日本キリスト教団

20200503 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「イエスから羊へと」
ヨハネによる福音書21章15-12節
  
最近使われだした「人間力」という言葉が気になり、調べたことがあります。人間力とは、「一人の人間として社会の中で生きていく力」のことです。知的能力、人と一緒に働く能力、自己実現へ向けて前向きに取り組む能力などです。このような調べ物をしてみて、人間には、いろんな能力がある、能力と呼ばれていることがあることを知りました。私たち人間とは、一人の人の中で、いろんな能力が混ざり合って、一人ひとりが作られていくのです。持てる力、賜物によって、それぞれの個性的な人生が作られるです。

 イエスは、今日の個所の最後に、ペトロの人生、これからのことについて話されます。イエスは、ペトロの人生を、私たち人間一人ひとりを、どのように見ておられるのでしょうか。どのように関わられるのでしょうか。

 ペトロは、どんな人だったか。直情型、思い付きで行動してしまう性格。イエスが捕らえられても、どこまでもついていきますと、我が身を顧みず豪語したのです。また、弟子の取りまとめ役、一番弟子だったとか。イエスも他の弟子とは異なる関わり方をしていたようです。山の上での変容の場面、ゲッセマネの祈りの時も、ペトロとあと二人の弟子だけを伴いました。しかし、ペトロの大失敗。十字架にかけられるイエスを「知らない」と3度否んだのです。

よみがえられたイエスが現れて、ペトロに「わたしを愛しているか」と3度重ねて問いかけます。ペトロの3度の裏切りの言葉を、「イエスを愛する」という3度の言葉で取り消すのです。さらには、「わたしの羊を飼いなさい」とイエスの羊、イエスを信じる人々を託すのです 。イエスのペトロに対する大きな愛と、期待の大きさを読み取ることができます。

 ペトロは、主であるイエスを知らないと裏切り、弟子として、これ以上してはいけないことをしました。けれど、ペトロは、何よりも大切なこと、「赦される」ということ、「愛される」ということを知りました。ペトロはイエスが「わたしを愛するか」と3度も問いかけるので悲しくなりました。自分の至らなさを思わされ、悔いたのです。けれど、イエスの愛はさらに大きかったのです。自分の罪を思いつつ、愛を知る、赦しを知る。こういう人だから、ペトロはイエスの弟子なのです。

 イエスは、ペトロをずっと信じていました。ペトロは問いかけるイエスに、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えます。ペトロは、悔いるべきことを知り、それを悔いる人でした。イエスは、ペトロがこういう人だと、ちゃんと知っておられたのです。イエスにとり、愛すべき羊ですから。良い羊飼いは、自分の羊を知っていますから。ペトロと同じく、私たち一人ひとりもイエスの羊。イエスがペトロに言われる言葉や思いは、私たちに向けられてもいるのです。

 ペトロは、イエスの愛と赦しを知り、それでペトロの人生は変わりました。果たして、愛されていること、赦されていることを知る、このことはペトロのどんな能力によってなされたのでしょうか。そもそも、私たち人間の持っている力によるのでしょうか。人は能力があるから救われるのでしょうか。神を、愛を信じられるのでしょうか。

これは、神様の私たちへの働きかけによることではないでしょうか。人の力を超えた世界のこと、人の力、能力によるのではなく、神の働きかけによって招かれる、開かれていく世界です。人の能力次第、能力のあるなしではない、救いはすべての人に開かれています。自分自身がどんな賜物、どんな人なのかではない、ただ、私と神様との関り方がどうなのかということです。

 ペトロもいろんな能力を持ち、ペトロらしく生きました。イエスに喜ばれることも、悲しませることもしました。こういうことに加えて、神様との関りの中に、神のみ手の中にあって、ペトロに、私たち一人ひとりに、私たちの想像できないような、素晴らしいことが起こります。イエスは、大切な羊ペトロの人生のあれこれをご存知です。ペトロに、大切な羊たちである私達に言われます。「わたしに従いなさい」と。私たちは、様々な能力を持ち、様々な人生の道を歩みます。成功も失敗もします。そういう私たちにイエスは「わたしに従いなさい」と招かれます。

私たちがイエスに従って生きたならば、どんな素晴らしい力をもって生きるよりも、生きるに値する祝福された歩みなのだと信じます。私たちがイエスに従って生きたならば、大きな失敗をしても、生きるに足る素晴らしい人生なのだと信じます。

 
   
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