることが出来る
のでしょうか。それは神のみことば(聖書)と私たちの
内に住んでおられる神の霊(聖霊)の導きによってです。
それゆえ、私たちは神のみことばを聞き、読み、心に
蓄えなければなりません。そして私たちの内におられる
聖霊が必ず導いて下さると素直に信頼することが必要
です。
 聖霊は多くの場合、心の声や良心の喜び・痛みを
通して、自分の祈り求めが神のみこころにかなっている
かどうかを教えてくださいます。

Aすでにかなえられたと信じる(15節、マルコ11:24)

 「神に願ったその事は、すでにかなえられたと知る」
とあります。イエス様も言われました。「祈って求める
ものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、
そのとおりになります。」

 信仰は目に見えないものを確信させます。まだ実際
には起きていない事柄が、神の側においてはすでに
実現していたと確信できます。
 みことばの通りに、私たちは信仰によって前もって
受け取ろうではありませんか。


5月5日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
  「幼子を友とする謙遜」
聖書箇所
   ルカ9章46〜48節

@まず自分自身がイエス様に受け入れてもらった恵み
を忘れない

 弟子たちは思い上がりから、自分たちがイエス様に
受け入れられたことを忘れてしまいました。私たちは
自分がどこから救われたか、その恵みを生涯忘れては
なりません。

A幼子を大切にする者は、イエス様を大切にする者で
ある

 「子ども」(48節)とはここでは「全く価値のない者」を
指しています。当時、子どもは人の数に入らない存在
でした。実際、子どもは自分が偉いとか力があるとは
思っていません。よく親に従い、素直な心を持っています。
 「受け入れる」(48節)とは「歓迎する」という意味です。
これはイエス様が弟子たちに対して「子どもだけでなく、
あなたたちも同じようにわたしに受け入れられた(歓迎
された)」と言われたのです。
 そしてイエス様は「小さな子どもを大切にする人は
わたしやわたしを遣わされた神を大切にしている」と
言われたのです。

B天の御国では、謙遜な者ほど神が高くして下さる

 イエス様は、天の御国では「幼子のような素直で謙遜
な人が一番偉い」と言われました。


4月28日聖日伝道礼拝 10:30〜11:15
説教題
   「救いを得る道」
聖書箇所
   ローマ10章4〜13節
@救いは行いではなく信仰による
 イエス・キリストが来られるまでのユダヤ教は、モーセの
十戒を代表とする律法(神と人との間の取り決め)を厳格
に守り行う人だけが救われるとしていました。
 しかし、神はそうした正しい行いではなく、信仰によって
救いを私たちに与えようとされたのです。

A救いの道はイエス様によってすでに用意されている
 イエス様は「わたしのことばを信じさえすれば、救われ
る」と説いて、イスラエル中を巡り歩かれました。イエス
様のみことばは、"誰でも・いつでも・どこでも信じるなら
ば直ちに救われる"という驚くべき恵みの知らせでした。
 「救い」とは罪を悔い改めて「神との正しい関係」になる
ことです。永遠のいのちも、天国もそこから始まるのです。
 ですから、救いを求めて天にまで昇ろうとしたり、キリ
ストをもう一度復活させようとよみにまで下る必要はない
のです。すでにイエス様が単純で明快な救いの道を
用意して下さっているのです。

Bイエスを心で信じ、口で告白して救われる
 救われるためには心の内側で神がイエス様を復活
させたことを信じ、それを外側に向かってイエス様を救い
主だと告白すれば良いのです。神の前には、当人の
告白が最も責任ある行為だとみなされるのです。

C救いに差別はない
 救いを限定してしまう狭い心と差別意識が戒められて
います。世界中の誰であろうとも、イエス様を信じ告白
するなら救われるのです。


4月21日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「苦難の目的と神の救い」
聖書箇所
   Uコリント1章3〜11節
@神は私たちの苦難を通し、同じ苦難に遭う人を救い
力づける (3〜7節)
 ここで語られている「苦難」とは、使徒パウロ達がキリ
ストの福音を宣べ伝えたり、教会を建て上げる際に受け
た苦難を指します。しかし、神はパウロ達を慰め、それ
によってコリント教会の人々を慰め、救い、力づけたの
でした。
 これを現代の私たちに当てはめますと、神は私たちの
遭う苦難を通し、同じ境遇に遭う人を救い、力づけるの
です。それは「なぜ私がこんな苦難に‥」と原因を突き
止めようとする姿勢から、「何のために」と目的を問う
姿勢へと変えられます。苦難の究極的な目的は、天国を
勝ち取るためであり、神に栄光が帰されるためなのです。

A死者をよみがえらせて下さる神により頼む (8〜10節)
 使徒パウロはアジアで遭った苦しみ(迫害や暴動と
言われる)で、死を覚悟したと言っています。その結果
「死者をよみがえらせてくださる神により頼む者」となった
のです。
 つまり、パウロの心の中では「神は救ってくださる」と
いう思いと、「神でもここまではできないだろう」という二つ
の思いが交互に彼を説得したというのです。そしてつい
に、死者を復活させる神に全信頼し、これからも救い出し
て下さると確信するに至ったのです。

B祈りを通して働かれる神の救いと恵み (11節)
 パウロは孤軍奮闘していたわけではありませんでした。
コリント教会の人々は、祈りによって彼の働きといのちの
安全を助けていたのです。
 1人が救われる際には、必ず誰かがそのために祈って
いたと言われます。今も神は私たちも祈りを通してお働き
になって下さいます。なお家族や周囲の人々の救いの
方々のために祈り続けて参りましょう。


4月14日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「用意された恵み」
聖書箇所
   ヨハネ21章1〜14節
@イエス様のみことばに従う時、大きな収穫が与えられる
 7人の弟子たちはテベリヤ(ガリラヤ)湖で夜通し漁を
しましたが、魚は一匹も獲れませんでした。これは宣教
のわざは人間の力だけでは、何も実を結ぶことが出来
ないことを示しています。
 イエス様は夜が明ける前に岸辺に立たれて言われま
した。「子どもたちよ。食べるものがありませんね。」 
イエス様は今でも私たちをよくご覧になって、日常生活
に必要なものにも気を配っておられるのです。
 続いてイエス様は彼らに必要な指示を与えます。
「舟の右側に網をおろしなさい。そうすれば、とれます。」
 弟子たちはすぐそのみことばに従いました。すると
大漁の魚が獲れたのです。
 同じように、現代の私たちもイエス様の助けとみことば
に従うことによって多くの実を結ぶことが出来るのです。

A徒労に思える時でもイエス様が恵みを用意して下さる
 漁で疲れ、お腹を空かせた弟子たちが陸に上がると、
炭火が起こしてあり、焼いた魚とパンが用意されていま
した。イエス様は彼らの労をねぎらって下さいました。
そして彼らに自分たちが獲った魚の一部を食べるよう
指示されました。
 この出来事は、現代の私たちも働けども徒労に思え
る時、すでにイエス様がそばにおられ、助け(恵み)を
用意して下さっていることを示しています。自分たちの
働きの実の一部でも養い、それを味わう(楽しむ)恵みも
用意して下さっているのです。

B復活されたイエス様が共におられる恵み
 イエス様は弟子たちを招いて、パンと魚を与えました。
このことを通して弟子たちは、かつてイエス様が5千人
に食事を与えたこと、そして十字架にかかる前の晩の
食事(最後の晩餐)を思い起させました。
 このように今でもイエス様は私たちの生活の中にいて
下さいます。そして復活されたイエス様は世の終わり
まで私たちと共におられるのです。


4月7日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「聖書によってイエスを知る」
聖書箇所
   ルカ24章17〜27節
@イエス様は私たちと共に歩んで目を開いて下さる
 二人の弟子は復活されたイエス様にお会いしても、
それがイエス様だとは分かりませんでした。イエス様は
彼らに聖書を悟らせるため、ずっと付き添い共に歩んで
下さいました。イエス様は彼らの愚痴や失望、間違いを
聞いて下さいました。彼らが絶望してイエス・キリストを
見失っていても、イエス様の方が共にいて下さるのです。
これは現代の私たちについても同じです。

A聖書によってイエス様の復活の事実を知る
 神様がご自身を私たち人間に現わすため(啓示する
ため)にお選びになった方法は「言葉」でした。「言葉」
は相手に届けられるなら、たとい遠くにいたとしてもその
人はそこにいることになります。
 イエス様は二人の弟子に復活の事実を示すために、
見ることや触るといった体験ではなく、聖書の「御言葉」
によって説き明かされました。「預言者たちの言った
すべてを信じない、心の鈍い人たち」と聖書がすべて
真実だと前置きした上で、「キリストは、必ず、そのような
苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずでは
なかったのですか。」

B聖書全体からイエス様を知る
 続いてイエス様は「モーセおよびすべての預言者
から始めて、聖書全体の中で、ご自身について書いて
ある事がらを彼らに解き明かされ」ました。
 大事なことは、聖書の御言葉によってイエス様の復活
を事実として受け止めることです。そしてイエス様のお
望みになられることは、私たちも聖書全体からイエス様
を理解することです。


3月31日イースター礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「よみがえられたキリスト」
聖書箇所
   ルカ24章1〜10節
@準備する者への祝福
 マグダラのマリヤたちは、イエス様のご遺体に塗るための香料を
土曜日に買っておきました。日曜日の朝一番でイエス様の墓に
到着できるよう「準備しておいた」(1節)のです。
 しかし、彼女たちの誰一人としてイエス様が墓の中からよみが
えるとは思っていませんでした。彼女たちはイエス様から頂いた
恵みに対し、イエス様を愛し仕えようと一途な思いでした。
 神は彼女たちがイエス様を慕い求める姿勢と、準備の良さを
祝福して下さいました。彼女たちはイエス様の復活を目撃し、復活
したイエス様にお会いし、人々へ復活のできごとを伝えるという
大事な役割を果たすことになります。私たちもなおイエス様が復活
された日曜の朝を待ち望み、準備していく者でありたい。

