日本キリスト教団

20200719 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「パウロの希望」
使徒言行録24章10-21節

  パウロは、ユダヤ人だけでなく、異邦人も救われると説いていた。これがユダ ヤ人の怒りを買った。ある日、エルサレムの神殿で神様に祈りを捧げようとした。 すると、ユダヤ人たちがパウロを捕らえ大騒ぎになった。今、パウロはローマの 囚人となり、ユダヤの大祭司はパウロがいかに危険な人物であるか訴えている。

パウロは、裁判の場面で自分の身の潔白を訴える。自分を訴えているユダヤ人 と同じように、ユダヤの神を礼拝している、ユダヤの律法や預言書を尊んでいる、 旧約聖書を尊んでいると言い、復活の希望を抱いていると言う。

ユダヤ教では、ファリサイ派という人たちは正しい人の復活を信じていまし た。それで、ユダヤ人の前で身の潔白を主張するときに、パウロが私も復活を信 じているということは、ファリサイ派の人にはある程度は説得力がありました

私は、パウロが自分のことを理解してもらおうとして、私は復活を希望として いると言っていることに大きな示唆を与えられます。私達は、もしも自分のこと を人に理解してもらおうとしたら、どうしますか。何を言いますか。人生を記録 した履歴書と今の病状を記録したカルテ、そこに書いてあることだけが私だろ うか、と思います。パウロは、自分をめぐる事実だけを言ったのではありません。 自分が抱いている希望とは、これですよと言ったのです。つまり、パウロが言う ように、私たちはそれぞれに心に秘めた思いがある、目に見えない思い、気持ち をもって生きている。わたしとはだれか、どんな人か、それは、私が今何を希望 としているのか、これが私を他の人と区別するポイントです。

では、私(私達)の希望って何なのでしょうか。皆、人の子ですから、人から 良く言われたいです。お金がないよりあったほうが良いですからお金持ちにな りたいです。問題のない心配のない安らかな日々を送りたいですし、つつがなく 過ごしたいと思います。多くの人がそう思っているのではないでしょうか。

けれども、ですよ。それがもし、たやすいことではないとしたらどうしましょ うか。すぐにあきらめましょうか。やけっぱちを起こしましょうか。こんな世の 中に生まれてきたことを恨みましょうか

いやいや、すぐにではなくても、根気強くかなえていこう、取り組んでいこう とするのが前向きな考え方でしょう。その時、復活、よみがえりの気持ちを持っ ているかどうか、いつでもだれでもやり直せるのだと信じているかどうか、ここ が肝心なところでしょう。もしも、本当にこの世ではかなわないことだと心底から思ったなら、この世を去ってから神の身元に行って幸せに生きてくこと、本気 で復活を望みとしましょう。

人から良く言われたい、お金持ちになりたい、安らかな日々を送りたい、つつ がなく過ごしたいと、多くの人が思っているでしょう。けれども、それは、多く の場合たやすいことではないのです。つつがなく生きているのは、それは大変な こと、一人ひとりの努力のなせることです。何気ない普段の生活の中に、お互い どこかで我慢したり、譲ったり、気を使ったり、色々見えない努力があるものだ と思います。

そして、幸せになりたいけど、それはたやすいことではない、そういう経験を することを通して、私たちは、自分中心の思い、人の思いだけで生きていたら気 が付かないことをいろいろ気が付かされでしょう。例えば、弱くても小さくても、 独りぼっちでも、そういうことには尊い何かが秘められているのです。神の計ら いは隠されているのです。もう駄目だと思う時にも、慈しみ深い神様は、復活の 命に招いてくださいます。どんな人も大切です、愛されているのです。どんな人 生も生きる価値はあるのだと信じています。詩編118「22 家を建てる者の退 けた石が/隅の親石となった。」このことに頷くなら、復活を希望としているの だと思います。

人それぞれに、人の数だけ広いろな希望を抱いていることでしょう。でも、何 を希望し期待しているとしても、どういう心構えなのかということをパウロは 言っているのだと思います。「正しい人も正しくない人もやがて復活する」、これ が希望だと、パウロは言います。正しい人も正しくない人も、ユダヤ人も異邦人 も、みんな復活に与ることができる。神様に愛され顧みられ、永遠の命に生かさ れる。とても素晴らしいことだと、改めて思います。十字架の意味、意義の深さ 大きさを改めて思わされます。自分がクリスチャンだということのために、復活 を信じていると言った、この他にどんな言い方があるでしょうか。復活を信じて いる、正しい人も正しくない人も復活する、この一言に私たちの信仰、希望が詰 め込まれているように思います。

私達は毎日毎日、お互いを紹介し合うことはしませんけれども、お互いに心を 尋ね合うこと、家族でも同僚でも、そのことをする意味は大きいことだろうと思 います。私達は毎週礼拝をします。今この時の思い、神様の前に確かめていきま しょう。信じていること、希望、期待していること。神様の前で自分自身を確か めながら歩んでいける、これはクリスチャンの恵みではないかと思います。
 
   
 愛隣こども園
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