日本キリスト教団

20200830 説教ダイジェスト
礼拝説教要約 「誰もいなくなったら」
ヨハネによる福音書8章1-11節

  イエスが神殿の境内で人々を教えておられると、怒り狂い、殺気立った人々が、姦淫の場 で捕らえた女の人を連れて来て、イエスに対してこの女をどう思うかと問うた。モーセが授 かった十戒に、「姦淫してはならない」という戒めがあります。姦淫を犯すと、石打ちの刑 に処せられることになっていました。大勢の人が石を投げつけ、死刑にするのです。

「イエスはかがみこみ、指で地面に何か書き始められた」。人の罪を見つけて叩く、その 熱気を抑えてほしかったのだと思います。最近は SNS を使って、一人の人に対する非難中 傷を書きつけ、悪口を広める。こういうことで、心ない言葉に傷つけられて、命を落とした 人がいます。いつの世も、悪者だ、罪人だとみなすと、躍起になって悪口を言い立てる。

イエスは身をかがめました。姦淫を犯した女と、その女を訴える人が向き合うことにした。 同じ生身の人を罪ありとみなし、正義を振りかざしているのだと気づかせようとしています。 殺気立つ人々は、姦淫を犯したから死刑だ。この考えが頭を離れない。一つの考えが頭を 離れず、頑なになり観念的になっている。イエスは身をかがめ、目の前の女を観よと促され た。「罪のない者が石を投げよ」。あなたも人間ではないか。罪なく生きていけるのかと。

すべての人がその場を去っっていきました。誰も石を投げることができなかった。自分に は罪はないと、誰も言い切ることはできませんでした。そして、その場には、女の人とイエ スだけが残されました。イエスは女に言いました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。 誰も罪に定めなかったのか。わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯して はならない。」イエスの口から女に対して、あなたには罪はない、という宣言がなされまし た。その場に誰もいなくなったら、イエスがおられて、赦しの宣言がなされたのです。

この箇所の出来事は、私達に「罪」ということを思い出させ、問いかけています。罪がな い人はいるのか。人を罪ありとみなすということは、どういうことなのか。どういうことを 引き起こすことになるのか。

「罪がない者が石を投げよ」。もしこの問いかけに、胸を張って「私には罪がないから石 を投げます」という人がいたら、本当に石を投げた人がいたなら、どうなるのだろうか。こ の人はすべての人に向かって石を投げなければならないのではないか。正しくない人、罪あ る人に石を投げなさいという命令、権利や義務のもとに身を置くことになりはしないだろう か。正しくない人に対して罪を問い詰め、石を投げ続け、自分の前から罪ある人を誰一人い なくさせなければならなくなるのです。

誰もいなくなったら、その時初めてこの世界は正しい世界、神の喜ばれる世界になるのだ ということになります。誰もいなくなったら、この世界でただ一人残され、ただ一人残され た正しい人は、いったいどうするのでしょうか。誰もいなくなったら、世界はもう終わりで す。正しさを貫くことは、世界を終わりにします。

私の祖母の姉の夫は、戦前から裁判官でした。戦争が終わって、食糧難。法を犯すことは できなかったので、闇市で手に入れたものは口にしなかった。それで、命を落としたと聞い ています。正しさを貫くと死んでしまうのです。こういう裁判官、他にもおられたそうです。

神様もこの世の私達を罪ありと言って、すべての人を裁き尽くされるのでしょうか。それ では誰もいなくなってしまいます。パウロは、ロマ書3章で「「正しい者はいない。一人も いない。」と言い切っています。私達に罪があっても、裁かれず、生きているのです。罪を 赦されているのです。神様の御心は、愛です。罪を犯したと訴えられている女に対して、イ エスは神の赦しを宣言されました。つまり、私達人間は、誰もが、神様の前に罪を赦されて いる存在であるということを、イエスは明らかにされました。イエスは、私達が罪を赦され るために、十字架にかかってくださいました。イエスがおられる限り、罪赦されない人は誰 もいなくなったのです。

以前、私が働いていた教会に、毎年のように神学生が出席していました。教会学校の礼拝 で主の祈りを祈るために、主の祈りの言葉を模造紙に書いて掲示してくれました。けれど、 一つだけ、見逃せないことがありました。漢字が間違っていたのです。「赦す」という漢字。 神様が人を赦すときの赦すは、恩赦の「赦」。

許可の「許」の字を書いていたのです。 許可するの「許」の字。文字の成り立ちから言うと、言葉と耳。人の言葉に耳をそばだて て、自分の言いたいことと突き合わせる。そうやって、人がなそうとすることを許す。認め る。これが許可の「許」。それをやってもいいですよと許認可権を発動することです。そし て、恩赦の「赦」の字。これが明治以来、神様の赦しを表す漢字になりました。恩赦の赦は、 赤編、これで「捨てる」という意味。右側の部分は、そのようにさせる、強く打ってなさせ るという意味。二つ合わせて、何が何でも捨てさせる。つまり、目の前の人が間違っていて も、間違いだということを捨てさせる。間違いを取り上げないで、問題にしないで責めない という意味。目の前の人その人すべてを受け入れる、罪あるままに罪を問われなくなる。

十戒は、「・・・してはならない」と定めている。命令、禁止している。けれどそれは、 ただの命令や禁止ではない。それ以上の神への思いが裏打ちされている。十戒を授かった人 たちに対して、神様は「あなたがたは、エジプトの苦しみから救い出された。神に愛された。 それを思い出せば、もう神に背けないでしょう。」神の愛を思うなら、赦された喜びを思う なら、戒めとして禁じられている行為はもうできない、こういう神への真実な思いが戒めを 守らせる。愛されること、罪を赦されること、これが戒めを守らせ、神のみ心に歩ませる力 となるのです。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」 この女の人は、罪を赦してくださるイエスの慈しみを感謝し、それだからこそ、もう罪を犯 さず、イエスの愛を裏切らないで、精一杯に生きる力となしていくのです。神の赦しを信じ、 自分を赦し、人々を赦して、平和に生きていくのです。

 
   
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