Aイエス様の先回り
 イエス様が埋葬された墓は、大きな石で入口が塞がれていました。
武装したローマ兵が警護しており、イエス様のご遺体が盗まれない
よう見張っていました。マリヤたちは、イエス様から復活のことを前
もって聞いていたにも関わらず、"大きな石"のことばかり心配して
いました。
 しかし、墓に着いてみると「石が墓からわきに転がしてあった」
(2節)のです。イエス様は先回りしてすでに問題を解決し、道を備え
ていて下さるのです。

B死に勝利されたイエス様
 マリヤたちは、墓の中にイエス様のご遺体のないのを見て、
途方にくれていました。イエス様はいつまでも死に封じ込められて
いる方ではないのです。神は全能の力をイエス様に働かせ、復活
した救い主として死を打ち破られました。「ここにはおられません。
よみがえられたのです」(6節)とのことばは、やがて全ての聖徒も
聞くことになるのです。


3月24日聖日礼拝(受難週) 10:30〜11:15
説教題
「きょう、キリストと共にパラダイスに」
聖書箇所
   ルカ23章32〜46節
@とりなしの祈り 34節
 イエス様は二人の重犯罪人と共に十字架につけられました。
イエス様は十字架上で私達人類のために、神と人との間に立って
とりなしの祈りをささげました。「父よ。彼らをお赦しください。
彼らは何をしているのか自分でわからないのです」
 それをそばで聞いた民衆の指導者たちやローマ兵たちは「自分
を救ってみろ」とイエス様をあざけりました。彼らの姿は、自分の
人生を反省することなく、自己中心、奇跡だけを求める私たち
罪人の姿を物語っています。

A強盗の悔い改めと謙遜な心 42節
 はじめイエス様をののしっていた二人の強盗のうち一人は、
イエス様のとりなしの祈りに心が打たれました。罪の無いイエス様が、
全人類の罪の身代わりに十字架で死んで、神のみもとに行こうと
されているのを知らされたのです。彼は心砕かれて謙遜になり、
遠慮がちにイエス様の憐れみにすがりました。「イエス様。あなた
の御国の位にお着きになるときには、私を思い出して下さい」

B天国の約束 43節
 それに対しイエス様は即座にお応えになられました。「まことに、
あなたがたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイス
にいます」
 十字架から降りて、厳しい修行をしたり、良い行いを積まねば
救われない、天国へ行けないというのではないのです。この強盗
のように、ただ自分の罪を悔い、イエス様の憐れみにすがるだけ
で良いのです。
 「きょう」とは明日ではない、今直ちにということです。彼の魂は
救われ、彼の身分は天国人になった。罪も争いも、死も分かれも
ない、神の祝福が満ちた天の楽園に入れられたのです。
 このようにイエス様によりすがる、つまり信じる者をイエス様は
ただちに救ってくださるのです。イエス様によって備えられた救い
とパラダイスをぜひ自分のものとして頂きたい。


3月17日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「愛を残るところなく示されたイエス」
聖書箇所
   ヨハネ13章1〜7節
@イエス様の愛と謙遜  〜低い所から仕える愛
 過越しの祭りが近づくと、イエス様はご自分がいよいよ十字架に
かかる時が近づいたことを知りました。過越しの祭りは、ユダヤ
人たちの祖先がエジプトから脱出したことを記念して春に行われ
ました。1歳の雄の羊を選んでそれをほふり、その血を玄関の柱
と鴨居に塗りました。これにより神の裁きを通り越したことを世々
記念したのです。
 この過越しの子羊は、全人類の罪を背負って罪の滅びから救い
出し、真の自由を与えるイエス・キリストのひな型です。

 イエス様は夕食の席で突然立ち上がり、上着を脱がれると、
手ぬぐいを腰にまとい、弟子たちの足を一人ずつ順番に洗い始め
ました。ユダヤ地方では客の足を洗うのは、最も卑しい奴隷の
仕事でした。イエス様は低い所から仕える愛と謙遜を身をもって
表わされました。こうしてイエス様はその愛を残るところなく示され
たのです。

A罪のきよめと救い 〜愛を伝えるため、なりふり構わないイエス様
 弟子たちの中には自信過剰で高慢なペテロや、イエス様を裏切
ろうとしているユダもいました。イエス様はご自分の愛を伝えるため
に、なりふり構いませんでした。イエス様の愛は人間を罪の滅び
から救う十字架となってこの後表わされます。イエス様が弟子たち
の足を洗われたのは十字架の前触れであり、罪のきよめと救いを
意味しています。
 私たちはたらいに汲んだ水ではなく、イエス様が十字架で流され
た血によって罪の汚れをきよくされ、救われるからです。

B後に知る
 弟子のペテロはイエス様の行動の意味が分からず、驚きを
もって応答しています。このイエス様の「仕える愛」は、時代を超え
て現代の私たちにも注がれています。「後で分かる」とは、ペテロ
たちだけでなく、現代の私たちも同じなのです。
 イエス様は私たち人間にその時は理解できなくても、ただみこと
ばを信じて、従って来るように求めておられます。信仰とは神の
前に謙遜になることです。信じるとは神の前に心を低くすることです。


3月10日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「永遠の喜び」
聖書箇所
   詩篇13篇5〜6節
@苦難にまさる十字架による救いの喜び
 本篇はダビデがサウル王の迫害を受けている時か、病気との闘い
の中で記されたと言われます。死の恐怖が絶えずダビデを襲う中、
ダビデは神の救いを喜んでいます。これを現代の私たちに当て
はめると、この世では絶望するような時があっても、イエス様の
十字架によって救われていることは、天国に至る永遠の喜びなの
です。

A神の豊かなお取り扱いを喜ぶ
 ダビデは今までの人生を振り返り、神から豊かなお取り扱いを
受けて来たことを感謝しつつ、神の恵みに拠り頼みました。すると
苦難がまだ解決していないのに、心に勝利が与えられ、喜びと
感謝にあふれたのです。これはイエス様によれば「先取り」の信仰
です。


3月3日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「永遠の家への道」
聖書箇所
   Uコリント5章1〜10節
@栄光(復活)のからだが天に用意されている
1節では、私たちの肉体を「地上の幕屋(テント)」と記しています。
これは私たちがこの地上では旅人であり、弱い肉体を持っている
ことを示しています。私たちは罪の蔓延するこの世で、この肉体を
まとい天を待ち望んでうめいているのです。いずれはこの肉体は
神にお返ししなければなりません。

 それに対し、神がやがて下さる建物があります。それは天にある
「永遠の家」だと言うのです。「永遠の家」とは、死から復活された
イエス様がもっておられた栄光(復活)のからだのことを指します。
 それが実現するのは、イエス様がすべての聖徒たちを引き連
れて地上に再臨される時です。

A約束と保証があるから心強い
 私たちは栄光(復活)のからだが与えられることによって、神の
下さるいのちが死を圧倒し、勝利します。その保証として私たちは
御霊を内側に頂いています。この約束と保証があるので心を強め
られ、この世の困難に立ち向かい、歩み続けることが出来るのです。

B私たちの願いは主に喜ばれること
 救われた者はすべて、神に喜ばれる歩みをしようと考えます。
キリスト者の願いは、生きようが肉体を離れようが主に喜ばれる
ことです。
 すべての人はやがて神の前にたって、この肉体にあってした
行為に応じて、善であれ悪であれ報いを受けなければなりません。

 それゆえイエス様を信じる人は幸いです。救いと日々の悔い
改めによって、地上にあるうちに罪が赦され、悪ではなく善の報い
を待ち望む者とされたからです。主の助けを仰ぎつつ、日々良き
わざに励んで、天に宝を積んで参りましょう。


2月25日聖日伝道礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「悲しむ者は幸い」
聖書箇所
   マタイ5章4節
 @イエス様の前で悲しむ人は幸い
 悲しみに遭った時に、それをイエス様の前に持って行くこと。
イエス様の前で悲しむ人はイエス様が必ず慰めて下さるから、
かえって幸いを得るのです。

A悲しみの原因である罪を示される
 悲しみは私たちに自分や現実問題と向き合い、その原因を探
ろうとします。その思いを巡らす中で、イエス様の前に心を開いて
進み出た時に、おおもとの原因は人類が犯した罪の結果である
ことを知らされます。そして自分の悲しみよりもはるか以前に、
神が悲しんでおられることを知るに至ります。神は私たちにこの
悲しみに気づいて欲しいのです。
 神の悲しみは、愛をこめて創られた私たち人間が、罪のゆえに
神のもとから迷い出て離れてしまったことです。その結果、罪と死
に支配されてしまいました。神はその正義のゆえに、すべての罪を
裁かれます。

 しかし、神は私たちに対する愛のゆえに、私たちを見捨てず、
罪と死から私たちを救い出し、永遠のいのちを与えるために
イエス様を地上に送って下さいました。イエス様は私たちの罪を
背負い、身代わりに十字架で神の罰を受けて死んで下さいました。

 ですから悲しみを通して自分の罪が分かることは、イエス様の
救いに限りなく近づいたことなのです。

B必ず素晴らしい慰めが与えられる
 イエス様による慰めは、すぐに実現することもあれば、長い時間
が掛かることもあります。しかしイエス様は必ず慰めて下さいます。
そして究極の慰めは、私たちが天国に行った時、完全に実現する
のです。


2月18日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「主を恐れることは知恵の初め」
聖書箇所
箴言9章10〜12節、コロサイ2章3節
@主を恐れることは知恵の土台
 「初め」(9:10)には「土台」という意味もあります。主を恐れることの
恵みとして、長寿や知恵が与えられることが約束されています。

A恐れは一生かけて学ぶべきもの
 恐れについて聖書は、先ず人類の祖先アダムとエバのことを
挙げています。アダムとエバが罪を犯した結果、最初にもった感情が
「恥」でした。次に神に対する「恐れ」でした。次の第二世代でカイン
は殺人の罪を犯し、人の報復を恐れ、いのちを失うことを恐れる
ようになりました。それ以降人類は家族や財産、地位、自然災害、
病気や老化などを恐れるようになります。こうしてみると恐れの感情
は自己防衛的な感情と言えます。
 神は私たちの恐れの感情を取り除くことよりも、従うことを求めて
います。恐れは私たちが一生かけて学ぶべきものです。

