聖日の朝を迎えました。暗い夜が過ぎて、明るい朝を迎えました。新しい一日が始まります。今日はどんな一日になるのでしょうか。ワクワクしますね。星野富弘さん、NHKこころの時代のインタビューでの言葉。「ベットの上で動けないでいる人なんか、面白いことなんか一つもないんじゃないかと思っていました。」「夜、眠れなくて、暗い中、一人で目をパチパチしながら、天井を見て、そんな中でも何か朝が来るのがとっても楽しみなんですよね。・・・ブラインドの隙間から朝の光がずうっと射し込んで来る頃、何かとっても希望が湧いて来るんですよ。やはり朝は嬉しいんですね。」この言葉に至るすぐ前には、「自分で自分の力で、これは生きているんじゃなくて、やはりこれは何か大きなものに動かされている、絶対そうじゃないかなあと思い始めたんですね。」と話され、さらに、このあと「あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。」「野の花、空の鳥を見なさい」というイエス様の言葉に出会ったことを話されています。今日の聖書の個所で、イエスはよみがえり、弟子たちの前に現れました。今回は、ティベリアス湖です。これは、ガリラヤ湖のことです。ペトロと弟子たちは船に乗り込んで漁を始めました。しかし、何も獲れなかった。そこによみがえられたイエスが現れて言われるようにすると、おびただしいたくさんの魚が獲れた。イエスと弟子たちは陸に上がって、一緒に食事をしました。パンと魚をイエスがふるまってくださいました。今日は、この食事が「朝の」食事だったことに注目しています。弟子たちは漁師でしたから、網を投げて魚を獲るのはお得意のことでした。しかし、何もとれないまま。それは、真っ暗な夜のことでした。けれど、4節「既に夜が明けた頃」、つまり明るい朝になってイエスが弟子たちの前に現れました。そして、たくさんの魚が獲れました。ヨハネ福音書の中の「夜」とは。3章では、ユダヤ人の教師ニコデモが夜の闇に隠れてイエスのもとにやって来ました。9章では、イエスは「誰も働くことができない夜が来る。わたしは世にいる間、世の光である」と言われました。11章では、「昼のうちに歩けば、つまづくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまづく。その人の内に、光がないからである」といわれました。そして、13章で、最後の晩餐の時に、イスカリオテのユダが最後の晩餐の部屋から「すぐ出ていった。夜であった。」と意味ありげに書いてあります。夜、それは、イエスへの信仰のない状態、救いがない状態のこと、人間の罪、不信仰が覆う時間です。イエスの弟子たちは、夜通し弟子たちは必死に働いた。けれど、何もとれなかった。その時は、夜だった。しかし、朝を迎えて、イエスが現れ、それでたくさんの魚を得るようになったのです。朝、それは神様の慈しみに溢れる時です。神の救いに溢れ、人間の罪や不信仰が追い払われた時です。神の救い、栄光の光、愛の光に照らされる時です。人の罪、不信仰に邪魔され悩まされ苦しんだ弟子たちが、その労苦を報われ、嬉しい朝を迎えます。すがすがしい朝を迎えるのです。4節「既に夜が明けた頃、イエスが岸に立っておられた」。イエスが、世の光であるイエスが共におられるから、朝が来るのです。弟子たちのために、私たちのために、十字架に苦しまれた方だからこそ、私たちの罪や不信仰をすらありのまま受け止め、憐み慈しんでくださる方だからこそ、慈しみに溢れる朝をもたらしてくださるのです。イエスがおられるなら、悩み苦しみの夜は明けて朝になるのです。私たちの労苦を放っておかれないで、報いてくださるのです。「わたしは漁に行く」と言って、弟子たちは勇んで、意気揚々と出かけたのです。けれど、夜通し悩まされました。この弟子たちを、イエスはご自分が用意された食事に招かれます。「朝の食事をしよう」と招かれます。イエスの招く声は、弟子たちの胸の内に、どれほど嬉しく響いたことでしょうか。イエスが、パンと魚を、弟子たちに与えてくださいました。詩編30編の言葉、苦しみの中から救い出されたことを神様に感謝する言葉です。「5
主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。/6
ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。/泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。」苦しみ悩みの夜は明ける。朝の光の中に、慈しみ深いイエスが共におられる。信じていきたいと思います。
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