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                 神の民ユダヤの民は、戦争に負けた国の民と見下され、異国の地で苦しい境遇 にありました。しかし、神は、苦しみから解き放つのだと、預言者イザヤによっ
              て語り始められました。 
               
                神を疑い、救いを諦めていたかもしれない。惨めな存在だと思わされ、自分た ちの哀れさ加減を嘆き、肩の力を失ってうなだれていたかもしれない。けれど、
              世の人々に惨めに見える民であっても、神の慈しみが向けられています。  
               
               預言者ダニエルは有能な少年だったので、バビロンの王様に目をかけられて 宮廷の役人に取り立てられました。その時、ダニエルという名前を捨てさせられ
              たのです。バビロニアの名前ベルテシャツァルと名乗るように命じられました。 
               
                名前を変える、名前を捨てる奪われる。とても辛い経験だったと思います。ユ ダヤの民はこういうことを経験していたのです。しかし、この箇所では神様は、
              一人ひとりが生まれた時につけてもらった本当の名前、自分の名前で呼ぶと言 われています。  
               
               昭和の詩人・三好達治は、母親の面影を追い続ける詩人でした。母親への思い を歌う詩一つ、「わが名をよびてたまはれ」という詩には、亡き母に幼い頃の名
              で呼んでほしいと歌っています。「いとけなき日のよび名もて/ わが名をよびて たまわれ/ あはれいまひとたび/ わがいとけなき日の名を/ よびてたまはれ」
              (以下、省略)人生の辛苦も知らないあどけない日々の名前は、亡き母との絆を 思い出させ、それが生きる力の源とするというのです。  
               
               皆さんは、誰かに自分の名前を呼んでほしいと思う時はありませんか。私のこ とを覚えていてほしい、独りにしないでほしいと思ったことはありませんか。 
               
                イザヤ書43章1節「わたしはあなたの名を呼ぶ」という神の民に対する神の 言葉には、神様の愛が詰まっています。神の民は、神の民と呼ばれるにふさわし い模範的な民ではなかった。しかし、神様の本心は、愛です。どれほど民が不完 全であっても、罪深くても、決して忘れることはできないのです。「わたしはあ なたの名を呼ぶ」という言葉に、神の溢れるばかりの慈しみが込められています。  
               
               イエスは、放蕩息子のたとえを話されました。父に背いて家を出た息子を、父 はずっと門の前で息子の帰りを待ち続けていました。父親の息子への思いの深 さが知られます。心の中で息子の名を呼びながらだったでしょう。  
               
               また、イエスは、ヨハネ福音書10章の羊飼いのたとえで、毎朝羊飼いは自分 の羊の名を呼んで牧場に連れ出すという話をなさいました。  
               
               ヨハネ福音書 10:3「(羊小屋の)門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞 き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。・・・羊はその声を知って いるので、ついて行く。」  
               
               放蕩息子の父が子の名を呼ぶ。羊飼いが羊の名を呼ぶ。もちろん、自分の名前 を呼んでもらえる喜び、暖かい思いを向けてもらっている喜びがあります。そし て、思いを向ける人の名前を呼ぶことのできる喜びがあります。 
               
                旧約聖書「哀歌」3:22「主の慈しみは決して絶えない。主の憐れみは決し て尽きない。それは朝ごとに新たになる。」神様は朝毎に、羊飼いのように私た
              ち一人一人の名前を呼んでくださっています。 
               
                私達がここにいる、だから神様は私たちの名を呼んでくださる。名を呼ぶ、一 人ひとりの存在を知り、一人ひとりのことをしっかり受け止めてくださり、どん な人にでも温かい思いを一人ひとりに向けてくださるのです。それは、名前を呼 ぶ神様にとって喜ばしいことだし、名前を呼ばれる私たちにとっても嬉しいこ とです。  
               
               私たちは神様に名を呼ばれる大切な存在、慈しみを受ける者であることを覚 えていましょう。 
               
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