B知恵と知識の宝はキリストのうちに
 この箴言のみことばを新約聖書の光で見ていきますと、人として
来られたイエス様のことばと行いのうちに、知恵と知識との宝が
隠されているのです。私たちが聖書を開き、祈り求める時に、
イエス様からこの世を歩むための必要な知識と知識が頂けるのです。


2月11日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「キリストの福音」
聖書箇所
  マルコの福音書1章15節
 マルコの母は、自分の家を初代教会の集会のために用いていました。
「大ぜいの人」が集まり(使12:12)、このような家で育てられたマルコは、
早くから福音を聞き、信仰を持っていたと考えられます。マルコは、
この福音書を書くに当たってキリストの降誕でなく、キリストの福音
からから書き出したところに、マルコの「福音」に対する熱い思いが
伝わってくるのではないでしょうか。
 「キリストの福音」、キリストが私たちに伝えた「福音:良い知らせ」は
何であるか。イエス様はご自身の存在、生涯、教え、みわざのすべて
において示されました。キリストの福音は3本柱で記されています。

@時が満ちた
 罪の歴史を重ねた人類に、救い主が訪れるという預言が語り続け
られていました。預言者が神のことばを語り続けますが、人々は神に
ついてただ推測し、暗中模索するだけでした。その中で旧約時代、
神を信じる者は「救い主が訪れる」神の約束を信じて待ち望んでいた
のです。
 信仰の父とも呼ばれるアブラハム。アブラハムは、神のことばだけを
信じてまだ見ぬ地、知らぬ地へ旅立っていきました。神のことばを
信じて生きていく、これこそ信仰生涯の始まりです。イエス様が救い主
としてこの地上に訪れて下さった神の約束である「旧約聖書の成就」は
「時が満ちた」のです。

A神の国は近づいた
 「神の国」、これは領土でなく、「神の支配」そのものを指し示して
います。神の支配、つまり神に生かされることです。マルコはここで
現在より、未来において神の国が実現することを言っています。
神の国が現在、また未来において実現できるのは、イエス・キリスト
の十字架と復活があったからです。マルコはいつか分からないが、
必ず神の国が来る、近づいたから、神の国に入るための備えを
しよう!と言っているのです。

B悔い改めて福音を信ぜよ
 神の国が近づいたから、今こそ「悔い改めて福音を信ぜよ」と
確信をもって勧めています。悔い改める、罪の結果を後悔するの
でなく、神から引き離す罪そのものを憎むこと。そして神に生かさ
れる、神と共に生きる生き方に方向転換することが「福音を信じる」
ことです。キリストの福音に日々生きる者とならせていただこうでは
ありませんか!


2月4日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「神への祈り」
聖書箇所
  詩篇63篇1〜8節
ダビデは「神よ。あなたは私の神」と確信をもって告白しつつ、明確に
「私の神」に祈っています。ここに神とダビデの関係が見えてくるので
はないでしょうか。私たちも誰に祈っているのか分からない祈りでなく、
「私の神」に祈る者とならせて頂こうではありませんか。

@砂漠である(1節)
「切に求めます、水のない、衰え果てた地、渇き、気を失うばかり」
の砂漠である、と言った表現は、ダビデが自分の魂の状態を言って
います。ダビデの神への渇望、それはダビデが自分の罪深さを自覚し、
自分には神の救いが必要であることの現われではないでしょうか。神
への祈り、それは砂漠のように「自分の魂が神を切に求める」ことです。

A聖所である(2節)
聖所とは、神の顕現と臨在の場です。ここで具体的なエルサレム神殿
を示しているのでなく、霊的に私たちの魂が神の前にて、神のことばを
聞くことです。「神のことばを聞くこと」によって、神の臨在を私たちは確
信するのです。私たちは自分の思いを伝える一方通行の祈りで終わって
いないでしょうか。神への祈りは「神のことばを聞く」聖所なのです。

B床の上である(6節)
ダビデもある時には「私は、私の嘆きで疲れ果て、私の涙で、夜ごとに私
の寝床を漂わせ、私のふしどを押し流します」(6:6)と祈っています。しかし
そのような時こそ「あなたを思い出し、夜ふけて私はあなたを思います」と、
夜眠らずに静かに神を思い続ける中、主の恵みの数々を思い出しては祈
りとなり、いつしか夜が更けて神を信じることの平安と確信にあふれて、賛
美となっていったのです。「ほめたたえ、喜びにあふれて賛美します、喜び
歌います、すがり、ささえてくださいます」と。
どのような出来事のただ中にあっても、床の上が「神への祈り」となり、私た
ちは「脂肪と髄に満ち足りる」ほどの喜びと賛美にあふれる者とならせて頂こ
うではありませんか!


1月28日聖日伝道礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「水を飲む」
聖書箇所
  ヨハネ4章14〜15節
 当時ユダヤ人はサマリヤ人を卑しめていた中、旅の疲れを覚えて
井戸のかたわらに腰をかけておられたイエス様は、人の目をさけて
お昼の12時ごろに水を汲みに来たサマリヤの女に「水を飲ませてく
ださい」と。
 自らを低くして、個人伝道をされたイエス様。イエス様は「わたしが
与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたし
が与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわ
き出ます」と言われたのです。「水を飲む」ことが、なぜ救いへとつな
がるのでしょうか。「渇かない」ことが、本当にありえるのでしょうか。

@神に生かされる人生
 イエス様が与えて下さる水は、私たちの魂への渇きに対する「いのち
の水」のことを言っています。人間は誰もが、心の奥の魂においては
真理を求めて、探し求めているのではないでしょうか。真理、それは
変わらない永遠に存在するもの、神そのものなのです。神との関係を
求めているのが人間本来の姿です。しかしアダムとエバによって神と
の関係が壊れ、本来の姿に気づかず、さまよい続けている私たち人
間を救うために、イエス様が与えて下さる水です。その水を飲む事に
よって、神との関係が回復し、新しい生き方が与えられるのです。

A渇くことがない、わき出る人生
 神との関係が回復する、つまり神によって生かされている新しい生き
方になるのです。自分でもがいて探して、自分の力に頼って生きるの
でなく、神に頼って生きる生き方です。この生き方は、平安、喜び、希
望、力、感謝が自然とわき出てくるではありませんか。この地上にお
いて私たちがどのような時、どの状態においても、神に生かされている
人生は、すべてにおいて平安が約束され、神に導かれていくのです。
「その水を私に下さい」と、サマリヤの女はイエス様に言いました。私
たちも日々、いのちの水を求めていこうではありませんか!イエス様
が与えて下さるいのちの水は、1人1人に差し出されています。
「水を飲む」、神を信じる人生へと踏み込んでいこうではありませんか。


1月21日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「苦難の意味」
聖書箇所
  ヨブ記2章1〜13節

@正しく生きたゆえの苦難もある
 ヨブ記のテーマは「なぜ義人が苦難に遭うのか」です。それは
イエス様の十字架につながる大事なテーマです。苦難は必ずしも
罪への刑罰ではありません。神はサタンの挑戦を受けて立ち、
ヨブを信頼して苦難に遭わせたのです。

A誘惑や試練の中にも神の守りがある
 神はサタンに「彼のいのちには触れるな」(6節)と言われました。
このことは、サタンの誘惑も苦難も神の制限を乗り越えては来ず、
神の守りがあることを示しています。神はその人が耐えられない
試練には遭わせません。

B友となる
 ヨブはサタンの試みに遭い、財産やしもべたち、子どもたち、
健康を失いました。そこへ友人3人が慰問に訪れますが、全身
悪性腫物のヨブの姿に、7日7夜ひと言も話しかけることが出来
ませんでした。それでも寄り添う彼らこそかけがえのない友でした。
 後に、彼らはヨブの苦難の原因を巡って、感情むき出しの激論
に発展します。けれども、この友人たちとの激論があったがゆえに、
ヨブの信仰は進みました。また友人たちもその間違いを神に
よって正され、ヨブと共に神の御声を直接聞くという恵みに与か
ったのです。

Cたとえ理解できなくても神を信頼し続ける
 苦難の中で、ヨブは自分の信仰の理解では神との関係を説明
できなくなってしまいました。そうした苦しみの中で、ヨブを最後
まで支えたのは神への信頼だったのです。たとえ理解できなくても、
なお神を信頼し、苦しみの中でも神に語り(祈り)ました。神はヨブの
苦難を通してサタンの試みに勝利し、神の栄光が豊かに現わされ
たのです。


1月14日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「霊を見分ける」
聖書箇所
  Tヨハネ4章1〜6節
 この世には神の霊である聖霊が働くと共に、サタン(悪魔)の手下
である悪霊も働きます。それゆえその悪影響を受けないよう霊を
見分けなければなりません。

@悪霊にそそのかされた者が世にたくさん出て来た
 霊は聖霊と悪霊に分けられ、サタンが悪霊どものかしらです。
サタンとその悪霊どもは、私たちを罪に誘惑し、欺き、神から引き
離そうとします。イエス様が地上においでになって以降、反キリスト
の偽預言者がたくさん世に出て来たと警告されています。

A神からの霊は人となって来たイエス・キリストを告白する 
 「偽キリストと偽預言者たちが現われて、できれば選民(クリス
チャンたち)を惑わそうとして(だまそうとして)大きなしるし(奇跡)
や不思議なことを行うからです。」(マタイ 24:24ほか)
 サタンや悪霊どもは人間の不安や恐怖につけ込んで活動します。
神は悪霊どもが働きによる魔術、占い、霊媒師、死者に伺いを
立てることを禁じています。(申命記 18:10-11)
 私たちは霊現象を単純明快に見分けるすべを与えられています。
それが「人となって来たイエス・キリストを告白するかどうか」なの
です。

