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                 パウロは、ユダヤ人だけでなく、異邦人も救われると説いていた。これがユダ ヤ人の怒りを買った。ある日、エルサレムの神殿で神様に祈りを捧げようとした。 すると、ユダヤ人たちがパウロを捕らえ大騒ぎになった。今、パウロはローマの 囚人となり、ユダヤの大祭司はパウロがいかに危険な人物であるか訴えている。 
               
              パウロは、裁判の場面で自分の身の潔白を訴える。自分を訴えているユダヤ人 と同じように、ユダヤの神を礼拝している、ユダヤの律法や預言書を尊んでいる、
              旧約聖書を尊んでいると言い、復活の希望を抱いていると言う。  
               
              ユダヤ教では、ファリサイ派という人たちは正しい人の復活を信じていまし た。それで、ユダヤ人の前で身の潔白を主張するときに、パウロが私も復活を信
              じているということは、ファリサイ派の人にはある程度は説得力がありました 
               
              私は、パウロが自分のことを理解してもらおうとして、私は復活を希望として いると言っていることに大きな示唆を与えられます。私達は、もしも自分のこと
              を人に理解してもらおうとしたら、どうしますか。何を言いますか。人生を記録 した履歴書と今の病状を記録したカルテ、そこに書いてあることだけが私だろ
              うか、と思います。パウロは、自分をめぐる事実だけを言ったのではありません。 自分が抱いている希望とは、これですよと言ったのです。つまり、パウロが言う
              ように、私たちはそれぞれに心に秘めた思いがある、目に見えない思い、気持ち をもって生きている。わたしとはだれか、どんな人か、それは、私が今何を希望
              としているのか、これが私を他の人と区別するポイントです。  
               
              では、私(私達)の希望って何なのでしょうか。皆、人の子ですから、人から 良く言われたいです。お金がないよりあったほうが良いですからお金持ちにな りたいです。問題のない心配のない安らかな日々を送りたいですし、つつがなく 過ごしたいと思います。多くの人がそう思っているのではないでしょうか。  
               
              けれども、ですよ。それがもし、たやすいことではないとしたらどうしましょ うか。すぐにあきらめましょうか。やけっぱちを起こしましょうか。こんな世の 中に生まれてきたことを恨みましょうか 
               
              いやいや、すぐにではなくても、根気強くかなえていこう、取り組んでいこう とするのが前向きな考え方でしょう。その時、復活、よみがえりの気持ちを持っ
              ているかどうか、いつでもだれでもやり直せるのだと信じているかどうか、ここ が肝心なところでしょう。もしも、本当にこの世ではかなわないことだと心底から思ったなら、この世を去ってから神の身元に行って幸せに生きてくこと、本気
              で復活を望みとしましょう。  
               
              人から良く言われたい、お金持ちになりたい、安らかな日々を送りたい、つつ がなく過ごしたいと、多くの人が思っているでしょう。けれども、それは、多く
              の場合たやすいことではないのです。つつがなく生きているのは、それは大変な こと、一人ひとりの努力のなせることです。何気ない普段の生活の中に、お互い
              どこかで我慢したり、譲ったり、気を使ったり、色々見えない努力があるものだ と思います。 
               
              そして、幸せになりたいけど、それはたやすいことではない、そういう経験を することを通して、私たちは、自分中心の思い、人の思いだけで生きていたら気 が付かないことをいろいろ気が付かされでしょう。例えば、弱くても小さくても、 独りぼっちでも、そういうことには尊い何かが秘められているのです。神の計ら いは隠されているのです。もう駄目だと思う時にも、慈しみ深い神様は、復活の 命に招いてくださいます。どんな人も大切です、愛されているのです。どんな人 生も生きる価値はあるのだと信じています。詩編118「22 家を建てる者の退 けた石が/隅の親石となった。」このことに頷くなら、復活を希望としているの だと思います。  
               
              人それぞれに、人の数だけ広いろな希望を抱いていることでしょう。でも、何 を希望し期待しているとしても、どういう心構えなのかということをパウロは
              言っているのだと思います。「正しい人も正しくない人もやがて復活する」、これ が希望だと、パウロは言います。正しい人も正しくない人も、ユダヤ人も異邦人
              も、みんな復活に与ることができる。神様に愛され顧みられ、永遠の命に生かさ れる。とても素晴らしいことだと、改めて思います。十字架の意味、意義の深さ
              大きさを改めて思わされます。自分がクリスチャンだということのために、復活 を信じていると言った、この他にどんな言い方があるでしょうか。復活を信じて
              いる、正しい人も正しくない人も復活する、この一言に私たちの信仰、希望が詰 め込まれているように思います。 
               
              私達は毎日毎日、お互いを紹介し合うことはしませんけれども、お互いに心を 尋ね合うこと、家族でも同僚でも、そのことをする意味は大きいことだろうと思 います。私達は毎週礼拝をします。今この時の思い、神様の前に確かめていきま しょう。信じていること、希望、期待していること。神様の前で自分自身を確か めながら歩んでいける、これはクリスチャンの恵みではないかと思います。  
               
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