パウロは、コリントの教会の信徒に、聖餐式を信仰的な意味を表すような仕方 で行いましょうと勧めています。聖餐式は、もともとは「主の晩餐」と呼んで、
礼拝とは別に行っていました。日曜日の夕方、(日曜日は安息日、礼拝の日。一 日は日が暮れる時、夕方から始まる。)信徒たちは礼拝のために教会に集まりま
す。料理を持ち寄ります。思い思いに分かち合うのです。そして、聖餐。イエス の十字架を思い出してパンとブドウ酒をいただきます。これが、初めの教会の聖
餐式でした。共に集まり食事をして、皆、同じ主のもとに兄弟姉妹であることを 覚えます。誰も漏れることなく、どの人にも神の恵みがあり分かち合う。こうし
て神様の愛に与ります。
食事の席に着く人すべてに神様からの恵み、愛のしるしである食事が用意さ れているべきです。けれども、コリントの教会では、それができていなかったの です。コリントの教会の人たちは、食事の席に着いた人から食べ始めてしまった ようです。後から来る人を待つことをしなかった。神様の愛を覚える食事の席で なされるべきことではありません。神の愛を覚える時に、自己中心の思いが優先 している。神の愛が現わされるべき時に、人の欲や罪が幅を利かせてしまってい る。これは、言行不一致と言えるでしょう。
パウロは、ユダヤ教徒だった時、自分が言行不一致であることを悩みました。 ローマ 7:15「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むこと
は実行せず、かえって憎んでいることをするからです。」19「わたしは自分の望 む善は行わず、望まない悪を行っている。」そこで、パウロに見えてきたことは、
律法、行うべきことをなそうとしていながらなすことができない私は、自分がで きていないことを弁えつつ、自覚しつつ、神の愛、キリストの赦しに与って、ど
うにか救われる者なのだ。行うべきことを行って救われるのではない。行うべき ことを行えないことを赦されて救われるのだ。つまり、言行一致しているから救
われるのではない。むしろ、言行不一致を赦されて救われるのだ。これがパウロ が見出した福音です。
私達は多くの場合、自分の言行一致しているかどうかを問いません。多くの場 合、言行一致しているかどうかは振り返ることなく、曖昧なところでやり過ごし
てしまうものです。アフガニスタンに用水路を引いた医者、中村 哲さんの働き をまとめた本『天、共にあり』を手に取りました。本の帯に「道で倒れている人
がいたら、手を差し伸べる。それは普通のことです。」いや、私には容易くはで きない。私は自分ができていないことを、改めて気が付かせられました。
コリントの教会にとって、今、一番必要なこと。お互いのことを大切に思い、 愛する心を持つこと。パウロの指示のように、家を出る前から、教会の人たちの
ことを心にとめること。パウロにとって一番の問題は、コリント教会の言行不一 致ではない。コリント教会に必要なものは、愛です。一人一人が私は、神様に愛
され赦されている私であるという自覚です。この思いを持ち、他の人に目を向け 心を開くことです。このことは、聖餐式一つだけのことでなく、コリント教会が
神様の愛、恵みを多くの人々に現わす器となるために心がけるべきことです。
兄弟姉妹への愛が欠けている人がいたのは、グノーシスといって、神様、救い について、他の人たちよりも、よく知っているのだと自慢し、そうでない人たち を見下し軽んじていたのかもしれません。それで、人への関心が薄く、思いが少 なくなったのでしょう。Ⅰコリント8:1「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り 上げる。」これが、パウロがコリント教会に向ける思いの、一番中心にある思い です。キリストの名による教会にふさわしい在り方を取り戻す方法、それは兄弟 姉妹、隣人への愛を持つことです。兄弟への愛のない人が、自分自身に向けられ ている神の愛に気づくことです。
Ⅰコリント 11:29「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自 身に対する裁きを飲み食いしているのです。」聖餐にふさわしい者、互いに対す
る愛があるか振り返りなさいと促しています。互いに対する愛がないのは、自分 に対する神の愛を知らないからです。それでは神の愛をないがしろにしたまま
でいることになり、良くないこと、救いのないままでいることになります。
聖餐式が一日も早く再開できるようになり、共にイエスの十字架を思い起こ し、私達も神様の愛の中に歩んでいきたいと願います。
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