B悪魔に勝ったイエス様の聖霊が私たちのうちにおられる
 かつて、T師は女性霊媒師と対面し、彼女に悪霊につかれて
いることを示し、神に立ち帰るよう促しました。その結果、
その女性は悪霊の力を利用していたことを神の前に悔い改め
たそうです。
 これはまさに私たちのうちにイエス様の御霊がいて下さり、
悪魔に打ち勝って下さった確かな証拠です。


1月7日聖日礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「鷲のように新しくなる」
聖書箇所
  詩篇103篇1〜5節
 先の大地震では自然界は人の都合には合わせないことを思い
知らされます。年が新しくなることよりもっと大事な事は、神様に
よって私たち自身が内側から新しくされることです。

 本篇を書いたダビデは、先ず主の祝福を思い起しています。
(1〜2節) 続いて、「主はあなたのすべての咎を赦し」 「あなたの
すべての病をいやし」(3節)・・ダビデはいくつか大罪を犯しました
が、神は彼のすべての罪を赦すだけではなく、すべての病を癒や
して下さいました。これはイエス様の打ち傷のゆえ(イザヤ53:5)
であり、究極的には天国と主の再臨で実現されます。

 「あなたのいのちを穴から贖い」(4節)・・主は罪の結果である
死と滅びからダビデを救い出して下さった。ダビデは繰り返しいの
ちを狙われました。しかし神はダビデをいのちの危険から救い出
して下さり、「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」(4節)、罪の刑罰
の代わりに、多くの祝福を与えられました。

 「あなたの一生をよいもので満たされる」(5節)・・神は必要を満
たし、喜びで満たして下さる。

 「あなたの若さは、鷲のように新しくなる」(5節)・・若返るのでは
なく、新しくなる。「新しくなる」との言葉は、「回復する」「刷新する」
「更新する」という意味です。

 ダビデも年齢と共に体の衰えを自覚していました。彼は神の力の
象徴として鷲をイメージしていました。特に、鷲の羽が毎年内側
から新しく生え変わることから、若さが内側から更新されることを
表わしています。また鷲は、翼を常に羽ばたかせて飛ぶのではなく、
じっと風を待ちます。風が来たら大きな翼を広げ、上昇気流に
乗って一気に空高く舞い上がります。

 同じように私たちは、自分の力で新しくされるのではなく、聖霊の
風(上昇気流)によって夢や希望、気力が与えられ新しいことに
チャレンジする力が与えられるのです。人生の様々な向かい風も、
その逆風を利用して揚力を得、高く舞い上がることが出来るのです。

 それは神を待ち望むことによって可能なのです。まず魂に力が
与えられて生き生きとされ、心が刷新されることが大事です。
すると身体もついて来るからです。永遠かつ全能の主に信仰を
通してつながり、主ご自身がお働き下さることを待ち望む時に、
その力を頂くことが出来るのです。


1月1日元旦礼拝 10:30〜11:15
説教題
 「活動の範囲を広げさせてください」
聖書箇所
  T歴代誌4章9〜10節
@神への素直な信頼と大胆な祈り
 ヤベツは素直に神を信頼し、大胆に祈りました。彼はイスラエル
の神をもっと世に知らしめるために活動を範囲を広げさせてくだ
さいと求めたのです。
 そのためには主の臨在があることと、謙遜になって悪から回避
されることが必要なことを忘れませんでした。

A神は悲しみを喜びに変えて下さる
 ヤベツの名は「悲しみ」という意味でしたが、彼は神によって
慰めの子・喜びの子へと変えて頂きました。名前や生い立ちが
その人の一生を縛ったり、決定するわけではないことを証しして
います。
「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(マタイ5:4)


2023年
12月31日聖日礼拝
説教題
 「夕暮れ時に光がある」
聖書箇所
  ゼカリヤ書14章3〜9節
預言者ゼカリヤは、バビロン捕囚から帰還後にエルサレム神殿
再建工事の時代に活動しました。彼は終末のキリスト再臨を預言
しています。

@終わりの日にイエス様が再臨し救いの道が開かれる
神は不信仰を続けるイスラエルに対し、すべての国々から民を
集め、首都エルサレムを攻め裁きます。その時、突然イエス様が
「すべての聖徒たち(6節:天国へ入れる身分の人々)」と共に再臨
します。そしてイスラエルを裁くために用いられた国々と戦い、
今度は彼らを裁くのです。
 
A神の国(天国)が全世界に実現する
すると自然界に異変が起こり(6節)、太陽に代わってイエス様の
栄光(義の太陽)が全地を常に照らし、もはや暗黒は存在しない。
神の国は現在、イエス様を信じるクリスチャンの内に霊的に実現
していますが、終わりの日にはこの世に実現します。エルサレム
からは生ける水が湧き出るようになるが、これは聖霊の恵みが
全世界に及ぶことを示しています。
こうしてすべての人々はイエス様の完全なご支配のもとに置かれ、
偶像を拝むこともなくなります。罪による一切の呪いもこの世から
取り除かれ、ただ一人の主なる神を礼拝にしに全世界から民が
やって来ます(9節)。

B私たちの人生の夕暮れ時にも主の光がある
 私たちの人生にも夕暮れ時があります。望みは失せ、死を
意識し、この世に助けがなくなるような時があるかも知れません。
そんな時、ただ主なる神にのみより頼むならば、主は暗闇の
中から突如として救いの光で私達の闇路を照らして下さるのです。
最も暗いような時は、かえって主の救いや助けが近いのです。


12月24日聖日伝道・クリスマス礼拝 
    救い主キリストの誕生をお祝いしました
説教題
 「救い主誕生の身近なしるし」
聖書箇所
  ルカ2章11〜20節
@神からの知らせを正しく受け取る
 情報伝達において大切なことは、受け取り手がその情報の意味を
確実に、そして正しく受け取ることです。 

A最初の知らせは素朴で素直な信仰を持つ羊飼いたちに
 羊飼いたちは、神殿で人々の罪の身代わりにささげられる羊を
飼っていたと言われます。当時、羊飼いという職業は卑しく、軽蔑
すべき仕事とされていました。野獣に羊が襲われた時には、命がけ
で戦わなければならない、危険な仕事でもありました。
 
 そんな彼らは神の救いが羊の血によることを誰よりも良く知って
いたのです。彼らこそ、朝と夕に人々の罪の身代わりのために神殿
でほふられ、焼かれる子羊のことを最もよく知る人たちだったからです。
 神様の目には、素朴で素直な信仰を持っていた彼らこそ、救い主
誕生の知らせを最初に聞くにふさわしい人々だったのです。こうして
救い主の誕生という全世界に伝えられるべき、歴史上もっとも重要な
神様からのメッセージは、名もなき羊飼いたちに最初に伝えられま
した。

Bすべての民に救い主誕生が告げ知らされた
 世の中で一番卑しい、底辺にいると思われていた者たちに先ず
知らせが届いたことは、「民全体のため」(10節)に大きな喜びの
知らせが届いたことを意味します。社会のあらゆる階層の人々に
救い主誕生の知らせが届けられたのです。それは誰であっても
救い主を求める者には、イエス様に出会うことが出来ることを
表わしています。

 私たちも羊飼いたちのような素朴で素直な信仰を持って、イエス
様に近づく者となりたい。


12月17日聖日礼拝 
    救い主キリストを待ち望む期間:アドベント 第三週
説教題
 「最初に知らせを聞いた人々」
聖書箇所
  ルカ2章8〜10節
@神からの知らせを正しく受け取る
 情報伝達において大切なことは、受け取り手がその情報の意味を
確実に、そして正しく受け取ることです。 

A最初の知らせは素朴で素直な信仰を持つ羊飼いたちに
 羊飼いたちは、神殿で人々の罪の身代わりにささげられる羊を
飼っていたと言われます。当時、羊飼いという職業は卑しく、軽蔑
すべき仕事とされていました。野獣に羊が襲われた時には、命がけ
で戦わなければならない、危険な仕事でもありました。
 
 そんな彼らは神の救いが羊の血によることを誰よりも良く知って
いたのです。彼らこそ、朝と夕に人々の罪の身代わりのために
神殿でほふられ、焼かれる子羊のことを最もよく知る人たちだった
からです。神様の目には、素朴で素直な信仰を持っていた彼らこそ、
救い主誕生の知らせを最初に聞くにふさわしい人々だったのです。
こうして救い主の誕生という全世界に伝えられるべき、歴史上もっとも
重要な神様からのメッセージは、名もなき羊飼いたちに最初に伝え
られました。

Bすべての民に救い主誕生が告げ知らされた
 世の中で一番卑しい、底辺にいると思われていた者たちに先ず
知らせが届いたことは、「民全体のため」(10節)に大きな喜びの
知らせが届いたことを意味します。社会のあらゆる階層の人々に
救い主誕生の知らせが届けられたのです。それは誰であっても
救い主を求める者には、イエス様に出会うことが出来ることを
表わしています。
 私たちも羊飼いたちのような素朴で素直な信仰を持って、イエス
様に近づく者となりたい。


12月10日聖日礼拝 
    救い主キリストを待ち望む期間:アドベント 第二週
説教題
 「救い主のための心の余裕」
聖書箇所
  ルカ2章1〜7節
 ヨセフとマリヤはローマ皇帝の出した人口調査の命令に従い、
ナザレから故郷ベツレヘムへ向かいました。しかし、マリヤは臨月
を迎えているため歩みは思うようには行かず、ベツレヘムに着いた
時には、すでに「宿屋」(7節)は一杯だったのです。そこで二人は
仕方なく家畜小屋に泊まりました。この家畜小屋は、洞窟だっとも
言われています。

 「飼葉おけ」(7節)とは、石や木で作られた餌箱です。そこに寝か
されたキリストの姿は、「いと高き方の子」(1:32)と呼ばれるには、
あまりに貧しい姿です。しかし、キリストは神の栄光を捨てて、私
たち全人類を罪の滅びから救い出すために、このような姿で地上
に来られました。キリストはその愛と謙遜をこのように現わされた
のでした。

 「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(7節)とは、ヨハネ伝1:10
〜12でこう語られています。「・・・この方はご自分のくにに来られた
のに、ご自分の民は受け入れなかった。・・・」

