礼拝説教要約 「自由になったのだから」
ガラテヤの信徒への手紙5章13-18節
使徒パウロの伝道によって、ガラテヤの教会が生み出されました。残念なことに、パウロはこのガラテヤの教会の人々に手紙を書かねばならなくなりました。パウロの語った福音を捨てて、救いの道から外れてしまっているという知らせが、パウロの耳に届いたのです。パウロの去った後、他の伝道者がやってきて、パウロが語ったことは間違いで、本当は律法を守ることが救いになるのだと教えたのです。信じるだけでなく、戒めの一つ一つを守ることを「行う」ことが大切だというのです。では、「行う」とは?自分の体を動かして、言われている通りに行動するのです。そうすると、実際にできる人できない人が区別され、できる人は優越感に浸り、できない人を見下し、人を見れば競争し、比べ合い、裁き合うようになる。15節のパウロの指摘すること、お互いにかみ合い、共食いするという状態なのです。教会の交わりの中で、兄弟姉妹が、いがみ合い、敵意を向け合い、競争し合う。悲しいことです。挙句に、自分自身を、兄弟姉妹を、交わり自体を滅ぼしていくことにならないかと、パウロは警告しています。パウロは、私たちがキリストを信じて救われることを「自由になる」ことだという言い方をします。パウロは、律法を熱心に守るユダヤ人でしたが律法を捨てました。律法によって救われないと悟り、むしろ、律法を守ることが人を律法に隷属させ、人を不自由にさせるていると気づいたのです。キリストを信じることで、律法から解放され、自由になったのです。こういう経緯で、パウロは福音を信じて救いを得ることを「自由を得る」「自由になる」という言い方をします。
そもそも律法を守るのはどうしてか。自分自身のことを思っているからです。自分が救われるようにしたいので、人は律法を守るのです。律法は、人に自己愛、自己中心な思いを掻き立てるのです。律法は人々を自己愛、欲望の虜にしてしまうのです。自由な状態ではありません。今日の個所では、自己中心のことを「肉の欲」と言っています。
ガラテヤの信徒たちは、ユダヤ人ではありませんから、もともと律法は知りませんでした。彼らは、キリストを信じて自己中心の思い、生き方を捨てて自由になったのです。それなのに、なのです。それなのに今さらどうして律法なのか、不自由に戻ろうとするのだろうかと、パウロは嘆き警告しているのです。
初めの人間・アダムは蛇に唆されて、禁断の木の実を食べました。自分にとって良いことだと思った、自己愛の虜になったのです。私たち人間は、神様を忘れて、自分中心な存在であるということを物語っています。自分中心という思いから自由になって、互いに平和に幸せに生きられるようにします。神の霊が私たちに働いているから、これからも、今まで通りに、神様に心を向けて、神様を信じていきましょうと勧めています。
神様は、すべてを支配しておられます。これほどに偉大で力強く素晴らしい神様が、私を愛してくださっているということを知ったならば、自分で一生懸命になって自分を愛さなければならない、そんなことは全くなくなるはずです。神の愛が示されたのです。もう、律法を守ることは必要ではないのです。私たちは、ただ一つ、神様が愛していると信じていればよいのです。これが、自由なのです。愛されていないという不安、自分で何とかしないといけないと怯えること、人よりもできなければならないと脅かされること、こういうことから私たちは既に解放されている、自由になっているのです。ヨハネの手紙Ⅰ 4章「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」。
ルカ福音書11:24「汚れた霊が戻ってくる」というイエスのたとえ話があります。救われて心が清められたのに、汚れた霊が戻って来て心がいっぱいになってしまう。自分の力に頼るようになり、自己中心の思いに駆られるようになる。心を空っぽにしているから、汚れた霊が戻って来る。そうならないために、私たちの心を神の御心で満たすようにしようというのです。
宗教とは束縛である、という人がいるようです。信仰を持つということはどういうことかと振り返らせてくれます。しかし、そういう人の言う束縛とは、親の言うことに従う以外にない子どものように、「渋々、従いたくないのに従わなければならない、自分にとって嫌なことをするということ」なのではないでしょうか。けれども、宗教に入信した人で、自分に嫌なことをしている人はいますか?
自分の気持ちで、自分がこれをしたい、だからやっているんだ。これが本当の信仰、信仰生活です。自分から、自発的に、動く。行う。この喜び、これが救い、自由なのだと思います。私たちは神様を大切にする気持ち、愛する気持ちをいっぱい持つと、自由になれる。生き生きと信仰生活ができるのです。(そのはずです。私たち、アダムの子どもたちには難しいことなのですが。)
宗教、信仰は、決して束縛ではありません。神様は私たちを愛してくださっている。このことを信じて、神様の愛に応える、この喜びに生きることです。神を愛し、人を愛することです。神の愛で、一切の恐れから解き放たれることです。自由になることです。
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