聖書はイエス・キリストが救い主、十字架によって私達に救いの道を開いてくださっ たと語っている 1 頁ごとに書いてあることは違うが、聖書全体で一つのこと、キリストが
救いであることを指さしています。日本語の聖書には、様々な翻訳があり、文語訳、口 語訳、そして新共同訳があり、それぞれ特徴があり、良い面がある。
数年前に、新しい翻訳の聖書「聖書協会共同訳」が出版され、日本聖書協会の普 及活動の講演会で、聖書学者 石川立先生の講演を聴いた。言葉、単語の選択の難
しさ、文脈が一つ一つの言葉の意味を変えると語られた。「あなたなんか大嫌い」、この 言い方も文脈で意味が真反対に変わります。人には「大好き」だから「嫌い」と言ってし
まうことがあります。微妙な気持ちを表現することがあるというのです。
この手紙の文脈を追って、今日の箇所を理解したい。1-3節の「霊の人」「肉の人」 「ただの人 」「固い食物」を口にすることができないとは、何のことだろうか。
パウロは、1章10節で、コリント教会に分派があるとし、18節で「十字架の言葉は滅 んでいく者にとっては愚かなものですが、救われる者には神の力です。」と言います。
20―21節で「知恵のある人はどこにいる。学者はどこにいる。この世の論客はどこに いる。神は世の知恵を愚かなものにされたではないか。21 世は自分の知恵で神を知
ることができませんでした。」
そして、2章6-8節「わたしたちは、信仰に成熟した人たちの間では知恵を語ります。 それはこの世の知恵ではなく、また、この世の滅びゆく支配者たちの知恵でもありませ
ん。7 わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわた したちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。8
この世 の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。」さらに、14節「自然の人 は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、
理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです。」
そして、今日の 3 章 1 節。「肉の人」と言っています。つまり、神の知恵、キリストの十 字架を救いであるのに、世の知恵、人間の知恵は、そのように理解できない。この世が
良いというものを良いとする価値観に縛られていて、神のみ心を知ることができない人 のこと。だから、説教を語る人、指導者のことを、目に映るところで評価することになっ
てしまいます。4節「ある人が「わたしはパウロにつく」と言い、他の人が「わたしはアポロ に」などと言っているとすれば、あなたがたは、ただの人にすぎないではありませんか。」
説教者がどんな人でも、まずキリストの十字架を救いだと語ること、このことを尊ぶ。そ うすると、キリストの十字架の陰に、語る人の姿は掻き消えるものだというのです。そうで
ないのは、聞く人が、キリストのすばらしさをまだ知らないからなのです。
パウロも、アポロも、神のために働いた人、キリストの救いの恵みを説いた人です。こ のことを、何よりもまず尊ぶべき、目を向けるべきで、それ以外のことは、その次のこと
です。この箇所で、人それぞれの個性を発揮することの良さを説いています。しかし、 それは、この文脈では、二の次のこと、まずキリストを語ること、聞くことが第一のこと。
パウロとアポロ、それぞれの持ち味、個性が豊かでした。使徒言行録18章で、アポ ロは地中海世界の文化の栄えた町・アレクサンドリヤ出身で、博学で雄弁とある。それ
に対して、Ⅱコリント10章10節でパウロは自分のことを、「わたしのことを、「手紙は 重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」と言う者たちが
いる」と言う。この二人の個性の違いは、大きい。
しかし、「成長させてくださったのは神」。教会のあらゆることの土台は、神が働いて おられること。植物の種は、どうして芽を出すのだろうか。これは、命の神秘、人の思い
及ばない神の隠された働きです。世の知恵によらない、霊の命があり、復活の命があり ます。神の働くところに、捨てられたものが拾われる意外な出来事が起こります。神の
働きを心にとめつつ、目の前のことを受け止めていくこと、信仰の大切さを思います。
私達は、この世に起こることを人のなすことの寄せ集めだとみてしまうが、しかし、ここ に神が働いておられると信じることができる。すると、本当に神が働いていることが見え
てくるのではないだろうか。コリント教会は、問題山積。人の思いの渦巻くところのようで す。しかし、そこに神様が働いていると信じるなら、人の思いを超えたことが起こってく
るのではないでしょうか。神様の働く余地を作っては、どうでしょうか。
私は4月に、こちらに赴任しました。今まで働いてきた教会のあれこれを、神様に任 せています。振り返れば、私の失敗、過ち、至らないこと、できなかったことはたくさん
あります。そういうものを残しながら、次の牧師さんに任せています。私の失敗も、次の 人なら、かえって良いことにしてくださりはしないか。私がいないことが良いことになって
いるのではないか。祈る思いです。私が去った教会に神様の働きを期待しています。
コリント教会には、初めにパウロがいて、そして次にアポロがやって来ました。「わた しは植え、アポロは水を注いだ。」「成長させてくださったのは神です。」去った後の教
会に、神様が働いていることを、パウロは信じています。
パウロもアポロも、コリント教会のために精一杯働いた人、有能な立派な人だったと 思います。この人たちの個性が輝き生かされるのは、教会が人の見方に支配され束縛
されないで、人の思いを超える神の見方、神の知恵によって導かれるところであるから です。神様の働きに余地があり、神様のもとに自由だからです。
パウロは、今日の箇所では、つまりは教会が神の働く場であること、このことを信じる ことの大切さを説いています。教会が神の働く場であることが、教会に集まる皆さんに とって、何より幸いなことをもたらすのです。
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