 郷里のベツレヘムの宿屋はどこも先客で一杯でしたが、はたして
一杯だったのは宿屋の部屋だけだったでしょうか?一杯で余裕が
なかったのは、宿屋という建物ではなくて、実は人々の心だったの
です。これは神の介入を喜ばない、私たち人間の罪の姿を表して
いるのです。

 ですから、ヨセフと妊婦マリヤを泊めてあげることは、救い主キリ
ストがお生まれになる場所を提供すること。私たちの心にイエス・
キリストを信じ受け入れることなのです。すると、神から見れば飼葉
おけのような私たちの心の中にも、キリストはそこを神殿として住ん
で下さるのです。

 そして救い主キリストのために心の余裕(余地)を持っていると、
@インマヌエルが実現する  イエス様は永遠に共に歩んで下さいます。
A心に平安が与えられる 〃  は平安を与えるお方です。
B希望が与えられる   〃  には不可能はないからです。
C喜びが与えられる   〃  は全てを益に変えて下さいます。
D愛のわざを行える   〃  はその力を与えて下さいます。


12月3日聖日礼拝 
    救い主キリストを待ち望む期間:アドベント 第一週
説教題
 「救い主を捜し求めた人々」
聖書箇所
  マタイ2章1〜11節
@心から救い主を求める
 東方(ペルシャ)の博士たちは、救い主の誕生を知らせる星を見て、
はるばるエルサレムまでやって来ました。博士たちが導かれた星は、
全世界の人々に分かるように輝き続けていました。しかし、同じ星を
見ても心から求めない者には輝く星とはなりません。

 聖書を専門に学んでいたユダヤの祭司長や律法学者は、ヘロデ
王の質問にすぐ返答し、キリストが誕生する地はベツレヘムだと言い
当てました。しかも彼らはベツレヘムからほど近いエルサレムに住ん
でいながら、誰一人として救い主に会いに行こうとはしませんでした。
 しかし、キリストを求める人々には昔も今も、必ずイエス・キリストが
世を照らす光として救いに導いて下さいます。

A熱意と真実にお応えになる神
 遠く危険な旅路を命がけでやってきた博士たちの熱意と真実・・
それを神はずっとご覧になっておられました。神はこのような人たちに
真実をもってお応えになり、救い主に直接お会いする恵みの機会を
彼らに与えました。帰路も狡猾で残忍なヘロデから彼らの命を守られ
たのです。

B私たち罪人のための救い主
 救い主誕生の知らせを聞いたヘロデやエルサレム中の人々は
「恐れ惑った」(3節)のでした。この態度は、生まれながらの罪人である
私たちの姿を示しています。保身や安逸を邪魔されたくないからです。
そういう私たちを罪の中から救い出すためにお生まれになられた
イエス・キリストは、私たち一人一人のための救い主なのです。

Cユダヤ人の王としてお生まれになった方は(今)どこに?(2節)
 この問いは現代の私たちにも投げ掛けられています。皆さんはどう
答えるでしょうか?
 聖書によれば、「私のうちに」です。(ガラテヤ2:20参照)
 「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きて
 いるのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。」


11月26日聖日伝道礼拝 
説教題
   「死んで生きる」
聖書箇所
  ガラテヤ2章19〜20節
 モーセの十戒(律法:神と人、人と人との基本的な戒め)が石の板に刻み
込まれたように、神はすべての人の心の板に「良心」という律法を刻まれました。
 古来から、人は何とかして良く行きよう、天国に入れるよう修行を積もう、
と努力して来ました。しかし、神の目にはすべての人は罪びとなのです。
「義人はいない、ひとりもいない」(ローマ3:10)

 パウロと言う人は、律法の定めを完全に守り行おうと厳しい生活を送って
来たのでした。しかし、イエス・キリストに出会って、自分の罪を知らされ、
律法を守り行うことの限界を知らされ、イエス様の十字架による救いに導かれ
ました。

「私はキリストとともに十字架につけられました。」(20節)
 キリストは、私たちの律法違反の罪を身代わりに背負い、十字架で死んで
よみがえられました。その結果、キリストを信じる者は律法を完全に守り行った
とみなされます。こうして、行わなければ罰を受けるという律法の呪いから解放
されたのです。

「もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられる
のです。」(20節)
 生まれつき罪に支配されていた自己中心的な古い「私」は、キリストと共に
十字架につけられて死に、キリストと共に生まれ変わった新しい「私」がキリストと
共に生きているのです。もはや罪に支配されることなく、キリストが私たちを
治めて下さっており、犯した罪は悔い改めを通して赦し、きよめられるのです。
キリストの下さった新しい命は、肉体の死を乗り越えることのできる永遠の命です。


11月19日聖日礼拝 
説教題
   「この時のため」
聖書箇所
  エステル記4章12〜17節
 ペルシャの有力な大臣ハマンの策略によって、ユダヤ人絶滅計画が実行に
移されようとしていました。それを知ったユダヤ人モルデカイは、王の妃になって
いた養女エステルに告げます。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、
この時のためであるかもしれない」(14節)

 モルデカイは同胞のいのちを救うために、心血を注ぎます。これを現代に当て
はめますと、隣人の魂が救われるために心血を注ぐということになります。
なぜなら"私たちは救わんがために救われた"、つまり隣人(同胞)を救うために、
少しだけ先に救われたからです。
 そして現代の私たち一人ひとりにも必ず「この時のため」(14節)という場面が
やって来ます。そういう役割を神が与えられるからです。

 エステルは危機に瀕した同胞の救いのため、自分のいのちを犠牲にする決心を
しました(16節)。このような言行は神の助けがあって初めて成せるわざです。
神は人の自由意志による信仰の応答を用います。この応答があって、はじめて
神のみわざが実現していくのです。エステルの姿は十字架のイエス様に通じる
ものです。(ピリピ2:6〜8)

 また、エステルは自分と侍女たちだけでなく、同胞のユダヤ人たちにも断食の
祈りを呼びかけました。祈りを通して神様の特別な力が与えられなければ、この
ような働きはできないことを知っていたからです。

 「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士は、米国に帰国後、大学経営や
事業に失敗します。召天間際に「札幌で過ごした9ヶ月間こそ、私の人生で最も
輝かしい時だった」と言い残しました。札幌で学生たちに与えた人格教育や
キリスト信仰はその後の日本やキリスト教会に大きな影響を与えました。
 まさにクラーク博士にとって札幌滞在が、人生を賭けた「この時のため」だった
のです。

 「神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなたがたがこれまで
聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れに
ならないのです。」(ヘブル6:10)


11月12日聖日礼拝 
説教題
   「主を喜ぶことは力」
聖書箇所
  ネヘミヤ記8章5〜10節
 バビロンからイスラエルに戻った民は、総督ネヘミヤと律法学者・祭司である
エズラをかしらとしてエルサレム神殿の再建を成し遂げました。
 しかし、神殿工事で心を一つにした民は、城壁が完成したことで大きな目標を
失い、関心が個人の生活に移ってしまう可能性がありました。 
 また、神に頼るのではなく城壁に頼ってバラバラになる危険性がありました。
 そこで広場に集まって来た民に、エズラは律法(創世記〜申命記)を読んで
聞かせたのです。

 神の御言葉である聖書は、読まれ、説明され、その時代の人々に理解され
なければなりませんでした。「信仰は聞くことから始まり」(ローマ10:17)、「人は
パンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」(マタイ
4:4他)からです。

 すると、民は律法のみことばを聞いてみな泣きました(9節)。祖先の罪を思い
起し、また自分たちの代の罪と祖国滅亡、捕囚と帰還、エルサレム再建を思い
巡らしたからです。

 このように律法は私たち人間に罪を明らかに示し、救いに至る悔い改めへと
導きます。すると今度は神による慰めと赦しの恵みを感謝し、喜び祝うべき時が
訪れるのです。

 神を喜ぶことは私たちの力になります(10節)。主を喜び祝うことこそ、私たちの
力の源です。イスラエルの民は、食べ物を貧しい人と分かち合って主を喜びお祝
いしました。


11月5日聖日礼拝 
説教題
      「再出発」
聖書箇所
  エズラ記9章9〜10、15節
エズラ記はイスラエルの罪からの回復の歴史が記されています。
イスラエルは、バビロンによりついに滅ぼされて、ほとんどの人々がバビロンへ
捉え移さ7ました。紀元前538年にペルシャ王により、イスラエルの民は故郷に
帰ることと神殿を再建することが許されました。

故郷に帰った民が神殿再建(9節)の次に行ったことは、「神との関係の再建
(たてなおし)」でした。15節の悔い改めの祈りは、イスラエルの新しい出発の
しるしでした。新しい生活は、神との関係を立て直す中で始まるべきであることを
告げています。
イスラエルの民は、「神の前に立つことが出来ない罪深い」者であるにも関わ
らず、「あなたの御前におります」と祈っています。これは彼らの信仰告白であり、
彼らの再出発が神の愛によって支えられていることを表わしています。

これを現代の私たちに当てはめますと、まさにイエス・キリストの十字架の血潮
のゆえに、神の裁きから「のがれた者」(15節)です。
この悔い改めによる再出発の恵みは、今やイエス様を通していつでもすべての
人に与えられているのです。


10月29日聖日礼拝 
説教題
   「各器官の調和」
聖書箇所
  Tコリント12章20〜27節
 当時のコリント教会は、内部で分裂していました。そこで神は、使徒パウロの
口を通して、互いにいたわり合い、調和するよう促しています。
 教会をキリストの体にたとえると、キリストをかしらとして信徒一人一人がその
器官となって調和するというのです。

 そこで大切なのが、各器官である私たちが互いに「いたわり合う」(25節)こと
です。各器官が調和し、互いにいたわり合うことが出来るのは、神の愛
(アガペー)によって実現するのです。
 私たちは罪によって愛される資格を失っていましたが、神の愛ゆえにイエス様の
十字架によって買い戻されました。そしてキリストの体である教会の一員に加え
られました。互いに愛し合う関係に入れられたのです。


10月22日聖日伝道礼拝 
説教題
   「新しく生まれる」
聖書箇所
  ヨハネ3章1〜5節
 ニコデモは、ユダヤの最高議会の3人の長の1人で、パリサイ人と呼ばれる
ユダヤ教のエリート集団に属していました。彼は人目を忍んで、「夜」に
イエス様のもとを訪ねたのでした。この「夜」とは彼の心の状態を指しています。
「夜」として示される私たちの虚しさや後ろめたさは、イエス様を通して神と出会う
機会となります。

 イエス様はそんなニコデモに告げます。「人は、新しく(上から)生まれなければ、
神の国を見ることができません」(3節) 神の国(神のご支配)を日常生活で体験
するには、神によって上から生まれなければならないのです。すると、神に祝福
された生涯に入ることが出来るのです。

 それではなぜ人は新しく生まれないと神の国(ご支配)を経験することができない
のでしょうか。それは私たち人間が徹底的に神の前に罪深いからです。根本的に
上から、つまり神から新しく内側から作り変えてもらわないとどうにもならないのです。
 ですから、「水と御霊」(5節)に表わされる、悔い改めと刷新が必要です。罪を
悔い改めてきよめられ、聖霊による新しい命に生かされます。


10月15日聖日礼拝 
説教題
   「本当の祝福とは」
聖書箇所
  U歴代誌9章1〜4節
 ソロモンとは「平和」という意味で、彼はイスラエルの3代目の王となりました。
彼は初期の頃は、神を畏れ、民を正しく裁くために神に知恵を求め、良い政治を
おこなうよう努力しました。シェバの女王は、ソロモンの名声を耳にし、はるばる
エルサレムまでやって来て、莫大な香料と宝石とをソロモンに贈り届けました。
彼女がソロモンの知恵を求めた熱心さをイエス様は賞賛しています。
(マタイ12:42他)

 栄華を極めたソロモンでしたが、神の目に彼は王としての高い志を失い、
高慢に覆われた姿と映ったのです。
(Tサムエル記16:7「人はうわべを見るが、主は心を見る。」)

 ソロモンは、神殿や王宮の建築のため、外国貿易を盛んにしました。軍備を
拡張して国の四方を征服しました。王になるために兄弟の1人を殺し、多くの
人の命を奪いました。
 さらにソロモンは、多くの妻やそばめを囲った豪華な生活の費用をまかなうため、
民に重税を課し、強制労働を行わせました。このことがやがて国の分裂につながる
のです。
 そんなソロモンの晩年は虚しい晩年を迎えたのです。(伝道者12章)

 イエス様はソロモンを引き合いに出し、次のように語っておられます。
「野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような
花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(マタイ6:28〜29)

 ― ソロモンが着飾っている服や宮殿などには命はないが、いま咲いている野の
ゆり(花)には命が満ちている。なぜなら命ある神の創造物だから。そのままで
100%神の目には美しい ―
 野のユリは明日には炉にくべられ燃やされてしまうかも知れません。だけれども
最後まで美しく咲いています。ましてや私たち人間には神の恵みがもっともっと
注がれています。
 神の愛に気づき、神と人とを愛する人生こそ本当の祝福であることを日々学びつつ
歩んで参りたい。


10月8日聖日礼拝 
説教題
   「悲しみの秘密」
聖書箇所
  T歴代誌4章9〜10節
ヤベツの母は、わが子に「悲しみ(ヤベツ)」という名をつけました。神の不思議な
摂理のうちに命名されたのでした。
 そんなヤベツが神にささげた単純で率直な祈り・願いが、彼の人生を変え、
イスラエルの歴史書に永遠の記録を残したのです。

(1)神への素直な信頼と大胆な祈り
 ヤベツは悲しみの中で生まれ、彼にとって一番の重荷は、名前が将来を決定する
と言う事でした。彼はイスラエルの神について聞きながら成長し、新しい始まりを
与えて下さる神に祈ることを学びました。やがて彼は、兄弟の中で最も重んじられ、
母に慰めと喜びを与える者となりました。彼の祈りは次の通りでした。

@「私を大いに祝福し」 素直に神に信頼し、大胆に祈りました。神の本質は祝福
(愛する)することだと悟ったからです。
A「私の地境を広げてくださいますように」 イスラエルの神をもっと世に知らせる
ための影響力や機会を得て、神に栄光を帰するためでした。
神は無限のお方です。自分で限界を設けないことが大切です。
B「御手が私とともにあり」 神の臨在(インマヌエル)こそ祝福の基です。
C「わざわいから遠ざけて…私が苦しむことのないように」 謙遜になって悪の試み
から回避されるように願い求めました。

(2)悲しむ者は幸い
 この悲しみに込められた秘密は、やがてイエス様によって「悲しむ(悔い改める)者は
幸いです。その人たちは慰めら(救わ)れるから」(マタイ5:4)とのメッセージとなって、
現代の私たちにまで届けられたのです。イエス様ご自身が「悲しみの人」(イザヤ53:3)
となって十字架にかかり、私たちの救いを成し遂げて下さったからです。

10月1日聖日礼拝 
説教題
   「放蕩息子のたとえ」
聖書箇所
  ルカ15章11〜24節
@人間本来のあるべき姿は神と共にあること (11〜16節)

「父」(12節)は神様。「弟(次男)」(12節)とは私たち自身のことです。父は弟の求めに
応じ、財産を生前分与します。すると、弟は父との縁を切って財産を手にし、遠い
異邦人の国へ旅立ちました。
 ところがそこで財産を乱費して使い果たすと、誰も助けてくれませんでした。そこで
ある人のもとに身を寄せると、豚の世話をさせられ、まるで奴隷のような扱いを受けます。
これは私たちが父なる神様から離れると、神以外(この世)の奴隷になることを示して
います。

A我に返って心から悔い改める (17〜19、21節)
弟はこの世で頼るべきものをすべて失い、空腹の中で我に返ります。
自分の姿、自分の罪と向き合った時に、本来自分のいるべき「父のところ」(18節)を
思い出したのです。神への信頼と謙遜さが大事であることが示されています。

B父なる神の喜び (20、22〜24節)
父は、弟がみもとを離れている間も変わらず弟を愛し、帰りを今か今かと待っていました。
これは、父なる神にとって放蕩息子が悔い改めて帰って来るのは、まるで死んでいたのが
生き返ったような喜びだと示しています。

イエス様は私たちを父なる神に立ち帰らせるために、私たちの身代わりに十字架で死なれ、
死から復活されたことによって信じる私たちに永遠のいのちを与えて下さったのです。
「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」(ルカ15:10)

9月24日聖日伝道礼拝 
説教題
   「イエス様の招き」
聖書箇所
  マルコ2章14〜17節
故・日野原重明医師は「人間というものは色々な病気の遺伝子を持っている。だから、
全くの健康人なんていない」と言われました。同じように全ての人が生まれながらに"罪"
という魂の病気にかかっています。そこでイエス様はこの魂の病気を治し、永遠のいのちを
与えるために今日も全世界中の人々を聖書のみことばを通して招いておられます。
 
収税所に座っていた取税人レビ(マタイ)は、世間からの差別と自分が行って来た法外な
税金集めのことで心は暗くなり、喜びを失っていました。イエス様は彼の心を見抜かれ
「わたしに従って来なさい」(14節)と招かれました。すると彼は「立ち上がって従った」
のでした。彼はイエス様の12弟子の一人となり、マタイによる福音書を書いたと言われて
います。彼のように立ち上がって、つまり心を方向転換してイエス様に従って行くと、愛なる
神に出会うのです。

イエス様は罪びとの中から弟子を選んだだけではなく、積極的に彼らと交わりを持たれた。
その象徴が彼らと一緒に食事をすることでした。それは彼らと共に生きることを表わして
いました。イエス様は「罪人(つみびと)」だと差別されている人々の中に真実を見、逆に
自らは義人であると言いながら他人を差別している者たちの中に偽善の罪を認められました。

イエス様は言われました。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは
正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17節) 人は病気になった時に
医者が必要です。同じように、自分は清くない者だ、罪人なのだと気が付いた人がイエス・
キリストを必要としているのです。
イエス様は罪人を招き、その愛のゆえに罪人と共にいて下さる。罪人が医者を必要とする
ように、罪人はイエス・キリストを必要とします。なぜならイエス様は魂の医者であるからです。

9月17日聖日礼拝 
説教題
   「上よりの知恵」
聖書箇所
  U列王記5書15〜19節
当時、イスラエルの隣国にアラムという国がありました。その将軍ナアマンは重い皮膚病に
かかり、その癒しのためイスラエルに出かけて行きました。彼は預言者エリシャの言葉に従
い、ヨルダン川で7たび身を浸すと癒されました。彼はこの出来事を通して「私は今、イスラ
エルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました」(15節)、「しもべはこれからは
もう、ほかの神々に全焼のいけにえや、その他のいけにえをささげず、ただ主にのみささげま
すから」(17節)と告白しています。

さらにナアマンは「どうか、主がこのことをしもべにお許しくださいますように…」(18節)と続け
ます。故郷のアラムに戻れば自分は将軍として主君であるアラム王に仕えねばならない。ア
ラムではリモンの神殿で宗教的な儀式が行われるので、自分は立場上多くの補佐的な役割
を努めなければならない、というわけです。
特に王が神殿で拝む時にこの自分の腕によりかかる。立場上、自分も神殿で身をかがめる
が、それは決してリモンの神を拝むためではない、と言っています。これは彼が考え出した言
葉ではなく、上から(神から)与えられた知恵であり、異教世界で生きていくクリスチャンにとって
の知恵です。

それに対し、預言者エリシャはナアマンに言います。「安心して行きなさい。」(19節) エリシャは
言葉だけではなく、神の恵みがナアマンにあるよう祈りを込めて言ったのです。人が不安に思
う時、友が言葉に出して言ってくれることはとても大事です。これは"横"の関係です。

 神は上から「平安」を与え、横からは「安心」を与えます。イエス様は神として「あなたがたに
わたしの平安を与えます」(ヨハネ14:27)と言われ、人としては「安心して行きなさい。」(ルカ7:50
他)と言われたのです。

9月10日聖日礼拝 
説教題
   「まことの友」
聖書箇所
  Uサムエル12書1〜7節
ダビデは部下のウリヤの妻バテ・シェバを強奪し、その罪を隠蔽しようとウリヤを激戦地に
送って戦死させました。しかし、ダビデは昼も夜も罪の罪責感に苦しみ、暗黒の日々を送っ
ていました。
 そこへ神から預言者ナタンが遣わされ、たとえを語ります。ある貧しい人が一頭の雌の子
羊を大事に飼っていたが、富める人がこの貧しい人の飼っていた子羊を取り上げて調理し
てしまったというのです。
ダビデはこのたとえ話を聞いて正義感に駆られて非常に怒り、「そんなことをした男は死刑
だ…」(5〜6節)と言いました。私たちは人の罪には厳しいが、自分の罪には鈍感です。

それに対しナタンは「あなたがその男です」(7節)と直言し、面と向かってダビデの罪を示し
たのです。ダビデは、このナタンの直言によって罪を悔い改め、人生の危機から救われた
のです。罪が分かっていながら、陰で批判する人は多くいても、面と向かって直言し、悔い
改めを勧める人は稀です。
しかし、そのような人こそ神の人(神の遣わしたもう人物)であり、一生涯のまことの友です。
まことの友がいてくれたことによって、私たちはどれだけ助けられ、転落の危機から救われ
るでしょうか。究極的には、イエス様が私たち一人一人のまことの友です。イエス様は、私
たちを「友」(ヨハネ15:15)と呼び、罪を身代わりに背負って十字架で死んで下さいました。

〇まことの友を大切にする    友の直言は本当にありがたい
〇まことの友は備えられている  どこへ行っても神が備えて下さる
〇自分自身がまことの友となる  相手を思い、時を逃さず一言を

9月3日聖日礼拝 
説教題
   「心をご覧になられる主」
聖書箇所
 Tサムエル16書6〜7節 
預言者サムエルは、イスラエルの国で新しく王様が選ばれる時にその人の頭に油を注ぐ役目が
ありました。イスラエルの最初の王はサウルでした。民の要求に応えて、外見が美しく身長も肩一
つ高いサウルが選ばれました。しかし彼は「主のことばを退け」早々に失敗したのです。

神はサムエルにベツレヘムのエッサイと言う人のところへ行くよう命じ、その子供たちの中に新し
い王様となる人がいると言われました。サムエルは一番上の子エリアブを見た時に「この人こそ、
神がお選びになった人だ」と思いました。ところが神は違うと言われました。末子のダビデが、サウ
ル王の後継者と選ばれたのです。ダビデは当時15歳くらいの紅顔の背の低い少年でした。
「人はうわべを見るが、主は心を見る」(7節)。神が王を選ぶ基準は「心」なのです。この「見る」の
原意は、「矢を放つ(ヤーラー)」で、「心を射抜く」という意味。神は心を見抜いておられる、という
のです。

ダビデはやがて王となり、立派な仕事もしました。しかし、時に過ちや失敗を犯しました。サウルと
違うところは、神の助けを信じて素直に罪を告白し、悔い改めて神の御言葉に聞き従おうとしたと
ころです。
「自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受け
る。」(箴言28:13)

サウルは最初の内は良かったのですが、途中で主を求めることをせず転落してしまいました。しか
し、ダビデは数々の過ちにも関わらず、素直な心で一生涯、主を求め続けたのです。
「主よ。あなたがもし、不義に目を留められるなら、主よ、だれが御前に立ちえましょう。しかし、あな
たが赦してくださるからこそあなたは人に恐れられます。」(詩篇130:3〜4)
これはイエス様の十字架による罪の赦しへと通じる告白です。

8月27日聖日伝道礼拝 
説教題
   「信仰の手がかり」
聖書箇所
  へブル書11章1節
「信仰」とは文字通りには「信じて、仰ぐこと」ですが、もう少し詳しくは「目に見えないものが真実
であると保証し、期待しているものがすでに現実だと確信する」ことです。まるで映像のように現
実のものとして先取りして受け取ることを示します。
 
心から信じるものがある人は幸いです。どんな時も迷うことなく、希望を失うことなく、くじけること
なく進むことが出来るからです。
しかし、何でも信じれば良いのではありません。いたずらに信じるのは、迷信とか盲信と形容さ
れ、人を危険と不幸に陥れるのです。人が何かを信じるには手掛かりが必要なのです。

それでは、イエス様を信じるにはどんな手掛かりが必要でしょうか。
イエス様を信じる手掛かりは、次の2つの事実(に基づくもの)です。

@イエス様が私の罪のために死んで下さったという、イエス様の事実
A私には罪があるという、私の事実

この2つの事実によって、イエス様と私とが結びつくのです。イエス様を自分の罪からの救い主
と信じると、罪の赦しと永遠のいのちが即座に与えられるのです。

 ある若い人が牧師のもとを訪れ、持てる知識をもって質問攻めにしたそうです。ついに牧師が
返答できなくなり、その人は帰ろうとしました。その時、牧師が「君にへりくだりの心があったなら
ばなぁ」とつぶやきました。すると「へりくだり」という言葉が彼の心を捉えました。彼は自分には
へりくだりがない、つまり神の前に高慢であることを示されました。彼はそこから真剣にイエス様
の救いを求め始め、イエス様の十字架が自分の罪の救いのためであったことと、自分には罪が
あることを明確に信じ、やがて立派なクリスチャンになったのです。

8月20日聖日礼拝 
説教題
   「とどまる」幸い 
聖書箇所
  Tヨハネ2章24〜29節
「今は終わりの時です」(18)と記されています。今から2千年ほど前にも「今は終わりの時」と
思わざるを得ない混沌とした世の中であり、哲学、思想、イエス・キリストの福音を混合しよう
とする動きもありました。その1つにグノーシス主義が諸教会を分裂させていたのです。そこ
でヨハネは「私たちの喜びが全きものとなる」(1:3,4)、「罪を犯さないようになる」(2:1)、「永遠
のいのちを持っていること…をよくわからせる」(5:13)ことを目的に、この手紙を書きました。
そして真のキリスト者の生活の健全な姿を提示し、そこにある救い、真理こそが、偽りの教え
に対する最善の解答であると信じたのです。ですからこの手紙には。父なる神、御子なるイエ
ス、真理に導く聖霊が何度も明確に記されています。今の時代も、私たちを分裂させようと多く
の偽預言者、半キリストが数多くあり、活動を広げています。あまりの多さに肩を落としてしま
いますが、しっかりとこの手紙を読み、今自分が何をなすべきなのかを捉えていきたいと思い
ます。
@福音にとどまる(24,25)
「初めから聞いたこと」とは、福音の基本メッセージです。福音は私
たちを滅びより救うための、イエス・キリストを通して現わされた神の全き救いであり、神のこと
ばです。この福音から離れてしまっては、様々な教えに揺らいでしまうのです。ですから常に神
のことばを聞いて「御子および御父のうちにとどまる」、交わりを継続させること。その交わりが
「永遠のいのち」として、私たちの生きる原動力となるのです。
A教師である聖霊に導かれる(27)
私たちを福音から引き離し、滅びへと向かわせようとする偽預言者、
半キリスなど「惑わそうとする人たち」(26)は、巧みに神のことばをも用いて挑んできます。その
中で私たちがなすべきこと、それは教師である聖霊に導かれる、ことです。導かれる、とは聖
霊が福音を思い起こさせ、真理へと導いて下さるのですから、私たちは信じて従うのです。そこ
に私たちの「信仰生活」が始まっていくのです。

 私たちが、この世にあって信仰生活を常に続けていく時、主の「来臨のときに、御前で恥じ入
るということのない」(28)結果となり、私たちの全き喜びとつながるのです。ハレルヤ!!

8月13日聖日礼拝 
説教題
    「神との平和」
聖書箇所
  ローマ5章1節
@私たち個人のうちに平和が保たれること
「信仰によって義と認められた私たちは」

聖書には、神が最初に造られた人間であるアダムとその妻エバが罪を犯し、それ以来神と
人間の間には罪という隔たりが出来てしまったと書かれています。人は罪ゆえに神の敵とな
り、怒りを受ける者となりました。この罪の隔たりを取り除くために神はご自分のひとり子イエ
ス・キリストをこの世に送り、すべての人の罪を償うために十字架にかけられました。この事
実を信じる人は誰でも神と和解することができます。これを「信仰によって義(正しい)と認め
られる」と言っています。その結果、この世の人生を終えた後にも永遠に続くいのちを与えら
れます。

A隣人との間に平和をつくる
「私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています」

 平和は神との和解の結果与えられるものです。罪赦され、神のみもとに帰ることができました。
この平和をイエス・キリストを信じる信仰を通して、持っている(与えられ持ち続けている)のです。
イエス様は「平和をつくる者は幸いです」(マタイ5:9)と言われました。あいさつや会話(交わり)も
心掛けましょう。家庭の中に平和を、隣人や社会との間に平和が実現しますように。
また、神と和解するということは、死んだ後のことだけでなく、その人の人生を根本から変えてしま
う素晴らしい出来事を意味します。それは赦せないと思う人を赦せる力が与えられたり、自分のこ
としか考えられない人が人のことを思いやれるようになることだったりします。

B祈る
 そして神との平和な関係を持っていると、希望を持つことができる(4節)。たしかに困難がある、
患難があるけれども、神にある希望を持って喜んでいる、とあります。この希望は失望に終わる
ことがありません。神にある希望を持って教会や国家の指導者たちのために祈りましょう。(Tテ
モテ2:1、詩篇122篇)
8月6日聖日礼拝 
説教題
    「回復への道すじ」
聖書箇所
  T列王記19章1〜8節
預言者エリヤは、バアルの預言者450人との戦いに勝利しましたが、心身共に疲れていました。
彼は"燃え尽き(スランプ)"に陥っていたのです。そこへアハブ王の妃イゼベルから脅迫の言葉
が届けられます。彼は恐れを覚え、自分の命を保とうと逃げてしまいました。しかも先祖の信仰
者たちと自分を比較し、死を願っています。そんなエリヤを神は回復へと導きます。

1.食べて、飲んで、寝る
 神は御使いを遣わし、エリヤに「起きて、食べなさい」(5節)と命じ、エリヤは「食べ、飲んで、横
になった」(6節)のでした。十分に栄養と休養を取るよう導かれたのです。

2.悩みを打ち明ける
 神は真のカウンセラーです。エリヤの悩みを聞き出されました。エリヤは「ただ私だけが残りま
したが…」(10,14節)と告白しています。大きな使命と共に孤独がそこにありました。

3.一人静まり、神の細き御声を聞く
 エリヤは大風や地震、火を体験しましたが、その中に神はおられませんでした。こうした騒ぎの
後の静けさの中で、神の細き御声を聞いたのです。心が騒いでいては神の細き御声を聞き取る
ことが出来ません。雑踏を避け、一人静まり、神に心を向けることが必要です。

4.必ず仲間(友)が与えられる
 神はまるで孤軍奮闘しているエリヤに、「七千人」(18節)の仲間を残しておくと言われました。
仲間に正しく委ねる(頼る)ことを学ばねばなりませんでした。

5.燃え尽きは成熟への入口
 誰でも燃え尽きの経験をする可能性があります。それは自らの不完全さを悟って砕かれ、生き
方を再調整してより成熟を目指す入口です。決して無駄な経験ではありません。回復への道すじ
は成熟への道すじなのです。

7月30日聖日礼拝 
説教題
    「神と人とに従った人」
聖書箇所
  ルツ記1章8〜18節
姑ナオミは飢餓を避けてモアブに滞在中、夫と2人の息子に先立たれてしまいます。この時代、
女所帯になったことは社会的には絶望的な状況に陥ることを意味していました。そんな時、ユ
ダの故郷ベツレヘムで飢饉の状況が改善したことを聞き、故郷に帰ることを決心しました。

1.ひたすら嫁たち(相手)の幸せを願ったナオミ
ナオミは、未亡人となった2人の嫁:オルパとナオミに対し、実家に帰り再婚するよう勧めます。
ここにひたすら嫁たちの幸せを願うナオミの思いと人格が表われています。ナオミは生活の中
でいつも主なる神を見ていました。

2.神と人とに従うことを選んだルツ
ナオミの言葉を聞き、嫁たちは声を上げて泣きました。弟嫁のオルパは実家へ帰って行きま
したが、兄嫁のルツはナオミについて行くと言いました。「あなたの行かれる所へ私も行き、
あなたの住まれる所に私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。」(16節) 
ルツは結婚前は異教徒でしたが、夫や姑との生活を通し、真の神を信じていたのです。

3.神はいまも永遠の救いの計画を進められる
 ナオミは夫や息子たちを失いましたが、いまや信仰で結ばれた嫁のルツが与えられました。
ルツこそ神からの贈り物であり将来への希望でした。やがてルツはユダヤ人のボアズと結婚
し、その子孫からダビデが誕生します。さらにその子孫としてイエス・キリストが誕生します。こ
こにやがてイエス様の十字架の言葉を聞いて、異邦人も救いに入れられ、神の民となるひな型
を見ることが出来ます。

 ナオミの家庭に神が介在して下さったことにより、「互いに愛し合う」ことが家庭に実現しまし
た。そこから異邦人の嫁が救われました。現代の私たちも遣わされたそれぞれの家庭で、神
と人に従う(仕える)ことが大切です。神は先に救われた私たちを通してその家庭を祝福し、救
いの御業を成して下さるからです。

7月23日聖日伝道礼拝 
説教題
    「終わりから始める」
聖書箇所
  伝道者3章11節,ヨハネ16章33節
「神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし
人は、神の行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。」(伝道3:11)
私たちはそれぞれ考え、判断し、行動して毎日生活しています。しかし、振り返ってそこに神の
みわざを思うと、神がなさったことはすべて最善の時に行なわれ、美しく調和しています。
人は有限なのに、神はこの有限な私たちの心に永遠を思う心を与えられました。世の初めから
終わりまでをよくご存じの神が、私たち人間の限界を悟らせ、終わり(目標)である天国の勝利へ
と目を向けさせます。

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つ
ためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしは
すでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)


これはイエス様が十字架の死を目の前にして弟子たちに語った言葉です。イエス様の勝利は、
私たち一人一人のため。そして私たちに代わっての勝利でした。この後、イエス様は私たちの
罪を背負って十字架にかかられ死なれるが、復活によって死に打ち勝たれました、イエス様は、
罪と死の力をもってこの世の神のようにふるまっている悪魔に打ち勝たれたのです。

イエス様がこの御言葉を語られたのは、私たちも同じ境遇に遭う時に、イエス様にあって平安を
持つためです。いかなる時も父なる神が共におられ、死ねば父なる神のみもとに行けるとの確信
は、私たちに平安を得させます。いざという時に信仰がものを言うのです。私たちもイエス様を信
じ続ける限り、私たちもその勝利に与かることが出来ます。まさに終わり(最終的な勝利・天国)か
ら現在を生きるよう私たちを導いておられます。そこからこの世と戦う勇気が湧いてくるのです。

7月16日聖日礼拝 
説教題
   「クリスチャンとは何者か」
聖書箇所
  Tペテロ2章4〜5、9〜12節
Tペテロの手紙は、ネロ皇帝によるキリスト者迫害下にある教会への励ましの手紙です。
教会にとっては、最初の世界的試練としての「火の試練」であり、また敵を「ほえたける獅
子」と表現するほど敵の勢い、残酷極まりない試練でした。ペテロはどのように励ましたの
でしょうか。ペテロは、まず神から与えられている特権を明確にし、「クリスチャンとは何者
か」を力強く伝えています。
@生ける石とされている(4,5)
「生ける石」はキリストを指し示しています。イエスが人格的存在者であり、死からよみがえ
り、信じる者にいのちを与えて下さるお方だからです。さらにクリスチャン1人1人も「生ける
石」とされ、霊の家:教会で築き上げられる(教会を築くために私たちを用いて下さる)のです。
また、キリスト・イエスのもとに行く時(近づく時)、人をとりなす「祭司」の務めが与えられるの
です。人々を神に導く、また霊のいけにえ(祈り、賛美、感謝、奉仕、自分自身)を神にささ
げる生涯へと歩ませて頂くのです。
A神の民とされる光栄が与えられる(9)
旧約時代、まず神はイスラエルの民を選ばれ、神の救いを実現されて
いきました。「選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民」とこの呼び
名は、すべてイスラエルの民に当てはめられるものです。しかし、主イエス・キリストの十字架
による贖いによって、私たちも神に選ばれた民として、このイスラエルの民の祝福を受け継ぎ、
神の民とされる光栄が与えられるのです。
B福音宣教を委ねられている(9,10)
神に背を向け、神の民でもなく、神のあわれみを受けるにふさわしく
ない者でしたが、「主のもとに」近づき(4)、ただキリストの十字架の血によって救われ「神の民」
「あわれみを受けた者」とされた(10)のです。
それは、私たちがやみの中より、光へと招かれたという神の素晴らしい救いを宣べ伝えるため
です。神は、私たち1人1人に福音宣教を委ねてくださったのです。
 どの様な時にも神が与えて下さった特権を確信し、感謝しつつこの特権に、生きる者とならせ
て頂こうではありませんか。「そうすれば」(12)神に背を向けている人々が、神をほめたたえる
ようになるのです!ハレルヤ!!

7月9日聖日礼拝 
説教題
  「復讐でなく恵みで報いる」
聖書箇所
  士師記16章28〜30節
   ローマ12章19〜21節
サムソンは母の胎内にある時から、神に聖別されたナジル人でした。彼には神の特別な
霊が繰り返し注がれました。彼はイスラエルを20年間導きましたが、その私生活は堕落し
ており、女性に弱かったのです。彼は神の命に反して、自分の力の源が髪の毛に宿った
神の霊であることをデリラに漏らしてしまいます。その結果、彼は髪の毛を剃られて力を
失い、ペリシテ人に捕らえられてしまいます。目をえぐり出され、青銅の足かせをかけら
れ、偶像神殿の柱に立たせて見せ物にされるという悲惨な状況に置かれます。
その時サムソンに信仰が戻り、幼子のような祈りを神にささげます。すると、祈りが聞き
入れられて力が戻り、柱を引くと神殿全体が崩れ落ちました。神はサムソンの失敗と悔い
改めを通して最後に栄光を現わされました。

旧約聖書の主な人物たちはイエス・キリストを指し示していると言われます。サムソンの
生涯から学ぶべきことは、
@ナジル人としての自覚を失い、神から離れて堕落しました。それに対し、イエス様は真
のナジル人であり、生涯救い主としての自覚を持ち続けられました。私たちも救いの自覚
から離れないようにしましょう。
A女性に対する弱さを自覚していなかった。自分は誘惑に強いなどと思わず、誘惑から
遠ざかっているよう心がけましょう。
B賜物の用い方を正しく理解していなかった。賜物は自分の欲徳や復讐のためでなく神
の栄光のため各々に与えられています。
C人に復讐しようとすれば、必ず自身に返って来ます。サムソンは自爆的な結末を迎え
ました。"人を呪わば穴二つ"です。
しかし、イエス様はご自分のためでなく、罪を犯して神に敵対する者となった私たち全人
類のため、罪の身代わりに十字架で死んで下さり救いを成し遂げて下さいました。

以上をローマ12章の光で見れば、神に喜ばれる道は悪に対して神から頂いた恵みで報
いることです。これは私たち生来の復讐感情に反することで、神に従う時に恵みを受けて
はじめて可能になります。
復讐は神がすることで、私たちは善(恵み)をもって悪に打ち勝つよう勧められています。
そうすることで、相手に後悔や悔い改めを促すことになるからです。



 
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